田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

田中秀臣の「ノーガード経済論戦」

日本のサラリーマンを考える

2005-06-16 | Weblog
 大和総研チーフエコノミストの原田泰さんから、新著の『世相でたどる日本経済』(日経ビジネス文庫)を献本いただいた。この本は以前出ていた『テラスで読む日本経済の原型』(日本経済新聞社)の再刊新本である。戦前のサイレント映画からトーキー映画の初期作品をたくみに援用しながら、当時の庶民や会社員の生活風俗をクリアカットに描いている。このようなミクロ(個々人や企業)の経済行動だけではなく、江戸時代・明治以降から太平洋戦争に至るまでの日本経済のダイナミズムを見事に解説している力技には毎回のことだが感銘してしまう。

 本書を貫くテーマは、日本経済の発展が主に市場経済の進展による効率化によって促されてきたということである。原田さんはそのような経済発展のあり方を、企業や個人が自分の利益を追求していくプロフィット・シーキング行動と形容し、他方で縁故や汚職、フリーライダーによって社会の利益をかすめとる行為が蔓延している経済発展のあり方をレント・シーキング行動として説明している。明治以降の日本の経済発展はプロフィット・シーキング活動による効率化の追求がまず成功をおさめていた、政府の介入や社会運動などはむしろ効率化を阻害する活動であった、という理解である。いいかえるとみんなが他人に配慮するよりも、自分の利益を追求していけば社会が発展するという「非人情」(福澤諭吉)の論理が成功を収めたというわけである。

 この視座は、基本的に戦後の日本経済に対する原田さんの評価にも受け継がれているようである。原田さんは非常に多作であり、「経済学者のバルザック」と評価されることが多いが、私の個人的趣味では、本書と『人口減少の経済学』(PHP)、『日本の「大停滞」が終る日』(日本評論社)がベスト3の座を占めている。

 本書は映画ファンも関心を持って読めるものであり、私も本書を読んで溝口健二の名作『瀧の白糸』を再見した。


 さてこの本でも取り上げられているが、1920年代は、終身雇用、年功序列、企業内組合といった日本型サラリーマン社会の「三種の神器」の発祥を確認できる時代である。私はルーツについては若干、原田さんとは見解が違うのだが(詳細は拙著「日本型サラリーマンは復活する」(NHKブックス)を参照してください)、それでもこれらの「三種の神器」に近いものが当時のサラリーマンたちの共通認識になりつつあったのは確認できる。ちなみに「サラリーマン」は日本語である。

 例えば、昭和三(1928)年にベストセラーになった前田一の『サラリマン物語』(東洋経済新報社)には次のような記述があり、終身雇用・年功賃金的な意識がサラリーマンの間に強かったことをうかがわせる。
「斯うして一年たち、二年たちする中に、給料もだんだん増してくるし、此れに伴う其他の諸給与も違ってくるとなると、最初が程は蟹の飯炊きみたいにブツブツ言っていた人たちでも、愈愈腰弁の味が忘れられなくなって、とうとうずるずるべったりに首をチョンぎられるまで、ヘバリつくということになる。況や、5年たち10年たって、退職慰労金の金高が嵩むのを楽しむようになったら、もう腰弁生活は病膏盲に入って、なかなか足を表れた義理ではないのである。」
腰弁というのは、当時のサラリーマンを指した「蔑称」であり、もともとはしがない下級武士(腰に刀ではなく弁当箱をさげて登城した)をイメージさせたものである。

 原田さんは、生産技術を効率的にかつ安定的に運用するためには、技能・技術の標準化・専門化が必要であり、これらの技能を身につけた高度な熟練労働者を確保するために、企業は長期雇用や年功序列などのシステムを導入したという。いわばこのような日本的雇用慣行には効率を促進する経済論理的な理由がある、というわけである。そしてこのような雇用慣行は、戦後になるとさまざまな企業内福祉(豪華な社宅やレジャー設備の提供など)やつきあいなどの強制によって「会社主義」の弊害をももたらした、と書いている。

 原田さんのサラリーマン論は私も賛成するところが多いが、先の『サラリマン物語』の引用をみると、退職金がサラリーマンに企業への「忠誠心」(従属ともいいかえることができるが)を促す効果をもっていたことも強調していいかもしれない。かってジョージ・J・スティグラーは、働く人が忠誠心をつくすインセンティヴを促すメカニズムとしてふたつの原理をあげた。ひとつは、なにか不正をすれば没収するような債券を発行し、これをサラリーマンに与えること。そして日本の年功序列賃金のように、低い賃金でスタートして、退職時に近づくとその時点で会社をやめて他の会社で稼ぐことが可能な給料よりも高い給料を与えることである。後者には給料は他の企業と同じであっても退職金や企業年金などのオプションで対応できるであろう。

 忠誠心を促す長期雇用と年功序列、そしてそれを補完する企業内組合や福祉、そして退職金・年金など。効率性とほどほどの社会的な満足感に裏打ちされたこの日本のサラリーマンのいままでと今後をこれからもこのブログで考えていきたい。