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「人様のお金」OPM(A4・224頁)  連載 7

2013年03月07日 | 厚生年金基金

 (5)果たすべき約束
イ.社会保障の夢を達成する
米国のM.N.カーターとW.G.シップマンは『果たすべき約束』1996の中で、<社会保障の夢>を果たすべき約束として、賦課方式の限界を示しつつ、その達成を「個人社会保障口座」(Personal Social Security Account = PSSA)のアイデアで行うことを提案しています。
これは、企業年金のブァリエーションとしての401(k)の個人勘定の先に、社会保障のブァリエーションも個人勘定化しようというアイデアです。確定拠出型年金の導入も2001年4月が危ぶまれる日本の現状からすると、かなり前方を走っていることになりますが、エリサ法や401(k)の資産管理等のインフラ整備を考えると、2、30年の先行ということになりましょうか。日本でも、将来このようなアイデアが必要になるかも知れませんが、取敢えずは、足下の確定給付型年金の<果たすべき約束>を確実なものにすることが必要でしょう。

これらの機関投資家は、わが国の銀行を始めとするいわゆる法人投資家とは、本
質的に異なる。これらの機関は時として、「コンデュイ」(導管)と呼ばれるよう
に、決して金融機関の「オウン・マネー」を自由に投資する投資家ではない。単に
委託者のために効率的な運用を請け負う「パイプ」にすぎず、運用手数料を除けば、
運用資産もその果実もすべてその所有者、あるいは受益者に帰属するのである。機
関投資家の投資マネージャーは、いわば市民のエージェントあるいはフィデューシャ
リーとして、職業的にその金融資産の効率的な運用を請け負っているのである。

井手正介・高橋文郎『株主価値創造革命』


               ロッキィーズ物語

・チームカラー

―おぅい、ロッキィーズ、チョットうるさいぞ。規定すれすれだぞ。
試合は佳境に入り、岐路に立っている。部長、曰く
―応援は、フェアプレーでやってくれ! 相手チームの誹謗だけはなしだよ。
―自分等のチームの子供達を奮い起たせるのに、うるさいもないもんだ。ナイス
プレーには当然、相手もこっちもないけれどね。
市の野球大会では、ロッキィーズの応援は賑やかである。お母さん方を巻き込ん
で「打て、打て、ドンドン」というのがチームカラーである。ランナーを2塁に送
るバント作戦はとらず、ヒットエンドランを多用し、2ランスクイズが好きな好戦
的なチームだ。振って三振はともかく、見逃し三振だけは一斉にどやしつけら
れる。立ち向かわない選手は試合に出してもらえない。
―ぶったたけ、H。集中、集中。
―S! ポイント、まえだぞ! こねるなよー。
―Y、前足、開くなよ! 大きく構えろ。
―高野コーチ、レフトをラインぎわに寄せて! 得意でしょ、大声。
―ほかに能がないからねぇ。レフトー! Nー! ライン締めろ!



ロ.基金の<果たすべき約束>
「人様のお金」を預かる厚生年金基金の使命は、厚生年金基金の利害関係者に対してローコスト・ハイリターンな還元を行うことです。これを制度設立に際して、企業と労働サイドは基金に達成させるべく基金を設立申請したのであり、加入員等にはそれを約束したのでありきす。そもそもの始まりは、基金が自ら申請したのではありません。あくまでも設立発起人は企業であり労働サイドです。基金は負託を受けただけです。企業と労働サイドはローコスト・ハイリターンな還元が行われない場合にはそれを基金に督励する権利は保持しますが、加入員等に対しては基金を通じて一定基準の給付を約束したのですから<果たすべき約束>があるということです。
負託を受けた基金はと言えば、これを達成するために、積立金の原資産保全と効率的な資産運用により時価資産の極大化を求められることになります。まず始めに求められることは原資産保全の義務です。政治的な干渉を始めとして、大陸法法理による国家賠償法適用によって有耶無耶にされる危険、規制で失われる得べかれし利益、護送船団方式の無競争によって失われた利益、金融混乱による資産管理会社の倒産による逸失、制度変更による資産そのものの没収、インフレ・デフレによる減価、時価会計下のボラティリティの波に掬われる危険等々、既に経験済みなものから今後発生しますでありましょう、今は名も無き多様なリスクに晒されている中で、原資産の保全が求められることになります。併せて、効率的な資産運用を展開し時価資産の極大化を目指すことになります。当然、これには過大なリスクは禁物というのは言うまでもないことですが、これを達成するためには逸失利益が生じないようにし、資本の生産性を向上させなければなりません。
そのためには、たとえば、戦費調達まがいの産業資本集約の金融インフラ(金利の統制・介入、間接金融政策、護送船団方式による銀行行政、銀行の株式保有による流動性の統制、国民の税金を担保にした信用供与体系等)の統制経済的構造と、それを追認する法理体系・財政システム等を刷新していかなければならないのでしょう。
さらに、上記の課題達成のためにも、従来の官中心の一部の人間による恣意的な政策立案というものは、ご免こうむりたいものです。中央集権的財政・行政の裁量手法は、第3セクターとか、地方自治とか、審議会方式とかに表面化しているようにもはや機能を終えているのであり、住民投票とかパブリック・コメントとかウェブのホームペーシとかROE・EVA等により切り開かれるものによって新しく構築されていくものなのでしょう。


この社会を「お上」から与えられたものと考えるのか、自分自身の意思でつくり
変えられるものと考えるのか、の問題だと思う。

JMM VOL3 編集長村上龍「美しき為替市場の魔力」
三ツ谷 誠「金融資産の行方」


新たな人材育成のため、官民共にゼネラリストの「年次玉突き人事」(日本経済新聞社・春秋・平成12年1月22日)を廃止、せめて10年は同一業務に就労させ、それぞれの場面のプロフェッショナル育成を図るべきでしょう。癒着を懸念という問題は別の問題です。2年で配置換えなどというのは専門性が求められるこれからの世の中では使いものにならないのですからご法度にしてもらいたいものです。先の日経の春秋子の記事によると、国の看板である外交官までもが2年で交代とか、恥ずかしいかぎりです。
これらを成就するには、専門性を確保し、効率性を最大化し、機動性を高め、個人性を追求する等、様々な要請が必要になりましょう。そうして、これを担保するには、新たな統治構造の構築が不可欠となります。しかし、それは、おそらく理念的に構想される類いのものとは違い、足下の徹底的な分析・認識により知り尽くすことがまず求められるでありましょうし、試行錯誤の切磋琢磨によって自から湧き上がって来るようなもの、無知なゼネラリストの「決める」ではなく、多人数の参加と多くの時間に拠って叩かれて丸められるようなものであり、スペシャリストに蓄積された経験からのみ導きだされるような艱難辛苦のすえに僥倖のごとく生み出され「決まる」ものでしょう。


しかし、これまでの状況を見ると、国家にすばらしいプロジェクトを民間よりも
勝って立案できる能力があろうはずもないし、結局、市場の評価を通じて、これを
(例えば株価の値上がりや新規公開の可能性などを)インセンティブとして良いプ
ロジェクトを発案してもらう以外に、日本経済を抜本的に改善する経路はなさそう
です。

JMM VOL3 編集長村上龍「美しき為替市場の魔力」
山崎 元「金融資産の行方」


ハ.新たな統治構造の構築
基金の<果たすべき約束>を達成するために必要になるインフラは、多方面、多岐に渡り、とても、一人では、一基金ではカバー出来ない範囲を対象とすることになりましょう。縦構造から水平構造へ、政策的法理(マクロ政策による統制経済推進のための法理)から純然法理(純然たる「法の支配」が確立された世界)支配によるグランドデザインを統治することになります。新しい時代には日本の伝統的な政治は無能です。とはいいましても、伝統的な<政治>に替わりますもの、未だ命名されていないそれは萌芽として散見しはじめています。

金利ゼロが示すものは「我々はとりあえず行き着いてしまった」という事実では
ないでしょうか。我々のシステムはもはや何も新しいモノを生まない、生めない、
成長しない、ゆえに金利がゼロになるのです。

JMM VOL3 編集長村上龍「美しき為替市場の魔力」
三ツ谷 誠「低金利の意味するもの」

要は、厚生年金基金の<人様のお金>にどう面接するかということ。そのために、どのような政治・法理・経済・財政・行政・金融等のインフラを整備するかということ。そのためには、一例として、

・哲学・社会学・経済学
・法制・行政・財政システム
・直接金融市場システム
・年金法
・受託者責任
・国際会計
・数理
・老後資金調達制度
・資産運用基本方針
・資産配分方法
・リスク管理手法
・運用機関評価方式

等々を網羅した一国の文化全体を形成するような膨大なインフラ(総合科学という人もいる)であるのですから、超天才でもとても一人では立ち向かえないし、試行錯誤の繰返しで時間もかかるし、多様な経験の積み重ねが必要ですし、多くのことを明確に分析し認識する必要があるため多数人の英知が結集されなければ難しいでしょう。おそらく、伝統的な演繹的思考方式や帰納的思考方式では限界があるのではないでしょうか。新たな思考法式、現在の状況・問題にフィットした思考方式が必要なのでしょう。例えばケース・メソッド、例えばブレイクスルー思考、例えばパブリック・コメント、例えば「似たような状況において蓄積された経験」の起爆力、例えば為替の値付けのような多数人の参加、例えばフィデュシャリー、例えば唯識の阿頼耶識(?)……


欧米型の市場型資本主義に欠かせない政治的・社会的・法的インフラやその他の
制度を構築し機能させるには、おそらくまるまる一世代はかかるだろう。

カレル・ヴァン・ウォルフレン 文芸春秋 '99.7
「「グローバル・スタンダード」と訣別せよ」


さてさて、実務に戻って、基金の<果たすべき約束>を達成するために必要になるインフラは、現在のところ、基金事務所では次のようなものが考えられるでしょう。




当然、外部環境としては「年金法」の確立、マクロ経済方式からミクロ経済方式への転換、資源配分の国家統制を廃し効率市場の確立、契約法理から信任法理(日本では信託という言葉は汚れている、信認?)への移行等が基金の<果たすべき約束>にとって望ましいことは言を待つまいし、必要・不可欠なインフラでしょう。
要するに、これら全ては、基金に負託されたものを最良執行するときのインフラですが、同時に<人様のお金>に関わる者全員に求められる人格の資質を構成するものでもあります。長いこと疎んじられてきました<人様のお金>という感覚を見直す時期にきたということでありましょう。そおです、<人様のお金>という観点から世の中を見渡しますと、新しく何かが始まりはしませんでしょうか。そこに<果たすべき約束>を実現する日本の経済・社会の再構築へ向けての経路が開けはしないでしょうか。エクセレント・カンパニーではないですが、エクセレントな経営、<エクセレント・ペンション>のようなものが。
それでは、この<人様のお金>に負託されました<果たすべき約束>を実現するために求められるものは何になるのでしょうか。日本型資本主義の構造改革は歴史の必然でフロー重視からストック重視へ移行するにつれて改まって行くことでしょう。その端初が持ち合い株式の放出、含み益経営からキャッシュ・フロー計算書の採用、退職給付債務の計上、ROEからEVAによる株式評価等々であり、既にこれらは動きだしています。

日本やドイツでは企業グループというシステムができて、短期的利益を求める株
主の発言力が最小限に抑えられることになった。一方アメリカでは、年金や信託投
資の基金が主力となるシステムができて、株主の意向が経営に非常に強く反映され
るようになった。

L.サロー『大接戦』―日米欧どこが勝つか 1992


このような状況下で、統制経済とその機能不全に対する現実認識・分析の徹底のうえで、制度のフレーム・ワークの刷新、インフラストラクチュアの確立、これらの背後に控えます世界観・哲学の見直しなどが必要になるでありましょう。


多くの社員は釈然としない。自分たちの会社(外資系企業)だと思っていたのに、
いまや株主のものだという。株主はカネを出すだけだが、社員は人生をかけている
のに。日本型経営は、従業員を主、株主を従と位置づけ、安定した人のネットワー
クを重視してきた。だからこそ社員は、給料以上のエネルギーを仕事に注いだし、
技術や知識を社内に蓄積した。

伊丹敬之(2000.7.30 天声人語)


  (6)パブリック・コメント?

