horitaakioのgooブログ

88歳の老人ですけれど、天寿の続く限り頑張って見たいと思います

年の瀬を

2003-12-31 13:36:00 | 日記
雨になった年の瀬を老朽船は何とか乗り越えて行く。
十一月末に大腸ポリープを五個切除、その中の一つはガンだった。手術に何と二時間もかかり、三泊四日の入院。事前に経験者からは「大したことない」とばかり聞かされていたのに、これはいささか大したことだった。病院がまずいのかな?
術後の経過は良くて幸い、まだ二三匹残っているガンのひよこの始末が来年の宿題として残っている。

クリスマスに孫が撮った己の顔をつくづく眺めて、迫ってくる終末を実感した次第。

ついに来たか

2003-11-04 11:38:00 | 日記
このところ、身内や知人の中で「ガン」が猛威を振るっている。
最近鬼籍にはいった身近な人達、いずれもその犠牲者なのである。
家内が昨年夏に甲状腺癌を切除して、今なお術後の後遺を引きずっている。
五十数年来の付き合いである友人は、ここ数年で五回以上も膀胱癌の手術を受けているし、その奥さんも大腸癌を手術している。彼が去年、家内の退院後「おたくもガン同盟に入会ですね」と言った。

私の方は七十六歳の今日まで、様々な病いで体は切られ続けてきたものだが、「ガン」とはご縁がなかった。強いて言えば三十数年前、胃にポリープが見つかり、当時の医学情勢から「今の中に切ってしまえ」と胃の三分の二もろともバッサリ切られたこと位であった。

ところがである。二週間に一度通院して診察投薬を受けている近所の医院(専門は胃腸科)で九月の下旬に大腸の内視鏡検査の結果ポリープが見つかった。しかも七個もである。そのうち大きいのは直径1cmのが2個、組織検査で「腺管腺腫」(ガン化の確率100%)と判明した。
「早急にと言うわけではないが、とにかく切除しておく必要がある。設備のある病院に紹介するから」との話、こちらの都合もあって十一月にはいってからということになった。

実は大腸ポリープの切除に関しては、弟も妹も経験者なのだ。ことに弟の場合、アメリカの病院勤務で一時期だけ帰国して患者をみるという内視鏡専門医に十年前からかかっていて、既に数回手術を受けているそうだ。手紙のついでに私のことを知らせたのだが、二人とも長距離電話(藤沢と東京)をかけてきて、手術の状況その他を初体験の兄貴にいろいろと教えてくれた。
腸をからっぽ状態にする術前の措置が厄介だが施術そのものは日帰りで済むという。術後の止血がうまくいかず一泊した例もあったとかだが、とにかく大したことじゃないと力づけてくれた。

まあ医学の目覚しい進歩によって、この程度の手術は手軽いうちなのだろうが、医療ミスとかがニュースにもなる昨今だし、田舎町の病院だし、受ける側にとっては気の重いことなのだ。
執行猶予の期間もまもなく切れる。

還暦と喜寿と

2003-10-30 10:16:00 | 日記
八代高校昭和37年卒<三七(みな)の会>の皆さんへ

先ずもって皆さんの還暦(「本卦還り」だから0歳)を心からお祝いすると共に、喜寿を迎えた私をご招待頂き立派な記念品まで頂戴したことに深く感謝いたします。

思えば皆さんが県南の名門校に入学してきた昭和34年度、一年一組を担任したのは、同校就任4年目、初めてクラスを受け持った31歳の若輩でした。
入学最初の英語の授業で、いきなり「We shall overcome」(アメリカ黒人の人権運動のテーマ曲)を持ち出して歌唱指導したという青二才ぶり、実は当の本人は全く忘れていたのを今度の会で思い出話に出て来て冷や汗かいたものです。よく覚えていたお方には敬服のほか無し。
その後三年間、毎年度各クラス約三分の一ずつは組替えするという基本方針のもとで二の五、三の二と持ち上がったので、結果的に三年間僕のクラスにいたという不しあわせな人も十数人はあったわけなのです。まあ若気の至り、今にして思えば行き過ぎたり、行かな過ぎたり、心中忸怩たるものがあります。四十数年昔のことだから時効にかかったものとしてお許し下さい。

