Senkaku Library 尖閣ライブラリー

尖閣諸島は日本の領土である動かぬ証拠

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アメリカによる沖縄統治

2012-11-25 | 魚釣島の歴史
美國托管期間,在琉球路上開車如美國一樣是靠右邊而不是像日本一樣是靠左邊。後來美國在1971年與日本簽署「沖繩歸還協定」,歸還日本在舊金山和約中交給美國托管的島嶼。釣魚台作為琉球的一部分,當然也成為日本的領土。


1945年(昭和20年)のアメリカ軍による沖縄占領から、1972年(昭和47年)5月15日の沖縄本土復帰に至るまでの、27年間、沖縄はアメリカ合衆国により統治される。

沖縄では、この期間のことを「アメリカ世」(アメリカよ。沖縄方言では「アメリカゆー」と発音)と呼ぶ。


1971年、沖縄返還協定が締結され、沖縄は日本に返還された。
この時に、魚釣島(尖閣諸島)も沖縄の一部分として、当然ながら日本の領土に返還されている。



1945年4月1日:美軍在沖繩島戰役中登陸沖繩本島,並成立美國海軍政府。

米国による沖縄統治の経緯は、以下のとおりである。
1945年4月1日、沖縄戦でアメリカ軍が沖縄本島に上陸した日と同日に、琉球列島米国軍政府が設立される。


設立当初の琉球政府庁舎





1946年1月29日,佔領日本的盟軍總部頒布「關於將若干外廓地區在政治上行政上自日本分離之備忘錄」。

戦後、米国は、沖縄の占領を展開するに際し、旧沖縄県の範囲をそのまま引き継いでいる。

1946年1月29日、連合国最高司令官総司令部の「若干の外郭地域を政治上行政上日本から文理することに関する覚書」に対して、外務省が非公式にGHQに提出した「南西諸島観」の南西諸島一覧表には、赤尾嶼、黄尾嶼、北島、南島、魚釣島の島名を挙げて、尖閣諸島を沖縄県に含めていた。




・「群島政府組織法(米国軍政府布令第22号)」
・「琉球政府章典(米国民政府布令第68号)…琉球政府樹立の根拠法
・「琉球列島の地理的境界(米国民政府布告第27号)」…奄美諸島の返還に伴い、米国統治下の琉球列島の地理的境界を再指定したもの

以上の3つの法令文書には、琉球列島米国民政府、琉球政府等の管轄区域が緯度・経度で示されているが、尖閣諸島はその区域内に含まれている。

これらのことから、米国は沖縄統治期間中、尖閣諸島を一貫して沖縄の一部として扱っていたことは明らかである。



琉球政府旗幟



1950年日本帝國書院發行中學社會科課本日本地圖。
1950年、日本の帝国書院が発行した中学社会科教科書に掲載された日本地図。
沖縄返還前のため、国境線が沖縄と九州の間に引かれている。



1951年各國簽署舊金山和約
1951年 サンフランシスコ講和条約締結




《舊金山和約》第3條:
“日本同意美國對北緯29度以南之南西諸島(含琉球群島與大東群島)、孀婦岩南方之南方各島(含小笠原群島、西之與火山群島),和沖之鳥島以及南鳥島等地送交聯合國之信託統治制度提議。在此提案獲得通過之前,美國對上述地區、所屬居民與所屬海域得擁有實施行政、立法、司法之權利。”


サンフランシスコ講和条約 第3条

日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)、孀婦(そふ)岩の南の南方諸島(小笠原群島、西ノ島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。


サンフランシスコ講和条約は、1951(昭和26)年、第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約。中国はこの条約に加わっていない。


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下は、サンフランシスコ講和条約が締結された同年、1951年に、米軍が作成した台湾の地図である。
魚釣島諸島(尖閣諸島)は、台湾の領域には含まれていない。


1951年美軍臺灣地圖中,釣魚台列嶼在臺灣境外,舊金山和約美國託管區內,並以尖閣群島標示。(美國州大學圖書館收藏AMS地圖)

"Map to Illustrate Territorial Clauses of THE JAPANESE PEACE TREATY"
United States, 82nd Congress 2nd session, SENATE,Executive Report No.2, Japanese Peace Treaty and Other Treaties relating to Security in the Pacific / Report of the Committee on Foreign Relations on Executives , A, B, C and D, Washington: United States Government Printing Office, 1952

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台北和約

第11條 除本約及其補充文件另有規定外,凡在中華民國與日本國間因戰爭狀態存在之結果而引起之任何問題,均應依照金山和約之有關規定予以解決。

Article 11

Unless otherwise provided for in the present Treaty and the documents supplementary thereto, any problem arising between the Republic of China and Japan as a result of the existence of a state of war shall be settled in accordance with the relevant provisions of the San Francisco Treaty.

第十一条

この条約及びこれを補足する文書に別段の定がある場合を除く外、日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は、サン・フランシスコ条約の相当規定に従つて解決するものとする。




蔣介石批准


米国占領下の尖閣諸島

2012-11-23 | 魚釣島の歴史
1951年由48個代表盟軍的國家與日本簽署的舊金山和約,釣魚台並未包含在日本放棄領土範圍之內,而是在第三條聯合國托管範圍之內。當時兩岸由誰代表中國與日本簽署和約的問題也浮上檯面,最後蔣介石透過美國施壓及派外交部長葉公超對日本交涉成功。1952年,舊金山和約即將生效前,我國與日本簽定的中日和約,日本依舊金山和約第二條之內容,放棄對於台灣及澎湖群島以及南沙群島之一切權利、權利名義與要求。因為舊金山和約內容不包含釣魚台,釣魚台就沒隨著台灣被轉移到中華民國轄下,當時兩岸對此也不以為意。

1951年、サンフランシスコ講和条約により、尖閣諸島は沖縄の一部として、アメリカ合衆国の占領下に入る。

中国が尖閣諸島を台湾の一部と考えていなかったことは、サンフランシスコ平和条約第3条に基づき、米国の施政権下に置かれた地域に、尖閣諸島が含まれている事実に対し、一度も異議を唱えたことがないことからも明らかである。

サンフランシスコ講和条約では、終戦以前の日本の領土のうち、日本が放棄する地域と、日本に残される地域とが、具体的に規定された。

第2条 日本が台湾及び澎湖諸島を放棄すること
第3条 北緯29度以南の南西諸島については、日本に主権が残される。米国が国連に信託統治を提案するまでの間、米国が同地域及びその住民に対して、三権を行使できること


(※以下、「尖閣諸島は日本固有の領土である」茂木弘道著 P.109より)

51年の対日講和条約第3条は、「(琉球列島と大島諸島を含む)北緯29度以南の南西諸島」の統治権はすべて米国に付与した。53年には米琉球政民政府は、布告27号で「北緯29度以南南西諸島」には尖閣諸島をも含むことを示す境界を定義づけた。


米国統治下に置かれた範囲を示す地図


沖縄返還協定の調印時には、米国務省高官数人が、対日講和条約の調印の際に「北緯29度以南の南西諸島」には尖閣諸島が含まれることを、日米両国が了解していた、と言明した。


沖縄返還時には、上記の地図の範囲内が、米国から日本へ返還された。
当時の朝日新聞が、返還範囲の地図を一面で掲載している。
上記の、「琉球政府行政地域」範囲を踏襲したものであり、「尖閣諸島」の文字がはっきり読み取れる。





