HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

旧満鉄大連病院

2015-06-21 | 大連を歩く
旧満鉄大連病院は、大連では最大規模の歴史建築です。
地下1階、地上4階で、延べ面積は9万平米です。
大連市内の地図を見ても、ひと目でその大きさに気が付きます。

当時は「東洋一の総合病院」と評されたそうです。


(1925年の建築です。威風堂々です)


(手の込んだ二重アーチの窓枠です)

大正時代にこれだけ大規模な病院を作ってしまうぐらいですから、当時、どれだけ大連という街が重視されていたかが想像できます。

大連出身で芥川賞作家の清岡卓行は、1940年代に進学のために東京で暮らしたときの思い出として、この建物を引用して著書で次のように述べています。

「大連からやってきた私にとって、東京は巨大な謎であった。当然、大連と比較しながら眺めたわけであるが、最初のうちは、たとえば本郷にある東大病院の前に立ったとき、建物だけについていうなら、大連の中心となっていた大きな円形広場のすぐ近くの小高い場所にそそり立つ大連医院のほうが、大きさも美しさもずっと上ではないかと、思いがけないことに驚いたり、自分の生まれ故郷のその施設にひそやかな誇りを覚えたりした。」

今は高層ビルに囲まれていますが、当時の写真を見ると、やや小高い丘の上に建っていたこともあり、かなり目立っていたようです。

設計と施工は米国のフラー建設会社です。大連の歴史建築で米国の建設会社とは珍しいですが、当時、フラー建設会社は三菱合資会社と合弁会社を設立し、東京の丸の内ビルヂングなどを手掛けた実績があるようです。

鉄筋の高層建築に実績のあったフラー社は、当時の先端技術だったコンクリート装置を導入しました。
しかし、いったん工事に取り掛かったものの、日本人や中国人、朝鮮人が入り組む現場に嫌気がさしたのか、工事途中で契約を解除するというトラブルもあったそうです。

その後、何とか日本側が工事を継続し、完成させました。
なるほど、わかるような気もします。

今も大連大学付属中山病院という名の総合病院です。
かつての「鉄路病院」という名前でも通用します。


(室内はこんな感じ)

内部はきれいにリフォームされていて、中に入ると築90年の老建築とは思えません。

私の日本人の知人が最近、急病でここに入院して治療を受けたのですが、後日、彼は、

「病気と治療はつらかったが、この歴史ある病院に入院できたのは記念になった」

と話していました。

たしかにそうでしょうね。
僕も病院嫌いなので入院は御免ですが、もしも何かの病気になって入院を迫られたとすれば、ここだといいな、と思います。


(大連市文物保護単位です)
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4 コメント

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Unknown (Unknown)
2015-08-09 09:04:22
病院内の院史館 日本侵略時代 当時の写真 医療機器 カルテなどが展示されています。他に 待合室の長椅子でしょうか? 背もたれの中心部は当時満鉄のマークが入っていたのでしょうか そっくり削られています。また金庫もあり よく見ると「東京小泉金庫製作販売」と社名が入っています。オルガンもあり外見からは会社名は分かりませんがYAMAHAでしょうか?…入場は無料です。
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忘れえぬ大連病院 (島田 浩)
2017-07-14 16:24:57
 終戦により旧制中学4年時、大連から引き揚げました、現在87歳の末期高齢者です。大連病院の写真3枚目、室内の様子を拝見、たまらなく当時を思い出しました。この病院には小学校時代から大変お世話になりました、当時小生は、現在の三八広場に面したアパートに住んでおりました。鮮明な写真、気持ちよく拝見させていただきました、ありがとうございました。以 上
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満鉄病院 (Unknown)
2018-08-28 13:21:53
祖父が内科医として一時勤務しておりました。祖父母は結婚して満州に渡りましたので、新婚時代を大連や奉天で過ごしました。
昨年、私が大連を訪れた時は病院の外観を見学しただけでしたが、次回は是非院内を歩いてみたいものです。
写真の掲載をありがとうございました。
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終戦直前、兄弟3人揃ってジフテリアにかかり入院 (真金町2ー4ー2)
2018-12-19 14:32:46
終戦前、父親の勤務先のこの病院に入院し賑やかに過ごした記憶がありありと。毎日夕方になると父親がやって来てお菓子を家族で食べ楽しい入院生活を送りました。看護婦さんが入ってくる時間を父は知っていてベッドの下に隠れ、出ていかれると埃だらけになって這い出てきた姿が忘れられない。この病院の偉容な姿は現在も…。引き揚げまで大変だったが…。その後幾度も訪ねては思いに耽っています。
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