あなたの…

情緒をおこす主体と情緒をおこさせる対象とは不可分の綜総合のなかに結合されているのであり、情緒とは世界を把握する或る把握の仕方である。
(J・P・サルトル)
魔術的とは、自発性と受動性との非合理な結合……
(アラン)
それは分散した状態では何の意味もなさないが、秩序を得るとたちまち明確な意味を帯び始める散乱した混沌たる要素が合体し熟しているようなものであった。
(カルペンティエール)
衝動で動くものと決断で動くものとの出会い。
(アストゥリアス)
第一に現実と空想の混交であり、第二に現実的なものの非現実的なものへの転換であり、第三に時間と空間のデフォルメされた観念を創造するものである。
(E・D・カーター)
空間的思惟の硬い諸概念を以ってしては到底これを理解することは出来ない。従って現実との生ける接触なる概念は定義によるよりも、むしろ比喩によって明らかにすることが出来るであろう。
(ミンコフスキー)
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三句の外に透出せよ。
(百丈)
ここで極めて大切なことは、老いてゆくことを人間の成熟への道として明確に把握していることである。あるいはインドにおける四住期の考えなども老いてゆくことが評価されており、老いることによって自己実現してゆくという考えを示すものだろう。
(河合隼雄)
狂気に走ることは、ただ自分の正気に完全な確信をもたない人にとってのみおそろしいことなのである。
(A・マズロー)
実在する事実を新たな力へ、想像力へ高めること。現実を夢想の高みに昇進させ、実在する事実をそれ自身の神話へ一変させること。
(M・トゥルニェ)
現実は過ぎ去る。私は法則を求める。
(ロートレアモン)
諸の連鎖は、現実の継起の論理的秩序とはまったく異質な連想という手段によって行われる。
(F・ド・サンドーニ)
孤独と省略と仄めかしのカオス
(不詳)
われわれは陶酔において時間を抹殺する。
(ヘルダーリン)
どんな体験をしても、その体験が体験者にとって有意味である場合もあれば無意味になることもある。その違いは、その体験に対して心を開くかどうかにかかっている。体験に対して心を開かなければ、どんな体験もメカニカルにすませ無意味に終わらせることが出来る。
(R・シュワイカート)
覚醒時の世界の沈殿した経験は、こうして一言で言えば分解され別の方法で再構築される。自我は手持ちの経験を説明のための一貫してぴったりと統合された枠組みとして寄せ集めておく必要がなくなる。
(A・シュッツ)
人間のなす如何なることにも、トレーニングとか陶冶とかの方向が開かれていること、そしてその方向に入ることは恒に或る「かた」へ自らを限定するといふ意味を持ち、従って逸脱する自己を矯めるといふ苦痛を伴ふということ、人間の存在に本質的に含まれているさういふことがあるということ。
(西谷啓治)
ただわが身をも心をもはなちわすれて仏のいへに投げ入れて仏のかたよりおこなわれて、これにしたがひもてゆく。
(道元)
わたしはしばらく前から、まるで玉ネギの皮を次々にむくようにわたしの全ての属性を一つまた一つと次々に自分自身から剥がすという手術を自分で施してきた。
(M・トゥルニェ)
何か、おそろしくとるにたらぬ些細な現実の出来事が過去につばさを広げさせ甦らせるまでじっと待っていなくてはならない。
(D・マカーシー)
この特異な精神状態は彼の生きた時代の社会ではシャーマンの憑依にのみ見出される現象である。外界が消滅し意識が寂漠として透徹するシャーマニックな喪我において残されているのは詩人の生命だけである。
(大室幹雄)
彼(ランボー)が家を飛び出さなかったというのも自分自身に向かって加えていた精神的な労作こそ何ものにも増して重大であると判断したからであり、どんな口実を以ってしてもそれを中断したくなかったからである。
(J・イザンバール)
