誇り高き日本の歴史

学校での歴史教育は大東亜戦争の敗戦で歪められ、真実は30%程度に過ぎないため真の国史を明らかにします。

古代朝鮮の新羅、百済は日本が作った!

2017-01-07 20:17:06 | 古代史


<古代朝鮮の新羅、百済は日本が作った!>

1、「半島騎馬民族説」のデタラメ 

①ここで改めて、「日本人や天皇家の起源は朝鮮半島だ」とする"半島騎馬民族説”の怪しさを、北方アジアの諸民族との関係で精査します。まず「騎馬民族」ですが、一般的にはユーラシア内陸部で馬を飼育し、衣食住ばかりでなく、対外的な活動の主体とした"遊牧民"をいい、

②中央アジアの「スキタイ人」に始まるとされます。この「騎馬民族」について、東アジアでは具体的には匈奴、高車、突厥や後のモンゴル(蒙古)などの種族を指します。これは、支那古代の「北狄」を意識したものです。

③この北狄の東南の森林地帯にいた「東夷」と称した「ツングース系」については、一部に騎馬民族的な者も含まれていましたが、"半猟半農"の色彩が強かった事を考えると厳密な「騎馬民族」とは異なるようです。

④江上波夫(東京大学)は、「朝鮮半島の騎馬民族が日本にやってきて大和朝廷を開いた」などと馬鹿げたことを言っています。が、まず「新羅」ですが、建国にはツングース系の「非騎馬民族」が関係したとみられ、組織的な騎馬隊が来たという書伝はなく、ましてやそれより南方の海を馬で渡って、日本に騎馬隊が来るとは考えられません。

⑤そもそも日本では、5500年前の三内丸山遺跡、それより4000年古い鹿児島の上野原遺跡が発見され、弥生式土器に似た「壺型土器」も作られていたことが確認されています。一方、朝鮮半島は緯度でいうと日本の近畿地方以北に位置している寒冷地であったため、5千年以前に人が住んだ遺跡がなく、

不毛の地だった所に縄文人が移住し開拓しました。が、徐々に南下してきたツングース系、更には支那方面から来た呉人・越人と共に、主に半島南部に「馬韓」「辰韓」「弁韓」を作って緩やかな農耕村社会を形成していました。これが後の日本領「任那(伽耶・伽羅)」です。

⑥が、その後、既に満州地域に展開していたスキタイ系扶余族がさみだれ式に南下してきて、半島北部に高句麗(貊…はく)、西南部に百済(濊…わい)を建てました。なお、秦朝(支那)滅亡後、その末裔の「秦氏」が合流した辰韓は"秦韓"ともいわれています。


2、朝鮮半島の正史「三国史記」

⑦ところで、半島の正史「三国史記・新羅本紀」によれば、新羅王家には朴氏・昔氏・金氏の三王統があり、この間で王朝交代が起き、朴氏新羅(初代赫居世居西干~)・昔氏新羅(第4代脱解尼師今~)・金氏新羅(第17代奈勿尼師今~)と呼び、それぞれに始祖説話があります。

⑧まず、朴氏初代の「朴赫居世」では、辰韓の六村の長の一人が、蘿井(慶州市塔里面)の林で馬の嘶くのが聞こえたので近寄ったところ、馬が消えて大きな卵があり、卵を割ると中から幼児が出てきたので育て、10歳を越える頃には人柄が優れていたことから、六村の人たちは彼を王位につけたと。

⑨また、卵が瓠(ひさご)ほどの大きさであったため、辰韓の語で瓠を表す「朴」を姓として名乗った。一方、建国時に海を渡って来た倭人がいて、腰に瓠をぶら下げていたため瓠公と称し、大輔という役職名の重臣になったともあることから、この瓠公と朴赫居世を同一人物と考えられます。

⑩朴赫居世は、紀元前57年に13歳で王位(辰韓の語で王者を表す居西干と称された)に就き、国号を徐那伐としました。赫居世の次男「アメノヒボコ」は本州(日本?)に居住して暮らしたとあります。
⑬最後に、金氏始祖の「金閼智」では、脱解尼師今の治世時に、首都金城の西方の始林の地で鶏の鳴き声を聞き、夜明けになって瓠公に調べたところ、金色の小箱が木の枝に引っかかっていた。

⑭そこで、小箱を持ち帰って開くと中から小さな男の子が現れ、容姿が優れていたので脱解尼師今は喜んでこれを育てた。長じて聡明であったので「閼智」(知恵者の意味)と名づけ、金の小箱に入っていたので「金」を姓とした、と。

