誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

稲作は日本から朝鮮半島に伝わった

2017-01-08 21:30:19 | 古代史


<稲作は日本から朝鮮半島に伝わった>

1、稲作伝播のルート

①これまで、「日本の稲作は支那大陸あるいは朝鮮半島から来た"倭人(弥生人?)"が伝えた」、さらに進んで「狩猟民族の縄文人vs農耕(騎馬?)民族の弥生人」などと語られてきました。が、これらが全くの誤りであることを「稲作の起源」を中心に明らかにします。

②稲作の伝来ルートについては、植物学者、農学者だけでなく考古学者の間でも、中国江南地域から直接伝来したというのが定説です。そして近年、支那の稲作研究界では、「水田稲作」は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっています。

③稲の遺伝子は7種類あり、現代までの日本で発見された2つをNO,1とNO,2として分類したのが「温帯ジャポニカ」と「熱帯ジャポニカ」という品種。支那大陸でもこの2つが見つかっていますが、朝鮮半島ではNO,1は見つかっていません。これは中国江南地域より北では気温が低く育たないためです。

④それどころか、炭素放射線14年代測定法での測定の結果、日本の稲作の方が半島より古いことが分かりました。日本の稲作開始は「焼畑稲作」で紀元前6700年程度前、「水田稲作」は3200年程度前であることが判明しています。一方、半島での「水田稲作」は紀元前1500年程度前のもので、

⑤九州北部と栽培法が酷似し、遺伝子学的にいって日本米に満州から入った米の遺伝子が交雑していることから、「水田稲作」は日本から朝鮮半島へ、「焼畑稲作」は満州から朝鮮半島へ伝わったことが証明されています。理由は、朝鮮半島の緯度は日本の近畿地方より北に位置し、寒冷地であるため水田稲作に適さなかったからです。

⑥では、"縄文稲作"とはどのようなものだったのでしょうか?ここで、縄文時代を振り返ってみると紀元前6500〜4000年前の縄文時代・前中期にヒプシサーマル(気候的最適期)と呼ばれる時期があり、当時の気温は現在より東日本で2度、西日本で1.5度ほど高く、その温度上昇は海水面を現在より2~4m押し上げていたと言われています(縄文海進)。

⑦その結果、関東などでは海水が栃木県の内陸まで進み、三内丸山や八ヶ岳山麓集落が繁栄したのもこの時期でした。が、紀元前4000年前以降から冷涼化が始まり繁栄にも陰りが見えてきました。これが品種改良と、「焼畑稲作」である"縄文稲作"から効率的な「水田稲作」への転換のきっかけとなります。

⑧ところで、稲の他、ムギ、キビ、トウモロコシなどのイネ科植物は、吸い上げた水分の中の珪酸という物質を細胞に蓄積する性質があり、稲が枯れたときでもガラス質である珪酸はそのまま1万年でも土の中に残留します。これが「プラントオパール」ですが、

⑨このプラントオパールによって、遺跡などから出た植物の由来が分かり、遂に2005年2月、岡山県灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(紀元前約6700年前)の地層から、土1gあたり2000~3000個という大量の稲のプラントオパールが見つかりました。

⑩今後、更なる発見によって"縄文稲作"の年代は更に遡る可能性があります。いずれにせよ、世界最古級とされてきた支那大陸の河姆渡遺跡から僅か300年で日本に伝播するのか、また「弥生人が日本に稲作を伝えた」と俗説は強調しますが、"縄文"時代に"弥生人"が渡来するのか大いに疑問です。

2、"水陸両用稲作"だった「縄文稲作」

⑪ところで、この"縄文稲作"の稲は、麦、アワ・キビなどの雑穀の中の一つとして位置づけられたものであり、かつ水田によって栽培された「水稲」ではなく、焼畑、畑作によって栽培された「陸稲」だったとされます。どういうことかというと、

⑫一つは、東南アジアの焼畑と縄文の焼畑との違いを考えてみると、人口密度が低かった縄文時代には土地も十分にあり、現在のように急な斜面などではなく、縄文の焼畑は平らな土地で行なわれていたのではないかという点です。

⑬もう一つは、このような地形と関連して、縄文時代の焼畑には水が豊富にあったのではないかという点。春先の水位の低いときに草原や隣接する森を焼き払い、夏の間は高くなった地下水位に支さえられて稲作を行うというわけです。

⑭一方、渇水の年には稲に代わってアワ、キビなどの乾燥に強い雑穀を栽培。反対に雨が多い年には稲が多く収穫できたようです。そういう意味で、縄文時代の稲作は「水陸両用稲作」というのが適切でしょう。これに対し、弥生時代に日本に伝来したという稲作は「水田稲作」と言われます。

⑮が、ここにいう「水田稲作」とは、水田を使った稲の安定的かつ大規模な"生産方式"という意味だと考えられます。というのは、日本産の稲の品種は、その後、先に挙げた「温帯ジャポニカ」と「熱帯ジャポニカ」が混合し、より耐寒性のある「早生ジャポニカ」に品種改良されていたからです。

⑯では、なぜこれ以降、この「水田稲作」が全国に急速に普及したかと言うと、土地の支配者にとって大規模で効率的な生産が可能だったことと、農耕地を中心に人々を定住させて管理するのに好都合だったからではないかと推測されます。

⑰最後に、俗説は「稲作は弥生人=倭人がもたらした」としますが、「倭人」は「古代日本人」を意味するので整合性が取れません。むしろ、そもそも日本人が稲作を大陸にもたらし、 広大な農地での大規模化に成功、その生産方式を持って帰ったと考えることも不可能ではなく、日本が"稲穂の国"と呼ばれる所以ではないでしょうか。

⑱ちなみに、日本の品種改良技術は奈良~鎌倉時代に飛躍的に伸びましたが、飛鳥時代にも籾の選別技術等が確立しており、5世紀頃には単位収量がアジアでトップクラスになっています。

⑲また、日本が朝鮮を併合した時に半島に日本の耕作技術が移出され、単位収量が併合前に比べて2・2倍に増加しました。これは灌漑設備の他、植物防疫、施肥法の伝授によるもので、単位収量の増加は半島の人々の生活に安定と豊かさをもたらしました。

⑳実際、食料計画の研究資料によると、摂取カロリーが一日あたり併合前に比べて一人あたり400カロリー、摂取タンパク質量が一人あたり7グラムも増え、栄養状態の大きな改善により、日本との併合後の半島の人口は2倍以上に増加しました。

㉑支那大陸でも、当初は半島と同程度の収量であったことなども考えると、日本の稲作技術は20世紀初頭のアジアでトップであったばかりか、古代でも進んだ生産技術だったことが考えられるのです。

3、人糞を肥料に使う日本式農業の知恵

ちなみに、稲作以外にも、日本の農業が優れたものであったことを示す知恵として「発酵」があります。
日本では湿気が多い気候のため、納豆やみそなど古くから生ものを発酵させる知恵が活かされてきました。この知恵は食べ物だけにとどまらず食べた物の排泄、つまり、人の糞尿を発酵させて肥料として使う循環システムが古来より完成していました。

