horitaakioのgooブログ

88歳の老人ですけれど、天寿の続く限り頑張って見たいと思います

77歳の秋

2004-10-10 09:10:00 | 日記
台風22号は九州南方海上を通って伊豆、東京、千葉をかすめ東北沖へ去ったが、今年はほんとに台風の当たり年だった。

私が77歳に達したから、風神がいささか手荒いお祝いを贈って寄越したのか? そうだとすれば非常にはた迷惑なことで、まことに以って申し訳ない。

若い頃から次々と大病を患い、父母に享けた身体髪膚を敢えて毀傷する親不孝を続けてきた身が、よくぞここまで持ちこたえたものだと我ながら感心している。

最近は全くヨボになって、当Cafeでのお付き合いも不義理を重ねているが、それでもお見捨てなく足跡コメント、BBSへの画像やお言葉など頂けて嬉しい限り。

昨夜は娘と孫二人(小5と小2)が来て、老妻の手料理でささやかな77回目の誕生日の祝宴?を張った。彼らが来ると私のPCは占拠されてお手上げなのだが、今は朝寝坊している隙にこの駄文を書いている。

孫たちの成長を見守りながらPCに縋って残り幾許の余生を過ごす秋なのである。

同い年だった            

2004-08-04 09:56:00 | 日記

同い年だったOさんが先に逝ってしまった。
ついに直接お会いする機会は無かったけれど、パソコンの画面を通してのお付き合いは、まこと肝胆相照らす仲とも言うべき間柄だった。
だのに僅か三年に満たぬ短期間で終止符が打たれようとは。
さらでだに侘しい老残の身に、無常の風が容赦もなく吹き抜けていく。 

二〇〇一年八月末、このCAFEに加入して自分のウェブサイトを持った際、七十三歳(当時)の老齢を看板に「シルバーエイジも元気」とタイトルつけたサークルを立ち上げた。
その折「入るなら絶対これしかないと思った」といちはやくメンバーに加わってくれたのがOさん、まさに運命の出会いなのだった。
そのサークルには同年配の方が七名参加していただき「ふれあい広場」でいろいろとおしゃべりしたのだが、Oさんはその明朗闊達な性格から積極的にコメントを寄せて下さり、サークル活動をリードしてもらった。
しかし私の体調不良もあってこのサークルは三ヶ月足らずの短命で幕を下ろした。

その後もOさんとはEメールでの交際が続いていたのだが、或る日突然「四季」28号が郵送されてきた。「自分が編集している同人誌だ。読んで感想を知らせて欲しい」ということだった。
見るからに手作りの味あふれる体裁、夫々に個性のある文章が並ぶ内容、これほどの冊子を四年間も続けて十数号纏め上げているOさんの努力に敬意を表して、ささやかな読後感を送ったのがことの始まり、29号も外野席からだったが、同人の皆さんに拙作「切り絵」を紹介されたりして、30号からはお仲間に入れていただく仕儀となった。

ところがOさんの体調に異変が起き、「ぶっ倒れる」という物騒なタイトルの文が31号に出て、編集もN氏にバトンタッチされた。その頃のメールのやりとりで病状は一過性のようだったけれど,やはり歳はあらそえぬものらしい。どちらも弱って来ていたのだ。
私が書いた山頭火の話がきっかけで、その後三号ばかり続けて「山頭火もどき」の句がずらりと並んだ。「もどきじゃなくて本人は大真面目なんだが、みんなは大笑いだった」という返事のメールも来た。その後も阪神タイガースやお孫さんの自慢話などが出て、こちらも安心していたのだが、今思うとメールも途絶えがちであった。

そして38号から寄稿がなくなった。気がかりだったのでメールしたら概要次のような返事が来て愕然とした。(私信だけれど、これが最後のメールになったし許して貰えるだろう)