一九五二年二月二十九日美國琉球民政府以布令第六十八號頒布的「琉球政府章典」,三月發行的日本外交文書第二十三卷,一九五三年十二月二十五日美國琉球民政府以布告予二十七號公布之「琉球列島之地理境界」,一九五四年布令第百二十五號琉球群島進出國管理令,一九五五年三月十六日布令第百四十四號「刑法與訴訟手續法典」等公文書,均包含釣魚台。

1952年2月29日、米国琉球民政府は布令第68号「琉球政府章典」を交付。
3月に発行した日本外交文書第23巻、1953年12月25日に米国琉球民政府布告27号「琉球列島の地理(学)の境界」を発行。
1954年の布令第1255号では、「琉球群島進出国管理令」、1955年3月16日には布告第144号「刑法と訴訟の手続き法典」などの公文書を発行していますが、すべて釣魚島をその施行管轄に含んでいる。

美國認定釣魚台為日本托管的領土,也就承認赤尾嶼為日本國有土地,黃尾嶼為古賀善次的私有民地,自一九五五年起將該兩島使用為美國海空軍演習場地後 ,分別與琉球政府及古賀善次簽訂租賃契約,支付租金,琉球政府對登記為古賀善次所有的四島做徵收土地稅,對美國支付給古賀善次的租金也徵收所得稅。


日本は、米国施政権下においても、琉球列島米国民政府あるいは琉球政府の行為という形で、以下のような実効的な支配を継続した。

<諸島の使用と徴税>

1951(昭和26)年、久場島と大正島に米海軍の爆撃演習海域が設定され、久場島は特別演習地域に指定された。
1956(昭和31)年4月、大正島が演習地域に指定された。

1958(昭和33)年7月 久場島は、古賀善次氏の私有地であったことから、米国民政府は琉球政府を代理人として、同氏との間に基本賃貸貸借契約を結び、賃借料を支払った。琉球政府はこれ以前から、古賀氏の所有する魚釣島ほか4島について、固定資産税を徴収しており、新たに久場島の賃借料から得られる収入についても、源泉徴収を行った。

久場島的軍用地基本賃貸借契約書




戰後琉球大學教授高良鐵夫也對釣魚台進行生態調查
戦後、琉球大学の高良鉄夫教授は、魚釣島の生態調査を実施している





黃尾嶼美軍演習用模擬彈



赤尾嶼美軍砲彈
 




台湾は、南小島の難破船撤去のため、琉球政府に上陸申請を出していた!

2012-11-23 | 魚釣島の歴史

古賀家在釣魚台一直住到太平洋戰爭爆發才撤離,甚至現在島上仍保有古賀家開墾遺跡,這比保釣人士的〝台灣漁民傳統漁場〞更有〝使用〞意義。


1952年魚釣島鰹節工廠遺跡



鰹節工廠遺址



魚釣島唯一一座人工碼頭



南小島開墾遺跡


黃尾嶼古賀家的人工坡道




【目前釣魚台屬於日本的真正原因】

其實跟歷史上誰先發現或誰先佔都無關,太平洋戰爭末期釣魚台屬於琉球戰區,由第32軍負責防守。1945年4月1日美軍登陸沖繩島成立美國琉球軍政府,同年日本宣布無條件投降後旋即被以美軍為首的盟軍監管。根據一般命令第一號,琉球日軍應向美國太平洋艦隊總司令投降,自然美軍也就將釣魚台視為琉球的一部分予以接管。

 

歴史上、誰が最初に発見したか、あるいは誰が先に支配していたかということとは関係なく、太平洋戦争の末期、魚釣島は琉球戦区に組み入れられていた。牛島中将率いる大日本帝国陸軍の第32軍が、尖閣諸島の防衛を担当していた。

1945年4月1日、米軍は沖縄に上陸し、米国施政権下で、琉球国政府が成立する。

 

1945年4月12日久場島海域被日軍菊水特攻作戰攻擊的美軍佈雷艦林賽號


琉球日軍降書

同年、日本の無条件投降後、連合国軍の管轄下に入る。沖縄の日本軍は米軍に投降し、米軍は魚釣島を琉球の一部とみなして、接収したのである。

1946年1月29日的盟軍最高總司令部訓令第667號,明定將北緯30度以南之南西諸島,由日本領土分離。1950年8月4日美國琉球軍政府以布令第二十二號頒佈的「群島政府組織法」中,釣魚台隸屬八重山群島政府管轄。

1946年1月29日、連合国軍最高総司令部訓令第667号により、北緯30度より南の南西諸島が日本領土から分離された。
1950年8月4日、米国琉球軍政府は「群島政府組織法」の中で、釣魚島を八重山群島政府の管轄とした。

所以保釣人士提出戰後有台灣人在島上開工廠和國軍短暫停留;還有台灣漁民傳統漁場作為對釣魚台歸屬證據是很可笑的,因為當時釣魚台已經屬於美國的托管的島嶼。

魚釣島は我が領土と主張する台湾人たちは、(戦後、尖閣諸島はすぐにアメリカに接収されたので、)島に上がれたのはほんの短い期間に過ぎなかった。それなのに、「魚釣島に台湾漁民の伝統的な漁場がある」というのだから、大笑いだ。当時、魚釣島はアメリカの統治下にあったのだから、台湾の漁場であった期間は、ほとんどなかったはずだ。

而且台灣工人非法入境拆除沉船,被琉球境管官員驅離南小島後,按照該琉球官員的指導,向琉球政府申請入境許可才登陸開工的。保釣人士拿此作為對領土提出異議的根據可說自打嘴巴,等於承認釣魚台屬於琉球。


※以下、Wikipedia「尖閣諸島問題」より一部抜粋

1960年代に入っても尖閣諸島に大量の台湾人漁民が入域し、島に生息する海鳥とその卵を乱獲したほか、付近海域で密漁する事態は続発していた。1968年に行われた調査では台湾漁民による資源の収奪による激減ぶりが明らかになった。調査団は台湾人に食べられた大量の海鳥の屍骸や漁船だけでなく、南小島において台湾人60人が難破船を占拠しているのも確認している。

南小島の占拠者であるが、退去勧告を発し再度の入域を希望する場合には許可証を得るように指導した。彼らは解体作業を片付けるために翌年にかけて入域したが、この時は琉球列島高等弁務官の入域許可を得た合法的な行為であり、この措置に対し台湾の中華民国政府からの異議はなかった。

(転載おわり)

 

1968年10月6日の台湾「聯合報」は、「琉球は、我々が尖閣諸島で漁船作業をすることを禁止した」と報道している。

これはおそらく、1968年に不法に尖閣諸島に上陸した台湾漁60名が難破船を占拠しているのを琉球政府が発見、退去勧告を発したことを指すと思われる。この時、琉球政府は台湾漁民に対し、「再度の入域を希望する場合には許可証を得るように」と指導した。

このことを、「聯合報」は「琉球政府が、我が国の漁民が尖閣群島の魚釣島、南小島で漁をすることを禁じれば、これは深刻な問題だ」と報じている。「尖閣」「魚釣島」という日本名で呼んでいることや、尖閣諸島が琉球政府の管轄下にあることを認識した記事となっている。


