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水戸藩主・徳川光圀の治政 綱紀の弛緩と粛清 

2022-08-01 | 茨城県南 歴史と風俗

光圀の実像が徐々に
   美化され“水戸黄門”が誕生    
 江戸時代の数多い大名のなかで、徳川光圀ほど、その一代の伝記、言行録、逸話集が多い人物はほかに見当たらない。

水戸藩における光圀の正伝ともいうべき『義公行実』から、

光圀一代の事蹟を通俗的に記した 『義公黄門仁徳録』 (一名「義公黄門記」「義公仁徳録」、著者・呑産道人) にいたるまで多種多様なものがあり水戸藩以外のものまで入れると数え切れないほどある。
   


  これらの伝記類の叙述は、金正綱紀の幕藩体制の衰えにともなう改革気運の高まりにつれて盛んになった。
光圀の事蹟が広く世に慕われ、その一言一行でも書き伝えられるようになった。しかし言い伝え書き伝えられるにつれ実在の光圀と離れ、その人物像が美化されていった。それが「水戸黄門伝説」の誕生である。  

 その典型ともいうべき 「水戸黄門諾国漫遊記」 は文化・文政年間の成立といわれている。これは講談師・桃林亭東玉が、当時大ヒットしていた十返舎一九の 「東海道中膝栗毛」にならって、光圀とお供の俳人松雪庵元起が奥州から越後あたりまでを漫遊し、諸大名の政治を視察するという筋で考案したものであった。

 大正初期から昭和30年代ころまで民主主義の世になったが国民大衆の願望を反映することはできなかった。
 しかし、そういう体制、状況であったからこそ“水戸黄門”が求められたのであろう。失政、悪政を繰り返す大名、代官を手厳しくこらしめ、悪政をうみだすお家騒動を解決し、反社会的存在を罰し、貧苦の民百姓を救う黄門が求められたのである。

 権力をもちながら威張らず、分別あり、仁慈の心にみち、そして温容に隠居爺さんになら、親しみをもってもたれかかってゆく心情、それは、権威と権力に弱く、主体性と論理性に欠け、理性的ではない、当時の日本人の心理に特徴的なもといえよう。

 百姓爺になるか、商人になるか、それはどうでもいいことで、民衆の間に分け入り、庶民の生活にじかに触れ、その不満や願望を知るために、諸国を漫遊し、庶民の声を政治に反映させて、政治を改革させるところに、黄門の魅力と存在意義があり、“水戸黄門漫遊記”はその点で成立するものであった。 


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綱紀の弛緩と粛清
 徳川光圀は寛永五年(1628)水戸城下、柵町の三木之次(みきゆきつぐ)という家老の屋敷で生まれ、事情があって5歳まで身分を隠して三木夫妻の養育をされた。
 6歳のとき、長兄頼重(よりしげ)を越えて(次兄は幼いとき死亡)、世継ぎに決められると、江戸小石川の水戸邸へ移り父のもとで武士的教育を受けた。
 ところが、15~6歳の頃から脱線し、江戸の繁華街を放浪したり三味線を楽しむようになったので守役が熱心に諌めても効果がなかった。 

 しかし転機は意外なことから訪れた。
18歳のあるとき、前漢の司馬遷が書いた歴史書『史記』伯夷伝(はくいでん)を読んだことが、光圀の人生を変えることになった。 その一つは、伯夷・叔斉(しゅくせい)兄弟の相続の譲り合いから、兄を越えて「世継ぎ」となったことにひどく心を痛め、これまでの自分の態度を恥じ、兄の子を養子にして跡を継がせようと堅く決意したことである。 

 二つ目は、読書学問が自分の人格の確立にどんなに重大であるかを知り、以語の生涯を学問に専心し、人に対する思いやりの心を深めたことで会う。 

 三つ目は、史記にならって日本の歴史を編集する志を立てたことである。

 四つ目は、伯夷・叔斉が周の武王の革命を否定したことから、日本の国柄を守るため君臣の大義を明らかにすることを決意したことである。これ以後の光圀の生涯はこのような志の貫徹を念願としながら展開して行った。