 昨年夏頃から少し体調不良で、ゴルフをしていても疲れが早くて、どうも調子にのれず、暫くはお休みをすることにしていました。
今年のお正月に気分転換に東京の子供がハワイへ行くのに便乗して行こうと言うことになったのですが、ハワイなんかに行きたくねぇよと意地を張っていました。
とうとう二月六日ハワイへ行くことになりました。
 ところがあんまり体調がよくない上に食欲殆ど0が重なって、ユナイテッド航空の機内食のまずいことまずいこと。それで完全に食欲を失ってなんにも食えなくなりました。
 結局、十一日の飛行機で車椅子でご帰還。休養に行ったつもりが逆結果。ダウンと言うことになりました。
 帰国してから先ずかかっていた肺炎の修理に入院。いろいろ検査の結果、なんやら肝臓がおかしいでぇ、というわけで三月三日W医大で検査を受けました。
その結果、なんと肝臓癌や、という宣言を受けました。十二日にもう一度精密に検査をして結果どう処置するかが決定します。
もともと、酒類が全く飲めず肝臓が弱いとは思っていましたが、とうとう癌だということになりました。
 でも今まで、体調不良でも原因が分からずモヤモヤしてるだけで、なんか頭の中もすっきりしませんでしたが、癌だと決まればかえってすっきりしました。
 またいろいろ書けると思います。来月号からはすっきり再登場しますからご安心の程を。
いろいろなご心配は要りません。必ず復帰しますから。

その後の経過についてはN氏から詳しいお電話も頂戴していた。
退院してご自宅で療養されていたそうだが、ついに再登場は果たせなかった。
痛恨の極、唯々ご冥福を祈るのみ。私が後を追うのもそう先のことではあるまい。




追悼

2004-07-06 21:47:00 | 日記
Oさんが逝ってしまった。 しょうじゃひつめつ えしゃじょうり


この道や(つづき)

2004-04-27 11:01:00 | 日記
[ どうしようもない私が歩いている    山頭火]

ことの起りは父親の放蕩散財とそれを苦にした母親の投身自殺(長男種田正一11歳)だった。
彼は祖母に引き取られて早稲田大学文学部まで進んだが中退、零落した父親と故郷山口県防府近在で酒造業を始めたのだが、元大地主の放蕩者と文芸と酒に浸る息子、うまくいくわけがない。
大正五年倒産し一家離散、彼は妻子を連れて熊本へ逃れたのだった。時に三十五歳。
熊本市内で「雅楽多」と号する額縁屋を営んだが店の仕事は妻にまかせっきりで、地元の文芸仲間との交遊に明け暮れた。酒乱でかなりすさんだ生き方だったという。 

こんな生活環境の中で大正二年、荻原井泉水の自由律俳句に共鳴して俳誌「層雲」に初投句して以来毎号投句を続けて頭角を現わし、花形作家として選者に抜擢されるまでになった。
しかし、ここで私見を述べるならば(乏しい資料の中での管見だが)当初の自由律俳句の作品は旧来の有季定型の枠から飛び出しはしたが、発想や字数などではあまり変化が見られず、口語を無理してひねくりまわしたってなもののようだ。表現法、語法には或る種のパターンさえ見受けられる。技巧に走って感激が無いのである。この頃の山頭火の句も例外たりえなかった。
現今我々が目にする彼の句が生まれるには、まだこの後の人生の辛酸が必要なのだった。

大正八年、妻子を熊本に残して単身上京、つてをもとめてセメント工場や市臨時雇として図書館に勤務したりしていたが、その間に祖母や父が死去、妻の実家から送られて来た離婚届に署名捺印して返送したので離婚が成立した。「層雲」への投句も次第に減り、九年「紅塵」と題する数句を最後に山頭火の名は俳誌から消えた。どういう暮らしぶりだったのか小生には知るよしも無いが、十二年の関東大震災で焼け出された身の帰る所は別れた筈の妻子の家しか無かったのである。

そして彼の生涯の転機となる椿事がその翌年の暮れに起こった。
泥酔したあげく走って来る熊本市電の前に大手を拡げて仁王立ちしたのだ。幸いのろのろ運転のチンチン電車のこと、急停車して事なきを得たのだが、或いは朦朧とした意識の中で電車が停まらないことを望んでいたかも知れなかったと思う。(というのも後日の旅日記や草庵暮らしの記述の中で,何度もの自殺未遂が読みとられ、彼の思いは生と死の間を揺れ動いていたのだ)
     [生死のなかの雪ふりしきる   山頭火]

ともあれ進路妨害事件で警察から酔っ払いを貰いさげたのは顔見知りの新聞記者で、市内の禅寺の住職に彼の身柄をあずけた。そこで得度、剃髪、座禅修行にはげみ、十四年から約一年間、近郊の観音堂の堂守として近郷の行乞、布教に従事したのだった。
     [松はみな枝垂れて南無観世音    山頭火]

