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いろいろレビュー(旧サイト)

本と映画とときどき日記

小室直樹の中国原論

2014年08月25日 | 一般書

96年刊行とやや古い本だが、かなりおもしろい。

アメリカや日本など、民主主義・資本主義の国の人たちにはまったく理解できない中国。中国人の基本行動様式(エトス)とは何か?

本書によると、その中心には「帮」という根本的な人間関係があって、それをとりまくように、「情誼―関係―知り合い」などの関係が多層の構造をなしているという(これとは別に、タテ軸たる「宗族」の関係もあるのだけど)。

この関係の内と外で人間関係が「天地雲壌のちがい」になるというから驚き。逆に言うと、そうした人間関係が行動の基盤にあるから、目的合理性や契約などは、ほとんど実効性を持たない。

“この次に会うのは、何日の何時はどうですか、という話をする。その時に先約があった場合、日本人なら「すみませんが先約がはいっているので」と言うであろう。ところが中国人は、「じゃ、そっちはぶっ飛ばしてこっちへ来なさい」と言う”(p. 112)

といういかにもありそうな状況も、こうした「原理」に基づけばまったく突飛なことではないというわけだ。

また、「原理」の多くは中国の古典・歴史書を読み解くことによってわかるということだが、『三国志』や『史記』などの引用もおもしろい。

特に、『史記』の「刺客列伝」のエピソードと現代中国像を対比して解説してるところはかなり読ませる。中国式の「刺客」と、アメリカ式殺し屋(キラー)のゴルゴ13とがいかに異なるか、一見俗っぽいけどかなり本質的なところをつく分析。

史論の復権

2014年08月13日 | 一般書

与那覇潤さんによる、『中国化する日本』をきっかけとしてつながりを持った人ととの対談集。

対談者は以下のような顔ぶれ。

中野剛志(政治学)
中谷巌(経済学)
原武史(戦後史)
大塚英志(民俗学)
片山杜秀(昭和史)
春日太一(映画史)
屋敷陽太郎(大河ドラマ)

おおざっぱにまとめると、「中国化」(≒グローバル化)と「再江戸化」(≒ムラ社会化)という、前掲書で提示された両極端の考え方を前提に、いまの日本の立ち位置を議論するという内容。

まえがきで、

“私はいまの日本社会が抱える問題の多くは、「中間的なもの」の衰退ということに尽きると考えています”(p. 4)

と書かれているが、極論に走りがちな視点から一歩引いて、現代日本をもう少しゆるい感じで語る視座を提示しているところに、「史論」たる本書の狙いがあるらしい。

ただし、対談者のジャンルがバラバラであるため議論の補助線が定まらず、分野によってはけこう読むのがつらい本かもしれない。個人的には特に前半での話が堅すぎて、やや読み疲れ感。一方で、読み物的には映画史、大河ドラマあたりが興味深かった。

たとえば、春日太一さんとの対話では、昭和映画の詳しいところにはついていけなかったが、映画製作の裏舞台や日本の映画産業に対する極論的な話がおもしろい(というか、与那覇さんは79年生まれとまだ若いはずなのに、なぜあんなに昭和映画に詳しいのか……)。

“日本の映画界はいま「阪神的」になっています。いろんな出来上がった選手をその場その場で求めるけれど、長い目で育てるという意識がない”(p. 181)

との発言も、実は「安定と資本主義」という大きく敷衍できる問題を、けっこう端的に言い表しているのではないか。

知ってても偉くないUSA語録

2014年07月27日 | 一般書

アメリカ在住の映画評論家、町山智浩さんによる『週刊文春』の連載をまとめた本。

アメリカの時事ネタを、キーワードを取り上げて解説してくれる「USA語録」なんだけど、タイトルで「知ってても偉くない」と豪語するように、俗世間的なゴシップネタで笑えるコラムが多い。しかし中には銃社会への批判や宗教問題、政治・経済ネタなどもあって、しかもこれがけっこう重要な指摘だったりする。町山さんの知識と洞察力に改めて感心。そしてちょっと固い話になりそうになっても、最後はオチをつけて笑わせてくれるところもさすが(特に「Mansplay(男がドヤ顔で講釈垂れること)」でのブルース・リーのオチなんかは秀逸すぎる!)。

