田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

第1回 森嶋通夫『なぜ日本は没落するのか』

2005-05-24 | "失われた15年"の読書日記
『なぜ日本は没落するのか』(1999年)森嶋通夫、岩波書店 

 日本経済の停滞が長期化する中で、その停滞の主因が日本の構造的な問題であるとする見解はいまも根強く存在する。このときの構造問題とは、経済のグローバル化に日本の産業や企業システムが不適応になっているとか、日本の金融システムが不良債権によって機能不全に陥っているなどとするものまでいくつかのパターンに分類できる。今回の読書日記で取り上げた本書もこれらの構造問題に注目している点ではまったく同じである。ただ本書のユニークな点はよくも悪くも極端なところである。本書では、森嶋人口史観とでもいうべき「理論」から日本の長期没落が予測され、それを避ける処方箋として「東北アジア共同体案」が提起されている。
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 森嶋人口史観とは、日本は今後人口減少するのみならず、より深刻なのは「人口の質」が低下するため日本の没落が避けられないということである。現象的にはそれは、教育の荒廃や政治の荒廃に典型的に示されている。この「人口の質」の荒廃をもたらしたのは、戦後のアメリカ型の教育システムによって、戦前まで支配的だった儒教教育の伝統やエリート主義的なメリトクラシーシステムが廃れたことによるとされる。この「人口の質」の低下が、日本の経済・社会システムがグローバル化に適応不全であったり、不良債権問題の真相に結びつくとされる。
「このような社会の動きを、人口という土台の動きから導き出す思考は、人口史観と呼んで差し支えないであろう。人口史観で一番重要な役割を演じるのは、経済学ではなく教育学である。そして人口の量的、質的構成が決定されるならば、そのような人口でどのような経済を営みえるかを考えることが出来る。土台の質が悪ければ、経済の効率も悪く、日本が没落するであろうことは言うまでもない。私はこういう方法にのっとって、没落を予言したのである」(同書14-15頁)

 具体的にこの「人口の質」論の適用を見てみよう。まず戦後の日本の経済は、護送船団的に政府に保護された銀行システム(メインバンクシステム)と企業集団の相互依存性に特徴がある。企業は銀行からの長期融資に依存しているので、大企業は終身雇用制、年功序列制などの長期的な雇用システムを採用するのに容易であり、他方そのような長期的な契約関係に入ることができない中小企業は賃金格差などの点でさまざまな「差別」にある「二重構造」が確立した。しかし、70年代から新株発行によるエクイティ・ファイナンスが盛んになり、銀行からの融資よりも新株発行が有利になることで、日本型金融に「不均衡」を生じさせたとする。この「不均衡」のために銀行融資は減少し、メインバンクシステムは事実上崩壊してしまった。同時にこれに依存していた日本型雇用システムも崩壊の危機にある、とする。この危機を回避する上で、「人口の質」の低下問題が非常に大きく森嶋の議論で係ってくる。なぜなら「日本的「仲良しクラブ」」とでもいうべき雇用システムの中では、この危機を引き受けて企業を改革するイノベーションが生まれないからである。むしろ事態は森嶋には逆である。
「能率に大きい差があるのに、仲良しの看板ゆえに同待遇されてしまうのだから、能率の良い人は不公平だと不平を鳴らし、自分の仕事の手を抜くであろう。そうして自分の能率にふさわしい額の収入をえるために、彼らは悪事を働くであろう。仲良しはこうして頽廃をもたらすのである」(同書、107頁)

 森嶋は日本企業の体質である仲良しクラブがとし改まらないかぎり、有能な人が有能ゆえに悪事や非効率的なことを行うのである。この構図は民間企業だけでなく、政治やまた官僚も同じであり、政・官・財の「鉄の三角形」がモラルの点で衰退しているのはまさにこの「日本的「仲良しクラブ」」という制度的な問題に拠る。このような構図を森嶋は「上からの資本主義」とも形容している。「上」「下」の違いは、前者が政府主導であり、後者は民間主導であることによって性格づけられている。