しかしそのままで終わらぬのが山頭火なのだ。十五年四月、安住の堂を捨てて野山をさすらい歩く行乞の旅にでた。その足跡は九州、山陽、山陰、四国におよび、昭和四年三月に熊本の「雅楽多書房」に戻りついている。この旅の間に書き綴った日記は八冊あったそうだが、一年後再び旅に出る前に焼き捨ててしまっている。過去の一切を葬って新たな不退転の旅へ出たのだ。
     [焼き捨てて日記の灰のこれだけか   山頭火]

             ◇      ◇     ◇

やっとこれで冒頭の「行乞記」へ戻ってまいりました。時に山頭火四十八歳、彼の生涯は残すところ僅か十年でした。そしてその十年が今日に知られる彼の本物の中身なのですが、この小文では触れ得ません。いつかまた小生に気力と体力が残っていれば書いてみたいとも思いますが、「まんず、無理だべ」と鬼めがぬかしております。

さて、昭和五年九月九日、新たな行乞の旅に出た山頭火が最初に足を踏みいれたのが八代だったこと、偶然そうなったのでしょうが我々市民にとって(山頭火ってなんだ?という人のほうが大部分かもしれませんが)幸いなことなのです。嬉しいことです。
小生自身は本来よそ者ですが、昭和三十年に着任して以来住み着いて約五十年になりますから、こんなこと言っても叱られないと思います。ただ山頭火が行乞にまわったという八代がどんな町だったか知るよしもないのが残念です。日記にはただ「十一時より三時まで市街行乞」と書いてあるだけですが「市街」という言葉は田舎には使いませんね。町並みは整ってたのかも。
宿では「夜は餞別のゲルトを飲みつくした」とあって,さすがに“水飲むごとく酒を飲む”と自分で言うだけのことがわかります。同宿四人、とりどりの無駄話を楽しんでいた様子、陰気な気質じゃあなさそうです。後日の日記のような俳句は書いてありません。

九月十日は「午前中八代町行乞、午後は重い足をひきずって日奈久へ」。今は道路も整備され住宅なども増えていますが、三里(12km)の野道は寂びしかったかも。足が重かったでしょう。
宿では以前に同宿したお遍路さんとまたいっしょになったり、方々の友へ久しぶりに「音信」しています。その中に次のように書いたそうです。
  「・・・私は所詮、乞食坊主以外の何物でもないことを再発見して、また旅へ出ました。
・ ・・・歩けるだけ歩きます。行けるところまで行きます。」 

その次に書いてある文章です。
  「温泉はよい。ほんたうによい。ここは山もよし海もよし」
山頭火は無類の温泉好きだったようで、放浪先の各地でも温泉を楽しんでいたようです。
この部分だけ取り上げるとそのまま日奈久温泉のコマーシャルになりますね。事実日奈久では彼が泊まった木賃宿「織屋」がそのまま保存され、山頭火に関する資料やグッズを並べてあります。
「山頭火まつり」のような催しも行われて、上記の文がキャッチフレーズに使われてます。 

しかし日記にはまだ続きがあるんです。
  「出来ることなら滞在したいのだが---いや一生動きたくないのだが(それほど私は労れてゐるのだ)」
これが彼の本音だったのです。旅に出て行乞に歩いて、酒を飲んで句を作って、漂泊の俳人と称せられているけれど、心底は疲れていたんですね。放浪を続けながら一方では庵を結んで定住したい気持も常にあったようです。後に数箇所で願いが叶うわけですが必ずしも満足していなかったふしも見えます。暖かい後援を受けつつ松山の「一草庵」で最期を迎えたのですが。

         [ おちついて死ねさうな草枯るる   山頭火 ]


この道や

2004-04-22 11:07:00 | 日記


「この道や」とくれば、大方のむきには「行く人なしに秋の暮」と続く芭蕉の句が浮かんでくるでしょう。
ところが山頭火にかかると、この道に多くの人を行かせ、自分も歩くんです。つまりこうなります。