単独連合厚生年金基金協議会
冊子「たん・れん」2000/1月号掲載

厚生年金基金は、制度発足30年を経過し、日本の社会・経済構造のきしみの典型になったと言えるのではないでしょうか。というのも、超少子・超高齢化のインパクト、国の統制・計画経済方式による立法・司法・行政の疑義多発、政府の金融・財政政策の行き詰まり、金融制度の後進性露呈、社会保障の機能頓挫、企業活動のグローバル化に伴う企業会計制度等の構造改革、官離れを始めた国民意識の刷新等々、諸々のきしみが総じて基金問題に噴き上がってきているからであります。他方で、基金制度そのものは30年もの間に、行政サイドの法令・通知・指導という体系に全面的にからめ取られ、気がついてみれば「死に体」となっていたのです。
この間、基金の現場では様々な場面、例えば免除料率の改訂、給付改善、業務の機械化、代議員会等の運営、福祉施設事業の展開等々の場面で行政サイドとの折衝経験は蓄積されてきたが、行政判断のブラック・ボックスは透明化されず、この辺り、あの線まで、こういう組み合わせであれば等という疑義申立ての類推・想定のレベルでしか行政を動かし得ず、事務局レベルで多少の業務改善(代行型から加算型への移行、業務委託Ⅱ型からⅠA型への移行、退職金の基金への一部移行、数理業務の指定法人化、総幹事離れの達成等)は行えたものの、大半は社会保険行政の中に取り押さえられたままなのが実態でした。
一方、厚生省の審議会方式または厚生年金基金連合会等の委員会組織を通じての熱心・執拗な改善申立て、要望書の上申等の方式で実現されたものは、業務とか事務レベルの問題であり、どちらかというと現実との妥協に終始する事柄が大半で、そもそもの前提を廃棄するような抜本的な制度改革の進展がないまま推移してきてしまったのも事実です。そのほかに、圧力団体陳情方式または政治献金方式、接待攻勢方式等、様々な方式が試されてきましたのがこの30年の経験です。しかし、問題の中核をなす裁量行政そのものの妥当性はあらゆる場面を通じて間接的に再々問題にされてはいたが、直接問い質されることがなかったのも事実でしょう。それが、社会・経済のきしみの高まりにつれて誰の目にも裁量行政の機能不全が明らかになってきたのです。数年前から厚生省も自ら<裁量行政から事後監視型行政>への転換を表明しつつあるようです。こういう動きは、厚生省のみのことではなく、総務庁を始め大蔵省、通産省等にもみられる行政サイドの一般的な現象となってきたようです。
この事後監視型行政の一つの手法として、最近「パブリック・コメント」(規制の設定又は改廃に係る意見提出手続き)ということが言われ始めてきました。裁量のブラック・ボックスに委ねられていた行政手法の透明性確保の一手段として、平成11年の3月に閣議決定され制度化されたばかりです。基金の世界では未だ馴染の言葉とはなっていないようですが、民間活力を旨として導入された基金制度がいつの間にか<裁量行政>の典型で<死に体>になっている世界で、日々呻吟されている基金の皆さんにこそ関心を持って頂きたいものです。
 実は筆者も「パブリック・コメント」をまったく承知していなかったのですが連合会の「受託者責任研究会ワーキンググループ」に参加させて頂き、そこで始めて知ったというわけです。現在このワーキンググループでは3班に分かれて「資産運用機関の受託者責任」について鋭意研究中であり、近々そのとりまとめ(案)について「パブリック・コメント」を求める段階にきています。是非、皆さんのご意見を反映させて頂きたいものです。

30年もの基金の<裁量行政>の経験にとって「パブリック・コメント」という手法は、目を見開かせるような事態の進展であり、隔世のかんを禁じえません。この起爆剤が必ずや、関係諸事項を巻き込みパブリック、公衆、民意反映の潮流を作り出して、新しい世紀において基金制度を再生させる一つになるものと考えています。

【資料】
.「ジュリスト」1999.7.1号「特集・規制に係る意見提出(パブリック・コメント)手続き」
.通商産業省・電気事業審議会第6回基本政策部会・専門委員会議事録(平成10年11月25日)(www.miti.go.jp/report‐j/g81125of.html
.通商産業省・電気事業審議会第15回基本政策部会・第34回料金制度部会合同部会議事録(平成11年1月21日)「議題パブリック・コメントの紹介について」 (www.miti.go.jp/report‐j/g90121aj.html)
.総務庁ホ-ム・ペ-ジ(www.somucho.go.jp/soumu/)「各省庁における「規制の制定又は改廃に係る意見提出手続(パブリック・コメント)」 実施状況
.大蔵省ホ-ム・ペ-ジ(www.mof.go.jp/)「意見提出手続(パブリック・コメント)実施一覧」
.厚生省ホ-ム・ペ-ジ(www.mhw.go.jp/)
.厚生年金基金連合会ホ-ム・ペ-ジ(www.pfa.or.jp/)

「人様のお金」OPM(A4・224頁)  連載 6

2013年03月06日 | 厚生年金基金

7.代行の分離?
基金事務所の現場で長い間に渡って実務に携わりつつ何百回、何千回となく目に触れてきて、人様に基金制度を説明するときにも使用してきました<基金制度の仕組み図>があります。




この図は、筆者にとって基金のことを考えるときには常に大前提としてイメージされ、潜在意識までに叩き込まれている基金制度の仕組み(基金=代行)です。
ところで、これを、下のように分離したら何が起こるのでしょう。




 まず始めに、これはちょっとしたショックを基金関係者に与えやしないでしょうか。
えっ! こんなのありなのか、ありえるのか? 冗談言っているのか、単なる思い付き、機知かい? 無意味なことをするもんだ。それにしても180度の転換とは言わず90度、程度の転換ではあるが……、代行部分は何となるのでしょう。免除料率は何と呼ぶのでしょう。これで社会保険ではなくなるのです。これなら、懸案の代行ゆえの行政介入はなくなるのでしょうか? 民活度の向上を図り易いですかも知れません。財政の基盤は確保できるでありましょう。積立不足の改善も、し易すいかも知れません事前積立は維持されますか。これで本来の確定給付制度ということです。<事後監視型行政>向きのフレーム・ワークではないのか。これで凍結も解除できるかも知れません。<死に体>からの起死回生策になりえるでしょうか。民営化の達成が行えるかも知れません。これで代行の金縛りから脱却出来るのかも知れません。
こういう制度は何と言うのでしょう。ちなみに、現代マーケティング論ではネーミングの重要さはトップマターであります。これは、という名付けをしたいものです。まさか<分離>でもあるまい? <ぶんり>?


私たちは私たちの行為の理由を知らないということと、私たちの意志決定の結果
は予想するところとしばしばきわめて異なっているということが、合理主義の時代
の慢心にたいする諷刺─かれの最初の狙い─の二つの基礎であった。
私がマンディビルのために主張したいと思うのは、かの機智の戯れ(jeu d'espr
‐it)に導かれてかれが辿りついた思索は、進化と秩序の自生的形成という双生児的
観念についての近代思想上の決定的な突破口を開いたということである。

F.A.ハイエク「医学博士バーナード・マンデヴィル」


この段階では、エリートやゼネラリストの手法のように<決める>ことをしないで<決めない>ことが肝要、漂わせるのが筆者の手法。マンディビルの言う「進化と秩序の自生的形成」でも待ちましょうということになります。


各省庁(日本の)は一世紀以上にわたり、官僚の裁量権を拡大し、政治家の指図
を阻む手法を発達させてきたのである。

カレル・ヴァン・ウォルフレン
「「グローバル・スタンダード」と訣別せよ」

8.基金の現場から見回すと
最近基金事務所から世間を見回すと、筆者は代行制度については、政治も官僚も民間も学習効果の出るだけの期間の経過を経験してきたのですから、ドロ合戦のマイナス効果を滅却して互いの批判・非難を越えて、この辺で大同団結してプラス指向で建設的に事に当たることをしなければ、後代の笑いものにされてしまうでありましょうと、危惧するようになってきました。<後代負担>どころか<後代の笑いもの>だと。


                   ロッキィーズ物語

・三回戦ボーイズ

―今年も又、三回戦止まりだったねェ。
―みんな、頑張ったけどなぁ。結局、打てない、点が取れないってことですか。
―10年位、こうなんだろう?
―そおっ、ロッキィーズは毎年そこそこのチーム力は有るんだけど、突破できな
い壁が有るんだねぇ。ここが限界なのかも。
―この練習量、このスタッフ、このお母さん達ではここまでなのかも知れない
ねぇ。
―土曜日3時間だけの練習ではどうにもならないかも……。朝練、やり
ますか?
―誰が? 皆、勤めがあるし、部としてはこれ以上、コーチにお願い出来ないよ。
昼のお結びだけなんだからねぇ。それに、押し付けではどうだろう!
―<少年野球を強くする魔法>なんての、ないんですか、Oコーチ?
―子供たちを逞しくすればいいんですよ。
―どうやって?
―ヘニヤヘニャ家庭が多いからねぇ。子供に大甘だから。
―「ライオンの子育て」、なんて、今時ないよ。突っ放なすってことを知り
ませんから。
―6年生が少ないせいかも知れないねぇ。
辺りはとっぷり日が落ちて、公園の芝生も露に濡れてきた。コーチ達のビール片
手の繰り言みたいな反省会は尽きることもなく続けられた。



「凍結時代」に入った基金制度は、30年余にわたる基金制度の経験によって蓄積されました、さらに蓄積されつつある基金経営と資産運用インフラ・ノウハウ、受給権保護、受託者責任の理念等々を踏まえて、グローバルな視点から日本の社会・経済状況を見据えて新たな経済・社会インフラの時価会計、退職給付債務、確定拠出型年金等へのプラス思考のチャレンジを果敢・大胆に行ないつつ、<代行制度>そのものについて改革していく必要があるのでしょう。「凍結時代」に入り、いよいよ本番を迎えたということでしょう。
幸い基金の世界には、このように考える人が多く、或る基金の常務理事が書いた単独連合厚生年金基金協議会の冊子「たん・れん」(99.11)の<羅針盤>匿名記事の文脈こそ基金を代表するようなオーソドックスな考え方でしょう。

「代行部分の取り扱いについて」
1.国際化の進展
2.問題に正面から対峙するほかない。
3.代行返上問題は資産運用難と規制が真因である。


景気動向に左右された短期的な視点での議論や、省庁間の権限争い、政治家の株
価対策を優先した確定拠出型年金の導入議論、マスコミの不正確かつセンセーショ
ナルな報道等は願い下げにしてもらいたい。今後は加入員、受給者の立場に立って
問題を根本的に掘り下げる総合的かつ長期的な観点からの議論が是非必要である。

「たん・れん」(99.11)の<羅針盤>匿名記事


(4)<人様のお金>

イ.誰にも属さない資金?
確定給付型年金である機関投資家(日本の厚生年金基金も同様)の積立金は、非帰属な特定の持ち主がいない資金ですと、C.エリスは『敗者のゲーム』で述べています。


適切な運用基本方針の確立とその適用という目標を追及する上で、年金基金や財
団のようなほとんどの機関投資家のファンドは、特定の持ち主がいない資金──す
なわち誰にも属さない資金──であるということを認識しておかなければならない。
「これは自分の金だ。このように運用してほしい。さもなくば解約だ」と言えるよ
うな個人は存在しない。つまり、直接の利害関係を有する特定の当事者がいないの
だ。

C.エリス『敗者のゲーム』―なぜ資産運用に勝てないのか


これが、一般的に不特定多数と言われる人々の資産を機関投資家として運用する<顔が見えない確定給付型年金>と個人口座に確保される<顔のみえる確定拠出型年金>の最大の相違点です。日本の確定給付型年金(厚生年金基金)の現場では、ここまでの認識、誰の金という意識も一般的になっていないようですが、そうかと言ってエリス氏のように「特定の当事者がいません」と断定出来る訳でもなく、曖昧模糊としたところがあるのが現実・事実です。この金を官僚は代行絡みで社会保障資産ですと言うし、中には、基金に関係し始めました企業ゼネラリストが功労報償的退職金の引当金感覚で会社の所有物ですと発言する者や、信託契約・保険契約をたてに法的な帰属を主張する誤解もはなはだしい運用機関もあります。このような立場の相違によりバラバラな見解がまかり通るのも、統一的な年金法なり金融サービス法が確立されていないがための過渡的な現象でしょうと考えるのが妥当なところでありましょう。
とは言え、次のような事例を読者はどのように読まれるでありましょうか。


