horitaakioのgooブログ

88歳の老人ですけれど、天寿の続く限り頑張って見たいと思います

山茶花と野鳥たち

2003-01-27 19:32:00 | 日記
猫の額の如く狭い庭で、ひとり我が物顔に四方に枝葉を広げている山茶花があります。
土地を買ってこの家を建てた時、旧制中学で後輩になる同僚が、お祝にと苗木を一本持ってきて自分で植えていった物ですから、樹齢40年近くに達することになります。
ろくに手入れもしない無精者の主人を見かえすかのように、勝手にどんどん大きくなって、毎年秋の半ば頃から春先まで、真っ赤で大輪の見事な花をたくさん咲かせるのです。

この赤い花をお目当てに野鳥がやってきます。ヒヨ(鵯)ジョウビタキ(尉鶲)メジロ(目白)
などがお食事(多分甘い蜜)にか、それともお遊びにか飛んでくるのです。ま、常連のスズメどもは別格として。

ヒヨはつがいでやって来ます。黒ずんだやや大ぶりの地味な姿からはちょっと想像しにくい「ピーイッ(キーイッとも聞こえる)」と澄んだ甲高い鳴き声を上げて二羽で飛んできて、山茶花の枝をその体重でゆらゆらさせながら、花から花へと移って回ります。
このヒヨが実は大した律義者で、お返しの品を置いて帰りました。
彼等の落としていったものから芽が出て枝葉が伸びて赤い粒の実がなるまでに成長しました。
それが所かまわずあちこちに数本も立っているのです。
その木の形や実のなり方から千両か万両かに似ていて「こりゃ大金を払って行ったぜ」と思っていたら、或る人が曰く「これは百両ですよ」。
まあ不景気な世の中ですからそんなもんなんでしょうね。

ジョウビタキは、そのひちむつかしい名にそぐわぬスマートでシックな装いをしています。
赤茶色のチョッキに真っ黒で先端近くに白いアクセントのついた上衣、灰色のモヘアの帽子までかぶっています。この頭が白髪に見たてられて尉や翁が漢字に使われているのだそうで、ちょっとお気の毒な気もするんですが。
この鳥にもエピソードが一つ。
或る晩、家内が庭へ出るドアを開けた途端にパッと部屋へ飛び込んで来たのです。
落し物されて絨毯など汚されては困るし、お帰り願おうと箒などで追い払うのですが、天井近くを飛び回って額縁や蛍光灯のコードにとまったりして中々出口へは向かわない。とうとうおしまいには、くたびれたか、隠れたつもりか、部屋の角隅の天井間際に羽を広げてへばりついてしまいました。その背中がいかにも「もうまいったよ」と言ってるみたいに。
「いじめてるんじゃないのよ。早く出て行ってちょうだいよ」と家内が話しかけていました。
こちらはご老体、追っかけっこにはふうふうの態たらく、やっと開けたままの出口から闇空に飛び出してくれて一件落着。十数分(いやもっとかな)の活劇でした。

メジロも綺麗な鳥です。鶯色の細身の体にまん丸おめめ、じつはあの白い丸は目の回りの模様なんだそうだけど(そういえば鳥の目にシロマナコは無いみたい)とにかくかわいい顔つきしてますね。
籠に飼われて鳴き声を競ったりもするのですが、我が庭に来る時は颯爽と飛んできて敏捷に花巡りして短時間でまたさっと飛び去ってしまいます。そのあいだ一切無言、「おじゃましました」とも言わずに。
今は捕獲禁止で、鳥モチ竿と囮籠さげて山野を駆けていた少年時代は遠い思い出話になったというわけです。残念ながら僕にその経験は無いのですが。







孫たちとPC

2003-01-14 17:08:00 | 日記
三連休が終わって、我がPCがやっと自由に使えるようになった。

このHPでもたびたび話題にしている外孫<娘の息子たち(9歳と6歳)>が遊びに来ると、ジイサマの部屋は彼等のものと化して、PCもTV(ゲームやビデオ)も占領されてしまうのだ。

上の子はPCの Online game 「天上碑」というRPGに嵌り込んでいて、殆ど一日中(泊りこみだから夜更けまで)座り込んで頑張る。キャラクターの強化は勿論、チャット入力での会話やアイテムの取引までやってのける。相手はまさか小学三年のガキとは思いもしなかろう。
何しろ全国からの登録人口18万というタイヘンなゲーム。実はジイサマもその中の一人。 

あまり長時間続けてやらせると目にも悪かろうと「いい加減にして、おじいちゃんにもPCさせろよ」と口出すと「おじいちゃんは毎日使えるけど、僕はここへ来る休みの日だけしかやれないんだぞ」とヘンパクいって譲らない。生意気ざかりのアニキなのだ。

下の子はこの春から学校にあがるのだが、これがまたメカに強くてPCの起動からメニューの選択や操作などバシバシやってしまう。この次男坊の大胆さにジイサマはヒヤヒヤしながら見守るだけ。好奇心の塊みたいなものだから何をやらかすかわからない。

こちらのお気に入りはやはりOnlineでHangameの中の「ビリヤード」、キーやマウスの操作で球を突いて、ポケットに叩きこむのだが、勝手に対戦相手を探して挑戦、結構勝負になる腕前の持主。勝つと喜んで再戦するが負けたら即退室という身勝手なハスラーではある。
ほかにお絵描きや音楽、囲碁などのソフトも自在に開けていじくり、自分で終了までする。

とにかく、こんな幼な児たちの姿を見ていると、お遊びだけでなく実生活の中にPCが必需品として登場するのも、遠からぬ未来の世相に違いない。現に私が別にHPを作っているコミュニティでは、小中高の生徒たちがドンドンHPを作り大人たちとも自在に交流している。
ケータイの普及と並んでPCが一般家庭に入りこむのはもう時間の問題だと思われる昨今である。



去年今年(こぞことし)

2003-01-02 13:56:00 | 日記
  去年今年つらぬく棒の如きもの     虚子

感性的に分かるような気もするが、さて考えこむと作者の本意は何なのか、受け取り方は読む人次第という性質の句みたいだ。あたりまえを詩的表現にもちこむコロンブスの卵か。

山本健吉氏の解説(日本大歳時記)を抄録してみる。かなり私流に縮めたものなのだが。

『「去年今年」はもっぱら俳諧の用語で新年の季語とされていたが、同じような言葉でも語感が微妙に違い、もう一つはっきりしない季語であった。だが、この古典的季題は、戦後間もなく虚子の一句によって命が吹き込まれた。川端康成が感嘆して随筆に書いてから一躍有名になった句だが、去年と言い今年と言い、目に見えない断層を人は感じるが、虚子はそのつながりを、一本の棒の如きものと断じた。禅僧の一喝に似て人生の達人の一種の達観に裏打された名句で、この句によってこの季題の価値が定まった。』


一本の棒が鉄の如く強靭なものか、木や藁の如く軟弱なものか、はたまた空洞のパイプみたいなものか、いづれにせよ、人の暮らしは年が改まっても変わるわけはない。
さりながら、暦が変われば気分も変わる、或いは変えようと思う人もあるかもしれぬ。
所詮、継続と変化、過程と転換、は日付の如何にかかわらず共生していくものなのだから、それが、たまたま元旦であってもいいわけなので。

マスコミ(ことにTV)や商店街のことさらめいた喧騒をよそに、老生の新年は旧知、新知や教え子たちから年に一度の賀状を頂くことに尽きる。老妻のオセチも年々手抜きが進む、今年は特に。

      若水や流るるうちに去年ことし   千代女

      命継ぐ深息しては去年今年     波郷