     このみちや
         いくたりゆきし
             われはけふゆく

この句は彼の旅日記の表紙裏、「行乞記(昭和五年九月,九州地方)」というタイトルの右側に書かれ左側には次の句が書かれています。

    しづけさは
        死ぬるばかりの
            水がながれて

そして第一頁の書き出しの部分も読んでいただきます。小生がこの小文を書くきっかけも実はここにあるんです。

  九月九日 晴、 八代町 萩原塘 吾妻屋
  
  私はまた旅に出た。愚かな旅人として放浪するより外に私の生き方はないのだ。

この続きにはその日の行動と宿でのこと、翌日は行程三里、隣町の日奈久温泉まで歩いて泊ったことなどが書かれていて、そのまま再録したいところですが、小生の書くネタが無くなるからやめときます。ご存知のように(ご存知で無い?こりゃまたシツレイ)小生熊本県八代市に住んでおりまして、ここに山頭火との接点があるのであります。 <つづく>


昨日は

2004-02-12 14:27:00 | 日記
  「雲に聳ゆる高千穂の・・紅白饅頭なつかし」

昨日、大阪のbさんから届いた足跡コメントである。(無断再録ごめんなさい)
これ読んでピンとくるのは、大正から昭和一桁生まれの戦中派だけ。このCafeでは希少価値もあろうというもの、もちろん爺さま婆さまたちだ。

お読み頂けるお若い方々のために注釈を加えれば、これは唱歌「紀元節」の冒頭の一節、小学校の式で歌わされたもので、七十年の歳月を経た今なおスラスラと歌える。
「高千穂」の嶺(宮崎県)は天孫降臨とか天の逆鉾など建国神話の舞台、「八紘一宇の塔」なども建てられた。

寒くて窮屈な式のあと、奉祝の紅白饅頭が全児童に配られた。式日(授業はないが式のために登校)の楽しみで、元日をはじめ年に数回あったが、その後、戦争が激化するにつれて饅頭はいつの間にか消えた。

老いぼれて掲示板のカキコやメールなどが億劫になって、一行の足跡コメントだけで皆さんとお付き合いしてる始末だけれど、新しいコメント入れたら元のは消されてしまう。こちらから「同感」の意を表すコメントを送り、さらにbさんから新たに感想のコメントが来たので、上記bさんのものは僅かな時間しか残らなかった。

その昔の思い出は、良きにしろ悪しきにしろ、老残の身の生きて来たあかしなのだ。
あえて駄文を草した所以ではある。


きさらぎの

2004-02-02 19:07:00 | 日記
  きさらぎの氷雨降る春雨に似て

先月下旬は晴れた日が続いて、気温も高く、まるで春さきの気候だったが、二月にはいって昨日今日と雨模様となった。

日が照らない分、暖かさはないが、ガラス戸越しに庭を眺めていると、哀れ末路の姿を留める山茶花の赤い花に注ぐ雨には、真冬のそれの如き冷徹さが感じられない。いとおしみ慈しむような柔らかい春雨に似ている。

もともと如月は陰暦二月の称だから、現代の季節で言うならば三月、桜も咲こうかという時期をさすことになる。だから冒頭の駄句など間違いだらけの愚作なわけだが、新たな月のはじめの久しぶりの雨なんだからご勘弁願うとしよう。

今日は家内の通院日、昨日帰って来て泊まっていた息子が車に乗せて熊本まで往復した。土日は休日出勤の多い仕事で、月火と休暇とって親孝行しに来たというわけだ。
ひょっとしたら雨はそのせいかも。


枯れ葦の

2004-01-21 21:06:00 | 日記
 「人間は考える葦である」 
17世紀フランスの数学物理学者で思想家でもあったパスカルのこの表現は、我が国でもかなり広く用いられているのだが、私が知ったのは旧制中学の物理の授業で「パスカルの原理」とやらが出てきた際の脱線話であった。彼の著書「パンセ」の中にこの言葉があるのだという。
はじめて聞いた時、いっぱしの文学少年気取りだった私はその言葉の含蓄ありげな響きにわけも無く感動して、そんなことまで知ってる物理の先生を見直したりしたものだ。

しかしですよ。今にして思うに「人間は考える○○である」の○○に別の名詞が入っても成り立ちそうな気がする。あなたなら何をいれますか? たとえば「考える豚」とかね。

それが「葦」でなければならぬ理由が、或いは「パンセ」の中に書かれているのかも
知れないが、残念ながら読んではいない。
おそらく無いと思う。このような警句のたぐいは感性から発するものだから。「豚」との差は品の良さで歴然なだけだ。