……絶体絶命の窮地に追いつめられて、かれの全存在が反応した。かれはもはや解くべき問いもなく、敵に立ち向かう自己もないことを感じた。かれの自己が、かれの知性が、かれの全存在が問いの中に注ぎ込まれた。言いかえれば、かれはいまや問いそのものとなった。問う者と問いの区別、自己と非自己の区別は消えてただ一つの未分の「不知なるもの」があるのみであった。この「不知なるもの」の中に、かれはとけ入った。
(鈴木大拙)
超能力を扱うには、まず、それにふさわしい精神の安定と感性の安定を得ることが必要だ、心の中からあらゆる日常的世俗的雑念を払いのけ、さざ波一つない森の中の水面のように、心を静寂そのものに保ち、透明な安らぎを得なければならない。精神を完全に浄化するのだ。精神を完全に浄化すれば、とぎすまされた鋭敏な感受性を保ちながら、それが外界からいささかも乱されることがないという状態に入ることができる。
(M・ミッチェル)
この表面的な現実の装いのもとにその現実と矛盾する非現実があり、その彼方には反対物が渾然と入り混じって新しい形に向かって絶えまなく動いている。
(R・マーフィ)
空間と時間のあらゆる分節化から脱臼することによって、世界は消滅し尽くし、平生の構えから抜け落ちた生がいまのここにまどろむ。
(大室幹雄)
危険と辛苦と恐怖と死を求め、自分を緊張と警戒の高い状態に置いてくれる状態を求め精神集中の内的筋肉を発達させようとした。
(C・ウィルソン)
四方八方に散乱しようとする心の動きを抑えて、老子が言っているように肉体の窓や戸口を全部閉ざして、つまり、外に向かい、外界の対象を追いかける心の動きを抑えて、意識の全エネルギーを一点に集約し経験的次元で働く認識機能、つまり感覚世界、理性などとはまったく異質の認識機能の発動をうながそうとする。
(井筒俊彦)
己の自我を遠ざけよ。他者の姿を心に見せるな。
(ジャーミー)
静観とは、注意力が高揚し、自我が完全におのれを忘れて対象の中に沈潜する状態。
(E・アンダーヒル)
何らかの熟慮された精神の集中化によって、心は
(J・C・ポゥイス)
連想過程の制限とある一定の表層領域に向けられた注意力の持続的集中とが、覚醒状態での意志的努力では陽の目を見ることのない新しい考えの展開をも可能にする。
(ローエンフェルト)
実際には二元性は存在せず、多元性は真ではない。
(チベットの『大いなる解脱の書』)
われわれ西洋の思考においては、意識に発展段階があるといった考え方はほとんど何の役割も果てしていない。
(ユング)
神が人間に禍を加えようとなさるときには、まず最初、ものを考える彼の知力を混乱させる。
(ソホクレス)
私にはだんだん、まるで私たちの通常の意識が一つのピラミッドの頂点に位してるかのように思われてきます。私達の内部にある――いわば私たちの下層にある――そのピラミッドの基底は完全な広がりを持っているのでいよいよ深く下りていく能力があればあるほど、それだけ普遍的に私たちは、地上の、最も広い意味における世界空間的な存在の、時空を超越したできごとのなかに引きこまれていくように思われるのです。
(リルケ)
学ぶことを断ち切れば、憂いまどうことはない。
(老子)
名称にはいずれにせよ、常にどこか適切でないところがある。なぜなら、霊界の事象を感性界に由来する言葉で表現しなければならないのだから。従ってただ比喩でしか語ることができないのである。
(R・シュタイナー)
それから、彼の精神にとってより有益な聖イグナティウス・デ・ロヨラの『心霊修行』による瞑想と実践に移っていったのであるが、この書物は彼に、瞑想――あるいは祈り――を、前もって選んだひとつのイメージの上に集中させることを、つまり「場所を設定する」ことによって「家の中の気違い女」たる空想がわれわれの省察の中心とは関係のないテーマの方に逃げてしまうのを防ぐことを教えてくれた。
(カルペンティエール)
記憶術における架空場所使用反対
(R・フラッド)
わたしは通常、自分の記憶を特別に刺激してくれるような華麗きわまりない乙女たちを場所に配している。
(P・D・ラヴェンナ)
