8日(3日目)
6:35 起床
8:25 出発
息子が休みを合わせてくれたので今日は一緒に城巡りへ行く。
9:00 沼田城址(沼田公園)駐車場到着
今日も暑い
ゲーム戦国無双の真田幸村のパネルと記念撮影
息子の顔出しは許可を貰っていないので真田信之パネルに差し替えw
駐車場付近は三の丸跡で武家屋敷だったらしい。
観光案内所へ
案内所内を見学、散策マップを入手
9:30 さっそく城(公園)内を巡る。
駐車場の東側 こちらも三の丸に位置する。
現在はテニスコートとあるが、立ち入りはできない模様。
これから発掘調査をするのだろうか?
堀跡
野球場 三の丸(球場の中央から南)から二の丸(球場北の一部)であった。
二の丸から本丸へ入る大門(本丸御門)跡
礎石等は良く分からない。赤丸 ↓ で囲った石がそうなのか??
本丸へ
昨日の岩櫃城『クマ出没注意』に続き、イノシシ注意
沼田城
1532年沼田顕泰(あきやす)が築城。沼田氏が拠点とした。沼田城は北関東の要衝であり、軍事上の重要拠点として
上杉氏・北条氏の争奪戦となっていたが、1580年、武田勝頼の命を受け沼田に進出した真田昌幸が、当時、北条氏に
従属していた金子泰清(沼田顕泰側室の兄といわれる)を調略によって無血開城させた。翌1581年に沼田城の奪還に
来攻した沼田平八郎景義を謀殺。これにより沼田家は滅亡。1582年武田家が滅亡し一時、織田(滝川)領となるが、
天正壬午の乱において北条氏に降った昌幸が再び支配した。以後、昌幸は主君を変えつつ沼田城の支配を続けた。領有を
主張する北条氏とこれに応じない昌幸との間で攻防が続いたが、1589年豊臣秀吉の裁定により、真田氏から北条氏に
引き渡され、北条方の猪俣邦憲が城代となった。しかし、同年に邦憲が昌幸の治める名胡桃城を略奪したことが、秀吉の
怒りを買い、翌1590年の小田原征伐によって北条家は滅びた。戦後処理において、沼田城は真田氏に返還され、家康
養女の婿である真田信幸(之)が沼田領2万7千石の城主となり支配。5層5階の天守閣を建造し、以後5代にわたって
この地を治めた。1682年に破却。本多氏が城の再興の命を受け入封したが、天守は再建されず三の丸に館を建てた。
黒田氏2代、土岐氏12代の居館として使用された。
本丸は、公園として整備され小動物園や季節の花を楽しめる植物園等がある。春は御殿桜を
はじめとする210本の桜が見ごろ。
本丸で会った息子は少し飽きてきたように見えたので、案内所へ戻り
展示を見学して涼んでいるように促した。
鐘楼
1634年、領内の安泰を祈願して2代藩主真田信吉が鋳造、沼田城内三の丸の楼に掛けて時報に用いた。
真田氏改易により平等寺の焚鐘となっていたが、明治32年(1899年)旧沼田町役場敷地内に鐘楼が
建てられた。昭和39年(1964年)、市庁舎改築で取り壊された後、昭和58(1983年)年に
沼田公園内に復元。鐘は複製品で実物は沼田市歴史資料館に展示されている。
真田信之公パネル
本丸西櫓台へ
櫓台石垣
櫓台上には入れないらしい
真田信之公とその妻小松姫像
沼田城と小松姫の逸話
真田信幸(信之)の正室 小松姫(稲姫)は徳川四天王の1人『猛将 本多忠勝』の娘。
徳川家康の養女として信之の妻となった。関ヶ原の戦いの時、真田父子は、佐野犬伏に
おいて信之は東軍、昌幸と信繁(幸村)は西軍へ与することになった。徳川の陣を引き
上田城へ向う途中、昌幸らは沼田城へ立ち寄ったが、小松姫は武装し、城門を閉ざし、