私なりに考えたのだが「葦」は(フランスではいざ知らず)古来、和歌や俳句の題材に多く扱われ、人の生活に密着した存在だった。現代では河川改修とやらで無風流なコンクリートが巾をきかせているが、広い河原に密生した葦原を風が渡る姿が四季を通じて見られたであろう。

人の一生を葦に関する季語で案ずれば、幼少期、青く尖った芽が育つ春の「葦の角」、ぐんぐん伸びる成長期に「葦青葉」夏の盛りに「葦茂る」、壮年期に開く「葦の花」そして秋、白い「葦の穂」が風になびき、やがて「葦の枯れ葉」となって、老年期には茶っぽい茎だけが冬の風にさらされ「枯れ葦」と化す。

昨日、大阪の小学校時代同級生だった老友の訃報が届いた。このcafeでも付き合った仲だったのに。ただ冥福を祈るばかり、明日は我が身かと。

     枯れ葦の日に日に折れて流れけり   闌更

あの頃は

2004-01-13 15:22:00 | 日記
あの頃は我々老夫婦もまだ若かった。今ではジイサンバアサンになったから一からげで老夫婦ですますけれど、実は七歳の年齢差があるのだ。
片やミニサイズのわらべ顔、こなたは額の広いおじさん面、長男を産み育てていた頃に家内が近所のおばさんから「後添えさんですか」と言われたというくらいな外観だったらしい。いくら何でもそりゃあ無いよね。
そもそものなれそめは・・・いらんこと言わんでよろしい。とにかく僕ら六人兄弟の末っ子の妹と同い年、弟が妹の同期生と結婚したから、何と昭和9年生れが身内に三人並んだってことなのだ。その方々が揃って古希を迎えた。

何で歳の話になるんだ? いきなり脱線するなよ。
あの頃とは娘の成人式の頃、つまり二十数年前のことをこの時期に思い出したから。
当時家内は和服に凝っていて、ご贔屓の呉服屋があった。女子大に在学中の娘の晴れ着を誂えるのに、その呉服屋のお得意様ご招待会で、はるばる京都まで娘同道で品定めに行ったもんだ。そこで娘が選んだ反物は、会場主任のおば様から「お嬢さん、お目がお高うおす」と褒められたと、これは家内の土産話。

仕立て上がった振袖を着飾った娘の前向き、横向き、それにコート姿の母親が付き添って出て行く後姿まで、ご自慢のカメラに収めてアルバム作った父親もまたかなりの親バカぶりだった。若かったねえ。

ご時世が移って家内の和服熱も去り、その呉服屋も店じまいしてしまった。
若者たちの行状がニュースになる昨今の成人式だが、老人はありし日の思い出をほのぼのと味わっているのである。




お年玉・落し玉

2004-01-08 14:48:00 | 日記
今年のお正月は、大晦日に帰って来た息子と二日午後から来た娘と孫二人とで賑やかだったが、三日には夫々の車で風の如く去って行った。潮が引いたあとの夜は寂寞そのもの。

孫たちには祖父母と伯父からお年玉のポチ袋が出た。上の子は四年生だから自分用のゲームソフトを買う資金という意識があって貰い貯めてるらしいが、下の子は一年生
何と「ぼく、いらない」という返事、代わりに母親が受け取った。普段から自分の欲しいものは無理いっても手にはいるものと思い込んでいるから、金銭の感覚はないらしい。そういうものかと認識を新たにした次第。

彼らが帰ったあと、ジイサマの体調がおかしくなった。微熱から高熱が出始めて風邪の症状、気分が悪くなり吐き気を催す。
5日の夕刻、ついに嘔吐が止まらず気が遠くなりそうな苦しさ、家内がタクシー呼んでかかりつけの医院へ連れ込んだ。まだ吐き気がおさまらずトイレに行って、洗面台の鏡に映る己の顔面蒼白、ぼさぼさの銀髪はまさに幽霊。我ながらぞっとした。
営業時間後の点滴治療を受け、家内の電話で車を飛ばして来た娘が医院へ迎えに来た頃は、症状も治まり熱も下がって一人で歩けるようになっていた。

実は孫たち二人とも同じような嘔吐下痢症を去年の暮にやっており、母親もうつされて吐き気に苦しんだのだという。

お年玉のお返しに、とんだ落し玉を頂戴したジイサマなのである。