10月6日的台灣“聯合報”在“琉球尖閣群島﹐禁我漁船作業”的一篇報導中說﹐“如果琉球政府禁止我國漁民進入尖閣群島的魚釣島、南小島,對於本省在北方海域作業的漁船,將造成嚴重妨礙。”



 


古賀村の人々

2012-11-23 | 魚釣島の歴史
古賀辰四郎らは、魚釣島だけではなく、尖閣諸島の他の島々にも生活の基盤をつくり、「古賀村」として集落が存在していたことがわかっている。

黃尾嶼(久場島)的古賀村





南小島



明治時期魚釣島西北部和平山事務所



魚釣島上綻放的百合花




古賀辰四郎(攝於島上鰹節工廠)
これが古賀辰四郎の写真として、唯一残っているもの














1918年(大正七年)古賀辰四郎在釣魚台的事業,由其次子 古賀善次繼承
1926年(昭和元年)無償租借期滿,古賀善次開始向日本政府繳納租金

1932年,古賀善次再向日本 政府申請購買售已列入日本政府國有土地的釣魚台島、黃尾嶼、南小島、北小島等四島,該四島乃成為古賀善次的私有地,古賀善次依照日本政府的土地稅法,每年向日本政府繳納土地稅。


1895(明治28)年に、尖閣諸島は日本領土として編入された。
1896(明治29)年、魚釣島と久場島は八重山郡に編入され、南小島、北小島と合わせて国有地に指定された。

同年9月、政府は魚釣島、黄尾嶼(こうびしょ。久場島を指す)、南小島、北小島を30年間、無償で古賀辰四郎に貸与することを決定する。30年間の無料貸与期間後は、1年契約の有料貸与となる。

1932(昭和7)年、尖閣諸島は、古賀辰四郎の息子、古賀善次に払い下げられ、4島は古賀善次の私有地となった。
以後、古賀善次氏は毎年、日本の土地税法に基づき、政府に土地税を支払っている。


魚釣島の謄本


古賀家魚釣島的推薦書


国の各期間や沖縄県も、たびたび尖閣諸島の実地調査を行うようになり、その成果は地図や海図に反映された。あさらに資源調査、地形調査、気象測候所調査などの各種の調査も実施されている。


古賀村の人々
前列中央が、古賀善次氏。



尖閣諸島には、移民が次々に移住し、アホウドリの羽毛の採取、海鳥の糞の採掘、水産加工業などの事業を行い、太平洋戦争が激しくなるまで、300人近い島民が居住していた。

この間、日本の主権行使について、どこの国からも、一度たちろも抗議がきたことはなかった。


昭和15年、戦争の激化により油の配給などが途絶えたため、古賀一族と従業員は、一時的に那覇や石垣島に引き揚げ、戦後、無人島となった。
しかし、アメリカの管理下においても、古賀家は固定資産税を沖縄に払い続け、土地の所有権は認められていた。

戦後の米国占領下においても、米国民政府下の琉球政府が、実効支配の多くの業務を行っていた。





古賀辰四郎による開拓が始まる

2012-11-18 | 魚釣島の歴史
另外1896年8月,日本政府內務省以免除使用費,期限30年為條件,核准將魚釣島和黃尾嶼租借給古賀辰四郎。古賀辰四郎在釣魚台建造小型碼頭、海產加工工廠、宿舍等建築物,並種植芭蕉、甘蔗、甘藷等 農作物,
1909年向內務省報告移民有90戶,共248人,開墾面積有六十多畝,11月古賀辰四郎獲得明治政府頒贈藍綬褒章表揚。


明治17(1884)年頃から尖閣諸島で漁業等に従事していた沖縄県在住の民間人、古賀氏から国有地借用願が出され、明治29(1896)年に、明治政府は、4島を30年の期限で古賀辰四郎に貸与することを許可した。古賀辰四郎氏は、この政府の許可に基づいて、尖閣諸島に移民を送り、羽毛の採集、鰹節の製造、珊瑚の採集、牧畜、缶詰製造、憐鉱鳥糞の採掘等の事業を経営した。

このように、明治政府が尖閣諸島の利用について、個人に許可を与え、許可を受けた者がこれに基づいて同諸島において公然と事業活動を行うことができたという事実は、同諸島に対する日本の有効な支配を示すものである。


当時の琉球新報に掲載された、無人島への出稼ぎを募集する古賀商店の広告



古賀は、大勢の人々を移住させて、魚釣島、久場島などの開拓を開始した。

いかにして移民を安全に生存させるか、食糧の補給はどうするか、病気災難に対する救護の手段など、課題は山積していた。
そこで明治33年、古賀は上京して東京帝国大学の理学博士に教えを乞い、理学士、宮島幹乃介を紹介される。
宮島は沖縄師範学校の黒岩恒教諭とともに、尖閣に上陸して現地調査を行う。
そのレポートが、明治33年の『地学雑誌』に連載されている。

宮島、黒岩からの助言を受け、古賀辰四郎は尖閣の開発の基本様式を定める。

1.鳥類漁獲の乱獲を戒め、繁殖方法を講じ、種族断絶の憂いなからしむこと。
2.家屋を建て、移住者の安息を図ること。
3.船着きの安全と海陸運搬の利便を図るため、船の碇(いかり)つなぎ所を設けること。
4.久場島には河泉のよるべ無きが故に、雨水蓄槽を設けること。
5.道路を開墾し、かねて汚物排除の方法、その他、衛生的設備を講ずること。


この方式に基づき、古賀は工事を行ってゆく。










「尖閣列島行きの子供上陸す」の記事(1908年5月13日 琉球新報)



「古賀辰四郎氏の経営せる尖閣列島へ移住すへき十一人の小供は福島縣安積郡日和田より熊田平二郎氏が連れ来りしが其の小供等の年齢を聞くに十一歳より七歳迄なりと云ふ。」


1909年には、内務省に寄せられた報告によると、尖閣諸島への移民は90世帯、248名に達した。


沖縄県や海軍により、尖閣諸島の正確な測量が実施される

2012-11-18 | 魚釣島の歴史
<沖縄県臨時土地整理事務局による測量>

1902年12月,沖繩縣臨時土地整理事務局對釣魚台列嶼實施實地測量,製作各島的正確縮尺圖。
1902年12月、沖縄県臨時土地整理事務局が、尖閣諸島の測量を実施し、各島の正確な縮尺図を作成した。



<日本海軍による測量>

1915、1917年 日本海軍水路部;1931年 沖繩營林署對釣魚台進行測量工作,日本農林省資源調查團赴該列嶼勘查,日本氣象局在釣魚台建設測候所。

1915年・1917年には日本海軍が、1931年には沖縄営林署が、魚釣島の測量を実施している。
日本の農林省の資源調査団は、尖閣諸島の調査を行っている。
気象局も、魚釣島に測候所を建設している。

日本水路誌 第六巻 南西諸島・台湾及澎湖列島(1919年7月 海軍省水路部作成)


<沖縄県統計書>

1919年 沖繩縣統計書將釣魚台登記在沖繩縣八重山郡石垣村下,
1919年(大正8年)、沖縄県統計書によると、魚釣島が沖縄県八重山郡石垣村下と登記されている。

沖縄県統計書(1919年・大正8年)


