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HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

地中から目覚めた大石碑 - 大連忠霊塔 鳥居建設由緒之碑

2018-06-15 | 大連を歩く
昨年(2017年)5月のことです。

大連の労働公園で庭園の改修工事中、地中から日本語の刻印のある大型の石碑が出土したというニュースがありました。
どうやら、日本租借時代に日本人が建立した石碑のようです。

大連在住の友人たちが地元での報道ぶりを教えてくれました。

興味深い話です。
いったいどんな石碑でしょうか。

先日、大連国際マラソン参加のために1年ぶりに大連を訪問した際、現場に行ってみました。

当時、労働公園は中央公園と呼ばれる市内最大の公園で、市民の憩いの場でした。
それは今も変わりありません。

石碑が見つかった場所は、公園東門のやや南側のようです。今も保存されているでしょうか?

ありました。


出土からちょうど1年が経過しますが、そのままの状態で保存され、市民に公開されているようです。

縦2.4メートル、横1.6メートルあるそうです。大きいですね。

どうやら、石碑はこの右側の台座に据え付けられていたようです。


台座を含めると、高さは約3メートルほどでしょうか。

ここから石碑を外して、そのまま真下に埋められたようです。

窪地になっていて土埃や落ち葉で石碑の一部が隠れていたので、隣にあった公衆トイレから箒を借用して取り払ってみました。






これできれいに文字を読み取ることができます。

読んだところ、この石碑は1942年に忠霊塔の前に設置された大鳥居の由来を記したものでした。

忠霊塔は、今、サッカーボールの大型モニュメントがある場所に建っていた戦没者の慰霊施設です。

どんな説明でしょうか?
ここに書いてみます。

大連忠霊塔 鳥居建設由緒之碑

関東局総長 ●●●●(注:1942年当時の関東局総長であった三浦直彦と思われます)

紀元二千六百年ヲ慶祝記念スへク大連忠霊塔表参道入口ニ大鳥居ヲ建設シ緑山ノ聖地ニ神鎮レル尽忠殉國ノ英霊ヲ慰ムルト共ニ聖域ヲ荘厳ナラシメ以テ関東州民ノ忠霊ニ對スル感謝景仰ノ念ヲ昂揚シ精神作興ノ源泉タラシメントスルハ洵ニ深遠ナル計劃タリ帝國在郷軍人會大連第四分會之ヲ發案シ関東州土木建築業協會理事長榊谷仙次郎氏ニ工事完成ニ就キ協力ヲ要請ス協會ハ三十有ニ年ノ歴史ヲ有スル舊満州土木建築業協會ノ解散記念事業トシテ意義洵ニ深キヲ思ヒ之レカ建立献納ノ議ヲ快諾ス抑々本鳥居建設ニ方リテハ忠霊顕彰會臺湾総督府及陸海軍當局ノ積極的御援助ト郷軍協會員ノ和衷協力ニ依リ時局下幾多ノ困難ヲ克服シテ樹齢二千有餘年ノ阿里山霊檜ヲ二回ニ亘リ海軍御用船ニテ大連埠頭ニ輸送シ古式ニ則リ之ヲ聖域ニ運ヒ施工ヲ明治神宮造榮工匠ニ委嘱シ昭和十七年六月一日嚴粛ニ起工式ヲ擧ケ爾来郷軍警護ノ下ニ工匠勤労奉仕者齋戒沐浴協力一致工ヲ進メ十月二十八日上棟式ヲ行ヒ十一月二十一日荘厳盛大ナル落成式並献納ノ式典ヲ擧ケ州民待望ノ大鳥居ハ関係者一同ノ赤誠ヲ表徴シテ其威容ヲ忠霊塔前ニ顕現ス興亜ノ聖戦正ニ酣ニシテ其完遂ノ前途尚遼遠ヲ思ハシムルノ秋永ク忠霊ノ遺勲ヲ偲ヒ其加護ヲ祈リ益々國民精神ヲ作興シテ天業ノ翼賛ニ邁進ス ルハ喫緊ノ要事タリ茲ニ建設ノ趣意ヲ記シテ之ヲ後世ニ傳フ


いかがでしょうか。

大鳥居の材料は、わざわざ台湾からヒノキの巨木を運んできたのですね。

大変な労力だったはずです。

樹齢二千年を超えるようなヒノキなど日本国内にはありません。
労働公園に建てられた鳥居は、日本国内でも珍しい大径長尺の立派な造りだったと思われます。

タイワンヒノキはかつて、高級木材として日本の寺社建築で珍重されてきたようですので、力の入りようが窺えます。

どんな鳥居だったのでしょうか?