 これは強調されるべき点であるが、多くの現在の構造改革者は人間の経済的な態度や倫理・道徳面は改革可能であると信じているが、他方で森嶋は、人間は簡単に変われないという信条をもっていると思われる(正しこの見解は後記するように簡単に自己矛盾に陥っている)。なぜなら戦後教育と前記した「日本的「仲良しクラブ」」で精神形成された現在の10代~40代の日本人には社会的・政治的なイノベーションは不可能であり、これから半世紀の間、日本は没落するだろう、というのが森嶋の見立てである。

 そしてなぜ「東北アジア共同体案」が処方箋として持ち出されるのか? 「東北アジア共同体」とは、日本、中国、朝鮮半島、台湾、琉球が、現行の「領土」を分割する形でいくつかのブロック化され、政治的・文化的・軍事的な共同体を構築することである。この政治的共同体の構築は、EUとは異なり経済的統合に先行する(アジアの単一通貨はいわばおまけであり、この点で多くのアジア共通通貨論者とは異なる)。この「東北アジア共同体」の障害になるのが、日本の「歴史認識」などのナショナリズム的動向である、という。具体的には、歴史教科書の記述における「右傾化」などの諸現象であるという。このような右傾化は、共同体建設への歴史の歯車に逆らうので正しくない、というのが森嶋の主張のすべてである。 この森嶋の主張は、その後も彼の多くの著作で反復されていく。『日本にできることは何かー東アジア共同体を提案する』(日本版2001年、岩波書店)、『なぜ日本は行き詰まったか』(日本版2004年、岩波書店)などである。

 そしてこの森嶋の日本没落論をめぐって、小宮隆太郎氏との白熱?した論争が、『論争東洋経済』紙上で行われたのである(実際には「調停」としての奥野雅寛論文もある)。発端は森嶋の本の中の小宮批判であるが、そのこと自体はどうでもよく(中身がない)、むしろ小宮の森嶋批判が(もともとの森嶋の小宮批判に関連するドタバタ以外)非常に切れ味がするどいものである。小宮の森嶋批判は、現在の構造改革主義的な意見への有効な反論も提供しているといえる。

 まず小宮は処方箋たる「東アジア共同体」がまったく非現実的であるとする。まず地域統合は森嶋のように国家主権を統合するという作業とはまったく別物であり、むしろ森嶋案のように既存の「国家」を分断し、いくつかのブロックのもとに再統合することは、例えばいまの中国のように国家の統一を重視する国にとってはまったく許容できない、と指摘する。たとえできたとしてもそのようなブロック化は、相対的に政治的・軍事的に強力な中国の影響下に事実上おかれてしまうだろう。

 森嶋の没落論自体への批判も容赦ない。まず森嶋的人口史観は、「人口の質」という科学的に定義できないものに基づいており、しかも森嶋自身が現状の日本人を変えることができない、すなわち手遅れなほど堕落していると断定する一方で、「東アジア共同体」では優秀ゆえにその共同体で埋没することなく力を発揮するとしており、矛盾していると指摘する。実際に小宮の指摘のように、「東アジア共同体」でその心性が劇的に変化するのは、現在世代ではなく、将来世代であるから、まさに矛盾しているといえよう。さらに森嶋が重視する戦前教育を受けた(エリート層に属する)科学者に比べて、現在の日本の科学者の方が例えば世界的な研究に貢献する業績を実証的に数多く残しており、日本の教育システムが劣っているとする材料は見出せないと指摘している。