一方、ヨーロッパでは堆肥にせず、河川に流していました。実際、明治維新の直前に日本を訪れたドイツの農業経済学者マロンは、当時の日本農業を次のように評価しています。「日本の農業技術は多毛作と入念な追肥を基礎にした実に合理的な技術体系である。

日本にはヨーロッパと違って畜産がないから、家畜の腹を通して厩肥を作るという余計なことをせず、直接、人糞尿を農地に還元し、したがってヨーロッパのように人糞尿を川や海に流して環境を汚染したり、貴重な肥料を無駄にしたりという馬鹿げたことはない。

日本は一作ごとに肥料を施す追肥方式を採っているが、ヨーロッパでは輪作の一回転に一回厩肥を施す基肥方式だから、土壌の生産性が日本の足許にも及ばないのだ。ヨーロッパの農業技術は見せかけだけの偽りの技術であり、日本のは真の実用的な技術である。

縄文いなさk日本の農業では物質の循環が見事に完結し、数千年にわたって地力の減耗はまったく見られない。自然力の完結した循環の壮大な図式が成り立っているのであって、連鎖のどの環も脱け落ちることなく次々と手をとりあっている。(プロシア王国調査団報告書…1862)」と。


大和王朝建国の謎と安倍一族のルーツ

2017-01-08 21:25:12 | 古代史

<大和王朝建国の謎と安倍一族のルーツ>

1、「安倍氏」は「安曇氏」と「海部氏」の合族

①安倍晋三総理の祖先・安倍晴明の出自については謎が深く、実は、縄文日本人で海人族の安曇氏と海部(あまべ)氏にそのルーツがあり、しかも朝廷内でも"陰陽師"という天皇を陰で補佐する立場にあったことを明らかにします。

②「安倍(阿部)」姓の全国分布図を見てみると、1位が宮城県、2位が北海道、3位が東京、4位が神奈川、5位が山形と、極端に東日本に偏ってるのがわかります。これは安倍一族がかつて東日本に勢力を誇っていた傍証ではないかということです。

③一方、古代支那の正史「随書」には、当時九州北部には「倭国」があり、その王家の姓は「阿毎」と記されています。この「阿毎」は、当時の中国語で「abei(アベィ)」と発音したとされます。

④この「倭国」ですが、一般には「安曇(あずみ)氏」といわれる日本列島先住民である縄文海人族で、「磐余彦(イワレヒコ)」、すなわち、のちの「神武天皇」の出身母体である氏族ですが、後に「磐井の乱」を起こして大和朝と対立した地方支国です。

⑤ところで、縄文時代以前の新石器時代には、度重なる天変地異を避けるため、多くの源流日本人が新天地を求めてアジア大陸を中東まで移動したといわれています。その後彼らは、何波かに分かれて日本列島に"出戻り"してきましたが、

⑥その初期の一団が、海人系古代ユダヤ人「海部(あまべ)氏=物部氏」で、「安倍(阿部)氏」一族の安倍姓は、「安曇氏」と「海部氏」が合族してできた姓だという説も有力です。

⑦また、有力氏族の出自を記録した「新撰姓氏録」によると、安倍氏は、「記紀(古事記、日本書紀)」で記載が削られている第二代から第九代天皇までの、いわゆる"欠史八代"のうちの第八代・孝元天皇の子・大彦命の後裔とされています。

⑧"欠史八代"については、後の「南朝皇統」をなす縄文海人族+物部氏系の天皇が存在しましたが、同じく後に長く主導権を握った騎馬民族系秦氏、藤原氏を中心にした「北朝皇統」の始まりとされる第十代・崇神天皇以降の勢力によって、「都合が悪い」として削られたと言われています。


2、二つに分かれた「安倍氏(物部)」一族

⑨さて、話を縄文海人族「倭国」に戻しますが、「竹内文書」や「宮下文書」「九鬼文書」「和田家文書」「神伝上代天皇紀」などの「記紀」で封印された古史古伝によると、大和朝(神倭朝)以前の日本には、「白山王朝」、「富士王朝」などが三万年以上続いていたとされていることはすでに述べたとおりです。

⑩そのうち、最後にあった「鵜芽葺不合朝」では、九州の「倭国」や「奴国」などを始めとして、「出雲国」「吉備国」「日高見国」など全国の有力豪族による 連合国家が形成されていたとあります。ちなみに、俗に言う「"烏合"の衆」とは、後に「不合朝」が離散したため「"鵜合"の衆」からきた俗語です。

⑪その後、「不合朝」は、最有力豪族「出雲国」での「大国主」亡き後の後継者争いを引き金により揺らぎます。この間隙をぬって九州・倭国の王・「磐余彦(イワレヒコ)」が独立を宣言して瀬戸内海を東進、四国、吉備、出雲を傘下に収め(国譲りの儀)、紀伊半島に上陸して「邪馬台国」の長髄彦を破り、新たな「大和王朝」の「神武天皇」となります。

⑫ちなみに、このことから解るように、「神武東征」と「大和建国」の真相は、九州の「倭国王・磐余彦」と近畿の「邪馬台国王・長髄彦」という"海人族"同士による主導権争いだったと考えられます。

⑬従って、GHQにおもねる曲学阿世の戦後史家が主張する「天皇家の起源は朝鮮半島にある」などとする邪説は成り立たず、「騎馬民族の渡来(原始日本人"カラ族"の一派で古代ユダヤ人・秦氏の"出戻り”)」は、第十代・崇神天皇ないし第十五代・応神天皇以降の出来事で、「大和王朝」の建国自体には関係ないことが明らかです。

⑭一方、東に逃げた長髄彦は、関東に「日之本王朝」を建て、「神心伝物部建天皇」を名乗ります。この「日之本王国」は、現在の茨城県から埼玉県に拠点(都)を設け、後に大和王朝下で反乱を起こして(承平天慶の乱)朱雀天皇に対抗し"新皇"を自称、東日本の独立を目指した「平将門(海人族)」に繫がる王国です。

⑮その後、「和田家文書(東日流外三郡誌)」によると、「日之本王国」は分裂し、一部は大和王朝に合流、一部はこれに反発して奥州、そして津軽へと逃げ延び、奥州安倍氏(後の安東氏)となって「荒覇覇吐(あらはばき)王国」を作り、さらに「秋田氏」と称して幕末まで生き残り、明治維新後は子爵を授けられました。

⑯このような海人族同士の争いの中、安倍(物部氏)一族は、大和朝廷に招かれた者(内物部)と、奥州に落ち延びた者(外物部)に分かれ、大和朝廷内に招かれた方が「安倍宗家」となり、天皇("天の御門")を補佐する地位を与えられます。これが後の安倍晴明などの朝廷の祭司を司る陰陽師("土の御門"=裏天皇?)です。

⑰安倍晴明については、系譜学の大家・宝賀寿男の「古代氏族系譜集成」によると、安倍益材の兄・春材の子だが益材に養われたのではないかとされ、天禄4年(973年)と天延元年(974年)に、朝臣につぐ朝廷内第三位に位置する宿禰(すくね)として陰陽師に就任します。