 しかしながら、光圀の名声とは反対に、その治世には、藩中で素行不良、風俗紊乱などの罪で処罰された者がはなはだ多かった。

 光圀の晩年は天和、享保、元禄の時代になると、いわゆる元禄文化の時代を迎えた。
江戸幕府5代将軍徳川綱吉の治世,特に元禄年間 (1688~1704) を中心とする時代は家康,秀忠,家光の3代の間にその基礎を確立し幕藩体制を整え,4代家綱を経て綱吉の代には最盛期を現出した。

 綱吉の強い意思によって「生類憐みの令」が出されるなど文化の爛熟期であり、この世においても特権商人-賄賂-役人という三題噺は通用する。“殿中の刃傷”中臣蔵に代表される“腐敗”した世でもあった。

 水戸藩も例外ではなかった。
 特に天和2(1682)年には80余人の大量処罰が行なわれた。また貞享3(1689)年には曽根甚六の妻が家来と姦通し、2人の家来は生袈裟(生きたまま袈裟斬り)獄門、一人は生胴(生きたまま胴をためし切り)、そのほか8人の士が改易、追放以下の刑罰を受けた。
 

 姦通者たちの首は袴塚で獄門にかけられ、城下の人々の見せしめとされた。このほか遺徳風俗罪で罰せられた事件が多いので、これを光圀の時代の風俗粛清とみることもできるが、当時藩中の生活がそれほど乱れていたのである。 

刑罰の厳しさを表す典型的な事件 
  望月事件と藤井事件

  水戸藩の綱紀の弛みが表面に出た事件が望月事件であり藤井手討事件である。

 御三家として体面を維持するための出費に伴う藩の財政の逼迫、農民に課せられた厳しい年貢の取り立て、これがもたらす農村の疲弊村と領民の生活を支えるための数々の善政など、光圀の政治には明と暗の両面が存する。

 水戸藩の綱紀の弛緩と粛清は、当時代の政情から考えれば決して光圀の名誉となるような事件ではない。 
この点に光圀の政治上の意味がある。

〔望月事件〕 

 光圀の晩年には、藩内にいくらか動揺のきざしも見受けられる。
 元禄2(1689)年12月、大目付望月正盛(次右上門)の自殺事件は、たまたまその一端が表面に現われたものである。

 大目と大目付といえば、元禄元年7月新設されたもので、藩内監察の最高責任を持つ重役である。その望月の前職は町奉行であったが、町方の目付役の者の紛争解決(「桃畷雑話」によると、荒町・肴町・本木町一町目木戸麟の道路を通すため持屋敷をつぶした事件)のため登用されたにもかかわらず、翌年光圀はどういうわけか望月を羅免し,かえって望月の相手方の立場を正しいとする処置を取った。

 そこで望月はこれを不服として、病気といって光圀の召出しに応ぜず、ついに血判の神文(神に誓った誓文)を差出して自殺した。  

 その神文は
「曽祖父以来四代御厚恩を蒙り、
 また昨秋には廉直の御選挙にて莫大の御登用にあずかりながら、
 今年は御憎しみを受け、かえって邪曲の者が本望を遂げるようになったことは、
 万人の嘲弄の的である。
 これは自分が昏愚のために尊眼を違わらせられたもので、
 大罪を謝するため自殺する」という趣旨であった。
 光圀はこれを君命に背く者として斬罪に処し、新舟渡の川原にさらした。
 重役の処罰としては、異例の極刑であり、藩政の一面をこの極刑に見ることができる。

〔藤井の手討事件〕

 光圀が西山に隠居してから3年後のことであるが、元禄7(1694)年11月、老中藤井徳昭(紋太夫)手討事件が起こった。

 藤井紋太夫徳昭は幕臣荒尾久成(1200石、延宝2(1705)年死、73歳)の四男で、同じく荒尾家の出で水戸家に仕えた藤井という奥女中に養われて藤井姓となり、光圀に才幹を認められ、小姓から累進して老中になり、綱條の子菊千代の養育掛を命ぜられたほどの人物で、彰考館の庶務をつかさどったこともある。

 しかるに元禄7(1694)年11月23日、江戸滞在中の光圀が、小石川邸で幕府老中・大名旗本らを招いて能楽を興行し、みずから能を演じたのち、楽屋で藤井を刺殺した。 

 その時の有様は、光圀が客あしらい中の藤井をわざわざ呼び寄せ、人を退けて何か押問答をしているうちに事件が起こったのである。 しかも光圀は怒りのあまり、突然刺したのではなく、前々からこの事を考えていたと推察される節々があった。
 