免除保険料の半分は従業員負担(給与明細表の基金掛金はこの金額)なので、利
差益の一部は従業員の権利に見える。しかし、確定給付型の年金制度は、事業主が
給付の最終責任を負うので、事業主が従業員分の利差益を受け取っても違法ではな
い。

河村健吉『企業年金危機』


この利差益を厚生年金保険法に即してとはいえ、基金は過去にすっかり受け取って(会館にしたり、掛金抑制に使ったりして)おいて、アド・ホックに給付の最終責任を放棄しようとしているのが代行返上論者ということになりましょうか。
また、河村さんのようにスッパリ断定したままでいいものでしょうか。何も疑問はないのでしょうか。釈迦や仏さんに向かっても言い切れるのでしょうか。強弁してそれがビジネスですと言うのであれば、とんでもないビジネスです。そういうビジネスの命運は知れているでしょうに。


いまさら多言は要しまい。大蔵省と金融界の日本独特の関係──そこでは「護送
船団方式」のもとで、日本の銀行や証券会社、生保などの機関投資家などが、大蔵
省から常に暗黙の行政指導を受けていたが、80年代の後半には、アメリカの長期
国債の入札が近づくたびに大蔵省の担当者から電話が入ったという。用向きは、ア
メリカ国債への応募や購入の意向に関するヒアリングである。しかし、ついでに必
ず他社のアメリカ国債購入状況について説明がある。こうなると機関投資家として
も黙過できない。当局の意を迎えるべく行動せざるを得なかった、と密かに洩らす
ジャパン・マネーの担当幹部は多かった。

吉川元忠『マネー敗戦』


おっしゃるように従業員の権利も少しはあるのではないでしょうか。代行分の掛金の半分は加入員負担なのですから。それでも、年金信託契約は大蔵省のお墨付きですとでも言うのでしょうか。それとも、法律に間違いはないですとでもいうのでしょうか。それとも、そのようなことには関知しないという処世術なのでしょうか。それが信託営業ですとでも言うのでしょうか。大蔵省の護送船団方式を楯に信託・生保の寡占体制を敷いて金銭的収奪を繰返してきた従来の信託経営を証明しているようなものではないのでしょうか。
本来、日本に<信託>という観念を根付かせるべきフロント・ランナーとしての信託銀行が自らそれにもとるようなことをしてしまったということではないのでしょうか。受託者責任や受給権保護の観念は少しも育成されていないことになりはしないでしょうか。制度が作られて30年余も経過していて、貴重な経験の蓄積はないがしろにされたままでいまだ低次元の認識のままですと言われて抗弁出来るのでしょうか。自分たちの高賃金のため収奪をくり返してきておいて社会的負託に応えてこなかったそのような経営感覚ですから、最近の日本の金融不始末が発生したのではなかったのでしょうか。本邦金融機関が立ち行かなくなった真因はそこにこそあるのではないでしょぅか。


ある事態に遭遇した際には、このように質問してみるとよいです。「すべての受託者、
母体企業、確定給付型年金加入員が剰余金の所有権は誰のものかについて合意している
 のですか? 」 もし答えが『否』であれば、年金契約は不明確ですといえる。

K.P.アンバクシア・D.ドン エズラ
『エクセレントな年金経営の条件』


さらに、「事業主が給付の最終責任を負う」というなら、代行返上論者の口上に対して何か発言があっても良さそうですが、それが聞こえて来ないのは利益供与でも図ったつもりでいるのでしょうか。それとも、恫喝的に官からの収奪を可能にする仕掛けを提供するから黙って受け取っておけ! とでも言うのでしょうか。ともかく、現実には「事業主が給付の最終責任を負う」という事態とは逆に、代行返上や廃止が騒がしいのをどう聞かれているのでしょうか。
日本の年金基金資産は、この意味では虎の威を借りた業者により掠め取られ、限定列挙方式の行政により「死に体」にされ、企業の政治権力の介入によりスポイルされて、資産の積立不足もさることながら加入員等の年金受給権など風前の灯になっています。30年余もの長い期間にわたって、このような外部勢力の再々の介入により基金の資産はズタズタにされてしまいました面もありますが、反面そのような経験を踏まえて逞しくなった面(資産運用規制撤廃の獲得、資産運用基本方針の制定、受託者責任概念の導入等々)もあるのが現実であり事実です。さらに、そのような厳しい現実の打擲を受けつつ日本経済の土壌改善を果たしつつあること、つまり、使い捨ての従業員への縁切りとしてしか考えられていなかった退職一時金制度に対して厚生年金基金を通じて<終身給付年金の理念>を普及させた点が最大の貢献でしょう。
今は逆に、規制緩和、金融ビッグ・バン、国際会計等の追い風が基金に吹き始めているのでしょう。いよいよ、真正面から基金問題を考える土俵が整ったということでありましょう。この国では、長いこと倫理や仏心や商いの道など口に出来ないほど、人心が汚染されてきましたのが現実でしたが、ようよう土壌改良が始まり出したというところでしょう。





大学と卒業後の研修時代を通じて、一言でも「倫理」という言葉を耳にしたこと
はなかった。70年代後半のビッグビジネスが中心だった時期には、道徳は問題に
されなかった。自由で、過激で、人間的な60年代は去り、社会は実利主義に方向
転換していた。
私はウィルキスに対して「内部情報に基づく売買取引は間違っている」と答える
べきであった。しかし、そう答えるかわりに、こうすれば私も余分な金を稼げるん
だと考えた。

D.レビン/W.ホファー『インサイドアウト』
―ウォール街証券マンの栄光と転落


要するに、<確定給付型年金>の積立金は、誰にも属さない資金ではなく、単に顔が見えがたい不特定多数の集合資産であり、それは、明らかに例え代行制度があってもハルブレヒト氏の言を待つまでもなく、加入員・年金受給者、それに受給待期者に帰属する資産であります。


もし年金基金が従業員に帰属しないのなら誰に帰属しているのであろう?

P.ハルブレヒト『年金基金とその経済的な権力』1960


企業は、掛金を拠出しました段階で所有権の移転が発生するし、厚生省行政は免除料率を提供した段階で同様なことが発生しているのです。法的な帰属を契約上主張する信託銀行や生命保険会社等は委託されました本質(trustee や fiduciary)を理解し負託された信認の社会的使命を達成しなければならないでしょう。大蔵省の耳打ちにあって資産配分をコントロールしたような信託・生保、さらに、それを金融行政としていました大蔵官僚の姿勢には<人様のお金>を<自分たちの金>としてしまう構造的横領が蔓延っていたということでありましょう。
そのような理解・認識がないまま従来方式を引きずるようであれば、基金サイドに勃興しているもの(お任せ運用から戦略アセット・ミックス運用へ展開)によつて自然淘汰されるのは必然でしょう。そのような商品特性は、年金資産運用に不適合なだけです。未だに、エンド・ユーザーにカストマイズドしない商品の生き残る道があるとでも考えているのでしょうか。

個人勘定で形成される確定拠出型年金が顔の見える年金ですとすれば、顔の見えないと言われる確定給付型年金は、資産の帰属もさることながら、加入員にとって自分の年金の現在価値が明らかでないですという面もあります。この点については、30年余の技術インフラの蓄積により、現在では「加入員台帳」(加入記録のヒストリーと現時点の年金額等を一表にしたものー各基金は全加入員のそれの作成を義務付けられている。基金の最も基本のデータ)の随時提供も低コストで容易に出来るようになってきています。(源泉徴収票のように。ぺーパー以外にも、Eメール等での提供も可能)後は、trustee や fiduciary の観念がどれだけ基金に醸成されているかによる段階にきていると考えられます。
ちなみに、ABC基金では、平成11年度に試験的に希望者に配布を始めています。これを、定期的に、例えば毎年4月に全加入員に配布することを継続すれば、幾分かは顔の見える確定給付型年金となるでありましょう。
この場合とは少々性格が異なりますが、或るコンサルタントは、会社へのインセンティブを高めるために個々人の給料支給明細書に会社負担経費の明細を併記することを提案しています。


当時日本の金融機関が存在感を誇示し、世界から恐れられたのは、金融技術の水
準の高さや経営者の資質の優位からではない。国内からあふれ出た豊富な資金量に
よるものである。いわば、質ではなく、量であった。その量の優位が、不良債権の
処理と円安で見る見る縮んでしまった。

西村吉正『金融行政の敗因』


従来の日本のインフラは何も「顔のみえない厚生年金基金」に限ったことではないですが、
客観的論理展開がなく、合理性に欠け、曖昧なところが多く、逆に負託を押しつけることが当たり前になっていました。お上意識、官の知らしめずの世界で足りていたのがここにきて綻びはじめ、ディスクローズを求められてきているのは多くの人が承知の事実です。
とは言いつつも、確定給付型年金が、例え「加入員台帳」等が配布されるようになって個々人が自分の年金額を把握できるようになったとしても、機関として資産運用を行い年金支給を行う仕組みが無くならない限り、確定拠出型年金との資金性格は明確に異なるでありましょう。要するに、確定給付型年金の資金は政府・企業の手を離れました<人様のお金>であり、確定拠出型年金の資金は個々人の<自分たちの金>なのです。いずれも、政府・企業というスポンサーの手を離れた資金ということです。
つまり、過去は問わないにしても、<確定給付型年金>の積立金は、加入員・年金受給者、それに受給待期者に帰属する資産であるという基本認識をべースにして、つまり、受給権保護の立法化を図りつつ日本の資産運用のインフラ・ノウハウを構築すべきでしょうということになります。
それは、グローバル・スタンダードである国際会計基準、強いては退職給付債務のPBOの考え方が導入されたことにより決定的な事案となったということでもあります。このことは、退職金は功労報酬ではなく後払い賃金ですと断定したということを意味しており、その給付は終身給付を原則とするということでもあります。


私自身が人にたよらない独立の思想家として本当にスタートしたのは、私は常に
この時の討論からだと考えている。思索の方面で私が今までにして来た、あるいは
これからするであろう、すべての仕事のもとになっている一つの精神的習慣、それ
は難問の半分だけの解決を決して全面的解決として受け入れぬということ、謎を中
途で放棄してしまうことなく、はっきりするまでは何度でもくり返してそこにもど
ってゆくこと、ある問題の曖昧な隅々をそれが重要と思えないからといって決して
未踏査のままに残さぬこと、ある問題の全体を理解するまではその如何なる部分を
も完全に理解したとは考えぬこと、というようなことだが、そういう習慣を私が身
につけた、あるいは非常に強化したのも、これらの討論を通じてであった。

J.S.ミル『ミル自伝』 朱牟田夏雄訳


 要するに、退職時の一時金としか思料されていなかった日本の退職金は、グローバル・スタンダードとは異質な類稀な制度ですと断案され、そのようなローコストの従業員使い捨て手法は地球的規模で経済活動を行う者にはまかりならぬと判定されたのです。世界レベルのルールに反するということです。


ロ.人様のお金
「……アメリカのお金USドルにはコインでもお札でも必ず "In God We Trust" と書かれていることをご存じだろうか。これは日本語にすれば「富を神に信託する」という意味になるでしょう。」と、大場昭義氏は『資産運用ビッグ・バンン』で指摘しています。
日本人にとって「神」は別にしても「 Trust 」は研究するに値する概念でしょう。発祥は14世紀以来の英国封建時代の領主と領民との争いの判例の積上げで生み出された信託法のようです。
1933年米国ルーズベルト大統領の「今われわれが必要としているのは、他人の財産を預かって運用する銀行や企業、その他機関のマネジメントの責にある人々は、資産を預けた人々の『受託者(trustee)』の立場にあるという、古来の真理を再確認することなのです」(日本経済新聞平成11年11月19日夕刊十字路:井手正介・学び忘れた「受託者責任」)という言葉で信託ということが意識され、1960年にハルブレヒトが『年金基金とその経済的な権力』を著し、1974年にエリサ法成立、1976年にドラッカー『見えざる革命』出版、1986年に英国ではIMRO成立、そしてついにこの日本で1997年厚生省の「受託者責任ガイドライン」が成立し、1998年には厚生年金基金連合会から「受託者責任ハンドブック(理事編)」が追加され理事の行動指針が示され、「受託者責任ハンドブック(資産運用機関編)」も2000年4月に発刊の運びとなってきたところであります。年金法の確立はまだ数年先のことでしょうが、遅れること米国に60年余、エリサ後でも20年余、英国に10年余でようやく研究が始まったばかりです。