⑪次に、昔氏初代の「昔脱解」では、倭国東北一千里のところにある多婆那国(現在の兵庫北部等の本州日本海側)の王妃が妊娠ののち、7年たって大きな卵を生み、不吉であるとして箱に入れて海に流されたが、辰韓に流れ着き老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。

⑫箱が流れ着いたときに鵲(かささぎ)がそばにいたので、鵲の字を略して「昔」を姓とし、箱を開いて生まれ出てきたことから「脱解」を名とし、長じて第2代南解次次雄の娘(阿孝夫人)の女婿となり、のちに王位を譲られた、と。

⑮以上、新羅建国の特徴をみると、複数の王統を持ち、建国初期に倭人との関わりを伝えることなど、高句麗・百済の始祖説話体系とは少し異なっている事が分かります。


3、日本の文献にある新羅の記録

⑯日本側の文献でも、新羅建国にまつわる話を調べてみると、「稲飯命」と「天之日矛(アメノヒボコ)」の記録があり、「新撰姓氏録」では、新羅の祖は鵜草葺不合天皇の子の稲飯命(神武天皇の兄)だとしています。

⑰一方、「天之日矛」は、記紀や風土記によると、新羅の王子だったが、王位を弟の「知古」に譲って日本に帰化し、最終的に但馬(兵庫県豊岡周辺)に土着、三宅連氏の祖先となったとあります。

⑱が、「天之日矛」という名は、新羅風の名前でなく純然たる"和風"の名前なので、そのルーツを調べてみると、日本側の伝承によれば、日本から渡った稲飯命が開いた新羅王朝家の子孫ということです。

⑲だとすると、新羅王「昔脱解」は船で渡った倭人と見られ、その出生地は日本の但馬、丹波、肥後のいずれかとされますが、但馬(兵庫県北部)と推定する説が多く、「天之日矛」が祭られる豊岡と一致し、豊岡から半島へ、そして半島から豊岡へ移動したと考えられます。(次回に続く…)

4、百済も日本が作った

⑳なお、桓武天皇の生母・高野新笠が、人質として来日していた百済の「武寧王」の子孫だという記録があり(続日本紀)、これを根拠にした今上天皇による、日韓融和のためのリップサービスのための「半島所縁発言(平成13年12月18日)」が行われ、内外に波紋を呼びました。

㉑が、武寧王は、北方民族対策としての民族交雑を進める"第二次奉迎工作”で、豆満江河口付近の羅津に渡った孝元天皇の皇子・彦太の後裔•オホドで、その後、皇位継承者不在となった日本に帰国、「継体天皇」を"兼任"したのが真相です。今上天皇の発言自体は間違っていませんが、この前提が省略されたため誤解を生みました。

㉒しかも、「日本書紀・雄略紀」によると、武寧王の父・東城王も、「百済の文斤王がなくなったので、天皇は昆支王の五人の子の中で二番目の末多王が聡明なので、内裏へ呼んで親しく頭を撫でねんごろに戒めて、その国の王とし武器を与え、筑紫国の兵五百人を付けて百済に遣わした。これが東城王である。」とあります。


5、「日本は朝鮮から文化を学んだ」の嘘 

㉓一方、支那の「宋書」では、四百五十一年に倭王済(允恭天皇)を、四百七十八年に倭王武(雄略天皇) を、「使持節都督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓の軍事安東将軍として認める」とし、「梁書」「南史」でも日本の半島南部の支配を公式に認めています。

㉔また、高句麗第十九代・広開土王(好太王)の業績を称えた石碑「広開土王碑」には、新羅の奈勿王の子・未斯欣と、百済の阿莘王の子・腆支を、
人質として日本に差し出したことが書かれており、「三国史記・新羅本紀、百済本紀」の記述とも一致しています。

㉕さらに、鎌倉時代に編纂された「八幡愚童訓」と、室町時代に足利義教が誉田八幡宮に奉納した「神功皇后縁起絵巻」によると、神功皇后が三韓征伐で高句麗、 新羅、百済を制圧したとき、「我ら日本国の犬となり日本を守護します」と誓ったと書かれており、この名残が「狛(高麗)犬…こまいぬ」です。