ほどよい量の1回読み切り型なので、読むのはとても楽。また澤井健さんの挿絵(というかコメント?)もかなりおもしろく、これだけでも笑える。

町山さんが字幕翻訳をしているという『テッド』も観てみたいな。

言語学の教室 哲学者と学ぶ認知言語学

2014年06月23日 | 一般書

『言語学の教室』というタイトルの本書ですが、「哲学者と学ぶ認知言語学」という副題にあるように、内容としては哲学者の野矢茂樹氏の質問に、認知言語学を専門とする西村義樹氏が答えるという対談形式。なので、言語学の知識を網羅するような入門書とかではなく、「認知言語学って、どういうことを扱うの?」ということを、一般向けに読みやすく落とし込んだような感じの本になっています。

ただし、質問者の野矢氏による鋭い指摘や、素朴だけど根本的な問い、果ては反論・持論の展開まで、非常におもしろい投げかけをすることで、一般のインタビュー的な内容とは一線を画す興味深い対談になっていることはたしかです。

個人的にためになったところをあげると、前半で語られていた、構造言語学、生成文法、そして認知言語学へとつながる経緯や、それぞれの中心にある理念の違いなどは、すっきりとまとめられていて非常にわかりやすかったです。言語学のことをまったく知らないわけではないけれど専門書を読みこむほどではない、という(私のような)人にはちょうどよいレベルの内容だったのではないでしょうか。

具体例をめぐるあれこれについては、ここでは個別に触れませんが、「認知言語学に対する学問的な向き合い方」のようなものが吐露された西村氏の言葉が印象に残ったので、以下、「第6章 メタファー、そして新しい言語観へ」のところから引用しておきます。

“(前略)だけどぼく自身は、自戒の念も込めて言うと、認知言語学的な研究の多くは「言語のメカニズムを解明する科学」ではないと考えていますし、「機械の仕掛けを解明するかのような工学的な」発想で言語学を行っていると思われるのにはかなり強い抵抗感があります。とはいえ一方で、なんでもありの分野にしないためには、ある意味で「実証的」であることも必要でしょう。そういう点で、言語学はむしろ歴史学に似ていると思うんです。起こったことをあとから見て、こういう経緯で考えるのが納得がいくんじゃないかっていう感じで”(p. 198)

言語学というと、チョムスキーの生成文法説のように、言語知識や言語習得のブラックボックスを解明するということがどの研究の根底にもあるような気がしていたのですが、言語学と歴史学が類似しているという言葉には、まったく違う視点からの新鮮な響きがありました。研究者の心情や態度というのは論文などではなかなか明言されないものなので、こうした言葉を引き出せるのも対談形式ならではのおもしろさという気がします。

上野千鶴子の選憲論

2014年06月04日 | 一般書

上野千鶴子さんが語る憲法論。シンポジウムでの講演がベースになっているとのことですが、構成や注釈、そして巻末の現行日本国憲法と自民党草案の比較など、新書に合わせてわりと丁寧に作られている印象でした。

自民党草案に対しては、たまに褒めている場面もあるのですが、大半はこけおろしです。両者を比較することによって透けて見える、天皇を元首とした復古的な国家・国体中心主義。これを、憲法の大前提となってるはずの「国民主権」とは相容れないものとして、ズバッと批判しています。

上野さんの強烈な個性と、『おひとりさまの老後』などにも見られる、多様性容認型社会の必要性を訴える姿勢は今に始まったことではなく、大筋ではお馴染みの内容という感じ。とはいえ、そのわかりやすい主張と歯に衣着せぬ語り口は、やはり読んでいて痛快です。そして何より、憲法の文章を、行間を理解しながら細部までじっくりと検証するというのは、本書を手に取ったことで得られた体験だと言えるでしょう。

そもそも、中学校の社会科などで憲法の全文や第九条などを暗記させられることはありましたが、あれは振り返ってみれば、現行憲法の正当性を前提に、内容を吟味することなく、穴埋め問題への対応力を養うことが最大の目的とされてたように思います。憲法を能動的・批判的に読むということは、今回のように意識しなければ、日常的にはまず訪れない機会ですね。

ただし、腑に落ちなかったところをひとつ挙げておくと、「選憲」ということばの意味合いについては、やや疑問が残りました。本書では「選憲とは、現在ある憲法をもう一度選びなおしましょうという提案です」とされていますが、「選ぶ」というのは、複数ある選択肢の中からいずれかを採用するということです。結婚生活になぞらえて「憲法も選びなおしたらいい」といったことが述べられていましたが、肝心なその選択肢をどこに求めればよいかについては、はっきりと触れられていなかった印象です。現行の憲法と並べて検討するにあたってはやはり「改憲」、もしくは憲法を国民の手で作り直すという意味合いでは「創憲」などといったことばのほうが適当なのではないでしょうか。