日本のtrusteeまたはfiduciaryの観念が育まれていなかった過去の30年余に、厚生年金基金は企業と加入員の拠出金(掛金)を預かって、加入員・年金受給者、それに受給待期者に帰属する資産を資産運用機関と資産保管機関(日本では通常この2つの機能を総幹事会社がはたしている)に預けて管理してきましたが、政府の超低金利政策だけで資産保全が図れなかったのではなく、年金積立金に対する様々な見解の相違によって積立金の保全が達成されなかったのも事実です。それは、日本型資本主義(統制・計画経済手法、株式持ち合い体制、含み資産経営、ゼネラリストの法人代表というフィクション、本来の株主不在、三種の神器等によるインナーサークルに限定された家族主義的資本主義)の「和」に埋没しました「個」の平安という価値観、あるいは個の十全な展開を旨とする欧米風自由主義の効率性とは相違しました「和」の観点から全てを取り込む際の効率性等によって、年金積立金の保全は次善のテーマにされないがしろにされてもきたのです。つまり、日本型資本主義は別の文脈に作り替えるというか、独自な文脈を創造したのであって、西欧風資本主義とは意味の異なる別の言語を生みだしたのです。
このため、日本型資本主義には理念としての法の精神や会計原則、年金受給権などという考え方は問題にもならなかったし、日本型資本主義のロジックには<人様のお金>という観念は当初から存在しなかったのです。株主の金でさえも自分たちの金にしてしまいます<横領>を官民ぐるみで構造化しましたインフラストラクチャーを仕組んでいたほどであるのですから。この意味では、法人株主とか金融機関の株式保有などという実態には、巧妙なからくりが仕組まれていますと言えばよいのか、とてつもない知恵が含まれていると言えばよいのか、一義的に判断出来ないのかもしれません。
先にも触れましたように、基金の年金積立金、つまり加入員・年金受給者、それに受給待期者に帰属する資産を、功労報奨的退職金と考えたり、社会保障の一環と位置付けたり、法的な信託資産・保険資産と解釈したりしてきたのです。さすがに、基金の役職員には、年金積立金を基金のものですとあからさまに主張する人はいなかつたようですが、実際の運営の場面ではそのように曖昧な帰属のために、自分の金だとか、会社の金だとかという認識で傲慢になったり、勝手な法解釈を強引に展開したり、保身のために経営サイドに提供しましたり、危うい場面が幾つもあったことも事実ですし、現に今でも<危うい常務理事または理事長>が散見します。要するに、ゼネラリストやテクノクラートの恣意的行動が許容されてしまう程度のインフラしか現在のところは確立していないのです。
功労報奨的退職金からすれば会社の金ですと言う発言も納得出来ますが、退職金の位置付けが一旦後払い賃金ということになれば、またはその一部でも基金の加算型に組み込まれました部分は会社の金ですと言うわけにはいかないでしょう。それでは適格年金はどうかと言えば、会社の金になるのか。通産省なら、そう言うでしょう。それもこれも、退職金の位置付け次第でしょう。これらの混乱の上に代行分の位置付けも曖昧になつているわけです。
世界の常識からすれば、退職金は後払い賃金として確定しているようですが、日本もいよいよ国際会計基準の導入、退職給付債務の採用で、有無を言わせず<後払い賃金>説で新しいフレーム・ワークを構築せざるを得なくなってきているのでしょう。ということは、そういう考え方の背景にある世界観の、哲学の変更を求められているということです。


一般に、ケース・メソッドを行うことによってえられる教育効果は、(1)概念化
能力(Conceptual Skill)、(2)分析能力(Analytical Skill)、そして(3)コミュ
ニケーション能力(Communication Skill)の三つだとされている。

和田充夫『MBA』―アメリカのビジネス・エリート


ところで、日本で<人様のお金>と言えば否定的に使われる「人の金」という言い方は別にしましても、また、英語の Other People's Money の文脈(レバレッジを効かしたときに生まれる金? OPM)はいざしらず、<徒や疎かにできない人様のお金>と形容されるのが一般的です。
 ここには長い時間をかけて形成されてきた日本人の倫理観、宗教心、商道等の神髄が表明されていると考えても間違いではないでしょう。と言うのも、我々日本人は聖徳太子のころから、農耕的風土を背景に狩猟民族とは違い人をあやめてはならないと言われるより、人様のものをくすねてはいけないと、ことある毎に教育されてきたのであり、<徒や疎かに>してはならないと、父母からきつく言われ続けてきたのです。これが日本人の心性の基盤を形成しているし、形成してきたのです。
つまり、trusteeやfiduciaryの外来観念で考えるまでもなく、日本語の語感、倫理感覚で<人様のお金>と言えば、含有蓄積された文化・歴史・慣習等から日本人の哲学、宗教、倫理、道徳の神髄に触れる或る規範が自ずと浮上してくることになるということです。ことによると、trusteeの神髄は<人様のお金>なのかも知れません。
例えば、エリサ法における404(a)(1)の忠実義務の条文にある「基金の受託者は基金の加入者及び受益者の利益においてのみ任務を遂行しなくてはなりません。」という規定は、<人様のお金>から考えると至極当然のことで新ためて取り上げるまでもない事柄です。ここから、原資産保全や機関投資家としての行動が始まるのではないでしょうか。プルーデント・マンからプルーデント・インヴェスターへ。
ところが、どうでしょう。日本ではこの心性はバブル経済によつて麻痺しましたという以前に、戦後の経済復興を果たす過程で組織的・構造的に奪取されてしまったのです。日本の金融秩序は大蔵省の金融行政とそれに絡まり付いていました銀行、生保、証券、事業法人等によってインモラルの極みに達してしまったのです。<倫理>などという言葉は久しく聞いたこともなく、<倫理>などと言うものなら、坊主臭いとかで村八分にされるのがおちであります。ましてや、<徒や疎かにできない人様のお金>などというフレーズは死語になってしまっていたのです。恐らく、現在でも大蔵省や銀行、生保、証券、事業法人等の面々にこの言葉はナンセンスそのものであり、この言葉をかけられても能面のような死に顔を返すだけのことでしょう。人の心の琴線に触れさせるためにも、お蔵入りになっている<人様のお金>という言葉、活字を巷に溢れかえすことも必要かもしれません。新車の売出しのように金融業が軒を連ねる道路に幟を建てますとか、インターネットにバーチャル広告を縦書きで何気無く流すとか……。


それはいわば「沈黙の規範」とでもいうべきものです。しかし、その「沈黙の規
範」としてのアイデンティティさえも失われれば、その社会の経済は、グローバリ
ズムの「浮遊する金融」によって翻弄される以外にない。個人の生もこの「浮遊す
るもの」の中で浮沈を繰り返すだけである。市場の運動には容易には取り込まれな
い、また侵食されない「沈黙の規範」だけが、人々をかろうじて「確かなもの」に
つなぎ止めるのではないだろうか。「自立した個人」とは、この「沈黙の規範」つ
まりその内面にアイデンティティを自覚した者でしかないと思われるのである。

佐伯啓思『幻想のグローバル資本主義』下巻ケインズの予言


戦後日本の経済復興を可能にしました統制・計画経済手法も、平成バブルと日本版金融ビッグ・バンン等を通じて機能不全が明らかになりましたが、そこに現れました非効率・アンフェア・ローカルな数々のモドキ・システムの無残な姿は、隆盛を極めていました金融機関または企業経営の法人論理の終焉を意味していたのです。
持ち合い株の放出、国際会計基準との調整、すなわち退職給付債務の計上、キャッシュ・
フロー計算書の導入、時価会計への転換、FCEPS、EV/EBITDA指標等によります企業評価等のインフラストラクチャー整備により含み経営から市場指向経営への転換「不自由・アンフェア・ローカル」(山本昌弘)資本市場のグローバル化達成が急を告げています。


「年金革命」が突き付ける課題は、日本型資本主義と日本的経営そのものの清算
的出直しだ。

末村 篤「年金が企業経営を変える」
―「見えざる革命」の日本での展開


アンフェアと言えば、大蔵行政と同様に金融機関や企業経営の法人論理が<人様のお金>に対して、強弁の勝手な論理を構造化して恰も<自分たちの金>であるかのように行動してきたことは多くの人が知ることになったのです。


オルタナティブ・インベストメンツのセールスが盛んなようです。
要は、金融法人が逃げ、事業法人もプリンストン債に懲りたので、食い詰めた
  怪しいセールスマン達が免疫の乏しい基金の人々を狙っている
というのが、証券業界側から見た構図です。腹立たしいことではあります。

或る証券マン Eメール私信・2000/1/31




「免疫の乏しい基金の人々」が統治・管理している<人様のお金>が、金融・証券業界でターゲットにされ、<自分たちの金>にすり替えられるリスクに晒されているという悲しい現実があります。それは次々に交替する渡り鳥ゼネラリストでなくても経験も学習もしないでは手玉にとられるのは明らかですし、金融業界・年金業界が善意のモラル溢れる業界であるわけがないし、理事長や常務理事の肩書がセーフティ・ネットになんかなりっこもない世界なのです。逆に、それを餌に甘言が飛び交う世界なのですし、誘惑・勧誘は一際多く、恐喝、恫喝、窃盗、横領、見えない暴利の搾取等に溢れかえっているのです。御膳立ての世界を生きてきた渡り鳥ゼネラリストにとっては短期間の猛烈な切磋琢磨をするか、或いはいっそ逃走するしか対抗手段の無い世界です。
その一端は、次のような数冊の本だけからでも察知できると思います。

J.スチュアートのミルケン/ボウスキーを追いました①『ウォール街 悪の巣窟』、ウォール街証券マンの実態を書いたレビン/ホファーの②『インサイドアウト』、ウォール街の投資銀行からSEC委員長に就任しインサイダー取引の取り締まりに力を注いだジョン・シャドを書きましたD.A.バイス/S.コルの③『ウォール街から来た男』、ウォール街は巨大な幼稚園ですというM.ルイスの④『ライアーズ・ポーカー』、デリバティブといいます「怪物」にカモられる日本というパートノイの⑤『大破局(フィアスコ)』、大蔵省権力に羽交締めにされているデモクラシーを活字化した石澤靖治の⑥『ザ・MOF』、日本の金融ゼネラリストと金融官僚の不様な行動を描いた井口俊英の⑦『告白』、ガリバーを震憾させた男のひとりぼっちの戦い大小原公隆の⑧『野村告発者』、ウォール街1年生のスタイルズの⑨『さよならメリルリンチ』、米国投資銀行のトレーダーで稼いで今は独身・無職・都心マンション暮しの末永徹の⑩『メイク★マネー!』、……。

 今更ではないのですが、人の心の咎めが外れやすい<人様のお金>は、こういう人間の欲望が活動し易い<おいしい餌>でもあるのです。これもまた、為替リスクなどと同様な基金の経営リスクの一つです。<人様のお金>と読んだら、インモラルに処分してしまいましょうと考えるか、何がしかの慎重さが湧き起こって来るのか、最後は個人個人の内面の問題ということになるのでしょうが、それとは別に単なる無知故にいつの間にかインモラルの世界に巻き込まれてしまうリスクというものもあるでしょうし、現在ではむしろこの無知故にといいますリスクの方が高いのでしょう。今後の問題として日本でも米国のペコラ委員会のようなものは不可欠になるでしょうし、インサイダー取引に対する厳重な規制も必要になるでしょう。


経済が十分発展して少産少死状態に入り、勤労所得ではなく過去の金融資産スト
ックの運用に依存して生活する人口が全体の無視出来ない比率(例えば15%)に
達した社会を産業社会に対して「年金社会」と呼ぶことにします。そのような社会
 では、典型的に労働人口の伸びは低く、雇用拡大によるフローの成長余地は乏しく
 なる。一方、かなりの金融資産ストックがあり、その効率的な運用が経済成長の重
 要な鍵になる。