⑱さらにその後、安倍宗家は、安倍晴明の子孫・季任(すえとう)が、天智系天皇(後の北朝)呪詛の罪で肥前国(現在の佐賀県)に流罪となり、元寇の際にも活躍した「松浦党」頭の娘婿・松浦三郎大夫実任として平家水軍で活躍。

⑲その娘も平知貞に嫁いだため平家滅亡後、"天下人"源頼朝の迫害を免れる為に安倍姓を名乗り長門国、すなわち、現在の山口県長門市油谷町(山陽側の周防国田布施とは反対側の山陰側)に落ち、家業の醤油屋を営み、現在に至ったのが真相です。

藤原氏によって改竄された日本書紀

2017-01-07 20:20:19 | 古代史


①本項では、「乙巳の変(乙巳の変)」、「白村江の戦い」、「壬申の乱」という古代日本の重大事件を、各豪族の背景、関係を中心に描き、国史「日本書紀」の信憑性に疑問を投げかけます。

1、古代における天皇家と半島の関係 

②既に述べたように、海洋国家である日本には、太古よりシベリアはもとより操船技術によって太平洋、東南アジア、中東等から多くの民族が渡来しています。このため、日本民族の特徴は「海人民族性」にありますが、特に大和朝以降の古代史を語る上では、朝鮮半島との関わりは避けて通れません。

③まず、「スキタイ系騎馬民族」で古代ユダヤ十支族の秦氏は、秦朝滅亡後、中央アジアに「弓月」という国を作っていました。が、漢による万里の長城造営などの苦役を受けたため、これを逃れるため大和朝の半島国家「任那」の影響下にあった朝鮮半島に移住、日本の支国である「秦(辰)韓」を作ります。

④一方、半島進出を目論む「アーリア系騎馬民族」の漢による脅威に対処するための民族融和工作として、大和朝の孝昭天皇(縄文海人族)は、古代ユダヤ人海部(物部)氏と合族した海人族・安曇氏が作った九州の支国・倭国の姫を「任那」に派遣、秦氏らとの部族間交雑を図ります(第一次奉迎工作)。

⑤その結果生まれたのが、"任那族"の王子「イニエ」で、孝元天皇から息子・開化天皇の第一皇子として迎えられ、崇神天皇として即位します。

⑥同様に、「スキタイ系騎馬民族(扶余族)」の集結地だった豆満江河口付近の羅津には、孝元天皇の皇子「彦太(ヒコフトニ)」を派遣、同じく縄文海人族 とスキタイ系騎馬民族との交雑を図り、その結果生まれたのが"八幡(ヤハタ)族"で、数代後の「ホムダワケ」が応神天皇として迎えられます(第二次奉迎工作)。

⑦これらの"奉迎工作"には、スキタイ系騎馬民族の持つ優れた技術を取り入れる一方で、アーリア系騎馬民族に対抗できる海人族を育て「海人族の騎馬民族化」、また、 「カラ族」の子孫であるスキタイ族が各地の河口付近で集めたり、傭兵をやって稼いだ莫大な砂金を譲り受けるという目的もありました(後の"黄金の百合")。

⑧ちなみに、"八幡族"ホムダワケ(応神天皇)の数代後の「オホド」は、その後の高句麗の台頭によって南下、半島における大和朝最後の緩衝国家(前線基地)であった百済の「武寧王」になりますが、大和朝の後継者問題から急遽帰国、「継体天皇」となったことはすでに述べた通りです。
 
2、秦氏とは 

⑩既に一部紹介した古代ユダヤ十支族の「秦氏」ですが、改めてその事跡と政治的な関わりについてその詳細を述べると、まず、最初に渡来した九州の「豊国秦氏」は、人材確保のため高句麗、新羅、百済から多くの技術者を呼び、その結果、秦氏は国家財政を掌握、養蚕・紡績の技術も活用して産業振興に貢献し、各地に大型の古墳を造営します。

⑪また、秦氏の一部は山城国へ移住したため、丹波は養蚕や服飾の中心地となります。また、6世紀の「秦河勝」は聖徳太子や蘇我氏と密接になり仏教を推進しました。さらに、山城国に平安京を誘致し、先住の賀茂氏や山城紀氏などと提携して、上賀茂神社や伏見稲荷社、松尾大社を建てます。

⑫ただし、秦氏の中央での政治的影響力は、海人系第二十四代武烈天皇の代に大きく後退、その後は、地方豪族として産業振興に専念し、古代の華僑としての手腕を発揮します。というのは、海人族・橘氏に支援された「彦太尊(ヒコフトニ)」が、第二十五代「継体天皇」となったためです。

⑬その後、継体崩御から4代後の欽明天皇の即位に至るまで、朝鮮半島政策を巡って全国的な内乱が続きます。その最大のものが645年の「乙巳の変(大化の改新)」で、これを契機に百済色が大和朝廷に浸透、それが天智天皇まで続きます。

3、聖徳太子の実像と蘇我氏の謎

⑭次に、「乙巳の変(大化の改新)」への伏線となる「聖徳太子」と「蘇我氏」の実像に迫ります。

⑮日本書記の論理では、「"聖者"聖徳太子が進めようとした律令制等の諸改革に抵抗し、太子の子である山背大兄(やましろのおおえの)王ら一族を殺害した悪人・蘇我一族を滅ぼした中大兄皇子と中臣鎌足こそが古代日本の英雄である」というものです。

⑯まず、聖徳太子ですが、その実在性を含め、「厩戸(うまやどの)皇子」=「蘇我馬(うま)子」=「キリスト(我、馬小屋で蘇る)」等の奇説もあります。一方、日本書紀には、用明天皇と穴穂部間人皇女(蘇我稲目の孫)との間の子と書かれていますが、推古天皇の子「竹田皇子」という説も有力です。

⑰中には、「聖徳太子不存在説」などの邪説もありますが、蘇我馬子が建てた元興寺(飛鳥寺)の「元興寺縁起」にも、「推古天皇は池辺天皇の子・等与刀弥弥大王(聖徳太子)、および蘇我馬子に仏法の興盛を促し…、元興を建てさせた」とあることから実在したことは確実です。

⑱ところで、聖徳太子が"聖者"とされた理由は、「律令制」「冠位十二階制」「十七条憲法」「仏教の国教化」「随との国交樹立」等が偉業とされるためです。「律令制」は、各豪族から領地を取り上げ一旦朝廷のものとし、その見返りに「冠位十二階」を授け、「十七条憲法」で天皇を最高の地位に位置づけ、

⑲アジア情勢の不安定化に対応できる強固な國體を作る。一方で、当時、国際教養として広がりつつあった「仏教」の普及を通じて各地の豪族の融和を図りながら、最大の脅威であった「随との国交」を平和裏に樹立することでした。

⑳が、これらの偉業は聖徳太子自身によって成し遂げられたものではなく、外交は小野妹子、経済は秦河勝、内政は蘇我馬子らによるものです。ただし、明治維新の際の「廃藩置県」に匹敵し、有力豪族の抵抗が強かった「律令制」については未完成のままでした。

