新型コロナウイルス肺炎は英語では、Novel Coronavirus Disease と呼ばれ、novel (新型の)が頭に付く。運悪く東京2020の年の直前に発生し、東京五輪が1年延期されたことに、代表内定選手をはじめ選考途上の選手にとって大変ショッキングな出来事である。だから、自分を励ます意味でも、競技開催を中止せざるを得ずエネルギーと時間を持て余した有名選手が、露出を多くして一般市民向けに、ともにこの難局を乗り切ろうと呼び掛ける姿が目立つ。しかし、 novel (小説)の小説家たちは一体何をしているのだろうか。言葉を武器、商売道具としているのに、そのプロたちから一向に声が上がらない。むかしは、社会の一大事が起きると何とか作家協会の面々が立ち上がって行動を起こしたと記憶する。今頃は、本が読まれなくなったなあとか、売れなくなったことを嘆いているだけなのか。役所とか専門家とかマスメディアの言葉が、猿が初めて火を見た時のように混乱を極めているので、こういう時こそ文明史論的に人々の心の持ちようについて一言あってしかるべきだと思うけれど、趨勢を見極めながら数年後の自作のネタに用いるしかないのであろうか。文芸評論的には、仲間褒めなのか時代を見据えた鋭い目の作品がいっぱいあったように思うけれど、今こそその鋭い眼光を放つ時だと思われる。
一般社会においてタブーとされることを平気で破ってしまう心理はどういうものだろう。禁止薬物は、犯罪になることを分かっていながら手を染めるのは、体験がないので想像でしかないけれど、飲酒の類推からは、体が求める衝動なのだろう。性行為も、普通はあるまじき相手と交わるのは、やはり同様の衝動の為せる業であると思う。喧嘩、暴力の類いは、感情の暴発に誘引された衝動の結果、惹き起こされるのだろう。これらは共通してTPOに関わりなく、あらゆる局面で許されざる行為と一般には見做されている。しかし、共同社会においてあからさまに白昼堂々とやることは許されない行為でも、例えば痰、唾を吐いたり、小便を垂れたり、屁をこいたりすることは、TPOさえ守れば、例えば痰壺の中とか、トイレの中だったりすると、許されるどころか、誰もやることで普通の行為となる。以上のこれら、誰もが目前に遭遇すれば非難したくなるような行為とは異なり、普段の生活の振る舞いでも、場所柄、日柄を間違えると禁忌とされる行為がある。葬儀の場で久しぶりに会った人と大声で楽しく談笑したり、新作映画の内容を批評、公言したりすると、周りから顰蹙を買う。だから大概の人は節度を守る。しかし、中にはこの節度が理解できず、共同社会の中に1人や2人は必ず、共通のお約束事を守れない人が出てくる。新型コロナウイルス感染防止は、1人が努力しても意味がなく、みんなで媒介しないよう協力しなければならないのに、不要不急の集まりや遠出は避けましょうと呼び掛けても、芸能人らを集めて会員制レストランで会食したり、遠方の行事に出掛けてしまうのは、人並み以上に人目を憚らなくてはならない存在として、どう理解したらいいのだろう。その心底を推し測ると、性の渇き、あるいは餓えからくる奇矯な行動としか説明できないように思う。別に公人でもあるまいし、私人の事をあげつらうのは余計なことだけれど、気にしたくなくても目立つし、その公的性を楽しんでいる風なので、感想を述べるくらいは構わないだろう。
平時には
厳めしき人
修羅場には
腰も言葉も
浮き立つあはれ
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