尖閣諸島の部分の拡大図



面積も記載されている



<大日本帝国 陸地測量部による測量>

1933年 大日本帝國陸地測量部繪製「吐噶喇及尖閣群島地圖」
1933年、大日本帝国陸地測量部による「トカラ及尖閣群島」



1936年、日本陸軍參謀本部陸地測量部繪製魚釣島、黃尾嶼地圖。
1936年、陸軍参謀本部陸地測量部により測量が行われた。

魚釣島の拡大図



明治時代の『地学雑誌』に尖閣諸島探検記掲載

2012-11-18 | 魚釣島の歴史
1900年岩恒和宮嶋幹之助登島調查,其報告登載於地學雜誌。

1900(明治33)年、黒岩恒と宮島幹之助が尖閣諸島に上陸し、調査を行った。その報告が、『地学雑誌』に「探険記事」として掲載されている。

 ※『地学雑誌』第140巻 尖閣列島探検記事 - 黒岩 恒
  『地学雑誌』第141巻 尖閣列島探検記事承前 - 黒岩 恒
  『地学雑誌』第142巻 沖縄県無人島探検談 - 宮嶋幹之助
  『地学雑誌』第143巻 黄尾嶼 - 宮嶋幹之助
  『地学雑誌』第144巻 黄尾嶼 - 宮嶋幹之助
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尖閣領有を閣議決定、沖縄県に編入

2012-11-18 | 魚釣島の歴史
<古賀辰四郎による開拓>

「尖閣諸島は日本固有の領土である」(茂木弘道・著)
(転載:史実を世界に発信する会HPより)
http://hassin.org/01/literature/takeshimasenkakuislands/1389

明治17(1884)年、福岡出身の古賀辰四郎は、尖閣諸島を巡航し、黄尾嶼(こうびしゅ)に上陸した。以後、石垣島を根拠地として、尖閣諸島でアホウドリ羽毛の採取や魚介類の採取に従事した。

明治18(1885)年、古賀辰四郎は、黄尾嶼の開拓許可を沖縄県令に願い出る。

明治18(1885)年1月、内務省は沖縄県に対し、「沖縄県と清国福州の間に散在する無人島」、すなわち尖閣諸島の調査を命じた。

沖縄県令 西村捨三は前記大城永保の調査に基づく報告を、県役人大沢兵吾より受け、同年9月22日、内務卿あてに「沖縄に属することにしても支障ないと考えるが、なお実地調査を行いたい」旨、上申した。同時に、大沢兵吾にさらなる実地調査を命じた。

同年10月、大沢は警部補他3名を伴い、出雲丸に乗り込み、実地調査を行った。
11月4日に詳細な報告書を提出した(出雲丸船長も報告書を提出している)。
これに基づき、西村県令は11月5日、再度、沖縄県への組み入れのための国標設置を、内務卿宛てに上申した。


明治17(1884)年,来自福岡的古賀辰四郎巡航此列嶼,在黄尾嶼上陸,之后,他以石垣島为根据地,在这些島上采取信天翁的羽毛和鱼貝類,18(1885)年,他向冲绳县令申請开发黄尾嶼的許可。

明治18(1885)年1月,内务省対沖縄県发出調査「沖縄県和清国福州之間散在的无人島」的命令,沖縄県令西村舍三将从石泽兵吾手中接到大城久保的調査報告后, 同年9月22日, 西村向内務卿表示, 将島嶼应归属于冲绳是没有問題的, 但还有需要遂行実地調査, 同时命令石泽兵吾到島嶼作実地調査。同年10月, 石泽在三位警部補的陪同之下, 坐着出云号船遂行実地調査, 在11月4日提出了詳細的報告, 出云号船長也提出了報告, 以这些資料为基础, 西村在11月5日再度向内務卿上申島嶼并入沖縄県建立国標的許可。

In 1884, Koga Tatsushiro from Fukuoka, Japan sailed around the Senkaku Islands and
landed on the island of Koubishu (known as Huangwei Yu Island by China), now known
as Kuba Island by Japan.

Shortly after his initial encounter, Koga began harvesting the albatross feathers, fish, and shells of the Senkaku Islands using Ishigaki Island as his base.

And, in 1885, Koga sent a letter to the governor of Okinawa requesting permission to
develop the island of Koubishu.

In January 1885, the Ministry of Home Affairs of Meiji Government ordered Okinawa
prefecture to conduct surveys on“the uninhabited islands scattered between Okinawa,
Japan and Fuzhou, Fujian, China,”that is, the Senkaku Islands.

After examining Osawa‟s reports made to Okinawa prefecture that were based on shiro‟s
aforementioned survey findings, Sutezo Nishimura, the then-governor of Okinawa, sent a letter on September 22 of that year to the minister of Home Affairs, stating that though the incorporation of the Senkaku Islands into the territory of Okinawa would not cause problems, he wished to conduct more field surveys.

Meanwhile, Nishimura ordered Osawa to conduct further field surveys.
In October of 1885, Osawa boarded the Izumomaru with an assistant police inspector and three other officials to oversee further field surveys.

On November 4, Osawa submitted detailed reports to Nishimura. In addition, the aptain of the Izumomaru also submitted his own report. Based on the reports, governor ishimura sent a second letter, dated November 5, to the minister of Home Affairs proposing the erection of national territorial markers on the islands to indicate their incorporation by Okinawa prefecture.



この時は、外務卿、井上馨の判断により、清国政府の猜疑を招く恐れがあるので、実地調査と報告のみにとどめ、国標建設は見送っている。
しかしそれは、清国の支配が尖閣諸島に及んでいたためではなく、清国を刺激するのを恐れた判断であった。



該縣令乃派遣石澤兵吾等五名官員搭乘大阪商船會社的出雲丸(輪),赴釣魚台實地勘查後提出「釣魚島外二山鳥嶼巡視取調 概略」報告書,及出雲丸船長林鶴松的「魚釣、久場、久米赤山鳥回航報告書」。

經數次調查確認釣魚台上面毫無界碑,官廳或居民等清朝統治的跡象認定為無主之地。
保釣人士引用1885年日本駁回沖繩縣在釣魚台設立國標的公文,宣稱是日本竊取中國領土的鐵證。其實這份資料是日本學者在尖閣諸島問題所提出,也不是什麼秘密,日本在1890年和1893年也駁回沖繩縣申請。

1894年以前日本對釣魚台始終在調查階段,直到1895年1月14日的日本內閣會議才決定「內務大臣請議,位於沖繩縣下八重山 群島西北,稱久場島、魚釣島等無人島,認應為沖繩縣所轄,在許可該縣知事之申請,建設標杭」正式將釣魚台劃入琉球所轄之日本領土之內。


1894年まで、日本は魚釣島の調査を続けてきた。
明治23(1890)年1月13日、尖閣付近の漁業が盛んに行われるようになってきたので、沖縄県知事から、水産取り締まりの必要もあり、八重山島役所の所轄に定めたいので、国標建設を行いたいと、内務大臣宛の上申書が提出された。