㉑にもかかわらず、日本書紀で聖徳太子の存在が過剰なまでに"カリスマ化"されているのは、「だから太子の一族を滅ぼした蘇我入鹿は悪人で、それを討った中大兄皇子と中臣鎌足は英雄だ」と誘導したい、編纂者の思惑が透けて見えてきます。

㉒ちなみに、聖徳太子に関して語るとき、太子の建てた法隆寺の「再建・非再建論争」が有名です。非再建説は、法隆寺の西院伽藍の建物は創建以来一度も火災に遭っておらず、飛鳥時代に聖徳太子の建立したものがそのまま残っているという主張。

㉓これに対し再建説は、「日本書紀・天智9年(670年)4月30日条」にある「夜半之後、法隆寺に災けり、一屋も余ること無し」との記述等を根拠にし、さらに哲学者の梅原猛は「聖徳太子一族を滅ぼした藤原氏が、その怨念を恐れて供養のために再建した鎮魂の寺(隠された十字架)」と述べています。

㉔が、平成16年に国立奈良文化財研究所は、金堂の屋根裏に使われている木材をデジタルカメラで撮影し、そこから建立年輪年代を測定。それによると、部材が650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀がいう炎上の670年よりも前の伐採だと発表。ここでも日本書紀の矛盾が指摘されました。

㉕一方、聖徳太子の子であることが"常識"とされている悲劇の"聖者"山背大兄王ですが、実は、日本書紀を含め太子の子だったという記録はなく、まためぼしい業績も残っておらず、さらに聖徳太子が作った法隆寺にも祀った形跡がなく、果たして日本書紀が持ち上げる程の"聖者”だったのか疑問です。

㉖それどころか、「上宮記」「法王帝説」によると、山背大兄王の母は蘇我馬子の娘・「刀自古郎女」とあります。

㉗むしろ、蘇我氏は、物部氏と同じ古代ユダヤ十支族である"海人族(出雲族=カラ族)"で、日本書紀の編纂者である藤原一族からは疎ましい一族だったと考えられます。ちなみに、「蘇我」は「宗我」ともいわれ、物部一族の「長宗我部」氏との関係も窺われます。 

4、日本を乗っ取る名門一族(?)藤原氏の正体

㉘そして、645年、「乙巳の変(大化の改新)」が起こります。日本書紀によると「蘇我入鹿が律令制度導入に抵抗する等、専横を極めたため暗殺された」とされていますが、これは後に日本書紀の編纂に関わった藤原不比等による改ざんの可能性があります。

㉙むしろ真実は、混乱が続く国内をまとめ、随(後に唐)などのアーリア系騎馬民族の脅威に対抗できる強固な國體を作るために、聖徳太子と蘇我馬子、秦河勝らが進めていた「十七条憲法制定」「律令制の導入」などの大改革に抵抗したのは中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)の方だったという説があります。

㉚また、当時の日本と唐の国力比から言って勝ち目のない、したがって日本国を重大な危機に陥れる危険があった「白村江」に、"百済救援"という名目で、現代の人口比でいえば約200〜300万人にも上るという大軍を送ることを天智天皇に執拗に迫ったのは中臣鎌足でした。

㉛実は、その背景には鎌足の出自にまつわる謎があります。まず、唐・新羅の圧迫を受け、崩壊した百済の君臣は囚われの身になりました。が、鬼室福信という武将が百済王家を復興しようと立ち上がり、660年9月に使者を立て、救援とともに「人質として日本に居た百済王子・豊章(ほうしょう)を召喚し王にしたい」との要請をします。

㉜豊章は帰国して百済王になりますが、人気の高かった鬼室福信を嫌い謀反の疑いで殺害。知将を失った百済は白村江の戦いで大敗、日本の大軍に守られていた豊章は「行方知れず」とされています。一方、天智天皇の側近である鎌足についてのこの時期の記述が、日本書記から完全に欠落しています。

㉝このようなことを考えると、中臣(藤原)鎌足の出自についてはかなり怪しいものがあり、鎌足は"百済王・豊章"だったのではないかとの説が説得力を帯びてくるのです。

㉞ところで、鎌足が称した「中臣姓」ですが、中臣本宗家は、古代の日本において忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった海人系豪族でした。が、物部氏とともに仏教受容問題で蘇我氏と対立したために没落、白川家が神祇伯を世襲するようになると歴史の舞台から消滅しました。

㉟また、中大兄皇子と異母兄弟だったが、蘇我入鹿によって皇太子になった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)は、鎌足によって入鹿が殺されるのを見て自邸に逃げ帰ったときに、「韓人(からびと)が入鹿を殺した。私は心が痛む」と漏らしたとの記録があります。「韓人」とは「朝鮮半島地方の人」という意味があります。

㊱さらに、鎌足は「乙巳の変」などの一連の改革の最大功労者であるにも拘らず、臨時職である「内臣(うちつおみ)」になったただけで、内大臣、左大臣という高位に就けず、不比等についても律令制の完成者と言われながら、最高位の左大臣にはなれませんでした。これは「国籍条項」があったためと言われています。

㊲一時は、「壬申の乱」によって陰に追いやられ、鳴りを潜めていたた藤原氏でしたが、天武天皇の崩御後、不比等が復活します。そして、あれだけ抵抗していた律令制などの諸改革に対する姿勢も変え、「大宝律令」を発する等して完成させます。

㊳が、諸改革を実質的に成功させたのは天武天皇であり、流れに敏な不比等はその後「律令」の解釈権を独占。例えば、「皇后」の資格についても明確な規定がなかったため、それまでの「皇族から選ぶ」という慣習を無視して自家から輩出、"天皇家への浸透"を進めました。

㊴そしてその後、天武天皇系の「長屋王」、藤原氏に抵抗した聖武天皇の子「安積親王」を暗殺、藤原一族による横暴に危機感を抱き改革を進めていた「菅原道真」の追い落としなど、藤原一族は海人族の復権を阻止しながら朝廷内での絶対的な支配権を確立します。

㊵以上の経緯に鑑みるとき、日本の"名門一族"と称される一方で、巧に権力を掌握した狡猾な藤原一族は"百済人"であった可能性が見えてきます。なお、後年、藤原氏の末裔・近衛文麿(戦前のスパイ事件・ゾルゲ事件の中心人物)は、昭和天皇と会話するとき足を組んで椅子に座っていたといいます。

5、民衆から非難されていた天智天皇(中大兄皇子)

㊶最後に、中臣鎌足が担いだ「中大兄皇子」について考察しますと、実は「白村江の戦い」の前後、中大兄皇子に対する民衆の不満は頂点に達していたようです。

㊷当時の斉明天皇(女帝)は、飛鳥周辺で大規模な土木工事を開始。飛鳥の天香具山の西側から石上山(いそのかみやま)に至る長い水路を掘り、舟二百艘を使って石上山の石を積んで、宮の東の山に石垣を構築します。が、当時の実権は、すでに中大兄皇子と中臣鎌足に移っていました。