「たとえ舅といえども、夫信之の許しがなくては入城を許しませぬ」と、昌幸らの入城
を拒否。昌幸は「孫の顔を見に来ただけじゃ」と開門を願ったが、開城をしなかった。
昌幸と信繫は沼田城入城を諦め、正覚寺で休憩していたところ、小松姫が孫の顔を見せ
るために訪れ、もてなした。昌幸も「さすがは本多忠勝の娘。小松姫がいる限り真田の
家は安泰じゃ」と喜んだとされる。
また男勝りと評される事が多い小松姫だが、戦後処理で流罪となった昌幸のもとへ鮭を
送ったり、気遣いを忘れなかったとされる文献もあり、やさしく細やかさも兼ね備えた。
利根英霊殿 利根沼田地区出身の戦没者を祀っている。
大手門の沓石
沓石(くついし):礎石の上、柱や縁の束柱 (つかばしら) の下に据える石。
天守台
天守台には1597年(慶長2年)、5層5階の天守が建造された。1681年 天和元年、
5代城主信利が改易、領地は天領(江戸幕府に没収)とされ、翌年1月に幕府の命により
破却、その後再建はされなかった。
天守台から北側の捨曲輪へ
トンボ発見
捕獲w 撮影後に逃がしました。
捨曲輪に入ると社?堂?を見つけた
覗くと・・・
堂内には昭和34年に造られた長さ3m、幅2m、鼻の高さ1.4m、重さ1t。
日本一の大きさを誇る木彫りの天狗面だった。
天狗堂というらしい。
捨曲輪
戦国無双 真田昌幸パネル
平八石
真田昌幸が沼田平八郎景義の首を実検の後に載せた石といわれている。
案内所へ戻る。
息子と合流し、名城スタンプ、御城印を購入。
10:55 沼田城址出発 次は名胡桃城へ
11:10 途中、すき家があったので、立ち寄り昼食
11:40 すき家 出発
11:50 名胡桃城址到着
案内所のトイレを借り、さっそく攻城
名胡桃城
豊臣秀吉の天下統一の発端となる小田原北条征伐のきっかけになった城。
名胡桃城のはじまりは1492年に沼田城の支城として沼田氏によって名胡桃館を築いたものとされる。
上杉景勝との甲越同盟により東上野の割譲を受けた武田勝頼が、1579年に家臣の真田昌幸に命じ、
北条氏から沼田城を奪取するための前線基地として築いた城である。昌幸は、この城を足がかりとして
攻略を企図し調略の結果、沼田城を奪取した。沼田・吾妻領の領有を主張する北条氏とこれに応じない
昌幸との間で攻防が続き、名胡桃城は沼田城の有力な支城として沼田領に攻め入る北条の軍を退けた。
1587年に豊臣秀吉は大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発令。2年後の1589年、秀吉の裁定が
行われ、名胡桃城を含めた全体の3分の1は真田領に、沼田城を中心とする3分の2は北条領として、
沼田城は真田氏から北条氏に引き渡された。手放した土地の代替地として信濃国の箕輪を与えられた。
しかし、同年11月3日に沼田城代猪俣邦憲が昌幸の治める名胡桃城を調略により占領。昌幸は直ちに
寄親である家康を通して秀吉に訴えた。秀吉は手切れ書を北条氏と諸大名に配布するとともに北条へ
家臣を派遣し関係者の引き渡し・処罰を求めたが、北条家当主氏直は詰問に対し「名胡桃城は真田氏
から引き渡されて北条領となっている城なので、そもそも奪う必要なく、全く知らないことである」
と書状で釈明、引き渡しと処罰を拒否した。1590年3月に秀吉は軍勢を出立。小田原北条征伐に
よって北条家は滅びた。真田氏への旧領復活を受け、廃城となった。