蔦の絡まる旧校舎(窓際の席の人は毛虫に悩まされたという)を後にして卒業していった皆さんは夫々の道を夫々の力で歩き、夫々の社会で夫々の試練も経て、いつしか還暦を迎える歳になったのです。長かったか、はたまた短かったか、そこは夫々に感懐のあるところでしょう。
学校、役所、会社など定年のある職場では、いわゆる「第二の人生」へと移る年頃なのですが私はこの表現は好きでない。たしかに区切りではあるし、生活環境の変化もあるかもしれないけれど、今までの人生が第一でこれからの人生は第二なのか、変に格差付けないでくれよなって言いたいんです。単なる順序なら納得します。人間生れてから逝くまで人生は一続きなのですから。

さてその人生を76年続けて来て、かなり好き勝手を通して来たほうだけれど、不健康もついてまわりました。A sound mind in a sound body なんて嫌な文句もありますが、ともかくも今回のように皆さんと楽しい一夜を過ごせた幸せをかみしめています。

今後も皆さんが健やかな人生を送られんことを祈念してやみません。有難うございました。

秋風が身に沁みて

2003-10-20 16:21:00 | 日記
八月の末以降、身近で不幸が三つ続いた。
一つは家内が四十年も双子同然の付き合いをしてきた夫人で、私とも親密な交際があったのだが、大腸癌で三ヶ月の入院後に亡くなった。家族や身内の意思で本人には病名を知らせなかったので、最後まで仕事への復帰に意欲を燃やしていた生涯だった。連日病室で見守っていた家内は臨終の場にも立ち会った。

九月半ばには、三つ年上の元同僚が長い療養生活に終止符を打った。本人の遺志でその死も葬儀も他には知らされず身内だけで送ったので、我々は後から奥さんにお悔やみを言うこととなった。我が娘の結婚の仲人もしてもらった仲だった。

そして十月四日、その娘の義父が前立腺ガンで逝去、享年七十八歳。私とは二つ違いの年配でまだ幼い孫たちを共有させてもらった。最後は病院からも離れ、自宅へ戻って介護を受けていたのだが、お通夜と葬儀に列席しながら二年後のおのれの身に思いを至して、かなり落ち込んでしまっていた。
会館で行われた通夜や葬儀の合間、まだ祖父の死に実感の来ない孫たちの面倒を我ら老夫婦で引き受けて、我が家へ連れて来たりしていたが、無邪気にはしゃぐ一年生と少しは状況に察しがつく四年生だった。

ともあれ、老いの心に秋の風が吹きこんで、それから後Cafeめぐりは断絶、その間に多くの方々からお悔やみやお励ましを頂いてきた。有難い限りである。

一昨日、昨日の一泊二日、教え子達の還暦記念旅行に招待されて家内同道で参加、私の喜寿の祝いも受けてきた。何年ぶりかの旅行に出て、くたびれもしたが、気分も吹っ切れた。
ここへ書いて見る元気を与えてくれたのが四十数年前の生徒集団、いまは人生の絶頂期に達した人たちなのである。

秋風と共に、有難さもまた身に沁みる。








九月のおわりに

2003-09-30 23:12:00 | 日記
今月はとうとう何も書けないでおわってしまう。それでもいい・・・いや良くないから二、三行でも書いておくことにする。

  そういうこともあったかと秋風が吹き

  一面の稲穂垂れ元同僚の訃


もう八月ですねぇ

2003-08-01 12:07:00 | 日記
いやですねぇ。「老年の一日は長く一年は短い」などと分かったようなことを言うむきもあるが、
いまや歳月はゴールめがけてまっしぐら、ラストスパートに入っているのであります。

近頃は全く読書量が激減しました。毎朝の新聞もざっと目を通すだけ、かっての世間への関心も連載小説やスポーツ欄への興味も薄れてしまいました。

かろうじて社会とのつながりがあると言えるのはこのCafeを通してのお付き合い、しかしこれも
”Virtual Reality”(computerが作り出す仮想的な現実)なのです。