㊸中大兄皇子が飛鳥の東側に巨大な石垣を造ったのはもっぱら軍事目的で、それは中大兄皇子、中臣鎌足が目論む百済遠征中に飛鳥で不穏な事態が生じたときのための布石にほかなりませんでした。 

㊹民衆が不満を抱いたのも、中大兄皇子、中臣鎌足が進める"百済救援策”を無謀と判断していたからで、そのため、遷都や大土木工事も反発を招き、民衆は各地で暴徒と化したと言われています。

6、天武天皇と対立していた中臣鎌足

㊺加えて、「壬申の乱」の前後には、中臣鎌足と「大海人皇子(後の天武天皇)」との間にも確執があり、当時、天智天皇自身も、皇位を弟の大海人皇子ではなく、自分の子の大友皇子に譲りたいと思っていました。そして、鎌足も大海人皇子の即位を阻止するために暗躍していたようです。

㊻実際、漢詩集「懐風藻」によると、来日していた唐の劉徳高が夢を見て、大友皇子が皇位を継承しようとすると、邪魔者が横取りしてしまったと鎌足に話すと鎌足は、「天道親なし、ただ善をのみこれ輔(たす)く」といい、皇子が徳を修める限り、皇位はかならず転がり込むと、大友皇子を持ち上げています。

㊼そして、ここにいう邪魔者が大海人皇子であることからすると、鎌足が大海人皇子の廃太子を願っていたと考えることできます。鎌足は壬申の乱の直前に亡くなりますが、その子・藤原不比等も、父にならって大友皇子側についたため、敗戦の憂き目にあいます。

㊽事実、藤原不比等は天武天皇在位中は、まったく日の目を見ず、歴史に登場するのは天武天皇崩御後のことです。この間、不比等は朝廷から干されていた可能性が高く、とするならば、不比等が天武朝を美化するような歴史書・日本書紀の編纂をおもしろく思っていたはずはありません。

㊾逆に、天武天皇の存在を抹殺しようと企んだ疑いさえあり、日本書紀のなかで天武天皇の前半生がまったく空白なのはそのためだとも言われています。

7、「壬申の乱」へ

50,ともあれ、「乙巳の変(大化の改新)」により主導権を握った天智天皇は白村江へ派兵しますが大敗、日本は重大な危機に直面します。この事態を憂慮した尾張氏、県犬養氏、安曇氏ら"縄文海人族"は「大海人皇子」を立て「壬申の乱」を起こします。                                           

51、その結果、東国方面の海人勢力に支援された大海人皇子が勝利、天智天皇派と中臣派(後の北朝皇統を形成)から主導権を取り戻し、東アジア情勢の不安定化に対応できる強力な"海人族中心"の天武政権を樹立します。

52,大海人皇子は「天武天皇」として即位(後の南朝皇統を形成)、「古事記」を編纂させて国家神道を立てます。ただ、教義の根本を"天孫史観(騎馬民族史観)"に置いたのは、身内同様の海部氏の海部神道とニギハヤヒの物部神道を基本にしつつも、他方で残存の天智系騎馬民族派との融和も図ったからと考えられます。

53,海人政権が復活した天武天皇以後、称徳天皇までが海人族の時代でした。が、天智の孫の白壁王が皇位を継ぎ、その後、文武、聖武王朝などで百済色が復活し て海人勢力の後退が明らかになります。この間、かつて朝廷に影響力を持った秦氏に代わって藤原氏が再び暗躍し始めます。

8、日本書紀は”偽書"?

54、以上見てきたところからすると、日本書紀の内容には疑問が持たれます。正式な国史書となると、時の権力を掌握する者にとって執政の有力な武器となります。実際、洋の東西を問わず、時の権力者が自らに都合良く編纂、改ざんするのが世の常です。

55、例えば、「白山菊理(ククリ)姫」は、大和王朝の三代前の「白山王朝」の祖神ですが、「古事記」にはいっさい登場せず、また「日本書紀」でも、伊奘諾(イザナギ)が黄泉の国で見てはならない伊邪那美(イザナミ)の姿を見て揉めた時、菊理媛が伊奘諾に言葉をかけて収める話に僅かに現われるだけです。

56、日本書紀の編纂者にとっては都合の悪い存在、あるいは夫婦喧嘩を仲裁してしまうぐらいの上位の神だったのではないかと推測される所以です。

57、この他、平清盛の時代に、常陸国から「第三次修正日本書紀」という勧学院派の九世紀のものが多賀城にあったと献納にきた者がいました。が、それば藤原氏を"天孫族"とし、唐や朝鮮からの大陸人を"良"とし、それ以外は"賎"としていたため清盛は激怒、

58、その者を斬首にした上で書き直し、「天(あま)とは、古代アラブの水の意味で、大船団で熊野に入ってきた平家一門こそ、天の一門なり」とさせて、第三次日本書紀を焚書した事は、兵庫県西宮の荒深道太郎氏が「綜合古事記純正講本」で発表しています。

59、さらに、この清盛によって改められた第四次日本書紀は、「壇の浦合戦」で安徳天皇の御座船にあったのを梶原源太が入手して北条政子に奉ったところ、旧平家でも新平家でなく、紀元前から漂着していた古平家の系統にある政子が、改めて「古平家日本書紀」として大江広元に編纂させましたが、「元寇」の際、異国を刺激する危険性があるとして焚書されました。

60、結論として、「日本書紀」は幾度となく時の権力者によって内容が改変されたことが窺われ、例えば、「大化の"改新"」と称して、蘇我入鹿を倒した天智天皇、中臣(藤原)鎌足を英雄扱いし、他方で「壬申の"乱"」と称して、天武天皇を大きくは扱っていないなど、真実を歪曲した”偽書"である可能性が出てきます。


古代朝鮮の新羅、百済は日本が作った!

2017-01-07 20:17:06 | 古代史


<古代朝鮮の新羅、百済は日本が作った!>

1、「半島騎馬民族説」のデタラメ 

①ここで改めて、「日本人や天皇家の起源は朝鮮半島だ」とする"半島騎馬民族説”の怪しさを、北方アジアの諸民族との関係で精査します。まず「騎馬民族」ですが、一般的にはユーラシア内陸部で馬を飼育し、衣食住ばかりでなく、対外的な活動の主体とした"遊牧民"をいい、

②中央アジアの「スキタイ人」に始まるとされます。この「騎馬民族」について、東アジアでは具体的には匈奴、高車、突厥や後のモンゴル(蒙古)などの種族を指します。これは、支那古代の「北狄」を意識したものです。

③この北狄の東南の森林地帯にいた「東夷」と称した「ツングース系」については、一部に騎馬民族的な者も含まれていましたが、"半猟半農"の色彩が強かった事を考えると厳密な「騎馬民族」とは異なるようです。

④江上波夫(東京大学)は、「朝鮮半島の騎馬民族が日本にやってきて大和朝廷を開いた」などと馬鹿げたことを言っています。が、まず「新羅」ですが、建国にはツングース系の「非騎馬民族」が関係したとみられ、組織的な騎馬隊が来たという書伝はなく、ましてやそれより南方の海を馬で渡って、日本に騎馬隊が来るとは考えられません。