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〔執政刺殺〕

 元禄7年(1694)2月、光圀は将軍綱吉の招きにより、隠退後はじめて江戸にのぼり、4月には綱吉の前で「大学」を講義した。この江戸滞在中に光圀の生涯を考える時、最大の謎ともいうべき藤井紋太夫刺殺事件が起きた。

 事件はこの年の11月23日、小石川の上屋敷において、幕府老中や諸大名を招待しての能興行の最中に起こった。この時藩主の綱條は就藩中で、光圀はこの藩主不在の江戸屋敷で、藩の執政藤井紋太夫を訣殺したのである。


 現場を間近に目撃した井上玄桐は、その顛末を子細に記録している(『玄桐筆記』)。


 要約すると、
「能の会がある数日前、光圀は能舞台の楽屋を見にやってきて、
 後日殺害の場となった鏡の間に入り、ここには屏風を立てるかなどと、
 こまごました指図をしたので、伴の者たちは不思議に思った。

 当日は自ら能衣裳をつけて千手を舞うことになった。
 それが終ってからの休み時間に、鏡の問に紋太夫を呼んだ。
 玄桐は紋太夫を入口まで案内して、一段低い次の間に控えていた。

 時々のぞいてみると、屏風で姿はよく見えないが、何か問答している様子だった。
 少したってみると光圀が紋太夫の方に近づいていったので、何事かと思って入っていった。


 その時は玄桐より先に三木幾衛門、秋山村衛門といった西山近侍の士が入っていた。
 後で聞けば、光圀は紋太夫の首を膝下に敷き伏せ、
 口もとは声が出ないように膝を押し当て、
 左右の欠皿(首の下のくぼみ)を一刀ずつ刺し、
 血は外とに出ないように処理し見物客に気づかれないよう気を遣ったという。

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 藤井紋太夫はもともと幕臣荒尾久成の四男で、水戸藩に来仕して後藤井姓を名乗った。
光圀の信頼が厚く、異例の出世をして、事件の前年には家老級の要職についていた。

「御家士に藤井紋太夫徳昭といふ者有、
 利口にして弁論人に勝れ、
 其上広く諸史に通し候故、
 書籍を引て是非を決断する事速に有之候、
 麦を以て西山御取立、
 老中二被成候、
 其御ハ篤実謹厚に相見え候所ニ、
 内心に忍ひ陰置候候奸邪曲いつとなく外に溢れ、
 己に不能者をは甚悪ミ、
 悪さまに言上して、稠敷刑罰を加へ、
 己に追従軽薄を致す者をは甚能様に執なし、
 官禄を進せ申候、
 依之士及百姓町人に致迄大二苦ミ怨ミ憤る者多く有之候…-斯て日を重ね、
 年を逐て騎慢の心盛り二成、
 悪長し候付、西山公已事を得給ハす、
 彼紋太夫を御手自御諜し被成候」
(桃源遺事)と記されている。 
 

 この後始末は、水戸の君臣の間で隠秘のうちに処理されたので、事情は明らかでない。
 光圀が即日附家老中山信治らに出した手紙には、
「藤井紋太夫の事については兼てから存念があったけれども、
 今日などに申出そうとは思わなかったが、不慮の仕合せとなり、
 老後の不調法、何とも申し様もない、
 殊に宰相殿(綱條)の思召、迷惑に存ずる。
 宜しい様に御沙汰を頼み入る」とある。 
 

 また幕府への届書には
「宰相家来藤井紋太夫は自分の時代に取り立て用達役まで申付けた者であるが、
 不屈の事があるので、宰相の将来を案じて、たびたび意見するよう申し聞かせた。
 しかし承知せず、家中の士をはじめ百姓に至るまで不安な様子になったので、
 常々難儀なことと考えていた。
 それで宰相が水戸から参府したら、とくと相談するつもりでいたところ、
 今日能興行いたし、楽屋で休息していた所へ紋太夫が帯刀のまま側まで来たので、
 かねがね叱ることもあり、案外に思って差当たり勘忍なりがたく成敗した」
 という主旨の内容である。  
 