明治27(1894)年12月27日、内務大臣・外務大臣が協議の上、国標建設の件を閣議に提出することになり、尖閣諸島の日本領有を決定した。

明治28(1895)年1月14日の閣議で正式決定される。日清戦争終結の2カ月前のことであった。




明治12年 魚釣島が日本地図に記載される

2012-11-17 | 魚釣島の歴史

日本は、魚釣島が清朝にも琉球にも台湾にも属さないことを調べ、国際法上にも無主の地であることを確認した上で、先占の権利に基づいて実効支配し、魚釣島を取得した。

既然知道釣魚台在清朝不屬於琉球和台灣,日本是根據國際法上的無主地先佔和實效性統治行為取得釣魚台的。

「尖閣諸島は日本固有の領土である」(茂木弘道・著)
(転載:史実を世界に発信する会HPより)
http://hassin.org/01/literature/takeshimasenkakuislands/1389

尖閣諸島は疑う余地なく日本固有の領土である。しかし、固有の領土であるという事は、必ずしも古来から日本の領土であった、ということを意味するものではない。尖閣諸島は長い間、無主の地であった。絶海の孤島(群)で、住む人はなく、近海での漁業もおこなわれていなかった。航海の標識島として認識されてきたが、ここを領域として管理する国は存在していなかった。琉球の領域でもなかった。

尖阁诸岛无可置疑就是日本固有的领土。但是, 所谓的固有领土, 未必一定是自古以来属于日本的领土。尖阁诸岛一直都是无主之地, 在这些孤岛上不仅毫无人烟, 邻近海域也没有进行过任何的渔业活动, 只是一群象征着航海指标的岛屿, 没有任何一个国家有权管理这个区域, 也不属于琉球的管区。

There can be no doubt that the Senkaku Islands are an inherent territory of Japan.
However, being an inherent territory does not necessarily mean that the islands had belonged to Japan since ancient times.

The islands were originally terra nullius (land belonging to no one). Situated in a remote area of the ocean, the islands had, for eons,remained uninhabited. There were no fishing activities in the sea around the islands, though the islands were used as markers for navigational purposes.

No countries administered the islands as their territory, nor were they part of the territory known as the Ryukyu Kingdom.




A:日本對釣魚台的無主地先佔:

1609年 日本九州的薩摩藩派兵入侵琉球,琉球成為薩摩藩的藩屬。
1872年 將琉球王國降格為日本政府所屬的琉球藩,惟仍以琉球國王為藩王。
1874年 牡丹社事件日本成為琉球宗主國。
1879年 日本廢止琉球藩,改設沖繩縣。

1879年3月 日人松井忠兵衛編製,經日本政府內務省審查通過出版的大日本全圖將釣魚台列嶼劃入日本版圖。



日本が尖閣諸島に対して、領有の意思を持ち始めたのは、1879(明治12)年の琉球処分の頃と思われる。この年に発行された『大日本全県地図』、および同年発行の英文の『大日本全図』で、尖閣諸島は琉球諸島に含められている。

これら2つの地図は、いずれも私人(松井忠兵衛)が作成し、内務省の版権を得て刊行された。



尖閣列島、和平島(釣魚島)、赤尾嶼(せきびしょ)、黄尾嶼(こうびしょ)などが日本領土として記載されている。

由当时的地图得知, 明治 12(1879)年, 出版的「大日本全县地图」(松井忠兵卫编)上的和平岛(鱼钓岛)、赤尾屿、黄尾屿等岛屿已载入日本领土。

In examining maps from the period, we see the map “Dai Nihon Zenken Chizu” (Map
of Japan‟s Prefectures) Matsui Chube, ed., published in 1879, showing Wahei Island
(Uotsuri Island), Sekibisho and Kobisho as Japanese territory.


また、同年刊の『大日本全図』(柳田赳編)にも、尖閣諸島が沖縄列島の中に記載されている。

还有同年出版的「大日本全图」(柳田赴编) 上也将尖阁诸岛载入冲绳列岛中

In another map, “Dai Nihon Zendo” (Map of Japan) Yanagida Takeshi, ed., published in the same year, the Senkaku Islands were drawn as part of the Okinawa Islands.


『大日本全図』(柳田赳編)
明治大学図書館所蔵 古地図コレクションより


その後も、明治18(1885)年発行の『日本沖縄宮古八重山諸島見取図』(賀田貞一編)、明治19(1886)年発行の『大日本測量全図』(下村孝光編)、同年発行の『洋語挿入大日本輿地図』(吉川秀吉編)などに、尖閣は日本領と記載されている。これらは民間版であるが、内務省認可となっている。

之后在明治18(1885)年发行的「日本冲绳宫古八重山诸岛见取图」(贺田贞一编)、明治 19(1886)年发行的「大日本测量全图」(下村孝光编), 以及同年发行的「洋语插入大日本舆地图」(吉川秀吉编) 等, 都将尖阁诸岛记载为日本的领土。这些地图虽然都是民间出版的, 但都是通过内务省认可的。

Furthermore, the maps“Nihon Okinawa Miyako Yaeyama Shoto Midorizu”(Map of Japan‟s Okinawa, Miyako, and Yaeyama Islands) Kada Sadakazu ed., published in 1885,“Dai Nihon Sokuryo Zenzu”(The Survey Map of All Japan) Shimomura Takamitsu, ed,published in 1886, and “Yogo Sonyu Dai Nihon Kyo Chizu”(Map of All Japan with English-anguage Inserts) Yoshikawa Hideyoshia, ed., published in the same year, all contain wording that treat the Senkaku Islands as part of Japanese territory.
The drafting of these maps, though privately sponsored, was approved by the Ministry of Home Affairs.

『洋語挿入大日本輿地図』(吉川秀吉編)


公的なものとしては、明治12(1879)年、内務省地理局発行の『大日本府県管轄図』に魚釣島が出ている。これが、日本政府が世界に向けて、魚釣島領有の意思を示した最初の公的地図と思われる。

1879年12月,明治政府內務省地理局正式出版的「大日本府縣管轄圖」正式然將釣魚台列嶼標示為構成琉球群島之一部分,也就是公開向世界宣示日本政府佔有釣魚台的意思。

As for government publications, Uotsuri Island is mentioned on the map“Dai Nihon
Fuken Kankatsu Zu”(Map of Japan‟s Prefectural Jurisdictions) published in 1879 by the Geography Division, Ministry of Home Affairs.



從和平山(Hoa-Pin-Sun)變成花瓶島。

「海溝」で領土を決めると、こんなことになる

2012-11-17 | その他
拿〝大屯山脈入海延伸並與沖繩島有海溝相隔〞當台灣領有釣魚台的理由,可是地質上台灣東部也是菲律賓版塊的延伸,難不成保釣人士也要主張台灣東部是菲律賓的領土?

台湾が釣魚島を領有する「地質学的理由」を適用すると、
台湾東部は、フィリピン領になってしまうが、それでもよいのですか?





美屬關島跟美國本土也隔著馬理亞那海溝距離又遠 ,保釣團體是否也要說關島不屬於美國?

また、グアム島はアメリカの領土だが、グアムとアメリカの間には、マリアナ海溝がある。
それでも、グアムはアメリカ領だ。








就連中國一向主張擁有主權的南沙群島從大陸棚來看跟中國也沒關係。




台湾との漁業権問題

2012-11-17 | その他
再從地理位置看,與那國島離台灣比釣魚台更近,關係更是深厚,也是台灣漁民的傳統漁場,,要是釣魚台算台灣領土,請問夾在台灣和釣魚台之間的與那國島怎麼辦?