 この小宮の指摘は重要であり、例えば私は今年の『経済セミナー』の1月号に「日本人はノーベル経済学賞をとれるか」という記事を寄稿したが、そこでノーベル経済学賞受賞候補である上位20位までで森嶋の賞賛した戦前教育をうけた人材は宇沢弘文氏と森嶋氏だけである。この事態は過去に遡っても変化することはなく、むしろノーベル経済学賞を受賞できるほどの国際貢献(海外の専門ジャーナルなどへの掲載論文数など)を行ったものは、戦前教育の成果といえる戦前の経済学者には皆無である(戦時的要因を加味してもそうである)。要するに森嶋の戦前教育への過剰な期待は、自らの体験談以上を出ないと私は思う(戦前の経済学者については私の『沈黙と抵抗』などの著作を参考のこと)。

 さらに小宮は、日本的金融システムの限界は、森嶋の指摘するように、銀行借り入れから新株発行への「不均衡」ゆえではない、とする。なぜなら森嶋はエクィティ・ファイナンスが銀行借り入れよりも有利ではない(モジリアーニー・ミラー命題を小宮は援用して両者は同じ資本コストかむしろ法人税の存在を考慮すると前者の方が高いと指摘)。むしろ80年代においてみられたのは、銀行借り入れから新株発行といったエクィティ・ファイナンスではなく、銀行借り入れから外貨建てやユーロ建ての転換社債・ワラント債などの発行が自由化し、債券発行に市場の選好がシフトしたことによる、銀行収益の低下にある、と述べている。この小宮の指摘は重要である。なぜならば森嶋と同様の指摘(銀行借り入れからエクィティ・ファイナンスへのシフトが日本的金融システムの衰退を招いた)を、90年代の初頭にブームを起こし、いまなお影響力をもつ宮崎義一の『複合不況』(1991年、中央公論社)も主張していたからである。ただ日本的金融システムの衰退自体については、小宮は森嶋と同様の立場であろう。また小宮は金融制度と相互依存とは述べていないが、日本的といわれる雇用システムへの評価はあまり行われていない。

 むしろ小宮の現状分析の力点は、「不況からの景気回復」と「銀行はじめ金融部門の不良債権の完全な解決」という主に短期=循環的問題であると指摘したことになる。つまり森嶋は日本の停滞は、構造的で必然的でもある衰退であるが、小宮にとっては基本的には景気の問題である(もっとも不良債権の扱いが実はこの論争では扱いが宙に浮いていて、これが小宮流日銀理論登場の重要な問題意識につながるのだが)。

 そのため雇用システムの限界とみえるものは、小宮にとっては基本的に総所得の循環的な変動がもたらすものとして把握されている。私もこのような解釈に賛成である。この「日本的」雇用システムの問題については、次回(あくまで予定)のロナルド・ドーアーの『日本型資本主義と市場主義の衝突』(邦訳2001年、東洋経済新報社)で私見も含めて述べる(詳しくは田中秀臣『日本型サラリーマンは復活する』、野口旭との共著『構造改革論の誤解』などを参照されたい)。

 さてこの森嶋・小宮の没落論争は、そもそもなにをもって「没落」なのかで見事なほどずれている。森嶋の「没落」は「人口の質」の低下という一種の精神の荒廃であり、小宮は「没落」自体はほとんど考慮外である、なぜなら基本的に日本の停滞は循環的問題だからである。そのため短中期的には停滞期における趨勢的傾向を上回る「高成長」も可能であると念をおしている。また人口減少自体は、晩婚化・晩産化・生涯未婚率の上昇などでテンポが早くすすむために、長期的には1%程度の実質成長率しか実現できないだろうと見通しを述べている。しかし、小宮は人口減少自体よりもそのテンポこそが問題であり、少子化対策として公的な介入によってこのテンポが緩む余地が多いにあると指摘していて建設的である(人口減少問題についても稿を改めて論じなければいけない…論じるべき問題があまりに多いが)。

 この論争をみると、森嶋の現役世代への失望と彼にとっての最適な制度改革(東アジア共同体)による新世代の「人間改造計画」というものが濃厚に押し出されているといえる。これは小宮が正しく指摘したように、「科学」というよりも一人の戦前エリート層の「願望」でしかないのだろう。