馬出
三郭堀切 ↑ ↓
三郭へ
三郭 64×24mで横(東西)に長い郭
三郭から薬研型の三日月堀が検出されたことから、築城当初は郭ではなく
馬出であった事が分っている。
グレーのコンクリート部が三日月堀跡
建物跡 三郭には3つの建物跡が確認されている。
二郭へ
二郭南虎口 喰い違い虎口となっている。
二郭堀切 ↑ ↓ 三郭側が傾斜45°に対し二郭側は攻めにくいように55°に掘られた。
ピンク線:二郭側/赤線:三郭側 堀の深さは5.5~7mとあるので、安全の為、埋め戻したのだろう。
また左右の堀切は一直線ではなく堀幅1つ分ずらして掘られている。(下図参照)
二郭内の南西側の土塁上に見学台があるので上から見てみる。
二郭
65×50mの(南北)縦長の台形。西側縁辺は広く崩落している。
南北の虎口を直線でつなぐ通路とその西側に建築時期が異なる建物群が8棟確認されている。
二郭見学台から西(般若廓)側の堀を撮影
北虎口へ
北東の土塁上にも見学台。上から見てみる。
二郭北虎口
本郭間との左右堀切の掘り幅を変えることで、本丸へ向かう出口であるが
大きくクランク状に進入せざるを得ないようにしている。
本郭へ
発掘調査にて橋の基壇上に柱穴(6本)がみつかり木橋が架かっていた事が分かっている。
本郭
本郭は51×30mで洋梨の形をした廓。東西縁辺が崩落し、
コンクリートで補強されており、もっと大きな廓であった。
この城に天守は無く、本郭内の虎口、建物の状況は分かっていない。
名胡桃城址碑
ささ郭
31×14mの狭長な通路。この城跡で唯一両側に土塁が残存する郭だった。
本郭がむき出しにならないように設けた廓で先端に搦手門を有し袖郭、物見に続く。
袖郭 のぼり脇で記念撮影
案内所へ
御城印、スタンプ入手。
案内所は資料展示、グッズや土産物の販売、喫茶店も併設している。
最後に
般若廓
名胡桃城のうち最大の郭。主体となる連郭式山城の西側に孤立して位置する。
築城以前から館があったのではないかと考えられているが、詳細は不明。
現在は駐車場となっている。
到着した時、解説板があるのに気付いたが、最後に観ることにした。
13:35 名胡桃城址駐車場出発
14:20 息子宅へ到着
息子と別れ、帰路へ
城に興味も無いのに付き合ってくれてありがとう
以前知人からもらった群馬のブランド豚。とても美味しくって販売している店を
教えてもらっていたので、今の場所から少し距離があるが、立ち寄ってみることに。
パワーセンターうおかつ榛名店
群馬のお土産はブランドの豚肉。
18:30 帰宅 走行距離400.9km
戦利品
6:35 起床
8:25 出発
息子が休みを合わせてくれたので今日は一緒に城巡りへ行く。
9:00 沼田城址(沼田公園)駐車場到着
今日も暑い
ゲーム戦国無双の真田幸村のパネルと記念撮影
息子の顔出しは許可を貰っていないので真田信之パネルに差し替えw
駐車場付近は三の丸跡で武家屋敷だったらしい。
観光案内所へ
案内所内を見学、散策マップを入手
9:30 さっそく城(公園)内を巡る。
駐車場の東側 こちらも三の丸に位置する。
現在はテニスコートとあるが、立ち入りはできない模様。
これから発掘調査をするのだろうか?
堀跡
野球場 三の丸(球場の中央から南)から二の丸(球場北の一部)であった。
二の丸から本丸へ入る大門(本丸御門)跡
礎石等は良く分からない。赤丸 ↓ で囲った石がそうなのか??