⑤そもそも日本では、5500年前の三内丸山遺跡、それより4000年古い鹿児島の上野原遺跡が発見され、弥生式土器に似た「壺型土器」も作られていたことが確認されています。一方、朝鮮半島は緯度でいうと日本の近畿地方以北に位置している寒冷地であったため、5千年以前に人が住んだ遺跡がなく、

不毛の地だった所に縄文人が移住し開拓しました。が、徐々に南下してきたツングース系、更には支那方面から来た呉人・越人と共に、主に半島南部に「馬韓」「辰韓」「弁韓」を作って緩やかな農耕村社会を形成していました。これが後の日本領「任那(伽耶・伽羅)」です。

⑥が、その後、既に満州地域に展開していたスキタイ系扶余族がさみだれ式に南下してきて、半島北部に高句麗(貊…はく)、西南部に百済(濊…わい)を建てました。なお、秦朝(支那)滅亡後、その末裔の「秦氏」が合流した辰韓は"秦韓"ともいわれています。


2、朝鮮半島の正史「三国史記」

⑦ところで、半島の正史「三国史記・新羅本紀」によれば、新羅王家には朴氏・昔氏・金氏の三王統があり、この間で王朝交代が起き、朴氏新羅(初代赫居世居西干~)・昔氏新羅(第4代脱解尼師今~)・金氏新羅(第17代奈勿尼師今~)と呼び、それぞれに始祖説話があります。

⑧まず、朴氏初代の「朴赫居世」では、辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があり、卵を割ると中から幼児が出てきたので育て、10歳を越える頃には人柄が優れていたことから、六村の人たちは彼を王位につけたと。

⑨また、卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。一方、建国時に海を渡って来た倭人がいて、腰に瓠をぶら下げていたため瓠公と称し、大輔という役職名の重臣になったともあることから、この瓠公と朴赫居世を同一人物と考えられます。

⑩朴赫居世は、紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐としました。赫居世の次男「アメノヒボコ」は本州(日本?)に居住して暮らしたとあります。
⑬最後に、金氏始祖の「金閼智」では、脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓠公に調べたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。

⑭そこで、小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした、と。

⑪次に、昔氏初代の「昔脱解」では、倭国東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側)の王妃が妊娠ののち、7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流されたが、辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。

⑫箱が流れ着いたときに鵲(かささぎ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とし、長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた、と。

⑮以上、新羅建国の特徴をみると、複数の王統を持ち、建国初期に倭人との関わりを伝えることなど、高句麗・百済の始祖説話体系とは少し異なっている事が分かります。


3、日本の文献にある新羅の記録

⑯日本側の文献でも、新羅建国にまつわる話を調べてみると、「稲飯命」と「天之日矛(アメノヒボコ)」の記録があり、「新撰姓氏録」では、新羅の祖は鵜草葺不合天皇の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとしています。

⑰一方、「天之日矛」は、記紀や風土記によると、新羅の王子だったが、王位を弟の「知古」に譲って日本に帰化し、最終的に但馬(兵庫県豊岡周辺)に土着、三宅連氏の祖先となったとあります。

⑱が、「天之日矛」という名は、新羅風の名前でなく純然たる"和風"の名前なので、そのルーツを調べてみると、日本側の伝承によれば、日本から渡った稲飯命が開いた新羅王朝家の子孫ということです。

⑲だとすると、新羅王「昔脱解」は船で渡った倭人と見られ、その出生地は日本の但馬、丹波、肥後のいずれかとされますが、但馬(兵庫県北部)と推定する説が多く、「天之日矛」が祭られる豊岡と一致し、豊岡から半島へ、そして半島から豊岡へ移動したと考えられます。(次回に続く…)

4、百済も日本が作った

⑳なお、桓武天皇の生母・高野新笠が、人質として来日していた百済の「武寧王」の子孫だという記録があり(続日本紀)、これを根拠にした今上天皇による、日韓融和のためのリップサービスのための「半島所縁発言(平成13年12月18日)」が行われ、内外に波紋を呼びました。

㉑が、武寧王は、北方民族対策としての民族交雑を進める"第二次奉迎工作”で、豆満江河口付近の羅津に渡った孝元天皇の皇子・彦太の後裔•オホドで、その後、皇位継承者不在となった日本に帰国、「継体天皇」を"兼任"したのが真相です。今上天皇の発言自体は間違っていませんが、この前提が省略されたため誤解を生みました。

㉒しかも、「日本書紀・雄略紀」によると、武寧王の父・東城王も、「百済の文斤王がなくなったので、天皇は昆支王の五人の子の中で二番目の末多王が聡明なので、内裏へ呼んで親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし武器を与え、筑紫国の兵五百人を付けて百済に遣わした。これが東城王である。」とあります。


5、「日本は朝鮮から文化を学んだ」の嘘 

㉓一方、支那の「宋書」では、四百五十一年に倭王済(允恭天皇)を、四百七十八年に倭王武(雄略天皇) を、「使持節都督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓の軍事安東将軍として認める」とし、「梁書」「南史」でも日本の半島南部の支配を公式に認めています。

㉔また、高句麗第十九代・広開土王(好太王)の業績を称えた石碑「広開土王碑」には、新羅の奈勿王の子・未斯欣と、百済の阿莘王の子・腆支を、
人質として日本に差し出したことが書かれており、「三国史記・新羅本紀、百済本紀」の記述とも一致しています。

㉕さらに、鎌倉時代に編纂された「八幡愚童訓」と、室町時代に足利義教が誉田八幡宮に奉納した「神功皇后縁起絵巻」によると、神功皇后が三韓征伐で高句麗、 新羅、百済を制圧したとき、「我ら日本国の犬となり日本を守護します」と誓ったと書かれており、この名残が「狛(高麗)犬…こまいぬ」です。

㉖このような記録からすると、古代7世紀まで朝鮮半島は日本の支配地だったことがわかり、先進的な文化や文物は日本から朝鮮半島へと伝播したのが真実だと考えられます。

㉗例えば、韓国の古墳から見つかった王冠には、日本の糸魚川でしか採れない原石でできた硬玉製勾玉が埋め込まれており、また。宋山里古墳群で発見された武寧王の棺材は、日本にしか自生しないコウヤマキで作られ、慶尚南道金海では日本製の銅矛、弥生時代後期に製作された日本製の銅鏡が発見されています。

㉘また、「後漢書・東夷伝」によると、「倭、馬韓並從市之。凡諸貿易、皆以鐵爲貨」という記述が見られ、倭人が朝鮮半島南部が三韓に分立していた時代から、半島に行って鉄を貨幣のように用いて交易していたと、

㉙さらに、「隋書・列傳第四十六。東夷・倭國」によると、「新羅・百済はみな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びに之を敬仰し、恒に使ひを通はして往来せしむ。」と記録しています。