任何要把釣魚台當中國或台灣固有領土的證據都更適用於與那國島,為什麼中國只喜歡釣魚台卻偏偏放過與那國島??

如果要爭經濟海域,那台日重疊最嚴重的是與那國島才對。


与那国島は、釣魚島よりさらに台湾に近い島で、台湾との関係もさらに深い。
台湾の漁民は、与那国沖を伝統的漁場にしてきた。

もしも釣魚島が台湾の領土だとするなら、ではちょっとお聞きしますが、台湾と釣魚島の間に位置する与那国島は、いったいどうするのでしょうか?

中国や台湾は、釣魚島は我が固有の領土と、あらゆる証拠を出してきているが、
与那国島をどうして見逃すのでしょうか?



保釣人士宣稱如果釣魚台是日本的,台灣漁民將無法出海捕魚。可是日本跟韓國、俄羅斯也同樣經濟海域重疊。從日本對馬島西海岸,到韓國釜山東部的海岸,距離約50公里。如果各國都劃200海浬還得了,日本並沒有把經濟海域劃到台灣。

もしも釣魚島は日本の領土と公言すれば、台湾の漁民はもう出漁できなくなる。
日本はロシアや韓国に200海里の経済海域を定めているが、台湾には割り当てていない。




日本國領土
日本國領海(Territorial Waters:內水+領海12浬)
接續海域(Contiguous Zone)
經濟海域(Exclusive Economic Zone:200浬)
以外(公海、他國領海)
他國領土


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尖閣:漁業権、日台歩み寄り…周辺に共同水域、予備協議へ(2012年11月04日 毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/20121105k0000m010079000c.html


日本と台湾の間で再開に向けて進めている沖縄県・尖閣諸島(台湾名・釣魚台)海域の漁業権を巡る協議で、日台双方が相手側の許可を受けずに漁船が操業できる共同水域を設ける方向で歩み寄りを見せていることが、交渉筋の話で分かった。00年6月に発効した日中漁業協定では、北緯27度以北に共同水域である「暫定措置水域」を設置しているが、日台間でも、同様の水域を北緯27度以南に設置する可能性が高まっている。

 尖閣諸島の主権問題を巡り、日中の対立は早期解決が難しい情勢だが、日台は東シナ海の安定に向け共同歩調を取り始めている。日本には、台湾に尖閣共同防衛の呼びかけを強めている中国をけん制する狙いがあり、台湾側にも、長年の懸案である日台漁業問題の解決を前進させるメリットがある。

 日中漁業協定では、暫定措置水域の南側の尖閣諸島を含む北緯27度以南、東経125度30分以西を互いに自国の関係法令を適用しない「協定水域」としているが、実際には両国とも漁船の操業を規制している。日台の交渉筋によると、台湾に近いこの水域は将来、日台間で漁業協定を締結することを考慮し、日中間であえて明確な取り決めをしなかったという。

 共同水域の範囲については、日本側はより小さく、台湾側はより大きくしたい意向で調整は容易ではない。だが、日本の交渉筋は「過去の協議と異なり、日台共に漁業問題を解決したいという方向を向いている」という。

 台湾の交渉筋も漁業協定締結を目指して「長期戦は覚悟」と述べ、近く東京で予備協議を開きたい考えを示した。

カイロ会談に参加したチャーチルすら否定する「カイロ宣言」

2012-11-17 | カイロ宣言
保釣人士先是拿出一堆古代模糊的文獻、地圖記載為佐證硬凹釣魚台自古以來屬於中國,再拿出開羅宣言宣稱日本歸還台灣就等於歸還釣魚台,這也是搞笑。開羅宣言根本沒簽名,也不叫開羅宣言而是新聞公報。美國國家檔案局答覆時已經說明了:它只是一份公報聲明。而且在美日簽署「沖繩歸還協定」時,台灣外交部就指責美國違反開羅新聞公報和菠次坦宣言,可是美國也不鳥他。我勸保釣人士不要保釣不成,連台灣也沒了。

魚釣島の領有を主張する人々は、まず古代のわけもわからぬ文献を引っ張り出してきて、これが証拠だという。
そして、地図に釣魚台の記載があるからといって、古来より中国の領土なのだという。

はてには、「カイロ宣言」などというものを持ち出し、日本が台湾に釣魚台を返すなどという。おかしくて笑いがとまらない。

しかし、このカイロ宣言には、署名も何もない。
これはプレスコミュニケではない。これはアメリカ政府の書類局に返されたものだ。



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カイロ宣言は、日本による中国への台湾の「返還」を謳ったとされるもの。
確かにカイロで、ルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相、蒋介石による会談が行われたことは事実だが、「カイロ宣言」なるものがあったというのは、中国だけが一方的に主張していることで、この「カイロ宣言」という宣言文には日付も署名もない。

チャーチルは国会答弁で、この「カイロ宣言」に対し、「同意できない」「カイロ宣言の部分は、完全にだまされた」と述べている。

台湾の陳水扁総統(当時)は2008年、「『カイロ宣言』はニセモノだ」と公式に発表している。




Wikipedia「カイロ宣言」より抜粋

1943年11月22日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席の蒋介石によってカイロ会談が行われ、12月1日に発表された声明が「カイロ宣言」と称される。


カイロ会談における蒋介石・ルーズベルト・チャーチル(1943年11月25日)


この宣言には公文書と呼ぶべきものが現存しておらず、残されているのはメディアリリースなどにより公表されたその内容のみである。

この声明は後日、連合国の対日基本方針となった。主要な内容は以下の通りである。

・米英中の対日戦争継続表明
・日本国の無条件降伏を目指す
・日本への将来的な軍事行動を協定
・第一次世界大戦により占領した太平洋の全島奪還、及び日本が中国領土から奪った領土を中華民国へ返還(例として満洲、台湾、澎湖諸島)
・日本の、強欲と暴力により獲得された全領土剥奪
・朝鮮の独立

ここに示された日本の領土に関する取り決めは、1945年8月に発されるポツダム宣言に受け継がれることになった。



<カイロ宣言の有効性について>

2009年現在、台湾独立派を中心にカイロ宣言は外交的に有効な宣言ではなかったとする主張がなされている。


台北駐日経済文化代表処HPより

陳水扁総統:「カイロ宣言」は署名がないニセモノ

陳水扁総統は(2008年)3月13日、英国紙「フィナンシャルタイムズ」のインタビューに応じ、その内容が同紙インターネット版に掲載された。

陳総統は「1943年12月1日の『カイロ宣言』についてはっきりしているのは、時間と日付が記されておらず、蒋介石、チャーチル、ルーズベルトの3首脳のいずれも署名がなく事後による追認もなく、授権もない。これはそもそもコミュニケではなく、プレスリリース、声明書に過ぎないのだ」と指摘した。

陳総統は「12年後の1955年2月1日、チャーチル首相は国会質問で、『カイロ宣言』に基づいて中国が台湾に対する主権を有するということには同意できないと答えたように、当時3人にはそもそもコンセンサスなどなく、そのため署名もなかったのだということが見てとれる」と述べ、「こんなに重要な文書が英国の国家ファイルでも原本が見つからない。歴史は歪曲、改竄されることはよくあることで、以前われわれが学んだ歴史の中の『カイロ宣言』の部分は、完全にだまされていたのであり、これはきわめて厳粛な問題である」と訴えた。