井手正介「年金社会における効率性、
公平性と資産運用サービス」


そうではあっても、一般企業法人のクレスベール証券債だけの話ではなく、基金の世界でも日経225先物リンク債、それにインフレ・ヘッジ債や注文服のように個別基金のニーズに応じた仕組み債、マネージド・フューチャーズ、各種ヘッジ・ファンド、オルタナティブ運用、EFT等々には内容が未だ明瞭でない金融商品を掴まされる危険は、5.3.3.2規制撤廃後益々満ち溢れているのが現実です。従来商品の安心を買うか、徹底的に新商品を研究しますか、基金の資産運用者は覚悟を求められていると言えるでありましょう。


LBO(レバレッジド・バイアウト)は今また流行している昔からのアイデアで、
見事に儲かるが恐ろしいほど簡単なからくりだ。「レバレッジド」という言葉はO
PMすなわち、「他人の金(other people's money)」という言葉を婉曲に表現した
もので、「バイアウト」の方はそのままの意味である。

D.レビン/W.ホファー『インサイドアウト』
―ウォール街証券マンの栄光と転落


 そうして、一般的にこういう事情を知れば知るほど、語りは暗くシニカルに否定詞で占められることになりますが、人間の生きる意味はおそらくこの否定詞を踏まえてなお肯定の世界を建設していく営為にあるのでしょう。その意味では、米国のエリサ法や欧州のIMROは一つの金字塔です。日本でも、愈々そのような努力が大蔵省の金融サービス法や厚生年金基金連合会の受託者責任研究会等で始まったところであり、学究の世界での大陸法と英米法の見直し、信託概念の見直し、契約から信認(信任)概念の研究等々が動きだしているようです。


最後に、信認法を1つのカテゴリーとして認めようという主張として加えるべき
点は、それが、他の人々の正直さに依拠し信頼するという関係のモデルであるとい
う点です。アメリカにおける契約は、それと対極にあるものです。それは、不信や
独立、自らのみを恃みとすることを表しています。私たちは、社会のなかでこの両
方のモデルを必要としています。しかしながら、私が理解するところによれば、日
本では、契約に、信託と信頼の要素が相当に含まれています。仮にそうであれば
信認法に対する需要はそれほど大きくないでしょう。しかし、アメリカについては、
これは本当に決定的なポイントなのです。

樋口範雄『フィデュシャリー[信認]の時代』―信託と契約
T.フランケル教授(1997/5/20東大法学部セミナー)言明


とは言え、制度や法律等の構築に際して、演繹的に大上段に構えて全てを決定する大陸法的な方法に対して、法的根拠足りえる代替の蓄積、言うなれば判例の積み重ね(エクィティの裁判)という英米法的方法が有りえるとすれば、前者が小人数で<決める>、後者が多数人により<決まる>という方法で、どちらが現状にフィットするのでしょうか。敗戦からの復興計画ではないのですし、官僚が全てを共産主義的に決定するという事態ではないでしょう。敗戦時並の混乱期であるには違いないのですが、現在は自由主義的に決定されるという場面でしょう。
その意味では、「現代」という時代の最大の特徴は多義的であるということです。場面は多面的で輻輳していて価値観は多様ですので、天才とはいえ一人でとり押さえられるものではないのが現実の実相です。効率市場の株価形成や実需が圧倒的に少ない為替市場のレート決定のように、多数の人間の意思が反映される方式が現代の形式でしょう。それが、NPOであったり陪審制であったり、信認、地方分権、パブリック・コメント等の試行錯誤な活動でありましょう。その上、これらの活動が従来のそれと違うところは、一様に経過的なもの、アメーバー状の活動ですということです。確定したものはなく、確定へ向けての運動ばかりということであります。


こうした自ら(榊原財務官)が主導した為替政策の「罪」の部分を総括すること
なく、「市場は常に間違う」、「市場万能主義がもたらした世界恐慌の恐怖」、
  「グローバル資本主義の危機」などと大言壮語に構える榊原氏の市場原理主義批判
は、どうも「責任のすり替え」のように思われてならないのですが……。

神谷一郎『大蔵省財務官榊原英資氏の大罪』


 付言すれば、日本で<人様のお金>と言われる対象は、確定給付型の厚生年金基金の資金に限定されるものではありません。公的年金、共済年金を始めとして、税金、生保や損保の保険料、株式資本、証券、預貯金、信託、社会保険料、弁護士料、訴訟費、地方交付税、財投資金、税金、PKO原資、為替介入資金、公債・国債、海外経済協力資金……等々も<人様のお金>であり、要するに経済活動のほとんど全般を網羅していると考えられます。むしろ、純然たる<自分の金>のほうが少ないのでしょう。そしてそれらのそれぞれの場面で、新たな問い直しの動きが始まっているようです。金融パニック、円キャリートレードや超低金利政策等の<否定詞を踏まえてなお肯定の世界>へ向かって。







               ロッキィーズ物語

・発声と座禅

チーム全員、グランド前の山に駆け登り、グランド目掛けて声出し練習もロッキー
ィーズの練習メニュー。ところが、母親や社会に押さえ込まれてか、少年たちは声
を荒げることも、ましてや蛮声など発することも知らない。変声期前だからアルト
のような少女声だということもあるが、腹式呼吸など言わずながも、とにかく腹か
ら野太い声を発声したことがないのだ。
そんな彼らにコーチが腰を低めて発声見本を示して、グランド目掛けて声をかけ
させる。すると、グランドのお母さん方が聞こえたときは手を振ってくれる。
それが、一段落すると、横一列に座らせて、今度は全くの静寂、座禅をさせる。
コーチの唯一の注文は、「何も考えるな!」だけ。微動だにしないまま5分、10
分と座らせたまま。始めの内は、木々を渡る風の音が聞こえ、鳥の鳴き声が新鮮、
遠くの街のざわめきも聞こえて来る。意識はそれら外界にさ迷うが、その内「何も
考えるな!」と言うけど、次から次へと考えるよ。グランドのお母さん、何してる
んだろう。明日、お金もらってあの店でゲーム買わなきゃ……。
OK! 立って。グランドに帰ろう。




「人様のお金」OPM(A4・224頁)  連載 5

2013年03月05日 | 厚生年金基金





吉原健二 まず、代行制度についてだが、もともと基金制度をつくるときに賛否
両輪があり、厚生省はどちらかというと消極的であった。しかし、退職一時金の負
担と厚生年金の保険料負担の調整を図れるようにしてほしいという、事業主の強い
要望でできたものだ。メリットがなくなったから返上したいというのはおかしいし、
ここまできて元へ戻すわけにはいかない。

厚生年金基金連合会編『21世紀の企業年金』
パネルディスカッション


免除料率の不足とは別に、あまり、話題にされていないが基金設立に際しての代行型の認可基準30%以上のプラスアルファ給付分のコストが高いという問題があります。当然、これも産業業態によっては低コストで済んでいる基金もありますが。
というのも、実態として代行型設立認可(現在は加算型でなければ認可されません)の最低給付水準、プラスアルファ給付乗率1.4‰を賄うために6‰の掛金率が必要となっていた基金があり、一時は、とくに前ぺージの昭和58年の<憤りを感じる基金>のひとつでは代行型維持掛金率は11‰(代行不足率5‰++α料率6‰)にもなり、事業主は基金設立ゆえに余分なコストを負担させられていました。





同じ給付乗率1‰を賄うために、上の表のように厚生省は免除料率(全基金一律)3.20‰で足りると言い、個別基金の実態になると4.29‰かかるのを行政の整合性維持と称していたのです。ここに、代行の隠された財政構造(平均値の暴力)が仕掛けられていたのであり、過大免除料率を受けている大企業基金であっても実は代行型の+α料率(基金設立に求められる上乗せ給付の負担)のハイコスト圧縮が課題としてあったのではないでしょうか。実は、上手の手から洩れ落ちていたものがあったのかも知れません。
今にして思えば、昭和50年から60年にかけて厚生省が盛んに代行型基金に対して加算型への移行を督励・指導していました時期があったのも、裁量行政のブラック・ボックス故に判然としないので推量、推察の非客観的・非科学的な物言いになりますが、<代行型の+α料率のハイコスト>について、実はブラック・ボックスを打ち叩いて警鐘を鳴らしていましたのかも知れません。筆者がこの辺の事情を問い合わせた当時の総幹事数理人達も背後の大蔵省・厚生省の国策に乗じてか、代行の隠された財政構造を直接詳らかにはしなかった経緯があります。しかし、幸い或る数理人が間接的に<横滑り加算>というアイデアを提供してくれて、代行型からの脱出が可能になり<代行型の+α料率のハイコスト>の数理的構造や代行型の隠された財政構造の詳細などどうでもよくなり、+α給付乗率1.4‰を0.1‰にハイコストを圧縮しました<加算型移行>の実績だけ頂くことになりました。
代行の隠された財政構造について上に述べてきましたように考えるのとは別に、免除料率の厚生年金保険料率との比較において、その絶対値そのものが過小ですと主張する現場の声も数多くあります。




 免除料率35‰では厚生年金本体の20%にしかなっていません。堀 勝洋さんの言うとおり(1997『年金制度の再構築』)厚生年金本体の保険料が「世代間扶養部分」と「保険料積立部分」とに分割されているとすれば、基金に免除料率できている部分は本体の10%程度になってしまうのではないでしょうか。仮に、これが事実とするなら、余りに実態とかけ離れてはいませんでしょうか。年金の大半を占めている老齢年金、さらにそのおおよそ半分を占めている報酬比例分の年金が免除料率35‰で足りるというのは、事務局で年金計算をしている者の現実感覚からするととても承服出来ません。ましてや、最近は設立年数の経過にともない報酬比例分は全額個別基金支払いという事態になってきていて、なおさらこの感じを強めています。
これらの推測・憶測・事実誤認(?)が取りざたされるというのも、民間がブラック・ボックスと考える部分に対して厚生省がディスクローズを徹底しないために生じているだけのことであるのかもしれません。アカンタビリティの義務が厚生省にはないのですとでも言うのでしょうか。個別免除料率などは当然の措置ですし、厚生年金保険料の積上げ方式での細分化を示すべきでしょう。




ロッキィーズ物語

・バットスイング・チェック表

ロッキィーズは万年三回戦敗退のチームでコーチも少年たちも何とか強くなりた
いものだと、練習に熱を入れ、様々な工夫を凝らしてきたが成果が上がらないまま
であった。土曜日だけで練習時間が少ないとか、お母さん方の応援が少ないとか、
チームの統制がとれていないとか、様々な原因が考えられるが、要は、チームに様
々な要素の勝つための有機的連結が生まれていなかったということだろう。試行錯
  誤の模索が10数年続くことになった。
ロッキィーズのディフェンスは常にそこそこの力を発揮していたが、結局いつも
打てずに負けていた。重量打線ならぬ軽量打線、足腰のひ弱なヘナヘナ打線であっ
た。情けない、歯痒い思いを散々させられた結果、考えだしたのが10枚の「素振
りチェック表」だ。
これは5年生と6年生を対象とし、バット・スイングを10段階に分解してチェ
ックするというものだ。始めの1枚はボックスに立つ時の歩幅、肩の線の確認、
握った手首の位置、力を抜いた大きな構え等を注意しながら1日50回の素振りを
し、終わったらチェック表のボールを色鉛筆で塗りつぶすというものだ。
毎週1枚わたして1日50回から9、10枚目は500回になる、全体で16,
800回の素振り、これを3回繰り返し5万回の素振りをしようと少年たちに呼び
掛けた。練習後、一人一人チェック表をコーチ・監督にわたしてスイングを見ても
らうことになる。徐々に足腰がどっしりとし、アッパースイングはいなくなり、構
えた手首の位置から一直線のダウンスイングの美しいフォームが生まれてきた。と
は言え、3回をクリアーした少年は確か3人ほどであった。




