一橋MBAブログ 「くにたち」な日々

HMBA有志による非公式リレーブログ

冷静なときと熱くなるとき

2006-11-22 23:04:00 | メンバー紹介
こんにちは。P&Nです。

会社の中では、冷静=合理的、に対し、感情を顕わにすることはあまりよくないことだとされていると思います。「あの人は感情的だ」といわれて嬉しい人はあまりいないでしょう。しかし人の集団の中では、時として熱くなることも必要かもしれません。

組織論の授業で、人の集団がどのように動くかの例として「12人の怒れる男」という映画を取り上げました。授業の狙いとは方向違いですが、この映画から次のような印象を持ちました。

話は、父親を殺したという容疑で裁判にかけられた少年が有罪か無罪か、陪審員が議論するという設定です。有罪なら少年は死刑です。
主人公を除く陪審員はみな法廷での検察側の立証を聞いて「これは有罪だよね」と思っており、早々に全員一致で「有罪」の結論を出そうとします。しかし主人公は唯一「人間ひとりの命を決めるのだから、少し話し合おう」と主張します。

話し合いが始まりますが、「どう考えても有罪」と思っている人は真面目に対応しません。時間の無駄で迷惑なことだ、という態度で話し合いにまともに加わろうとせず、机の上で○×ゲームを始めます。それまで冷静に話をしていた主人公はそれを見て、一瞬、色をなして○×ゲームの紙をわしづかみにして破り捨て、「真面目に議論しよう」と訴えます。それに対し○×ゲームをしていた陪審員は怒りだし、場の雰囲気は一瞬にして険悪なものとなります。

主人公の態度によって、12人の陪審員からなる「組織」の雰囲気は悪化したとも言えます。しかし、主人公が示した「大義に対する本気」をきっかけに、真面目に議論する陪審員が増えていきます。

同じような例は、三枝匡「V字回復の経営」(日本経済新聞社 2001)にも出てきます。組織改革案を作り、その説明会を行っている主人公は、斜に構えた態度で改革案を批判する管理職を一喝します。我々は会社を立て直すために懸命に考えているのに、その態度は何だ! というわけです。

別の例では、古いですが黒澤明の映画「七人の侍」でも次のようなシーンがあります。野武士から村を守るために農民が侍を雇うという話ですが、村を要塞化して防衛するためには、村から少し離れたところにある自分の家を放棄しなければならないと知った農民が、バカらしい、と離脱しようとします。それに対し侍のリーダーが、村の安全なくして、お前らは生き残れない。自分のことだけを考えるものは、全体をも危うくし、結局は自分も滅びる! と農民たちの目前で刀を抜いて大喝します。

「12人」の主人公も、三枝匡の主人公も、侍のリーダーも、普段は冷静でおだやかな人です。しかしそんな人がある一瞬、本気で怒ります。それをきっかけに、集団が「引き締まり」ます。

3つの例のいずれでも、主人公の主張が本当に正しいとは限りません。「12人」でも議論を始めてみたとしても、やっぱり最初考えられていたとおり「有罪」で決着するかもしれません。でもともかく真面目に議論を始めないと、納得できる結論は出てきません。同様に三枝の主人公の改革案も侍の防衛策も、その作戦が絶対に正しいとは言い切れません。もっといい改革案や防衛策もあるかもしれません。でもそう言い出したら、いつまでたっても作戦会議で、どんな手も実行に移せません。だからあるタイミングでは、「怒る」ことによってでも、批判を封じ、議論を終わらせ、組織を一つの方向にまとめあげなければいけないこともあるのかもしれません。

そのときに必要なのは合理的な納得性よりも、リーダーの「本気」ではないかと思います。自分は命がけで大義を信じているのだ、この案に命を懸けているのだ、とリーダーが本気で思っているからこそ、組織の人たちはそこに何かを感じ取り、リーダーが訴える方向に沿って活動を始めるのではないでしょうか。

企業は経済や競争の中で経済合理性で動きます。しかしその中で働く人間は情と理の生き物でもあるのだと思います。

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