 陳総統は「中国はいまも『カイロ宣言』をもとにして、中国は台湾の主権を有していると宣伝しているが、『カイロ宣言』は事実上問題がある」との認識を示し、「歴史を書き改めなければならない。われわれ台湾は主権国家であり、台湾の主権は中国大陸13億の人民には属していない。台湾の国家主権は台湾2,300万国民に属している。これは事実であり、現状でもある」と強調した。


 陳総統は「中国の誤った解釈は『カイロ宣言』に基づいている。国連第2785号決議の誤った解釈も『カイロ宣言』から来ている」と指摘し、中国は信用できない商品が多いことを挙げたうえで、「『カイロ宣言』もニセモノだ」と糾弾し、駐外代表処や大使館など外交ルートを通じて「カイロ宣言」の歴史の真相を明らかにする考えを示した。

【総統府 2008年3月14日】



<『カイロ宣言』日本語訳>
国立国会図書館HPより転載

ローズヴェルト大統領、蒋介石大元帥及チャーチル総理大臣は、各自の軍事及外交顧問と共に北「アフリカ」に於て会議を終了し左の一般的声明を発せられたり

各軍事使節は日本国に対する将来の軍事行動を協定せり

三大同盟国は海路陸路及空路に依り、その野蛮なる敵国に対し仮借なき弾圧を加ふるの決意を表明せり右弾圧は既に増大しつつあり

三大同盟国は日本国の侵略を制止し、かつ之を罰する為、今次の戦争を為しつつあるものなり
右同盟国は自国の為に何等の利得をも欲求するものに非す

又領土拡張の何等の念をも有するものに非す

右同盟国の目的は日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後に於て日本国が奪取し、又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り

日本国は又暴力及貧慾に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし

前記三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈て朝鮮を自由且独立のものたらしむるの決意を有す
右の目的を以て右三同盟国は同盟諸国中日本国と交戦中なる諸国と協調し、日本国の無条件降伏を齎すに必要なる重大且長期の行動を続行すべし



PLEASE SAFEGUARD AGAINST PREMATURE RELEASE OR PUBLICATION.


The following communique is for automatic release at 7:30 P.M., E.W.T., on Wednesday, December 1, 1943.

Extraordinary precautions must be taken to hold this communication absolutely confidential and secret until the hour set for automatic release.

No intimation can be given its contents nor shall its contents be the subject of speculation or discussion on the part of anybody receiving it, prior to the hour of release.

Radio commentators and news broadcasters are particularly cautioned not to make the communication the subject of speculation before the hour of release for publication.

STEPHEN EARLY
Secretary to the President


President Roosevelt, Generalissimo Chiang Kai-shek and Prime Minister Mr. Churchill, together with their respective military and diplomatic advisers, have completed a conference in North Africa.

The following general statement was issued:

"The several military missions have agreed upon future military operations against Japan. The Three Great Allies expressed their resolve to bring unrelenting pressure against their brutal enemies by sea, land, and air. This pressure is already rising.

"The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the aggression of Japan. They covet no gain for themselves and have no thought of territorial expansion. It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914, and that all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and The Pescadores, shall be restored to the Republic of China. Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by violence and greed. The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.

"With these objects in view the three Allies, in harmony with those of the United Nations at war with Japan, will continue to persevere in the serious and prolonged operations necessary to procure the unconditional surrender of Japan."




※その他 参考資料

台湾は日本の生命線!「日本人はカイロ宣言に注目せよ」(2007/04/16)

日本統治時代の台湾領に、魚釣島は含まれていなかった

2012-11-17 | 中国側の古文書・地図
保釣人士說日治時期釣魚台屬於臺北州宜蘭郡管轄,還指稱昭和12~13年釣魚台在台灣總督府公告台灣區域內,而且台北州及沖繩縣為當時的釣魚台起漁權之爭,1944年東京法院判決釣魚台歸台北州,後來證實為烏龍舉證,日治時期釣魚台根本不屬於台灣。

魚釣島領有を主張する人々は、台湾の日本統治時代、釣魚台は台湾に所属し、北州宜蘭郡の管轄だったと主張する。

昭和12~13年の台湾総督府の公告の中で釣魚島について語っていることをもって、台北州と沖縄は漁業権をめぐって争っていたという。
そして、1944年、東京裁判所の判決で釣魚島は台湾の所属になったというが、そもそも日本統治時代、釣魚島は根本的に台湾に所属していなかった。







(北台灣-後龍泊地到蘇澳灣)水文地圖: 美國海軍水道測量局繪製,1921年11月3日發行
1921年11月3日、米国海軍の水道測量局が制作した、北台湾の地図。





日治末期臺灣總督府第四十六統計書記載台灣極北為台北州基隆市彭佳嶼。

日本統治末期の台湾総督府の公文書「第四十六統計書」には、「台湾の北限は、台北州基隆市の彭佳嶼(ほうかしょ)」という記載がある。

台湾の国境は、彭佳嶼という島であると台湾総督府が定めていた証拠である。




宜蘭郡屬島無釣魚台
下の表は宜蘭郡に所属していた島の一覧表だが
これを見ると、釣魚島は含まれていなかったことがわかる。




1941年臺灣地圖
1941年の台湾地図




就連1945年1月中國自己發行的台灣地圖也無釣魚台
1945年1月に、中国が自分で発行した台湾地図にでさえ、釣魚島の名はない。


大家可參考臺灣的行政區 1684-1945、18~19世紀台灣地圖和清末北臺灣離島考,看看台灣自古以來有沒有釣魚台。

結論:釣魚台自古以來不屬於台灣。

(圖片來自國家文化資料庫、清代臺灣方志彙刊 、日治時期統計檔案、臺灣四極演變史)



1684年~1945年の台湾行政区をよく見てみるとよい。
18~19世紀の台湾地図、清朝末の北台湾の離島には、昔から釣魚島がありますか?

結論:魚釣島は昔から、台湾には属していなかった。





台湾の地図には、釣魚島はずっと記載されてこなかった

2012-11-17 | 中国側の古文書・地図
保釣人士說1810年日本學者山田聯的[地球]輿地全圖圖將釣魚島塗成跟清國同色作為納入滿清領土證據,可是當時清國的領土庫頁島卻被塗成紅色。
滿清直到1860年與俄國簽署北京條約才失去庫頁島。



1810年の[地球]輿地全図では、釣魚島が中国大陸と同じ緑色に塗られている。

注目すべきは、このころ、清国領土だった樺太が、緑ではなく、日本と同じ赤で塗られていないこと。
清国がサハリンを失ったのは、1860年、ロシアと北京条約を結んだ時だ。

[地球]輿地全圖









保釣人士又提出1863年(同治二年)湖北巡撫胡林翼修的《皇朝中外一統輿圖》作為滿清將釣魚台納入版圖的鐵證,開始我看到他們所提出的圖有些疑惑。後來找到原本,才知道他們只是將《皇朝中外一統輿圖》的《大清一統輿圖 南七巻》 中,琉球到台灣北部畫有釣魚嶼、黃尾嶼的那一部分秀出來。

