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中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

北平第一監獄の痕跡 - 川島芳子の最期を辿る

2021-03-25 | 北京を歩く
「男装の麗人」として人気を誇った川島芳子(1907-1948)が非業の最期を迎えた北平第一監獄のあった場所を訪ねてみました。

西城区の宣武門外菜市口の南側、陶然亭公園の西側です。





これは当時の写真です。

今は閉鎖され、高層の集合住宅として再開発されていますが、ネットで調べたところ、今も壁の一部が残っているようです。

文献によると、北平第一監獄は北京で最も古い監獄とされ、清朝時代の1910年に使用が始まりました。
施設の竣工は1912年です。設計は日本人技術者だった小川滋次郎を起用し、管理方法も含めて西洋に倣った近代的な施設としました。

当初は京師模範監獄と呼ばれ、民国時代になって師範第一監獄と改称され、さらに河北第一監獄、北平第一監獄、北京第一監獄、北京監獄と名前を変えていき、1994年11月にその役目を終えています。

川島芳子はこの日記でも何度かご紹介してきましたが(2014年2月11日の日記2013年9月24日の日記)、清朝の粛親王の第十四王女で、本名は愛新覺羅顯㺭です。

北京で生まれ、5歳時に一家で旅順に渡り、8歳時に川島浪速の養女となり東京や松本で暮らします。
長じると日本軍の工作員として第一次上海事変や婉容皇后の天津脱出・旅順に護送などの特殊任務に関わります。

満洲国を含む混乱や戦乱の経て終戦を迎え、1945年10月に潜伏していた北京市内で国民党軍に漢奸(売国奴)として逮捕されます。その後、北海公園近くの迎賓館で数か月間置かれ、その後北京北城の旧日本陸軍拘置所に送り込まれました。
その後華北高等法院を経てこの監獄に収監されます。

1947年10月にはこの監獄内で行われた裁判で死刑判決が下され、1948年3月25日早朝、この監獄内で銃殺刑に処されました。

当時、川島芳子処刑のニュースは日本でも中国でも大きく報じられました。
また、替え玉説も流布し、死後も生存説が根強く続きました。





ここが監獄のあった場所です。

清芷園という12棟の高層住宅が建っています。2000年の竣工だそうです。
一見した限り、刑務所の雰囲気や名残りはまったく感じません。

清芷園に入ると、施設の東側と西側に古そうな高いレンガの壁が残っていました。







高さは5、6メートルほどでしょうか。これが監獄の痕跡のようです。
いかにも刑務所らしい高さです。

ところどころに、「壁に寄り掛かるべからず、崩落注意」との貼り紙があります。風化が進んでいるということでしょうか。





黒レンガの上に赤レンガが積まれています。赤レンガは後から増築されたものでしょう。





この壁の外に立つ塔のような建造物は、監獄の施設の一部だったものでしょうか。見張り台でしょうか。

住宅は緑が豊かで広場もあり、快適そうな空間です。

芳子はここに収監されていた間、死刑執行の恐怖と闘いながら晩年の秘書だった小方八郎や養父だった川島浪速に嘆願の手紙を書き続けます。

芳子は自分が日本国籍を有し、かつ、満洲事変時に未成年であったこと(実際は24歳)を証明できれば、死刑を免れることができると考えました。
しかし、川島浪速は芳子との正式な養子縁組の戸籍手続きを取っていなかったので、日本国籍はありませんでした。

そこで、芳子は出生年を1916年と偽装した上で偽の戸籍抄本を作り、北京に郵送してくれと頼みます。
芳子と同じく川島浪速の養子となっていた廉子(愛新覚羅憲章の娘、芳子の姪に当たる)は正式に入籍していたので、1916年生まれであった廉子の戸籍を修正すればよいと考えたのです。
しかし、検閲をかいくぐるための日本語表現の意図的な崩しや元来の散漫、天衣無縫な手紙の書きぶりが災いし、コミュケーションがすれ違ってしまったのか、監獄に返信として届いたのは芳子が頼んだ有用な書類ではありませんでした。

焦る芳子はその後も粘り強く手紙を書き続けますが、1948年3月25日、ついに刑が執行されてしまいます。
この間、粛親王一族は誰も芳子に面会や差し入れに来なかったといいます。

この間、芳子はどれほど鬱々と、孤独で不安な気持ちで時間を過ごしたのでしょうか。

文献によると、監獄には、囚人労働場、書籍室、囚人室、囚人接見室、スポーツ場、医療室、浴室などの施設が設置されていたそうです。
5棟あった監視室はすべて扇形をしており、男女を分けて設置されていました。
扇の柄の部分の2階部分に監視台があり、同時に施設内を監視することができたそうです。

しかし、今となってはこの敷地のどこにどの施設があったのか、芳子はどこで処刑されたのか、まったく分かりません。



壁以外に監獄の痕跡が残っていないものか、うろうろと歩いてみました。

すると、10号棟の真裏にある西側の壁に貼りつくように建っている2階建ての古いレンガ造りの建築物を見つけました。





人目につかない場所なので、目立ちません。
おそらく、これは監獄の施設だったと思われます。

建物が壁の一部になっていますので、監獄の通用路を兼ねた管理施設だったのでしょうか。

この建物や東西に残る壁は、おそらく保存の目的もあって残されているのだろうと思いますが、それを示すパネルやサインボードの類はありません。







中国のネットを探しても、この古いレンガの建物を解説している情報は出てきません。住民に対する配慮もあるでしょうか。
少し気になるところです。

川島芳子がここで波乱の人生の幕を閉じたのは、今から73年前の今日(3月25日)のことです。
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