4.代行故の官の介入
厚生年金本体との整合性維持で、厚生年金基金制度が免除保険料率等の凍結などといいます<駝鳥の保身>のような末期症状を呈する事態に立ち至りましたのは悲しむべき事態の成立というより、穴中の頭部の外はほとんど全身を危険に晒したまま内外条件の整備を待ちつつ制度の本来の姿へ展開する一プロセスなのだと見る方が客観妥当性は高いのではないでしょうか。つまり、この凍結措置は慶事なのです。とは言え、内外条件の点検・見直しは不可欠ですが。
厚生年金と退職金の調整という代行方式の中核は、30年経過してどうなっているのでしょうか。<調整機能>は達成されているでしょうか。本来、制度発足の主旨からすれば代行型は皆無で、全基金が加算型で、それも退職金は100%移行されていてもよいはずですが、事実はそうなっていないようです。単独・連合基金でも代行型のままの基金も多く、退職金の移行も大半(年金給付の理論値プラスアルファ40%~50%に集約)は一部移行留まりです。少数ながら、利に聡く、財務内容の善い企業は退職金を100%移行し企業財務に退職金勘定がない状態を作り出し財務の効率性を高め、<調整機能>を達成しているところもあります。更に、国際会計基準の導入が間近になり、退職金を100%移行しているか否かで退職給付債務のPBO不足金の格差を広げ、財務体質、格付けを改善しているところもあります。
一方、民間活力の活用で制度発足しました基金業務の<民活度>は高まったのでしょうか。
これも、行政サイドの法令・通知・指導という体系に全面的にからめ取られ、気がついてみれば、厚生年金基金制度は「死に体」となっていたのです。それは、基金が日本の社会・経済構造の軋みの典型になったという意味なのではありますが。
 というのも、超少子・超高齢化のインパクト、国の統制・計画経済方式による立法・司法・行政の疑義多発、政府の金融・財政政策の行き詰まり、本邦金融制度の後進性露呈、社会保障の機能頓挫、企業活動のグローバル化に伴う構造改革、官離れを始めた国民意識の刷新等々、諸々の軋みが総じて基金問題に噴き上がってきているからであります。
この間、基金の現場では様々な場面、例えば免除料率の改訂、給付改善、業務の機械化、代議員会等の運営、福祉施設事業の展開等々の場面で行政サイドとの折衝経験は蓄積されてきましたが、行政判断のブラック・ボックスは透明化されず、この辺り、あの線まで、こういう組み合わせであれば等という疑義申立ての類推・想定のレベルでしか行政を動かし得ず、事務局レベルで多少の業務改善(代行型から加算型への移行、業務委託Ⅱ型からⅠA型への移行、退職金の基金への一部移行、数理業務の指定法人化、総幹事離れの達成等)は行えたものの、大半は<社会保険行政>の中に取り押さえられたままなのが実態でした。
一方、厚生省の審議会方式や厚生年金基金連合会等の委員会組織を通じての熱心・執拗な改善申立て、要望書の上申等の方式で実現されたものは、資産運用の規制撤廃インフラ整備等の面で多大なノウハウの蓄積・経験を果たしましたが、基金制度そのものの前提を廃棄するような制度改革の進展がないまま推移してきてしまったのも事実です。そのほかに、圧力団体陳情方式や政治献金方式、接待攻勢方式等、様々な方式が試されてきたのがこの30年の経験です。


このように給付額削減が容認されるのは、わが国で年金受給権という概念が明示
的に確立されていないからだろう。今回の削減容認に際しては、その論拠の一つと
して、わが国の企業年金は退職金から移行されたものだという主張がなされた。退
職金は報奨的な性格を有しているから、企業は過度な負担までして支払わなくてよ
いというのである。しかるに退職金の本来的な性格を鑑みると、それは過去の労働
への対価であり賃金の繰延べとして考えるのが妥当であろう。

浅野・金子編著『企業年金ビッグ・バン』
青山 護 「第7章 課題と展望」


しかし、社会保険制度の一翼と位置付けられた代行制度に対する裁量行政そのものの妥当性はあらゆる場面を通じて間接的に再々問題にされてはいましたが、直接問い質されることがなかったのも事実でしょう。それが、社会・経済の軋みの高まりにつれて誰の目にも裁量行政の機能不全が明らかになってきたのです。数年前から厚生省も自ら行政の隠れ蓑として使われていたと噂の年金審議会を廃止し<裁量行政から事後監視型行政>への転換を表明しつつあるようです。こういう動きは、厚生省のみのことではなく、総務庁を始め大蔵省、通産省等にもみられる行政サイドの一般的な現象となってきたようです。
要するに、最近の規制緩和により「民活度」は様相を一変してきました面もありますが、代行ゆえの厚生年金本体との整合性維持の介入も極まり、凍結の事態になったということでありましょう。


フリードマン 私たちはよく、一国社会を政治的機構を通じて組織化すべきか、
それとも経済機構を通じてか、といったことを抽象的に論じます。あるいは命令経
済ないしは計画経済対交換経済、といった抽象的な次元で議論します。しかし、事
実そのものに即して調べてみれば、命令機構にその大半を依存して実際上組織化で
きた社会なんぞ、人類史上に一つもありません。そんなことをするのには、人びと
はあまりにも多様であり、問題があまりにも複雑だからです。

西山千明編著『M.フリードマンの思想』


5.代行の本旨
厚生年金と退職金の調整という代行方式は、フレーム・ワークの観点から国の社会保障制度の一環としての社会保険と位置付けるか、民間企業の従業員福祉・厚生なのか、立場により議論の分かれるところです。といいましても、代行方式であるかぎりそれら両方の性格を併せ持っているというのが現実でしょう。その現実が代行問題を複雑にしているということもまぎれもない事実です。加えて、政治と行政介入による制度維持が複雑さを増進させてしまいました。<調整年金>などという政・官・民の現実癒着的な妥協が許され、それなりに機能しました制度発足時の国民意識は30年の時の経過につれて深まり広がったのでありましょうか。その点では、代行を担保した制度ゆえに官僚の過剰なかたくなな行政介入を容易にし、逆にそれが国民の依存体質を増してしまったのではないでしょうか。危険な兆候ではありますが、官僚自身に解決すべき責任があるとさえ考える自主・自立心の欠落した国民意識を醸成してしまったのではないてしょうか。
このように、社会保障と企業福祉の性格を併せ持ってスタートした厚生年金基金制度は、代行部分があるために国の社会保険行政との整合性を強要されてきたという背景を持っていました。併せて、確定給付制度ゆえに民間企業の雇用・賃金・人事等からの影響を直接受ける構造にもなっていました。この二つのフレーム・ワークの現象とは別に、積立金が積み上がる迄はとくに問題にもなっていなかったのですが、不足金が恒常的になってくるにつれて隠されていた本来のものが顕在化しつつ基金制度(代行方式)の本質が徐々に明らかになってきました。
それはつまり、厚生年金と退職金の調整という機能を負託された代行方式は当初から合成の誤謬だったのであり、その内部に組み込まれていた積立金の性格について制度発足時には官僚にも企業にも金融機関にも認識不足・ミスリードがあり、断定的固定的に一律5.5%の付利を予定するだけで足りるとみなし放り置いた経緯があります。日本人一般が資本などというものはガサガサといじりまわせば湧き出て来ると考える程度の傲慢な世間知らずな認識レベルでしたのであります。積立金を資本の価値、今風に言えばROE(株主資本収益率)やEVAの視点で見るなどということが全く無かったのであり、<積立金の資本性行>についての認識が欠落していたということです。このことが代行方式の頓挫を招き、凍結などという事態に立ち至ったということです。これは、完全に計画統制経済方式の裁量行政が立ち行かなくなったということになりましょう。


世界の中で行動する日本企業が、国内での閉鎖的な場を行政の力で作ることはア
ンフェアと言われても仕方がない。すなわち、行政指導によって国内業者の協調を
維持することは、閉鎖的な構造にならざるを得なくなる。透明性と開放性が要求さ
れる中、これを実現することが喫緊の課題となる。

吉田和男『官僚集権からの脱出』



 要するに、代行制度の本旨は<資産運用マター>であるということ。社会保険でも、退職金制度でもないですということ。携わるのは行政エリートでも、サラリーマン・ゼネラリストでもなく、資産運用のスペシャリストになります。<政府マター>でも、<運営マター>でもなく<経営マター>であるということです。一例として、日米のROEにそのような経営姿勢・経営手法の相違による格差が典型的に顕れていると考えられます。





   6.代行返上論・廃止論等の依存体質
 厚生年金基金連合会は、97年に21世紀企業年金研究会報告をべースに『21世紀の企業年金』を刊行、基金制度議論のべース資料を提供しました。その中から、代行制度に関する各団体の意見を幾つか再録してみます。


企業年金の制度間の中立性の確保、公私の役割分担の明確化の観点から、代行制
度を廃止すべきであり、少なくとも代行制度の義務付けは解消し、代行制度のない
厚生年金基金を認めるべきである。
産業構造審議会総合部会基本問題小委員会中間まとめ(抄)

社会保障給付を適性化する手段の一つとして、受益者の範囲の見直し、報酬比例
部分(部分年金)の民営化等について議論する必要がある。
経済企画庁調整局:
「今後の経済政策のあり方に関する研究会」報告書(抄)

……企業年金の苦境と公的年金の将来の懸念の原因も異なっていることである。
一部にミスリード的な論評も見られるので、企業年金と公的年金の違いをまず認識
しておく必要がある。
社会経済生産性本部:
「持続可能な福祉政策の確立に向けて」(抄)

今後の年金制度改革の方向としては、公的年金と私的年金を完全分離し、公的年
金はナショナル・ミニマムを保障するという方向が望ましい。
経済同友会:
「安心できる社会を求めて」社会保障改革の基本的考え方(抄)

さらに報酬比例部分の民営化、将来的には企業年金への統合等の可能性について
も検討する。
経済団体連合会:
「世代を越えて持続可能な社会保障制度を目指して」(抄)

公的被用者年金については、基礎年金と報酬比例年金からなる現行制度の枠組み
を維持し、退職後の所得保障として公正で長期的に安定した制度としていく。
日本労働組合総連合会:
「1997~98年度 政策・制度要求と提言」(抄)


 代行返上論、代行なし基金、基金廃止論、適格年金への移行論、民営化論、等々、議論は出つくしました観があるところで、<凍結>とは万やむを得ずというところでしょうか。


 厚生年金本体に残っている者も世代間扶養分だけの保険料を納めているわけでは
なく、修正積立方式のもとで保険料を積み立てている部分があることである。

堀 勝洋『年金制度の再構築』




八代 報酬比例年金という考え方は、基本的に私的年金の原理なんですね。たく
さん保険料を払った豊かな人ほど、たくさん給付をもらう。しかも、その原資は後
の世代の保険料から。これは社会的な公平性に反すると思います。

八代尚宏・三浦文夫対論「社会保障に市場原理 どこまで」
朝日新聞・平成11年12月11日朝刊


堀さんの言う厚生年金保険料分割が厚生省お墨付きの事実誤認でないとすれば、「保険料積立部分」は報酬比例部分と理解できるから、八代さん言明の前段は正しいとしても、後段、「しかも」以下は事実誤認ということになりましょう。このような事実誤認が代行制度についても多数見られるのが現実で、これが余計な混乱を招いているのも事実でしょう。厚生省に、出来れば厚生年金保険料の細分化を積み上げ方式で明らかにしてもらうと、このような大新聞での大学教授を巻き込んだ無用な<下々>の混乱、年金不安を煽るような、強いて言えば不作為かもしれないが治安破壊を生みだしているような新聞記事も生じないことでしょう。学会もジャーナリズムの世界もそうですが、サラリーマン・ゼネラリストの世界でも知識に欠ける言行が大過ぎるようです。議論の質、レベルをもう少し高めたいものです。そうは言え、筆者にも事実誤認があることは避けがたいことではありますし、事実・知識にかけるところがあるのも当然ですが。一般に謙虚さはいつの間にか傲慢になりがちであることを忘れないようにしませんといけないでしょう。
代行返上論や廃止論等もこのような事実誤認とミスリードを基にした議論と考えられますが、その心情のべースにあるものは、長い間にわたる統制経済の裁量行政下で培われた民間の官依存体質、良く言ってもかたくなな行政に対する反転した意識、つまり問題解決は裁量行政の義務・責任ですとする依存体質のなせる技ではないですかと、考えるのは妥当なことではないのでしょうか。ここから類推するに、民間の代行返上論等のプロパガンダに隠された裏の目的は、実は「財政の中立化」の主張であり、厚生省・大蔵省への迂回した圧力であるのかも知れません。そういう戦略を隠し持っているとしてですが。