㉖このような記録からすると、古代7世紀まで朝鮮半島は日本の支配地だったことがわかり、先進的な文化や文物は日本から朝鮮半島へと伝播したのが真実だと考えられます。

㉗例えば、韓国の古墳から見つかった王冠には、日本の糸魚川でしか採れない原石でできた硬玉製勾玉が埋め込まれており、また。宋山里古墳群で発見された武寧王の棺材は、日本にしか自生しないコウヤマキで作られ、慶尚南道金海では日本製の銅矛、弥生時代後期に製作された日本製の銅鏡が発見されています。

㉘また、「後漢書・東夷伝」によると、「倭、馬韓並從市之。凡諸貿易、皆以鐵爲貨」という記述が見られ、倭人が朝鮮半島南部が三韓に分立していた時代から、半島に行って鉄を貨幣のように用いて交易していたと、

㉙さらに、「隋書・列傳第四十六。東夷・倭國」によると、「新羅・百済はみな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びに之を敬仰し、恒に使ひを通はして往来せしむ。」と記録しています。

㉚また「記紀」には、「王仁(和邇吉師)」が百済から日本に来て、「千字文」や「論語」を伝えたと書かれています。が、朝鮮史には「王仁」の記録はなく、日本書紀には「応神天皇の命令を受け百済が献上した人物」と記されており、当時は半島になかった一文字の姓から支那人という説もありますが、「和邇氏」は日本のシュメール系海人族です。

㉛さらに、日本書紀には、欽明天皇の時代に百済の聖明王が使者を使わし、仏像や仏経典を献上したと記されています。が、実は聖徳太子の時代に小野妹子が隋からもたらしたのが真相で、それも四天王寺などに見られる毘沙門天(多聞天)を主神とする「マニ教」だったことが近年明らかになっています。

㉜ちなみに、マニ教は、ペルシャのゾロアスター教から派生した宗教で、古代エジプトで流行した「グノーシス主義」と同じく「善悪二元論(多神教)」に立ちつつ、厳しい戒律の下、個人の悟りによって悪を乗り越えるとしたため、一神教のユダヤ・キリスト教からは排撃されますが、アジアでは仏教に吸収される形で消滅します。

そして後年、江戸時代に入ってから朝鮮通信使として来日した金仁謙(1763~1764)の記録・「日東壮遊歌」を見ても、❶大阪については、「三神山の金闕銀台とはまことこの地のことであろう。人家が塀や軒をつらね、その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)の万倍も上である。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国の中心部)の壮麗さもこの地には及ばない。」 

❷名古屋については、「山川広闊にして、人口の多さ、田地の肥沃、家々の贅沢なつくり、遠路随一といえる。中原にも見あたらないであろう。朝鮮の三京も大層立派であるが、この地に比べれば寂しい限りである。」 

❸江戸について、「楼閣屋敷の贅沢な造り、人々の賑わい、男女の華やかさ、城郭の整然たる様子、橋や船にいたるまで大阪、西京(京都)より三倍は勝って見える。」とあり、日本の社会、文化の方がかなり進んでいたことが窺われます。 


6、日本人と韓国人の遺伝子の違い

最後に、日本人と韓国人の遺伝子研究の結果を見てみると、韓国人の遺伝子の中には、日本人固有のYAPハプロD1b (D-M64.1)系統(日本列島起源、日本では約32%存在)は2%しか確認されていません。

が、韓国人の母系に限ってみると、琉球諸島周辺で発生し沖縄から九州へ入ってきたとされる縄文系(港川人)のハプロM7a (mtDNA)が3%弱確認されています。が、これは紀元前5千年以前は無人の地だった朝鮮半島に、縄文時代後期、日本から開拓に渡った縄文人の影響と考えられています。

ところが、韓国人の男系に日本人との共通性が確認されないのは、その後の北方民族や漢民族の侵入、侵略の定めなのか、侵略者によって男子は根絶やしにされたが、女子は生かされたためと考えられています。

以上の結果、カトリック医科大学のキム・ドンウック教授、慶應大学の岡本真一郎教授、徳島大学の佐藤陽一準教授らがHLA(ヒト白血球型抗原)を分析した結果、日本人と韓国人のDNAには遺伝子的な共通性が低いという結論が出ています。

また、大阪医科大学の松本秀雄教授は、「日本人は何処から来たか…血液型遺伝子から解く」で、朝鮮民族は、相互移民や侵入などによって漢民族などの影響(混血)を受けているとし、実際、HLA遺伝子による調査で朝鮮民族は満州族や中国華北の漢民族に近いことが確認されています。


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