 これと同じ趣旨を附家老中山信治から慕府老中へ直談したが、
 その中に、事件が起こる前の事情につき
「紋太夫は利発者で、よい御用達ではあるが、高慢で少し奢り者である。
 この事さえ止めば宰相殿の為にも宜しいと考えられ、
 たびたび意見されたが承引せず、此頃は諸事宜しからず、
 御目見も悪くなっていた」云々と説明している。

 当年67歳の名君の誉れの高い御三家の隠居が、藩の老中を所もあろうに江戸邸で慕府の老中.諸大名などを招待中に、突然刺殺したのであるから、慕府、水戸藩、及びその分家はもちろん、世人が仰天して驚いたのは当然である。

 そのため、いろいろの風評が立ち、「藤井大全」「藤井記」「鰐物語」などという通俗書も出て、藤井が陰謀を企んで藩中に與党を作り(連判状もある)、正義の土を斥け、光圀・綱條父子を離間しようと計ったとか、柳沢吉保と策応して光圀乱心の噂を立て、江戸へ呼び出して将軍の面前で「大学」の講義をさせたとか、穿った話が伝えられている。

 この日藤井の妻子たちは、他の諸士の家族たちと御能拝見に殿中へ参上していたが、思いもよらぬ出来事で、その場から引き立てられて、親類に身柄預けとなった。

 翌年男の子二人は出家して御構いなく、娘二人は元禄9年、縁付くとも奉公するとも勝手次第となった。他に例も少ない大事件でありながら、家族縁類は一時遠慮を命ぜられただけで処罰はされず、僅かに藤丼の与カの中3人が召放ちとなっただけである。

 また重役たちの任免をみると、元禄8(1695)年、城代朝比奈泰通、老中寛正成・加藤宗成、用人芦沢信貞・赤林重行・興津良長・岡田利恒の新任があったが、罰せられたり、斥けられたりした者はない。 

 それで、この事件の真相につき、光圀が老齢の身ながら、御家騒動を未然に防ぐため、その禍の芽を自ら刈り取り、周囲に波及させず、自分一人の胸の中に収めて済ませたのではなかったか、という推察もある。

 しかし、光圀が藤井刺殺の後、すぐに藤井邸へ人を遺して書類を探させ処分した(当時肥田十蔵政大の書状によると、証拠書類はなかった)ので、藤井の奸謀を証するほどの史料は全くなく、すべて臆測の線を出ない。 

 ただ、光圀の隠居の後、2、3年の間に藩中にとかく風波が起るようになり、人心動揺の兆侯が現れたことは確かである。そしてその禍因が藤井の専権にあったこともまた推察できる。 

 元禄5(1692)年から7(1993)年まで3年問に、藤井のため退けられ罰せられたといわれる諸士が、下記のように多い。

 〇渡辺堅  (奉行、元禄6年12月役禄召放蟄屠)、  
 〇渡辺定  (小姓、同月父の罪により蟄居)、   
 〇近藤和之 (目付、元禄5年役禄沼放蟄屠)
 〇草沢喜行 (町奉行、元禄6年正月禄役召放蟄居、自殺)、  
 〇伊東祐元 (町奉行、同月致仕蟄住居)、     
 〇岩崎良正 (新料理番、元禄6年2月役禄沼放蟄屠)、    
 〇若林忠政 (使役指引、同月役禄召放、翌7年正月賜暇)、  
 〇若林忠次 (馬廻組、元禄6年2月賜暇)、
 〇高屋閏  (使役、元禄6年3月役禄召放、翌7年正月改易) 
 〇忍穂保道 (小姓、元禄6年8月役禄召放切符となる)、   
 〇岡嶋幸忠 (目付、元禄6年8月役禄召放蟄屠)、      
 〇長谷川儀当 (目付、同上)、 
 〇有賀正乗 (目付、元禄6年9月自殺)、           
 〇太田高経 (矢倉奉行、同月切符召放、同月12月賜暇) 
 〇遠山重令 (土蔵番、元禄6年12月賜暇)、   
 〇太田良政 (新番組、同上)、 
 〇小川義隆 (土蔵番、同上)、 
 〇木村甚六 (評定所留付、同月追放)
 〇児玉昌豊 (小納戸役、元禄7年6月賜暇、喧嘩死)       
   以上19人 (元禄6年中15人)  