㉚また「記紀」には、「王仁(和邇吉師)」が百済から日本に来て、「千字文」や「論語」を伝えたと書かれています。が、朝鮮史には「王仁」の記録はなく、日本書紀には「応神天皇の命令を受け百済が献上した人物」と記されており、当時は半島になかった一文字の姓から支那人という説もありますが、「和邇氏」は日本のシュメール系海人族です。

㉛さらに、日本書紀には、欽明天皇の時代に百済の聖明王が使者を使わし、仏像や仏経典を献上したと記されています。が、実は聖徳太子の時代に小野妹子が隋からもたらしたのが真相で、それも四天王寺などに見られる毘沙門天(多聞天)を主神とする「マニ教」だったことが近年明らかになっています。

㉜ちなみに、マニ教は、ペルシャのゾロアスター教から派生した宗教で、古代エジプトで流行した「グノーシス主義」と同じく「善悪二元論(多神教)」に立ちつつ、厳しい戒律の下、個人の悟りによって悪を乗り越えるとしたため、一神教のユダヤ・キリスト教からは排撃されますが、アジアでは仏教に吸収される形で消滅します。

そして後年、江戸時代に入ってから朝鮮通信使として来日した金仁謙(1763~1764)の記録・「日東壮遊歌」を見ても、❶大阪については、「三神山の金闕銀台とはまことこの地のことであろう。人家が塀や軒をつらね、その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)の万倍も上である。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国の中心部)の壮麗さもこの地には及ばない。」 

❷名古屋については、「山川広闊にして、人口の多さ、田地の肥沃、家々の贅沢なつくり、遠路随一といえる。中原にも見あたらないであろう。朝鮮の三京も大層立派であるが、この地に比べれば寂しい限りである。」 

❸江戸について、「楼閣屋敷の贅沢な造り、人々の賑わい、男女の華やかさ、城郭の整然たる様子、橋や船にいたるまで大阪、西京(京都)より三倍は勝って見える。」とあり、日本の社会、文化の方がかなり進んでいたことが窺われます。 


6、日本人と韓国人の遺伝子の違い

最後に、日本人と韓国人の遺伝子研究の結果を見てみると、韓国人の遺伝子の中には、日本人固有のYAPハプロD1b (D-M64.1)系統(日本列島起源、日本では約32%存在)は2%しか確認されていません。

が、韓国人の母系に限ってみると、琉球諸島周辺で発生し沖縄から九州へ入ってきたとされる縄文系(港川人)のハプロM7a (mtDNA)が3%弱確認されています。が、これは紀元前5千年以前は無人の地だった朝鮮半島に、縄文時代後期、日本から開拓に渡った縄文人の影響と考えられています。

ところが、韓国人の男系に日本人との共通性が確認されないのは、その後の北方民族や漢民族の侵入、侵略の定めなのか、侵略者によって男子は根絶やしにされたが、女子は生かされたためと考えられています。

以上の結果、カトリック医科大学のキム・ドンウック教授、慶應大学の岡本真一郎教授、徳島大学の佐藤陽一準教授らがHLA(ヒト白血球型抗原)を分析した結果、日本人と韓国人のDNAには遺伝子的な共通性が低いという結論が出ています。

また、大阪医科大学の松本秀雄教授は、「日本人は何処から来たか…血液型遺伝子から解く」で、朝鮮民族は、相互移民や侵入などによって漢民族などの影響(混血)を受けているとし、実際、HLA遺伝子による調査で朝鮮民族は満州族や中国華北の漢民族に近いことが確認されています。


日本人のルーツと超古代文明

2017-01-07 20:14:44 | 古代史


<日本人のルーツと超古代文明>

①終戦後、GHQに阿(おもね)る曲学阿世の歴史学者が「朝鮮半島騎馬民族説」などという邪説を流布し、「日本の歴史は中韓より短く、文化は中韓より学んだ」などとし、多くの日本人が洗脳されたままなので、真の日本人のルーツと古代日本に超高度文明があったことを紹介します。

1、日本人の起源

②もとより日本人のルーツに関しては諸説ありますが、一般的な説では、生物学的な意味での人類は10万年単位を一つの区切りにして「原人」→「旧人」→「新人」と区分されます。

③私たち現代人はこのうちの「新人」に属し、そのルーツは20万年前の北アフリカだとされています。そこから人類は中東を経て中央アジア(メソポタミア=シュメール)辺りに移動、さらに二手に分かれ、西は欧州、東は東方アジアへと分布したというのが有力説です。

④このうち、日本人のルーツは、太古、宗谷海峡が繋がっていたことからシベリア経由でやってきた「アイヌ系狩労民族」と、インドや東南アジアを経てやってきた「沿岸海洋民族」が中心とされてきました。

⑤さらに、年代の流れにしたがって詳しくみてみると、「縄文人」→「弥生人」→「古墳人」となります。まず「縄文人」は、1)太平洋系海人族・安曇氏、2)シュメール系海人族・橘氏(和田、楠、葛城、尾張、犬養、春日、小野)、平氏、3)北方アイヌ人(蝦夷)からなります。

⑥海人族・安曇氏は、山口県下関市彦島の杉田丘陵や角島、玄界灘にある沖の島、出雲の日ノ御碕沖等に、与那国島沖と類似する神殿跡やペトログラフ(岩絵文字)があることから、主に北部九州から近畿にかけて分布した海洋民族「
メネフネ族」と考えられます。

⑦なお、これらと同形のペトログラフは、韓国、台湾、中国では全く見つかっておらず、特に朝鮮半島では5000年以前には人が居住した遺跡が存在しません。またメネフネ族とは別に、同じく海人系ミクロネシア人の「熊襲」あるいは「隼人」は南九州、南四国に分布しました。

⑧一方、シュメール系・橘氏ですが、アッカド人に国を追われ各地に分散した一派が、海路から和歌山県近辺に渡来し居住、海人族として後に物部氏とともに蘇我氏と争って下野したため、脚光を浴びることがありませんでした。

⑨が、天武天皇の代から橘美千代が宮中で命婦として勤め、女帝元明天皇から橘宿禰の氏姓を賜り、その子諸兄が有名です。皇室の警察犬を使う犬養氏、葛城氏も同族で、橘氏は和田氏、楠氏につながります。平氏の起源も、平清盛の話によるとペルシャ方面にあるということです。

⑩他方、アイヌですが、カムチャッカ半島など北シベリア方面に分布していたスーセン族と、サハリンからアムール川周辺地域など東シベリア方面に分布していたギリヤーク族(ニブヒ族)からなり、前者「阿蘇辺族」は主に北海道東部に居住し、後者「津保化族」は本州にも居住、後に「荒覇覇吐王国」を作りました。

⑪次に「弥生人」は、1)古代ユダヤ10支族・海部氏(物部氏)、2)支那大陸華南地域から来た「倭族」からなります。このうち海渡人(ウミワタヒト)という海人族が海部氏(物部氏)で、秦の始皇帝の側近・徐福によって連れてこられた数十万人の古代ユダヤ人の一団という説もあります。
 