それなら、通産省等の代行返上論は単なる企業救済かもしれません。仮に通産省が適格年金の育成を図ってきたと言うのなら、年金取得(とはいえほとんどが終身でなく確定期間止まり)ではなくほとんどが一時金という現実、資産運用インフラ・ノウハウがないこと、受給権の保護がないこと、受託者責任意識が醸成されていないこと等々の事実・現実をどうみているのでしょぅか。官僚も企業も単に節税対策としてしか適格年金を使って来なかった事実・現実はどうなってしまうのでしょうか。官僚の渡り鳥ゼネラリストの為にする行動、知識・経験なしの判断を職務上展開する程度の意識レベルの低劣な行動とも見受けられるが、どんなものでありましょう。筆者の事実誤認、傲慢さであることを願いたいものです。
また、調整年金創設時に<日経連>は退職金を功労報償から賃金後払い説に切り替え年金制度の推進を図ったはずですが、現実は30年たっても改まらず、功労報償を経営戦略として使い低額な退職金を労働者操作の武器としてきた現実は言い逃れできないでしょう。この間、継続して経団連は退職金の賃金後払い説に反する行動を展開し、低賃金による国際競争力を獲得してきたのです。そのため、日本の労働者の賃金は固定的に低く押さえ込まれてきましたままです。低賃金による競争力と言えば、開発途上国の専売でしょう。世界一の債権国でそれは許されるわけにはいかないでしょう。
この度、日本は金融機関に対するBIS規制に続いて国際会計基準の採用を強要され、<隠れ年金債務>の巨額債務のドスを突き付けられて、世界の常識(退職金は賃金の後払い)がどういうものですか承知したはずであるのに、少しは現実認識が深まるかと思いきや代行返上などという民間経営者にあるまじき行動(本体への返上→官太りの奨励、代行の産業廃棄物化を図り、その後始末を官に縋がろうというぶら下がり意識、又はその後始末を官におっかぶせようとする3歳児のような傲慢な企業エゴ、代行分の金融資産価値を民間で有効活用しないという体たらく)にでたというところです。小さい政府が標榜されている時代に代行返上では時代に逆行するということを意識しているのでしょうか。官僚にすれば、積立金の穴埋めをしてまで代行分を国庫に入れてくれるというのですから願ってもないことでしょう。厚生省の権益は万全のものになります。
日経連や経団連等は、その意味では<時代遅れの経済人>の集団になり下がってしまったということになりましょう。代行返上に伴い行政の介入を排除したいとか、制度設計の柔軟性を高めるとか、より自由度を拡張したいとかという考え方は、民間のサラリーマン・ゼネラリスト(大半が2、3年のキャリアで部署を渡り歩く、非スペシャリスト)が一般的に誰でも思案するものであって、それはトップが引き連れてきた取り巻きのサラリーマン・ゼネラリスト達の当面の視界しか持ち合わせていない単なる運営意識でしかありません。彼らに決定的に欠けている基本的なもの<経営感覚>を今のトップ自身が見られなくなっているようですから<時代遅れの経済人>と言われても間違いでもなさそうであります。オーナーの経営意識、または今風にベンチャー意識など少しもない<民僚の巣窟>になっていると言ったら独善的・一面的な言い過ぎでしょうか。活躍している場は、確かに年金だけではないのですから。べき論ではありますが、日経連や経団連こそ返上して、<日経連返上><経団連返上>の上に<ベンチャー連>を起こすべきなのです。そう言えば、渋谷の方で違う形で既に起きているのかも知れません!
ところで、経団連・返上論(99年12月)の要旨(http//www.keidanren.or.jp/japanese/policy/po1257/yohshi.html)に、「制度の構造的問題の顕在化」と称する次のような文章があります。


代行部分に関して、給付水準、最低責任準備金、予定利率など制度の骨格は全て国
が決めており、各個別企業の労使自らが環境変化に応じて柔軟に制度を変更するこ
とができない。また、将来にわたり一定の新規加入者があることを前提とする財政
方式のため、実際の新規加入員数と乖離が起きると、基金財政が大きな影響を受け
る。


ここには、「変更することができない。」とか「影響を受ける。」とかの物言いにこの要旨全搬に広がる偏差値主義で教育されたゼネラリスト達の抽象の機械油のようなかすかに鼻に付くものがあるようです。つまり、ゼネラリストの運営レベルでの考え方の作文になってはいないでしょうか。行政の介入を排除したいとか、制度設計の柔軟性を高めるとか、より自由度を拡張したいとかという運営レベルの考え方ではどのように事実を述べてもどうなるものでもありません。この事実を見据えて、基金関係者は30年余の長きに渡って多面的な多様な経験・実績・ノウハウを培ってきていて、筆者もその内の一人としてゼネラリスト達よりもっと生々しくドメスティックな物言いをするでしょう。例えば、基金運営ではなく、基金経営ですと。代行返上ではなく、<代行完全民営化の年金基金>だと。
要するに、代行返上などという負け犬思考ではなく、代行を全面的に官僚から民間に奪い取るというプラス発想です。ゼネラリストの運営感覚を否定し、裁量行政から事後監視型行政の時代ですし環境は整ってきているのですから、経営者のオーナー風経営感覚で基金を経営することになります。「変更することができない。」とか「影響を受ける。」などとは言わないで、「変更する。」し「影響を排除する。」ために30年余の経験・実績・ノウハウを使って創意工夫をこらすことになります。経団連等は本来このようなマネジメントでオピニオン・リーダー役を果たすために設立されたのではなかったのでしょうか。それなのに、今回の返上論では、端なくも時代から取り残されているという馬脚をあらわしたということなのでしょう。従来のように政治力で世の中が動くほど構造は鋼構造ではないでしょう。負け犬の返上論に対しては、それも一つの選択肢という評価は出来ますが、返したい人は返したら、と。さらに、代行返上論や代行なし基金の議論で最も欠落しているものは、受託者責任や受給権保護についての認識が少しもないということが意識されていないという点です。契約とか、トラスティとか、信義とかを放棄して、官僚任せにしようとする依存体質、官にぶら下がろうとする手前勝手な大人になりきっていない幼稚な心性を露呈しているということであります。そう言えば、ウォール街を幼稚園と、評した人がいたようですが……。
困難はとてつもないが、問題に真正面から立ち向かってプラス思考で自から解決しましょうとする姿勢が見当らないのです。マイナス思考で世界の縮小均衡を図りましょうとする縮み姿勢がゼネラリストの限界ですし、これからのグローバルな世の中に立ち向かうにはこれでは余りにもひ弱です。経団連等のトップはペイオフ問題同様に代行返上の意味するところを承知しているのでしょうか。代行返上企業の格付けは、どういうことになるのでしょう。大企業にとっては持合い株の退職給付信託同様、格下げの懸念も出て来るのではないのでしょうか。願わくは、以上のような記述が単に筆者の傲慢さと無知の極みであって欲しいものであります。
総じて、今の日本では負け犬のマイナス思考<負け犬思考>が一世風靡という場面を迎えていますが、これは長い目で見れば既得権益集団の断末魔の呻き以外の何物でもないのでしょう。今は、また、大胆・果敢なプラス思考で新しい社会的インフラ(時価会計・退職給付債務・確定拠出型年金等)にチャレンジすべき、時代のターニング・ポイントを迎えてもいるのです。
それにしても、代行の議論に先立ち、渡り鳥ゼネラリスト一般に今更年金に関する経験を求めても仕方がないのですが、広く財政・司法・政治・行政・企業経営・金融・経済学・哲学・科学・歴史等々の素養だけは自戒を込めて是非に深めたいものです。さらに、日経新聞だけ読んでいれば足りるなどと言わず、広範囲な情報収集に務め、次に掲げる最低限の資料だけは目を通してもらい、社内に経営層直結の「年金戦略会議」のようなものを作り、厚生省の言い草ではないですが「熱意をもって」レベルの高い喧々ガクガクの議論をしてもらいたいものであります。

P.ドラッカー『見えざる革命』1976
吉田和男『官僚集権からの脱出』1993
右谷亮次『企業年金の歴史』1993
カーター、シップマン『果たすべき約束』日本語要約版1996
末村篤「年金が企業経営を変える」1997
厚生年金基金連合会編『21世紀の企業年金』1997
堀勝洋『年金制度の再構築』1997
アンバクシア、エズラ『エクセレントな年金経営の条件』1998
受託者責任研究会「受託者責任ハンドブック(理事編)」1998
井手正介・高橋文郎『株主価値創造革命』1998
矢野朝水「年金改正ざっくばらん」1999




「人様のお金」OPM(A4・224頁)  連載 4

2013年03月04日 | 厚生年金基金

ニ.ゼネラリストの姿勢
平成10年10月、厚生省年金局長は「民間活動に係る規制の改善」に関する政省令を通知しましたが、この改正内容の留意点の中で、運用執行理事の要件として、①基金の財政状況に精通し、②管理運用業務を適正に執行できるものであり、③基金の業務運営に熱意を有するものを充てること、としています。ここには、目新しい点が2つあります。まず、<民間活動に係る規制>という文言ですが、基金制度発足の時点で盛んに言われていました民活という概念が30年ぶりに復活しましたということ、それがさらに、その活動を実態は統制・規制してきましたという事実認識を公式表明したということ。次ぎに、30年間の統制・統治のスタティックな法体系の中にまったく逆の文学的な表現である<熱意を有するもの>などという曖昧模糊たる概念を挿入したということです。
この裏には、厚生官僚の呻吟が透けてくるようです。というのも、官僚の手法というものはどんなに小さな政府を標榜しても原理的にイコール統制ということであり、そういう資質を持っている官僚の手の内に、資産運用という反農耕民族風観念・反統制経済的業務を推進することになってしまいました焦り、手に余るという緊張が<熱意を有するもの>などという表現になったのでしょう。
ところで、<熱意を有するもの>という表現は具体的には何も言ってないのと変わりませんが、一般的に従来の日本のゼネラリスト逹の執務・勤務態度を振り返れば、社内ばかり向いていてグローバルな見方を拒絶する、本を読まない、社外情報を取らない、客観的・合理的・理論的検討を無用とする等々は、とても<熱意を有するもの>とは言えないでしょう。うがった見方をすれば、厚生官僚はゼネラリスト逹に<熱意を有するもの>という抽象表現によって、責任の所在を曖昧にする一方で、ゼネラリスト逹の世界観の変換を求めているのかもしれません。同じ切磋琢磨も、旧来のゼネラリスト逹のそれは社内事情の観察ですし、<熱意を有するもの>のそれはイノベーターの活動になります。
イノベーターの活動の実態は、革命的であれ! ということです。厚生省も役所としてそうは言えませんでしょう。それで出てきたのが<熱意を有するもの>という文学的表現の代替語句なのではないでしょうか。



……そして、それ以前に、わが国の機関投資家が根底に置くべき事項としては、「資産運用
の社会的使命感」があります。この使命感を欠いた場合、それはいかに巨大な運用資産を抱
えていても「ローテーション人事によるサラリーマンの単なる資産運用ごっこ」の域を出な
いことになる。

保田圭司『グローバル・マネー』


つまり、旧来の統治方法、運営手法、お上と下々のヒエラルキーは機能不全に陥り、イノベーター逹の縦横無尽の活躍が期待される事態になってきたということでしょう。このことは、行政サイドにおいても裁量行政から事後監視型行政への転換、政策決定手続きの透明性確保のための「パブリック・コメントト」等となって表面化してきているようです。
要するに、基金の事業は、官民の渡り鳥ゼネラリストによって整合性維持で<運営されるもの>から、イノベーター逹によって<経営されるもの>へ変貌しつつあるということであります。