ここで神秘的体験というのは、絶対者との――それが人格的であるか、非人格的であるかを問わず――対面・交流し合一の直接的で全人格的な経験である。それは突然来るものではなく、長い準備のすえに来るものであり、『霊操』(イグナティウス・デ・ロヨラ)はその過程の制度化である。
(加藤周一)
熱中と恍惚における時間性の超出
(梅原猛)
われわれの時代においては、<距離>を維持する能力が、ときには、知的成熟の尺度と解される。
(D・バカン)
アトランティスの人間は形象によって考えた。そして或る新しい形象を心に抱いたときには、これまで体験してきたさまざまな形象の中から、これによく似た形象をできるだけ数多く思い出しながらその意味を考える。
(R・シュタイナー)
魂を開封し、魂を縛っている結びめをとくこと。
(G・ショーレム)
これらすべては汝が机や筆を投げ捨ててしまってから、あるいは、汝の密なる思いのゆえに、それらが汝より落ちてしまってから起こるであろう。
(アブラフィア)
それはラビの文書および『ゾハル』のパターンである。トーラーの隠された深い意味に達するためには、文章をその文脈から抜きとり、心的形成物の混合体を見つけるという方法を取る。
(D・バカン)
夢を部分部分に砕いて示すと、患者は各部分に対する一連の連想を語ってくれる。それは、夢のその特定の部分の<背後思考>とでも言い得るものである。
(G・フロイド)
事実、概念を感知できるほどにまで描写しようとする執拗なイメージの回帰、おびただしい重複、イメージの連続、こうしたことの背後に<哲学的>性質の断固たる信条もまた存在しているのである。
(P.ロッシ)
自然とか有形の事物を問題とする場合には、定義づけすらこの弊害に対処できない。というのは定義自体がことばから成り立っていて、ことばは他のことばを生み出すからである。
(べーコン)
……われわれの言語は感覚や世界にしか対応しておらず、われわれの言語で記述した事柄は直ちにこの感覚世界の性質を担わされてしまうからである。
(シュタイナー)
空想の働きは、実在するものから始まって進んでいくべきであって、心中のものから始まり進みいくべきものではない。
(F・イエイッ)
神が御存知なら、なぜ私が知る必要があるのだ。
(ローゼンシュトラオホ)
このことから、想像力の描き出した像が感覚で知覚される実在物により近く、より直接的に近づくほど、この術においては、その像はそれだけ一層確かで強力で、永続性があり、効果が増していくことになる。
(R・フラッド)
一 惚けた遊び
必ず須らく心を境物に遊ばしめ、壊抱を散逸す。法を四時に取り、形を万類に象るべし。
(空海)
あるのはただ失われたものを取り戻す戦いだけだ。
(T・S・エリオット)
言葉や観念はすべて、それがいかに明らかに見えても、限られた適用範囲しかもたない。
(W・ハイゼンベルク)
霊的な技法は自然に幼・少児によって発見されるのだ。つまり息をつめる。まばたきせずにじっと見る。さかだちをする、動物のまねをする、円を描いてまわる、ひとところにすわっている、夢中になってひとつのことばを幾度もくり返す――といったことだ。
(S・シンガー)
音節のくり返しによって震動するリズムが肉体の中に生じて、霊魂の世界を呼び醒ますのである。
(ムケルジー)
感覚からはいって刻みつけられたものが、いちばんわれわれの魂に密着するが、われわれの感覚すべてのなかでもとりわけシャープなのは視覚である。
(キケロー)
カバラーの伝統は、秘密の雰囲気に包まれている。カバラーの内容は口頭で伝承された。これは聞き手の側で適切かどうかの判断を下すものとみなされていたからである。この口頭伝承の際でも直接的表現よりは、むしろ、暗示の技法が用いられた。それは各自が自分の解釈で完成させる余地を与えるためであるとともに、伝承を受け入れる用意のある者のみが、暗示を解し得るとみなされたからである。
(D・バカン)
生じてくる体験に対処する知的抵抗は治癒のプロセスの妨げとなりやすい。リアリティに対する機械論的概念、線形的時間の概念、あるいは、狭い原因・結果の概念にしがみついていると、それらは超個的体験の出現に対する強力な防衛機構に変わってしまい、そのプロセスを妨害する。