古写真を探してみたのですが、探し当てられませんでした。






こんな古写真がありますが、いずれも1920年代から30年代のものですので、石碑が説明しているのはこの鳥居ではありません。

石碑が説明する鳥居は、もっと大きいかったはずです。

この後継として同じ場所に建てられたか、違う場所(もっと東側?)に一の鳥居として建てられたものと思われます。


石碑の位置から考えると、建てられていたのは、この獅子の配置されている場所だったのかもしれません。

ちなみに、正面奥のサッカーボールが忠霊塔のあった場所です。

大鳥居が建てられた1942年といえば、大東亜戦争が苛烈を極めつつあった頃です。

当時、大連の在留邦人の生活ぶりも徐々に雲行きが怪しくなり始めていたはずです。

この頃、大連で建てられた建築物はほとんどありません。古写真があまり残っていないのもこの時代の特徴です。

おそらく、ヒノキ材は関東軍が主導して国威発揚を狙い、軍の力を動員して聖地阿里山から選りすぐりの素材を運んできたのでしょう。

ちょうど同時期に建設が進められていた旅順の関東神宮と一体的なプロジェクトだったのかもしれません。

大鳥居の建設に関わったとされる榊谷仙次郎(1877~1968)は、満洲における土木建築業者の中心的な人物として活躍した人物で、「満洲の土建王」との異名もありました。

碑文によると、満州土木建築業協会は1942年に解散されたようですが、この事実も戦時色が濃くなり、満洲における土木建築の需要が減っていたことを窺わせます。

おそらく、石碑の裏面にも何らかの文字が刻まれていると思われますが、さすがに掘り起こすことはできません。

さて、この石碑ですが、いつ頃埋められたのでしょうか。

ネットによると諸説あるようですが、僕は、文革の1960年代以降と推測します。

侵略の象徴である忠魂塔でさえ1970年代まで破壊を逃れて残っていたという記録がありますので、それより目立たないこの石碑がそれ以前に処分されるとは考えにくいと思います。

文革では、大連でも侵略や外国文化を象徴するようなモニュメントを次々に処分していく必要に迫られたはずです。しかし、このような大きな石塊は、破壊するにも運搬するのも容易ではありません。
そこで、関係者はいっそ倒して埋めてしまおうと考えたのではないでしょうか。


それにしても、重要な歴史を語る資料が出土したものです。

この石碑がこの後どのように扱われるのか不明ですが、石碑を囲む東側と南側の法面がコンクリートで補強されていましたので、公園としては保全する意思があるということでしょう。

ところで、今回石碑が地中から発見されたわけですが、鳥居そのものはどこに行ったのでしょうか。
利用価値の高い高級材の丸太ですから、解体後に即廃棄したとは思えません。捨てられずに再利用された可能性は十分あると思います。

国交回復後に大連を再訪した在留邦人の話によると、1984年に目撃した大鳥居は、上部を切り取られ、2本の棒だけが赤く塗られた状態で残っていたそうです。

その後いつ撤去されたのかは分かりません。

今も大連市内のどこかで、形を変えてひっそりと活躍しているのかもしれません。

このように、タイワンヒノキを利用した寺社建造物は、今の日本にも現存しているようです。

次回の日記では、タイワンヒノキを使った都内の木造建造物文化財を訪ねてみようと思います。

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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (アンフィニ)
2019-03-28 17:25:05
この石碑は今、旅順の日露監獄博物館に移送した。が、展覧することはないです。
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