本丸へ
昨日の岩櫃城『クマ出没注意』に続き、イノシシ注意
沼田城
1532年沼田顕泰(あきやす)が築城。沼田氏が拠点とした。沼田城は北関東の要衝であり、軍事上の重要拠点として
上杉氏・北条氏の争奪戦となっていたが、1580年、武田勝頼の命を受け沼田に進出した真田昌幸が、当時、北条氏に
従属していた金子泰清(沼田顕泰側室の兄といわれる)を調略によって無血開城させた。翌1581年に沼田城の奪還に
来攻した沼田平八郎景義を謀殺。これにより沼田家は滅亡。1582年武田家が滅亡し一時、織田(滝川)領となるが、
天正壬午の乱において北条氏に降った昌幸が再び支配した。以後、昌幸は主君を変えつつ沼田城の支配を続けた。領有を
主張する北条氏とこれに応じない昌幸との間で攻防が続いたが、1589年豊臣秀吉の裁定により、真田氏から北条氏に
引き渡され、北条方の猪俣邦憲が城代となった。しかし、同年に邦憲が昌幸の治める名胡桃城を略奪したことが、秀吉の
怒りを買い、翌1590年の小田原征伐によって北条家は滅びた。戦後処理において、沼田城は真田氏に返還され、家康
養女の婿である真田信幸(之)が沼田領2万7千石の城主となり支配。5層5階の天守閣を建造し、以後5代にわたって
この地を治めた。1682年に破却。本多氏が城の再興の命を受け入封したが、天守は再建されず三の丸に館を建てた。
黒田氏2代、土岐氏12代の居館として使用された。
本丸は、公園として整備され小動物園や季節の花を楽しめる植物園等がある。春は御殿桜を
はじめとする210本の桜が見ごろ。
本丸で会った息子は少し飽きてきたように見えたので、案内所へ戻り
展示を見学して涼んでいるように促した。
鐘楼
1634年、領内の安泰を祈願して2代藩主真田信吉が鋳造、沼田城内三の丸の楼に掛けて時報に用いた。
真田氏改易により平等寺の焚鐘となっていたが、明治32年(1899年)旧沼田町役場敷地内に鐘楼が
建てられた。昭和39年(1964年)、市庁舎改築で取り壊された後、昭和58(1983年)年に
沼田公園内に復元。鐘は複製品で実物は沼田市歴史資料館に展示されている。
真田信之公パネル
本丸西櫓台へ
櫓台石垣
櫓台上には入れないらしい
真田信之公とその妻小松姫像
沼田城と小松姫の逸話
真田信幸(信之)の正室 小松姫(稲姫)は徳川四天王の1人『猛将 本多忠勝』の娘。
徳川家康の養女として信之の妻となった。関ヶ原の戦いの時、真田父子は、佐野犬伏に
おいて信之は東軍、昌幸と信繁(幸村)は西軍へ与することになった。徳川の陣を引き
上田城へ向う途中、昌幸らは沼田城へ立ち寄ったが、小松姫は武装し、城門を閉ざし、
「たとえ舅といえども、夫信之の許しがなくては入城を許しませぬ」と、昌幸らの入城
を拒否。昌幸は「孫の顔を見に来ただけじゃ」と開門を願ったが、開城をしなかった。
昌幸と信繫は沼田城入城を諦め、正覚寺で休憩していたところ、小松姫が孫の顔を見せ
るために訪れ、もてなした。昌幸も「さすがは本多忠勝の娘。小松姫がいる限り真田の
家は安泰じゃ」と喜んだとされる。
また男勝りと評される事が多い小松姫だが、戦後処理で流罪となった昌幸のもとへ鮭を
送ったり、気遣いを忘れなかったとされる文献もあり、やさしく細やかさも兼ね備えた。
利根英霊殿 利根沼田地区出身の戦没者を祀っている。
大手門の沓石
沓石(くついし):礎石の上、柱や縁の束柱 (つかばしら) の下に据える石。
天守台
天守台には1597年(慶長2年)、5層5階の天守が建造された。1681年 天和元年、
5代城主信利が改易、領地は天領(江戸幕府に没収)とされ、翌年1月に幕府の命により
破却、その後再建はされなかった。
天守台から北側の捨曲輪へ
トンボ発見
捕獲w 撮影後に逃がしました。
捨曲輪に入ると社?堂?を見つけた
覗くと・・・
堂内には昭和34年に造られた長さ3m、幅2m、鼻の高さ1.4m、重さ1t。
日本一の大きさを誇る木彫りの天狗面だった。
天狗堂というらしい。
捨曲輪
戦国無双 真田昌幸パネル
平八石
真田昌幸が沼田平八郎景義の首を実検の後に載せた石といわれている。
案内所へ戻る。
息子と合流し、名城スタンプ、御城印を購入。
10:55 沼田城址出発 次は名胡桃城へ
11:10 途中、すき家があったので、立ち寄り昼食
11:40 すき家 出発
11:50 名胡桃城址到着