⑫なお、海部氏が社家となる丹波地方にある籠神社では、「アマテルとニギハヤヒの両神は同体なり」として、海部氏と物部氏の合族を伝えています。

⑬最後に「古墳人」は、1)崇神天皇の時代にやってきた突蕨系の「土師(はじ)氏」、「西文氏」、2)応神天皇の時代にやってきたツングース系の「越氏」、古代ユダヤ10支族でスキタイ+アーリア系の「秦氏」からなります。
 
⑭土師氏は半島由来の騎馬民族で、主に古墳の造営を行うゼネコンのような立場だったようです。”はじ”という呼び方も、土地を与えられない"非定着漂流民”という意味での蔑称から来ていると言われています。
 
⑮西文氏は北陸に渡来し、半島からの移民、難民の受け入れ事務所を置き、漂着する渡来民を引き受け労働力として畿内の土師氏に送り込む”手配師”でした。ツングース系越氏も西文氏と同じく北陸地方に定着しました。尚、秦氏は100万人規模の大集団でやってきたとされていますが詳細は別項で述べます。
 

2、「日本人は農耕民族」の誤り
⑯ところで、よく「狩猟民族と農耕民族」という区分けとともに、「縄文人が元々日本列島に居住していた土着民(農耕民族?)で、弥生人は大陸ないし半島から来た征服民族で抑圧的だ(狩猟民族?)」などの俗説がありますが、全くの誤りです。

 
⑰恐らく、このような俗説が囁かれる背景には、明治維新以降、隅に追いやられた感のある東日本を中心とした旧幕藩体制での支配階級だった人々が、天皇制を頂点とする明治以降の体制への不満の論拠としたいとの思いがあるものと推測されます。

⑱例えば、誤解が多い説として、和辻哲郎は「日本人は農耕民族で、西洋人は狩猟民族」と分類します。「農耕民族」は稲作による定住生活を常とし、一方の「狩猟民族」は当初は海山での狩り、そして時代を経た後は組織的な遊牧、牧畜へと発展して行きます。
⑲ただよく考えてみると、人類はその誕生期において、石器時代に見られるように、狩猟を生活の手段にしている点では共通しており、牧畜、農耕は人類文化の発展とともに生まれた合理的な生活様式であると考えられます。

⑳だとすれば、「日本人は農耕民族で、西洋人は狩猟民族」という図式は、時代の流れを無視した分類と言わざるを得ず、時代の流れに沿えば、「縄文人が狩猟民族」で「弥生人が農耕民族」というのが自然です。実際、縄文人の顎は肉食に適して発達しており、弥生人はノッペリしています。

㉑また、「倭族」が大陸から稲作を持ってやって来たなどともいわれていますが、「倭族」とは古代日本人の呼称です。これは「大陸と一部陸続きだった氷河期に、日本から大陸に人々(カラ族)が移動し、その後里帰りしたのが真実で、加えて日本には「縄文稲作」がありましたが、詳細は別項に譲ります。

㉒さて、以上のように考えると、弥生人は農耕民族であるが故に性格は穏やか。他方、アイヌ含む縄文人には、海洋民族とシベリア、更にはポーラ化粧品のDNA研究の結果、東欧等からもやって来た狩猟、遊牧民族も含まれることが分かっており、性格は荒っぽい、ということができます。


3、古代の太平洋上に高度文明?

㉓ところで、縄文以前の石器時代には主に南九州、四国、紀伊半島に海洋民族が居住していました。これが「港川人」で、沖縄で人骨が発見されており北京原人よりも古いことが証明されています。このことを根拠に、かつて太平洋上に文明が存在し、活発な交流があったのではないかという説があります。

㉔この点、「竹内文書」によると、大和先行王朝である「鵜芽葺不合朝」第六十九代・神足別豊鋤天皇の時代に、太平洋上には「ミヨイ」、「タミアラ」という大陸があり、五色人(白人・黒人・赤人・青人・黄人)と王族の黄金人がいたが、天変地異で水没しため日本に避難したとされています。

㉕また、出口王仁三郎も、米国考古学者・チャーチワードが「失われたムー大陸」を発表する9年前の1922年に、『霊界物語』第9巻で、「太平洋の真中に縦が二千と七百浬、横が三千一百浬の黄泉(よもつ)の島がある」として、太平洋に巨大な大陸があったことを発表しています。

㉖このようにみてみると、日本人のルーツは「ユーラシア大陸系(狩猟、農耕、騎馬民)」と「太平洋系(海洋民)」であると言えます。これを時代区分に対応させると、狩猟民、沿岸民、海洋民が「縄文時代」以前、農耕民が「弥生時代」、騎馬民が「古墳時代」以降ということになります。

㉗が、昭和24年に、天才物理学者の楢崎皐月(ならさきこうげつ)が、日本には縄文時代以前の石器時代に、「カタカムナ文明」という超高度文明があったことを発見しています。その傍証として、岩手県金取遺跡からは9万年前の足跡、島根県砂原遺跡からは12万年前の打製石器、

㉘また、東京都栗原遺跡や千葉県三里塚など、秋田県から奄美大島まで全国135カ所から、これまで世界最古とされてきたオーストラリアの2万9千年前を遥かに凌駕する3〜4万年前の磨製石器、青森県大平山元遺跡からは、世界最古とされる石器時代1万5〜6千年前の「無文土器」や「石の矢じり」が発見されています。

㉙さらに、熊本県の弊立神宮にある「日文石板」は、炭素放射線測定の結果20〜30万年前のものと証明されており、そこには「豊国文字」を使った古代天皇の名で「ひふみよいむなやこともちろら、ねしきるゆいつわぬそを、はたくめかうおえに、さりへてのますあせゑほけれ」と記されています。


4、兵庫県にあった世界最古のカタカムナ文明

㉚さて、楢崎皐月は戦前、満州に渡り、石原莞爾、辻正信、服部卓四郎らとともに満州の発展に寄与、特に当時世界一の製薬会社だった「星製薬(現在は品川)」の星一と「植物波農法」などの植物研究に取り組み、モルヒネなどの研究開発にも関わります

㉛そんな中、楢崎が吉林にある道院を訪ねた際、廟の道士である蘆有三から瞬間沸騰する茶釜を見せられ、「上古代の日本には"アシア族"といって、八鏡文字を編み出し、特殊な鉄の鋳造技術等の高度文明を持つ人々がいて、それが中華文明の基礎になった」という古伝を聞かされます。

㉜謎を抱えたまま終戦で帰国、星製薬で大気電気の研究を続けていた楢崎は、昭和24年、兵庫県六甲山でカタカムナ神社の宮司・平十字(ひらとうじ)に遭遇、「カタカムナ文献」を見せられました。そこには「宇宙の構造」や「生命体の本質」など、最先端の科学、哲学が記されていたのです。

㉝このような文献が見つかるところからすると、人類学的な人間の起源は別として、日本が文明社会の起源だった可能性が出てきます。では、なぜ超古代の日本にこのような高度な文明が存在したのか?鍵は、いわゆる"天孫降臨神話"にありますが、この点については「ムー大陸」伝承にも関わるテーマなので別項に譲ります。