1863年に胡林翼が記した『皇朝中外一統輿図』の「大清一統輿図」には、釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼という中国名で、尖閣諸島の島々が記述されている。








經査清同治三年(1864年)武昌湖北官書局編制,為《皇朝直省府廳州縣全圖》套圖中的台灣沒釣魚台。

しかし、翌年、1863年に武昌湖北出版社が発行した『皇朝直省府廳州縣全圖』には、台湾に釣魚島の名前が記載されていない。




滿清末年光緒會典的台灣全圖沒有釣魚台。
清朝末期の『台湾全図』にも、釣魚島の名はない。






1878年刊行的《全臺前後山輿圖》,由當時臺灣最高官員:臺灣兵備道夏獻綸親自審定,當中沒釣魚台。
1878年に刊行された『全臺前後山輿圖』にも、台湾に釣魚島は含まれていない。



1892年刊行的《臺灣地輿全圖》,是清國第一次使用格林威治經線繪製的臺灣地圖。在〈全臺前後山總圖〉當中,北部外海的離島僅能看出基隆嶼。
1892年に刊行された『台湾地輿全図』は、清国が始めてグリニッジ緯度を使用した地図だが、台湾の離島として記載されているのは、基隆嶼だけである。



許多保釣學者喜歡拿日治時期地圖作文章,什麼顏色不同之類的。像這張地圖,日本將琉球、台灣劃在一起,難道保釣學者要據此說台灣是琉球的?



日本的南西諸島地圖沒畫釣魚台,難道就劃入台灣?








琉球西端は姑米山と赤嶼の間か ~『重編使琉球録』

2012-11-16 | 中国側の古文書・地図

以下は、八重山日報に掲載された、石井望准教授の論文です。

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琉球西端は久米島までとして史料上ずっと確定したものに見えるのだが、一つだけそこに疑問符をつける史料が明の郭汝霖の「重編使琉球録」である。郭汝霖は福州から東に航行し、嘉靖(かせい)四十(西暦1561)年閏五月三日に赤嶼(せきしょ)に至った。そして、

 「初三日至赤嶼焉。赤嶼者、界琉球地方山也。」
 (初三日(しょさんにち)に赤嶼に至る。赤嶼とは、琉球を界(かい)する地方山なり)

 と記録する。尖閣研究で最も基本的な史料の一つである。


姑米山(こべいさん)(久米島)の西の赤嶼(大正島)が琉球の分界(ぶんかい)の島だとの意であり、他史料とやや異なる記述である。但し姑米山の琉球域に向かって分界を成(な)す意に解すれば他史料と矛盾しないかの如くにも見える。

即ち赤嶼と姑米山との間が分界となる。
昭和四十五年以降の論議の中ではずっとこの解法が通行してきた。

楊仲揆・井上清・奧原敏雄・呉天穎(ごてんえい)・尾崎重義・鞠源(きくとくげん)・鄭海鱗(ていかいりん)諸氏及び人民日報など、概ねひとしく一致してゐる。
ただ喜舍場一隆(きしゃばかずたか)氏だけは赤嶼そのものが界(かい)であるとの別解に言及するが、言及しただけでやめて仕舞って、結論では逆に赤嶼まで明(みん)の領土だとする。緑間榮氏は赤嶼のどちら側が界なのか不明確だとする。

赤嶼如何と論じる以前に、琉球の分界の島なるものは、琉球といづれの國との分界なのか。原文はそれを書かない。無主地との分界だから書かないのである。昭和四十五年以降のチャイナ側の主張では、天朝中華にとって自明の領土はわざわざ書かないのだとする。時の國士舘大教授・奧原敏雄氏はそれを荒唐無稽としりぞけた。大功績である。

◆西端は赤嶼だった

では上述の郭汝霖の「界」(かい)の原意は赤嶼の東側なのか西側なのか。

このたび私は初めてその解を定める記述を既知の史料中で見つけた。
同じ郭汝霖の「石泉(せきせん)山房文集」卷七に

「例を査(しら)べて祭を賜(たま)ひ、以て神功(しんこう)に報ゆるを乞(こ)ふ」

と題する上奏文が載録してある。
その中で上述の嘉靖(かせい)四十(西暦1561)年の琉球行に言及して曰く、

 「行至閏五月初三日、渉琉球境、界地名赤嶼。」
 (行きて閏五月初三日に至り、琉球の境に渉(わた)る。界地(かいち)は赤嶼と名づけらる)

と。

琉球の境とは琉球の域内の義である。
苦境・佳境・逆境・環境などの語で馴染(なじ)みの通り、「境」とは場所・領域を指す。
「渉る」は「入る」とほぼ同じ意味である。
「界地」とは分界(ぶんかい)の地である。

全句は赤嶼が琉球の域内に進み入る分界の島だとの文意である。

これにもとづいて見直せば、同じ郭汝霖の「重編使琉球録」の同日同地の記述も、赤嶼そのものが分界地となって、そこから琉球域内だとの意味になる。赤嶼と姑米山との間が分界だとするこれまでの解法は通じないことが分かる。


赤嶼の東側は海中の急峻な崖で沖繩トラフに落ち込み、そこを黒潮が流れる。
「石泉山房文集」でも上述「重編使琉球録」の「敬神」(けいしん)の個所でも、ともにその海域で大魚(たいぎょ)が出現したことを述べる。黒潮の特徴である。
「この特徴が琉球域なのです」と琉球人が郭汝霖に告げたので郭は琉球域と書いたのだと推測すべきである。

そしてそこへの入り口が赤嶼だと認識されたわけである。
明人にとって既知(きち)の事柄でないため、一方で「赤嶼者」と解説し、一方で赤嶼の前に「名」の字を冠する。



◆界そのものは域外か

では界地たる赤嶼そのものは琉球域内なのか域外なのか。
それはまさしく域内でも域外でもなく、ただ界(かい)なのである。
それが原文そのままの理解である。

上述の喜舍場(きしゃば)氏の解が半分は正しい。
但し界だと定(さだ)めたのは琉球の人々だったはずで、且つ界外は無主地(むしゅち)であるから、現代法に照らせば界そのものは琉球の領有である。

野球やテニスなど多くの球技で界線そのものがセーフとなるのは何故か。
線の外が隣の試合場でなく、ただの無効域だからであらう。



赤嶼につけられた「者」(しゃ)「名」(めい)の字で分かる通り、この「界」は海を知らぬ郭汝霖個人の認識ではなく、海路案内をした琉球人の認識である。
使節船の航海が、記録にのこる最初から最後まで琉球人の導きにたより切りだったことは、上述の奧原敏雄氏らが四十年前に論じた大功績である。
郭汝霖の時にも出航前に立派な大船が中々準備できず、琉球の敏捷自在なる小船に一緒にのることを一度は思慮したほどである。
ただ釣魚列島は日本と琉球との間の島嶼ではなく、琉球と明清(みんしん)との間の島嶼であるから、小さな琉球にほとんど記録が無く、明清側の記録ばかりのこったのは仕方ない。

琉球人が航路上で提供した情報を明人清人が記録したのがこれら史料なのである。
丁度ケルト文化をラテン語で書き記すのと同じである。

八重山日報 2012年8月4日