 右の中、特に元禄6(1693)年12月処罰の遠山・小川(共に土蔵番)は、徒目付在役中「虚言雑説」を申し立て人を迷わせた罪であり、
 同月処罰の木村(評定所留付)は目付の尋問に答えず、新組に居た時には、忍穂、長谷川(処罰)の申付けに従い、太田(高経、処罰)の手に付き、「御国一大事之悪説之品名、人々之噂」など証拠もない事を言いふらした罪、

 同じく太田(高経・矢倉奉行)は小十人目付在職中、忍穂、長谷川など「大悪人」と申合せ、「種々様々の悪逆」に同心し、「御家中歴々重立侯衆中を始、末々に至迄」の雑説風説を取りしまらなかった罪、
同じく太田(良政、新番組)もまた同上の罪であった。 

 これらの罪状によると、当時、藩中では藤井等に反対する一派があり、いろいろの批判や風説が流されていたことが推察できる。

 その反対派の中心人物は、有賀正乗(半蔵、自殺)、近藤和之(作之介、役禄没収)、長谷川儀当(五太夫、同上)、岡嶋奉忠(藤左衛門、同上)等の目付であったことも、ほぼ確かである。

 彼等は自殺した有賀を除き、元禄10(1697)年6月に罪を免ぜられるが、この時、光圀から3人の免罪を喜んで与えた6月10日付密書がある。

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久閉門之内、
いか計苦労と存侯所、
子息迄被召出、
解陰いか計悦申候、
此上ハ息達も段々被召仕立、
本地帰被申候半と存侯、早々火中、

 各3人段々首尾能被申付、
大慶存侯、
有賀事唯今迄存命二候ハバ、
能き事も侯半者をト、
一入残念二侯、
候ヘハ各御叱之品、
曽而不存侯、
とくニ尋申度存侯へ共、
書付ヲ為レ持遺可申人無心元、
後今迄遅々申侯、
御叱之品々ハ其節被仰渡候様子、
自身何か覚有甘之事二侯ハバ、
銘々二委書付、
成程音密沙汰無之様被致、
佐々介三郎か玄桐方迄可給候、
上書二御薬方と御認可然侯、以上

   10日              西山
  近藤作之介様 
  長谷川五太夫殿
  岡嶋藤左衛門殿 
  (封紙) 
 うし六月十日くすりのほう 薬方一  
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 この内密書状(封紙に薬の処方と記してある)によると、光圀は3人の処罰の理由につき、詳しい事情を知って居なかったらしい。
 したがって、藤井とこれら目付らの対立が光圀の藤井刺殺の直接の動因であったとは考えられないが、元禄5、6年頃から藩内に対立分裂の兆侯が現われて、種々の風説が人心を動揺させ、藤井反対の人力が多く処罰を受けるようになったので、すべての禍根は藤井の専権にあるとかねがねにらんでいた光圀が、とっさの間に意を決してその禍根を除いた、との推測が成り立つと思う。

 ただし、俗説のように藤井の奸謀というべきものはなかった。

 事件の翌年、元禄8年(1695)1月、成田、銚子、筑波山をへて西山に帰った光圀は、二度と再び江戸の地を踏むことはなかった。

 西山隠棲後9年半余、元禄13年(1700)13月、光圀は73歳をもってその生涯をとじました。遺骸は瑞龍山寿蔵碑のうしろ20歩の場所に葬られ「義公」と諡された。
 この時、江戸の町中には「天カ下ニツノ宝ツキハテヌ佐渡ノ金山水戸ノ黄門」という落首があったといわれている。 

〔参考〕
 
 
 
 


参考文献 

『義公没後 三百年 光圀』 茨城県立美術館 平成12年11月
『水戸市史 中巻(一)』 水戸市役所 1991年 
『県史シリーズ8 茨城県の歴史』瀬谷義彦・豊崎 卓著 山川出版社 昭和62年8月
『日本の歴史16 元禄時代』児玉幸多著 中公文庫 昭和49年5月
『大系日本の歴史⑩ 江戸と大坂』竹内 誠著 小学館 1993年4月


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