(カプラ)
思考を生まれ出るままに放置する。新鮮な思考を浮かび上がってこさせる。新鮮な知覚が浮かび上がってこられるような空間をつくり出して、しかもそれを排他的なイメージに結びつけたり、無理やりに理性の触手をのばしてできあいのメタアァーに売り渡すのではなく、むしろ無作為のまま登録放置する。
(ギンスバーク)
イマジネーションのクリエーティヴィティーというか、そういうものにいちおう身をまかせて、自由に形象化……
(井筒俊彦)
眠りが覚めた時、何か素晴らしいものが、頭のなかに形をとって現れたような、不思議な感動にとらわれた。それは分散した状態では何の意味もなさないが、秩序を得るとたちまち明確な意味を帯び始める散乱した混沌たる要素が合体し、熟しているようなものだった。
(カルペンティエール)
変転していく自然の形態の背後に不変な純粋の現実があるのだ。
(モンドリアン)
世界は神秘的なものね、それが分からないのはうわついた人たちだけ。
(サバト)
気が集まると、はっきり見えるようになり、形があらわれる。散ってしまうと、見えなくなり、形もなくなる。
(張横渠)
只管打坐とは緊張したり、せきたてられたり、弛緩したりせずに、意識を高度に集中した状態におくことである。
(安谷老師)
マントラは効果的であるゆえに秘密を必要とするのではなく、それに虚心に集中するという目的のゆえに秘密を要するのだ。
(ラム・ダス)
その時からずっと、わたしは、入ることを禁じられた扉と、《秘伝伝授者に留保されているもの》との存在に、不快な感じを抱かされているのだが、そこでわたしは、これ以上語ってはならない、ということを、特になぜそうしてはいけないのかということを、おのずと知った。多くの刃をもつ超人的な武器を人手に渡してしまうことはできないだろう。
(ミショー)
神秘学徒にとって特別の重要さをもつのは、他の人間の語る言葉に耳を傾ける仕方である。この修行のためには、自分自身の内なるものを完全に沈黙させる習慣をつける必要がある。……繰り返し、繰り返しあらゆる事柄の中の優れた部分に注意を向けること、そして批判的な判断をひかえること。……自分の判断を差し控えて、その事柄全体について、心の中でも、外に向かっても、まったく確実な判断の根拠が得られるまで<沈黙>を続けたい……
(シュタイナー)
……いわば小生は自己の内部と周囲とに、すばらしい、ただもう無限の対応を感じているのであります。そしてその相互に対応している物質のうちには、小生がそのなかへ流れこんでゆくことができないようなものは何一つないのです。そんなとき、小生には自分の肉体が、すべてを小生に解明してくれる暗号ばかりから成っているように思われますし、或いはわれわれが心臓で思考しはじめるならば、全存在との新しい、予感に満ちた関係に入ることができるのではないかというように思われます。
(ホフマンスタール)
いろいろな角度からの性格づけを無数に繰り返していく中でヴィジョンとして相手の本質がだんだん目に見えるものになってくる……
(高橋巌)
東洋の思考方法はその対象の中心を、輪を描いて回るものだ。さまざまな視点から見た単一の印象を重ねていき、多角的、つまり多次元の印象が形成される。
(マラ・ゴヴィンダ)
それゆえ、<跳び>は自由なもしくは方向づけられた連想の諸要素を結びつけることができ、秘儀受伝者の<意識の拡大>に関して、まったくおどろくべき結果をもたらし得る。<跳び>は精神の隠れた過程を明るみに出す。
(ショーレム)
このようなパノラマ的ないしヴィジョン論理は、巨大な観念のネットワークのなかで、観念が互いにどう影響し合い、どう関係し合っているかを把握する。
(K.ウィルバー)
日常意識の下で互いに複雑に縺れ合い絡み合いつつ混在するそれらの<意味>の発散する気の如きものが、我々の表層意識の認識機構に働きかけ、我々の原初的感覚体験のカオスを様々に区切り、それらの区切りの一つずつが、あるいは明確な、あるいは獏としたものという存在形象を生み出していく。
(井筒俊彦)
惚けた遊さび!
