天愛元年

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新元号『天愛』元年にスタート

聡明

2019-11-19 15:16:33 | 日記
 千載和歌集巻四 秋歌上
をみなへし 靡くを見れば 秋風の
吹き来る末も 懐かしきかな (源雅兼)
 今日の花はムラサキシキブと早朝のNHKラジオで聞いた。花言葉は「聡明」だとか。人間にこれが一番難しい気がする。情動とか富貴の柵に囚われて、聡明からますます縁遠くなっていく。理と利が落ちていたら、何の躊躇もなく利を拾ってしまう。それを食い止めるたつきが和歌であり茶の心である。別にケニアまで行く必要はないし、歌を詠んで利殖になるわけでないし、抹茶を飲んでMDMAのようにエクスタシーが得られるわけでもない。役にも立たない馬鹿々々しさにふと我に返るご利益がある。利益と言えば、処世で何でも極めると銭に繋がる。和歌も万葉時代はいざ知らず、古今集以来時代が下るにつけ猟官の方便であったろうし、茶も花も精神性に無縁の者にはねずみ講の一種に見える。連綿と残るものには、他を食い物にするDNAが隠されているのだろう。その点、一代限りで潔いのが「聡明」である。
 紫式部がいくら聡明であっても、日記の中で源氏物語が書けないし、源氏物語の中に日記が入る隙はない。二作品の間には、十二単を着ける時と、腰巻一枚でリラックスする時くらいの、心構えの差があったであろう。
 また、書き言葉と話し言葉も全く異種の物である。書いて伝えるのと話して伝えるのでは言葉の選別を変える必要があるし、恐らく同じ意味を伝えるのは不可能であろう。それに伝える内容が公け向けか個別向けかで異なり、言葉はTPOの産物である。一番影響力があるのが公け向けの書き言葉のアジテートで、永遠不滅の真理が含まれる時もあるけれど、大概は歴史上の死語と成る。永遠の命を持つ言葉はロミオとジュリエットの会話か、孔子と顔淵の対話のような瞬間芸しかない。そこに相聞歌を求め続けた志しがあったわけであるけれど、天我に与する意思なしと見て諦めた。万葉集には、人としてより蚕に生まれてきた方が良かったという歌(なかなかに 人とあらずは 桑子にも ならましものを 玉の緒ばかり)があるけれど、動物園の猿となった方がマシな気がする。

むらさきの 色は早や褪せ 皺みけり
疲れ果てたる 命の残り



枯れ葉舞ふ 秋の侘しさ 身に染みて
小鳥さへづる 春ぞ偲ばる