horitaakioのgooブログ

88歳の老人ですけれど、天寿の続く限り頑張って見たいと思います

歳だねぇ~

2001-12-30 12:15:00 | 日記
自分ではまだまだなんて思っていても、折に触れて74歳のジイサマを実感させられる。

昨日、K氏の掲示板やこちらの掲示板、はてはミニメールのやりとりなど大変な前準備(これも硬化した頭脳の現状)の後に、切り絵画像をあちらのBBSに投稿してみようということになった。
指示された通りのタグを書き込んで送ったがマンマと失敗、真っ白の画面が現れてしまった。ガクッ!なんて情けない、と落ち込んだ。
師匠が助け舟を出して別の画像を載せてくれたが、自分の意図を通してみたくて再度挑戦、やっと熊本城が画面に登場した。”へへ、でーきまーしたー”てなことで一件落着、どっと疲れが出てきたみたいだが嬉しさもいっぱい。

一事が万事、こんな調子のヘマやドジが繰り返される度に、やれやれ困ったもんだと思いながらも、残りの時間が少なくなってきた「何でも遣りたがり屋」は今日もPCの前に座りっぱなしである。


年暮るる

2001-12-30 12:00:00 | 日記
 この歳になりますと一年一年が関所を通り抜けて行くようなもので、またひとつ街道を先へ進んだという心境なのです。
 
一日一日は長いのですが、季節のうつろいは極めて早く、あっという間の一年でした。「老年の歳月は飛ぶが如し」と古くから言われているけれど、実感として受け容れざるをえません。

 新しい世紀となっても世の中変わるわけでは無し、むしろ悪いことばかりが次々と起きています。まあ人類の未来を憂うほどマクロな視点を持たなくても、身辺に不安ばかりが漂う昨今の世相、あまり長生きするのもどんなものかなと思いながら、年の瀬を迎えようとしております。

年賀状製造業

2001-12-18 18:37:00 | 日記
年賀状とはそも何でしょう。一年に一度ぽっきり50円かけてご挨拶のやりとり、まあ私共の歳になれば、お互いまだ生きてますよという証明みたいなもんなんですが。

若い頃は人生斜めにかまえて、くだらぬ仕来りには従わぬとばかりに一切出さなかったという時期もあったのですが、ここ何十年か手作りの年賀はがきを作り続けております。
リノリウム版、芋版、木版、カッパ版、ガリ版、シルクスクリーンの簡易型みたいなシルク版画、そして例のプリントゴッコ。これは名前以上に深みのある作品が作れるもので、ひとしきり嵌り込んだ期間がありました。
そしてここ数年はもっぱらパソコン、自作の切り絵など取り込んで作ってるのですが、最近は娘夫婦や息子の分まで請負でやらされる始末、「筆まめ」なんぞというソフトで量産?しております。
ワープロやPCの普及で毛筆の味わいが無くなったと嘆く懐古派も数は減る一方でしょうし、若者たちの動向もどうこうなどと、部屋の片隅の年賀状製造業者は黙々とプリンターを動かしておるのであります。

十二月十四日

2001-12-14 16:52:00 | 日記
これは二ヶ月に一度の我家の行事なのだ。
老妻と連れ立って自転車を十五分ばかり漕いで銀行まで年金をおろしに行くわけ。滅多に街中に出ない私はついでに郵便局と文具屋に寄って、妻と別れて(離婚じゃないよ)一足さきに帰ってきた。

道中、日が照ったり翳ったり、南国でもやはりこの時期は寒い。自転車がこんなに重い乗り物だとは! いや全く歳は争えないものだ。

ぐったりして机の前にへたりこんで気がついた。今日は12月14日、世間では四十七士の討ち入りの日として知られているが、実は亡き母の祥月命日なのだ。不信心の親不孝者がこの日付をおぼえているのも義士のおかげなのだが、さて何年に何歳で亡くなったのかとなると、これがまた記憶はおぼろげである。

殊勝にも座を立って、別の部屋の棚に(申し訳ないが我家に仏壇はない)母の遺影を見に行く。額に裏書がしてあるから確かめてみるためなのだ。若かりし日の僕の筆跡。
       昭和四十三年十二月十四日歿  享年七十三歳

晩年糖尿を患って殆ど失明、心筋梗塞で逝ってしまったのだが、僕の中ではかなり高齢まで生きたという記憶があるのに、何と現在の僕より若くして亡くなっていたのだ。
よぼよぼ乍ら生き長らえている己の身を思うことしばし。

因みにその隣に立ててある父の額の裏書はこうだ。 
      昭和四十四年二月十九日歿     享年八十歳

母が亡くなってから三ヶ月で逝ってしまったのだ。父の葬儀のおり親戚の或る婆様がこういったのが未だ脳裡に焼き付いている。 
 「つんのうで、はってかしたない」   天草弁で「連れ立って行ってしまわれたねぇ」




うす墨の葉書

2001-12-12 15:29:00 | 日記
十二月上旬、私ごとき老人には暗い思いの季節である。
薄い墨色で印刷された葉書が次々に届く。
同級生のご母堂が百四歳で逝去されたなどというのは天寿を全うされたもの、ご冥福を祈るばかりだが、元教え子のご両親などが私と同年輩で亡くなられたというのも来る。

中でもショックだったのは遠く離れて住んでいて、しばらく音信の無かった旧制中学時代の親友の奥さんから、夫が逝去しましたのでという喪中欠礼の葉書が来たことだった。
 奥さんは多分年賀状の束の中から私の宛名を見て書かれたものだろう。奥さんとは面識もないわけで。
 彼から自分が主宰している素人句会の句集を送ってきて、批評がましい返事を書いたのは今年の夏のことだった。
 生意気ざかりの中学生がガリ版刷りの同人誌をつくって、俳句や短歌、随筆などいっぱしの文学青年気取りだった頃から六十年近くの歳月が流れた。戦争が二人を関西と九州に引き離し夫々の道を進ませたのだが「雀百まで踊り忘れず」彼は遂に最期まで俳句を棄てなかった。

 離れ住んだまま永の別れをすることもなく彼は逝ってしまった。残った私はなす術も知らず空しくパソコンに向かっている。