案内所のトイレを借り、さっそく攻城
名胡桃城
豊臣秀吉の天下統一の発端となる小田原北条征伐のきっかけになった城。
名胡桃城のはじまりは1492年に沼田城の支城として沼田氏によって名胡桃館を築いたものとされる。
上杉景勝との甲越同盟により東上野の割譲を受けた武田勝頼が、1579年に家臣の真田昌幸に命じ、
北条氏から沼田城を奪取するための前線基地として築いた城である。昌幸は、この城を足がかりとして
攻略を企図し調略の結果、沼田城を奪取した。沼田・吾妻領の領有を主張する北条氏とこれに応じない
昌幸との間で攻防が続き、名胡桃城は沼田城の有力な支城として沼田領に攻め入る北条の軍を退けた。
1587年に豊臣秀吉は大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発令。2年後の1589年、秀吉の裁定が
行われ、名胡桃城を含めた全体の3分の1は真田領に、沼田城を中心とする3分の2は北条領として、
沼田城は真田氏から北条氏に引き渡された。手放した土地の代替地として信濃国の箕輪を与えられた。
しかし、同年11月3日に沼田城代猪俣邦憲が昌幸の治める名胡桃城を調略により占領。昌幸は直ちに
寄親である家康を通して秀吉に訴えた。秀吉は手切れ書を北条氏と諸大名に配布するとともに北条へ
家臣を派遣し関係者の引き渡し・処罰を求めたが、北条家当主氏直は詰問に対し「名胡桃城は真田氏
から引き渡されて北条領となっている城なので、そもそも奪う必要なく、全く知らないことである」
と書状で釈明、引き渡しと処罰を拒否した。1590年3月に秀吉は軍勢を出立。小田原北条征伐に
よって北条家は滅びた。真田氏への旧領復活を受け、廃城となった。
馬出
三郭堀切 ↑ ↓
三郭へ
三郭 64×24mで横(東西)に長い郭
三郭から薬研型の三日月堀が検出されたことから、築城当初は郭ではなく
馬出であった事が分っている。
グレーのコンクリート部が三日月堀跡
建物跡 三郭には3つの建物跡が確認されている。
二郭へ
二郭南虎口 喰い違い虎口となっている。
二郭堀切 ↑ ↓ 三郭側が傾斜45°に対し二郭側は攻めにくいように55°に掘られた。
ピンク線:二郭側/赤線:三郭側 堀の深さは5.5~7mとあるので、安全の為、埋め戻したのだろう。
また左右の堀切は一直線ではなく堀幅1つ分ずらして掘られている。(下図参照)
二郭内の南西側の土塁上に見学台があるので上から見てみる。
二郭
65×50mの(南北)縦長の台形。西側縁辺は広く崩落している。
南北の虎口を直線でつなぐ通路とその西側に建築時期が異なる建物群が8棟確認されている。
二郭見学台から西(般若廓)側の堀を撮影
北虎口へ
北東の土塁上にも見学台。上から見てみる。
二郭北虎口
本郭間との左右堀切の掘り幅を変えることで、本丸へ向かう出口であるが
大きくクランク状に進入せざるを得ないようにしている。
本郭へ
発掘調査にて橋の基壇上に柱穴(6本)がみつかり木橋が架かっていた事が分かっている。
本郭
本郭は51×30mで洋梨の形をした廓。東西縁辺が崩落し、
コンクリートで補強されており、もっと大きな廓であった。
この城に天守は無く、本郭内の虎口、建物の状況は分かっていない。
名胡桃城址碑
ささ郭
31×14mの狭長な通路。この城跡で唯一両側に土塁が残存する郭だった。
本郭がむき出しにならないように設けた廓で先端に搦手門を有し袖郭、物見に続く。
袖郭 のぼり脇で記念撮影
案内所へ
御城印、スタンプ入手。
案内所は資料展示、グッズや土産物の販売、喫茶店も併設している。
最後に
般若廓
名胡桃城のうち最大の郭。主体となる連郭式山城の西側に孤立して位置する。
築城以前から館があったのではないかと考えられているが、詳細は不明。
現在は駐車場となっている。
到着した時、解説板があるのに気付いたが、最後に観ることにした。
13:35 名胡桃城址駐車場出発
14:20 息子宅へ到着
息子と別れ、帰路へ
城に興味も無いのに付き合ってくれてありがとう
以前知人からもらった群馬のブランド豚。とても美味しくって販売している店を
教えてもらっていたので、今の場所から少し距離があるが、立ち寄ってみることに。
パワーセンターうおかつ榛名店
群馬のお土産はブランドの豚肉。
18:30 帰宅 走行距離400.9km
戦利品