しばしば訪ねてくる娘の息子たち(小4と小1)の成長を見届けること、今や唯一の世俗的な関心なのです。いつまで可能かはそれこそ閻魔様のご機嫌次第なのでありますが。

7.31(木) 晴

2003-07-31 13:03:00 | 日記
     文月(ふづき)はや日記空白のまま過ぎし

先月21日以降、今日まで遂にこの欄に一行の文章も書かなかった。決して意図的ではなかったのだが。
先月下旬からひいた風邪が三週間も抜けなかった。しかも後半にはⅩ線写真から肺炎寸前の気管支炎と診断されて一週間毎日点滴に通った。やっとよくなった中旬以降、今度は老人性皮膚炎が再発した。これは昨年末から春まで三ヶ月続いてやっとおさまっていたものだ。

おまけに同人誌「四季」の原稿〆切が今月末である。ぎりぎりまで体力気力の衰えで放置してあったのだが、この欄の四、五、六月分を加筆取捨して、やっつけ仕事でかたづけて郵送した。とびら絵用には旧作「猩々(奈良人形)」を同封。

孫たちは夏休みに入ってからも何だかんだと学校がらみの行事があって、週末も来られない日があった。それでもちょくちょくやって来るが。
汗かかないように(皮膚炎の関係から)エアコン効かした部屋で相変わらず引きこもりのジイサマである。


6.21(土) 曇時々雨

2003-06-21 16:40:00 | 日記
昨日はまさに台風一過の後の快晴、久しぶりの青空と強烈な陽光、夏の暑さがやってきた。
風邪気味で気分は良くなかったが、収納庫設置の予定場所がまた雑草におおわれてしまったので、日が傾いてから肉体労働をした。ところが何と夕方には業者から「長雨と台風のために予定が繰り下がって、来週木曜日に延期」という電話が来たではないか。無理して体動かしたのでふうふう言ってるのが馬鹿みたい。

アニキが例によって昨夜から泊まり込みでゲームをやっていたが、今日はサッカーの練習があるからとて昼過ぎに母親が弟を連れて迎えにきた。そして弟が入れ替わりに我が家に残り、兄貴は帰って行ったが、練習が終ったあとまた来て泊まるつもりである。とにかく頑張る。母親は兄を連れてきて弟を連れて戻るということに。

息子からも電話、今日退院するという。その後は会社に出勤しながらの通院ということになるらしい。


6.19(木) 雨後曇

2003-06-19 21:01:00 | 日記
台風6号が発生して以来、その進路が問題だったが、一昨日あたりから明らかに九州目指してまっしぐらという状況になった。
家内の心配性のタネが又一つ出来たわけだが、昨日の段階で既に南西諸島が暴風圏内に入り、今日明け方には九州西方海上に達し、昼過ぎには熊本県に最接近するという予報なのである。予想進路の最も東側を通れば上陸のおそれもあると言われては、こちらとしても用心せぬわけには参らぬ。
しかし今朝の気象情報では進路がやや北に向かっているということで、結局は五島列島から長崎県の西端を日本海へ抜けて行った。

当地では朝から雨、風はさほど強くは無いという程度、それでも学校は休校(日奈久から孫が報告とゲームの進捗を指示する電話)JR全線運休という事態になったのである。
ふだんは全くといっていい程つけない我が部屋のテレビだが、昨夜と今日はNHKの台風情報をつけっぱなしである。
午後に入って雨はやんだが、吹き戻しの強風が窓ガラスをガタガタいわせていた。

こちとらは朝起きたときから気分が悪かったが 咳、鼻水など明らかに風邪の症状。
「風が吹いたら風邪をひいた」では洒落にもならぬ。




6.18(水) 雨

2003-06-18 14:48:00 | 日記
今日もまた雨。気温が下がって長袖シャツを着込んだジイサマ、PCの前に座り込んで足先が冷たい。靴下はくか? まさかひざ掛けでもあるまいけれど。老妻は風邪声である。

        梅雨冷えや老いたる妻のひとりごち

それでも、四十年も付き合ってる親友が腸の手術で入院中の病院へ雨の中を出て行った。はるばる横浜から出てきた友の娘が今日午後の飛行機で帰るというので会ってくるとも。幼い頃から良く知っている彼女も膵臓などの病い持ちで痩せ細っているらしい。亭主の両親と同居しての生活が良く続けられるものだ。元(今もかな)ピアニストなのだが。

「人生いろいろ」なんて演歌だけじゃない。 我々の人生、みんなそうなんだから。