【出所】『情緒の力業』高野 義博 近代文藝社 1995
第7章 瞑想的感応
はじめに
出所:『情緒の力業』第7章瞑想的感応 序 言葉の交響
p.264~p266
要するに、線条論理に対するこの直感的会得の道は、一般的に数量化できず、概念化できず、伝達し得ず、線条的な因果の段階を登って極められるものではない。むしろ、登ったり降りたりしながら、様々に結び付き、重なり、複雑なアラベスクを織り、渦雲状の塊を成すものである。
そして、たまたまやってくる経験の華は、その沈黙、忍耐、関心の集中によって甚振られた無数の言葉の交響の中から万の関係と万の依存が一瞬の内に形成し合う「情緒の力業」の巨大な子不ルギーによって花開くのである。そこから更に、瞑想的感応の広大な世界ヘー挙に全天空的な展開を始めるのである。
瞑想的感応そのものについては語れないがせめてそこに至るには無能な「Was」を捨てて、「Wie」の投網を投げよう。
そこで、この数ある「Wie」の一つとしての「引用」の効用について考えてみると、「引用」という技法は、普通は因果論的論理の線上をなぞるだけの追加、言い替え、根拠等として用いられている。
つまり、論旨の補完又は拠り所として線条性論理構築の一手段とされているのであり、それに奉仕するように組み込まれているのである。引用の動機としての「釈」とか「義」とかが行われるレベルが因果論のレベルで行われている限り、それは全て因果論の枠内という限界が初めから設定されているので、人為的で非創造的な行為とならざるを得ないのである。それは、自由な設定も、創造的な展開も、自然の顕現も当初から排除するように構造化されているのである。
引用の典型として空海の「十住心論」を考えた場合でも、そこに繰り広がる「綾なす引用文の連続運動」(山折哲雄)がはたして因果論的な顕教レベルを突破して密教レベルの言語観を達成しているかどうかは大いに疑問とするところである。要するに、「引用」という手法はどのように使おうと線条性論理の守衛どまりなのである。
そこで、我々は以下に羅列する無作為な言葉の響き合わせ(義)によって、このような引用とは異なるものを意図(博)してみよう。
というのも、これは前後左右、顕在的なものと潜在的なもの、上下、過去と未来……を縦横に駆け巡って関係と依存の再建、新しい構築を企てる「情緒の力業」を作動させるやも知れぬ不確かな技法なのである。
不確かというのは、これは一に当事者の沈黙、忍耐、関心の集中という能動的受容が行われるか否かにかかっており、当事者の構想の中のみに存在し、客観的な有り様をして誰にでも把握出来るというものではないのである。
それは、太古に、あるいは原初にそうであったように「それ」と我々とが不可分離の一体をなしていたように再構成し、「それ」と我々を融即的な直感的全体と成し、断片化し無機化していた対象を意味に溢れる有機化した全体とする技法である。
これは、あるいは終わりが無い単なる「惚けた遊び」かも知れない。
しかし、ここにきて最早これ以上語りようがないのである。さらば、哲学よ!
我々に残されたことは、「情緒の力業」を希求しつつ世界を読むこと、見ること、聴くこと、つまり人生の全てに、己を晒すこと。
そうして、成らざれば沈黙。
序 言葉の交響
誰が語ったのかは問題ではない。ともかく誰かが語ったのだ。
(ベケット)
その章句をとおして……ある観念または心象のまわりに
(ラム・ダス)
思考を走らせる助け
(エイゼンシュタイン)
あらゆるものを、できるだけ多くの感覚にさらすこと
(コメニウス)
あらゆる感覚を不羈奔放ならしめることによって、未知のものに到達する。
(ランボー)
私は目もくらむほどの体験に身をゆだねたいのだ
(ゲーテ)
わたしは考えてはならないのだ。何よりもまず感じ、そして見なければならないのだ。
(カルペンティエール)
*268の引用集です。スマホ・タブレットに保存しておいて、修行のひとしぐさとして、ひらめきの嵐にまみえたいときなどに一寸お楽しみください。(著者)