誰でも知っている有名なお方
真珠湾攻撃と戦争のターニングポイントになったミッドウエー作戦を指揮した方ですけど
開戦を最後まで反対していたことでも知られています
やむなく開戦した後も その講和のタイミングをはかっていたのです
五十六が大使館付武官などで延べ5年近くも米国に住んでいて日米の国力の差を痛感していた
ピッツバーグの町に林立する製鉄工場の煙突の数を数えてみたまえ その上、日本海軍の燃料は4年分しかないんだ
対米国との戦争の勝算はと問われると
山本は常に 【日本の勝つ見込みは全くない】
と答えてました
12月2日 大本営より機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信された 1208はまさしく開戦の日・・
1941年の12月6日・・・
南雲忠一中将指揮下の旗艦「赤城」を基幹とする日本海軍空母機動部隊は択捉島の単冠湾を発ち
真珠湾に向けて 緊迫の移動している頃です
それに先立つこと11月17日に五十六は赤城を訪れ、機動部隊将兵を激励しています
南雲中将とも当然2人きりで会ったと思います
五十六
南雲さん この開戦は 勝ちにいくのではない
講和のきっかけとするための 戦果を得たいだけなのだ
南雲
それは 承知していますが 騙し討ちと相手は受け取りませんか?
五十六
(笑) 確かに そうなるかもな しかし堂々と 正面切って戦える相手ではないからそうするんだ
敵の主力艦隊を沈めることで 戦意が喪失することを願っている
南雲
私は 反対に士気が高まると云うかそれが心配です・・
五十六
私も 内心はそう思っている しかし御前会議で陛下の御聖断が降りた以上 緒戦は何が有っても勝たねばならない・・
騙し討ちであろうと 寝首を襲おうと
なんであろうと赤穂浪士の討ち入りと同じで 討ちとらねばならん
戦いと云うものは 勝ってナンボの世界なのだ
(笑)(笑)
このやりとりは もちろん私の妄想・・
身長160センチしかない山本司令長官はいつも大きく見えたと言われます
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山本が海軍次官であった昭和14年(1939)のこと。山本は酒を飲みませんが、宴席での客のもてなしがうまく、宴会芸の皿回しなども、いつまでも落とさずに回し続けることができたといいます。
この年、アメリカ巡洋艦アストリアの乗組員の訪問を受けて、芝の料亭で接待した際には、山本の音頭で「ホースバック・ライディング競争」が行なわれました。日米両海軍が二手に分かれ、それぞれ座布団にまたがってその耳をつかみ、尻ですべって競争するものです。 山本が「レディー、スタート」と声をかけると、芸者たちが「金毘羅フネフネ、追風に帆かけてシュラシュシュシュー」と囃し、一同大爆笑で大いに盛り上がりました。
しかし当時、親米英派であった山本は、日独伊三国同盟締結に強く反対して、命を狙われるようになり、同年、連合艦隊司令長官に任ぜられて、海上勤務へ転じるのです。
太平洋戦争開戦後、山本は竣工成った戦艦大和を連合艦隊旗艦とし、やがてトラック泊地に進出、そこで乗組員とのさまざまな交流が生まれました。 山本は他の幕僚たちとは異なり、自分の褌を従兵に洗濯させることは一度もありませんでした。また山本が兵に私用を頼んだ時は、「お、ありがとう」と必ず礼を言い、時には虎屋の羊羹をくれることもあったようです。兵たちはそれを楽しみにしていました。
また、山本は南方でどんなに暑くても、純白の二種軍装を着用し、通路で出会った際には、兵士の挙手にきちんと挙手の礼を返します。その姿に、多くの兵士たちが畏敬の念を覚えました。
山本は小型の手帳を常に肌身離さず持っていましたが、そこには戦死した友人、部下たちの住所が書きとめられており、山本がいつも取り出して眺めているために、手帳は手ずれがしていたといいます。
辺見じゅんさんの『男たちの大和』にも紹介されているエピソードですが、ある夜、機銃員の内田貢が従兵を通じて、山本長官に呼び出されます。 内田が何事かと、おそるおそる上甲板の長官私室に出向くと、山本は寝間着姿のくつろいだ格好で、「ちょっと寝違えてしまってね。軍医長が柔道部員だったら簡単に治せると言うんだ。きみ、すまんがやってくれたまえ」。 内田は講道館の四段で、首の寝違えを治すなど朝飯前でした。終わると山本は「おっ、楽になった。内田くん、また頼むよ」と気さくに礼を言います。プライベートの場では、山本は誰に対しても、一対一の人間として接していたことが伝わってきます。
以来、内田はたびたび長官私室に呼び出されるようになりました。翌昭和18年(1943)に連合艦隊司令部が旗艦を大和から武蔵に変更し、山本も移ることになった時、内田に対し記念にと、茶掛の軸と、「五十六」と銘を彫った短剣を与えています。
その後も戦艦大和に乗り組んでいた内田は、山本の戦死後、レイテ沖海戦で重傷を負い、呉で入院していました。ところが昭和20年(1945)3月、大和が出港すると聞いて、山本から贈られた短剣を取りに大和に戻ったところ、大和はそのまま沖縄特攻に出撃。図らずも特攻に同乗してしまった内田は、しかし奇跡的に生還しました。とはいえ体内には無数の鉄片が残り、片目の眼球を失うという壮絶な姿です。戦後、台湾に行った内田は、空港の金属探知機で引っかかり、3人の屈強な係員に別室に連行されて、裸にされました。そして内田の全身に残る傷跡を見た係員の一人が、流暢な日本語で「戦争ですか?」と尋ねます。「そうですがな。戦艦大和に乗っとりました」と内田が答えると、3人の係員は即座に敬礼をしたといいます。
そんな内田は、何度も生死をさまよう大手術を繰り返しますが、夢うつつの中に必ず山本が現われて、励ましてくれると語りました。これもまた、山本の人柄を窺うことができる逸話のように感じます
※敗戦したのは 長官のせいだと批判する向きも少なくないですが 人間的には 立派な方には間違いないようです