ホ.最良執行
厚生年金基金は、その設立主旨(加入員の老後生活安定の一助に年金給付を行う)の達成を図るため、最善を尽くす<最良執行>を求められています。それは単に、職員の人件費削減、または業務費のコスト削減などという管理・運営レベルのものばかりではなく、経営体としての高度な質、受託者として委託者(株主・企業・社員等)にローコスト・ハイリターンな還元を行うこと、インフレやデフレの経済環境を越えて長期に渡る老後生活安定の方策を提供する統治(ガバナンス)が求められています。つまり、金融ビジネスとして利害関係者に付加価値を提供するように経営することが課せられているのです。
これを達成・成就するために、行政サイドからは厚生年金本体との整合性維持を求められ、民間サイド(母体企業)からは費用対効果での成果を要求されます。そのうえ、基金自身は給付の安定性確保のために、様々な社会・経済状況の影響をクリアーしていかなければならないように仕組まれているのです。たとえば、加入員の激減、資産運用手数料・業務委託費のハイコスト、総幹事制の恫喝営業、業者の横並びによる競争メリット享受の排除、持株の政策運用が力を持つ資産運用、受給権保護、裁量行政下の民間活力発揮、金融パニック下の資産保全策、政府の統制経済(低金利政策等)下、制度維持対策等々の場面で、クオリティの高い最良執行が求められることになるのです。
しかし、残念なことにこれらの圧倒的な力に立ち向かうには基金の最良執行達成能力は余りにも弱体でしたし、限界がありました。基金の事務所体制は、ゼネラリストの2、3年の人事ローテーションがまかりとおるのが一般であって、とても、強固なかたくなな規制を行ってきました行政サイドと大蔵省の虎の威を借りて金融プロを詐称していた業者等に、対抗できる力を充分に蓄積できなかったのが現実です。それは、たとえ理事長であってもゼネラリストの超短期なローテーションではノウハウと経験を持ち合わせず、行政の規制で身動き取れませんまま業界の事情にも通じていないので運営もままならず、ましてや経営も統治も出来る世界ではなかったと言えるのでしょう。つまり、構造的に基金の最良執行達成の経営権は没収されていたということです。
一方、この<基金の経営権>確立のために、個々の基金の限界を踏まえた団体としての政治的な活動も継続的に熱心に行われきました。各都道府県の厚生年金基金連絡協議会、厚生年金基金連合会の各種委員会・研究会、単独連合厚生年金基金協議会、総合厚生年金基金協議会等々で制度の研究が継続され、厚生省等へ基金のあるべき姿・将来の方向等の要望が再々行われてきました。
個々の場面毎の困難さとは別に、長期的な観点から見ると、このような基金を取り巻きます環境の中で、基金の最良執行を方向付ける<経営指針>はおもむろに立ち上がってきたと言えるでありましょう。官僚やゼネラリストお得意の「決める」という性急・無知な手法ではなく、社会情勢の変化、諸団体の民意反映の改善要望等と相俟って、小さな基金の30年という長い時間と理事長7、8人、常務理事5人、事務長5人、それに代議員300人程等々の多数の関係者の手を経て、その時々、場面、場面で大勢の人々の英知が現実と再々の対決をすることで<経営指針>が「決まってきました」とは言えるでしょう。これは多数者構成の市場では、<決める>ではなく<決まる>というのがセオリーになっていることと同じと考えられるのではないでしょうか。
このようにして、個々の基金に蓄積されつつある知識と経験とノウハウは、他の業界に見られない独自なもの、つまり広く日本の資産運用一般を考えたとき、他に例を見ないインフラとノウハウを築き上げたということは間違いのないところでしょう。<決まった>というレベルではなく経過的、途上にあるものですが。
そのささやかな一つの事例を示しますと、次のようなものもそれと言えるのかもしれません。




30年余の経験と執拗な意欲によって諸々の環境が徐々に整備されるにつれて、掛金徴収団体の<運営意識>は、グローバルなボラティリティの高い金融環境の中で、負の遺産の精算を思案しつつ掛金と給付のバランスをとる生産性の高い<経営意識>に変わりつつあります。母体企業または加入員・年金受給者等にローコスト・ハイリターンな還元が行えます
場面に到達しましたということは、まさに<経営の時代>に突入したということでしょう。



ロッキィーズ物語

・1対1ノック

右手にボールを握ったミット、左手にバットを持って、ネットを背にした少年の
5メーター程手前に立つと、少年と私のバトルが始まる。
―イクゾォー
―ウオォー、と共に、左手から宙に浮かせたボールを右手のバットがたたくと、
少年の前でボールはワンバウンドしてグローブに吸い込まれる。補球されたボール
はミットめがけて返球され、再びノックが繰り返される。
―イクゾォー
―ウオォーの繰り返し。捕り損なえば罵声が少年を煽り、更に強いノックが雨霰
と少年をたたく。ノッカーは夜叉みたいになって左のミットと右手のバットを振り
回し、右に左にゴロボール散らしダイレクトな飛球を胸元に飛ばす。機敏さ俊敏さ
が全開する。精神はただひたすら前方へはばたく。常に前へだけがあり過去にこ
だわる暇は一瞬もない。ノッカーはおもむろに距離をせばめつつ、少年もコーチも
夢中になって捕り、打ちしつつ、互いに忘我の境に突入する。打ち、捕りの一時、
そこに少年とコーチの交歓が成就する。
突然、コーチの自分が中学生になり、ノックを受けている田舎の中学校のグラン
ドが沸き起ってきた。先輩の野良着姿の孫ェ門が打つノックをハアハアしながら受
  けているところだった。
その頃には、辺りは完全な静寂が支配し、肉体がただゴツゴツと動くだけのそこ
で尺度も水準も別次元の心身一如の摩訶不思議を味わった末に、少年に周りのざわ
めきが遠雷のように湧き起ってきて、その魔界から不思議なエネルギーを充満させ
たまま立ち上がることになる。
そこから、この世を眺めまわすと、いわゆる<現実>と言われているものが如何
に脱色されていることか、或いは脚色されたシナリオが被っているかを見ることに
なる。つまり、ピュアな原始そのものの素材を発見し愕然とさせられ、そしてその
あまりの衝撃に、少年は言葉を失い沈黙する。



(2)厚生年金基金のリスク管理

イ. リスクの認識
 厚生年金基金は、設立趣旨であります年金給付を永続的に確保するため、①加入員のデータ管理、②年金等の確実な給付実行、③戦略的な情報発信としての福祉・広報の展開、④財政安定と原資産保全、⑤資産運用等の事業を行いますが、これらの事業展開に際して様々なリスクに常時晒されていることを認識しつつ、基金の存亡を危うくする「年金給付不能リスク」に対処する必要が生じてきていると考えられます。
 年金受給者が年一度提出を求められる「現況届」という書類は、以前は市区町村の生存証明が必要でありましたが、最近は規制緩和の一環で本人、または代理人の署名だけでかまわないように簡略化されました。ところが、この弊害といいますか、受給者の増大に伴う事故率の拡大といいますか、本人を詐称する事例も発生してまいりました。さらに、年金そのものを本人になりすました人が不正請求し受給する者も出てきております。一方、基金事務局の職員自身が基金資産の詐欺・横領を働くなさけない事件も新聞報道されるようになりました。
 さらに、平成9年前後の金融不祥事等に絡まる年金原資産そのものの保全が危惧される事態、生命保険会社等の保証利回り引き下げと廃業・売却等による年金資産の減価、代行返上等に絡まる制度変更時の受給権保全危惧、グローバル経済におけるボラティリティの拡大がそのまま連結されている年金資産の危うさ等々……厚生年金基金を取り巻く環境は一段とリスクが増進しています。
 要するに、基金の事業展開に伴う「年金給付不能リスク」には、掛金不足リスク、負債変動リスク、資産・負債ミスマッチリスク、資産運用リスク、信用リスク、流動性リスク、オペレーショナルリスク、リーガルリスク、コンプライアンスリスク、カストディアンリスク等々があり、基金関係者は夜も眠れないほどの修羅場に置かれているのが現実です。
 
ロ. 基金事務所の意思決定過程
 そうではありますが、現実の基金事務所で行われている意思決定過程は従来手法のまま業務展開されています。心有る基金関係者は、そのハイ・リスクを大変危惧していますし、規程の必要性を発言する方もいらっしゃいます。また、基金連合会のリスク管理研究会の活動も始まっています。
 厚生年金基金の一般的な意思決定過程は、理事長からのトップダウン方式ではなく、常務理事等のボトムアップ方式で行われていると言って間違いないでしょう。それは、母体企業等との兼職が多い理事長職にはトップダウンするだけの情報を把握していないという現実があるということです。そこで、常務理事等が運営を全面的に推進することになっています。
 ABC基金では、書類の流れは始めに庶務担当者が受付けて、<ヅラバン>を押して順次職員→事務長→常務理事→理事長と一覧され、一応目を通したということで各自の職印が押されます。この一覧方式で、1日100件ほどの書類が事務所内を回っています。8時間の就労時間内にこれだけの大量の書類に目を通すだけでも大変でありますが、なお、各々の案件に判断を示していくことは一層ハードです。うっかりすると、誰も判断を示さず、ファイル・保存されてしまう場合も発生します。時には、事情を承知しない者の突飛な判断がまかり通ることもあります。
 この一覧方式は、全員が情報の共有を図れるというメリットもありますが、誰も責任を取らないという責任霧散システムにもなっています。各々の職務レベルでの責任は、一覧方式では霧散したままに終わってしまいます。<こともなし>のまま業務が執行されています。といいますより、未だ三種の神器時代の統治方法で行われているということでしょう。

ハ. 職務と権限、そして責任
 それは、職務と権限、そして責任がトップの度量の中に全て押さえ込まれている曖昧なシステムということでありますし、合理的・客観的にその基準が明示されないシステムということであります。各々の職務レベルでの権限と責任が明示的ではなく文書化されないまま業務が展開します。
 
ニ. 不可欠な厚生年金基金リスク管理規程
 厚生年金基金は、厚生年金保険法、基金規約・規程、厚生年金基金連合会の『受託者責任ハンドブック(理事編)』等々に準拠しつつ事業展開を行いますが、リスク増進の時代背景の下、基金事務所内スタッフの意思決定過程の透明性を確保するために職務・権限・責任の所在を明確にする文書化を図る必要が生じてきています。
 併せて、受託者責任の最良執行を求められていますので、リスク管理の観点から忠実義務達成のために基金にとり好ましからざる事態を好ましい方向へ「制御」し、注意義務達成のため制御し得ない事態の発生を「監視」し続け、これらが実際に発生した場合には適切な対策が打てるような体制を構築しておき、被害を回避または最小限にして株主や加入員等の負託に応えなければならないと思います。
 このため、厚生年金基金のリスク管理規程の制定は不可欠の事案となってきています。

ホ. 規程の性格
 とはいえ、現時点では理想にはほど遠いのですが、平易な形で定性的にリスクに対処し技術的に高度な定量管理等は後日の課題として、基金関係者にリスクに対する<注意喚起>を行うことを主眼とした規程を制定すべきかと考えられます。
 このため、この規程は切磋琢磨な試行錯誤の積み重ねによりおいおい改良されていく類の規程と位置付けることになりましょう。ひとつのたたき台です。
 1案を、巻末の「厚生年金基金の経営フレーム・ワーク資料集」に掲載しますのでご覧いただきたいと思います。


(3)代行の金縛り

1.30年小史
年金に関する議論は、この10年ほどの間におおいに盛り上がり、国民のあらゆる階層、あらゆるメディアで日々行なわれるようになってきました。今にして思えば、昭和の時代は厚生年金基金にとっては大袈裟ではなく<古代の静謐さ>そのものであったのです。
昭和50年に筆者が基金の仕事を始めた頃、上司は代議員会等の会議録作成に1週間も2週間も費やしていましたし、職員は加入員台帳への標準報酬月額の<もりこみ>を1ケ月もかけて行なっていました。あのころは、資産運用収益が毎年7~8%もあり基金業務の機械化位が問題であっただけでした。
以来、筆者は次のような業務に従事してきました。基金の業務委託形態Ⅱ型のⅠA型への変更、代行型から加算型(横すべり方式)への移行、欧州資産運用調査、手作り広報誌発行、退職金を第2加算へ受託、各種委員会・研究会へ参加、数理業務の指定法人を採用して総幹事離れを実現、投資顧問・外資系運用機関の採用、資産運用委員会の設置、戦略アセット・ミックスの構築等々の現場業務に率先従事してきました。
振り返ってみれば、僭越このうえないのですがこれらの事業どれ一つとして上司に命じられて行なったものはなく、長い間基金業務に従事・担当させてもらい事情通になっていましたので出来たと思いますが、筆者の提案・伺いで事業展開したものばかりであります。最近言われ始めてきました「最良執行」を事務所レベルで幾分かは達成してきたと言えるかもしれません。平成時代になってからの低利回りには勝ち得なかったのですが。
この間に、代議員会は16期・120数回開催にもなり、理事長は8人、常務理事は天下り2人・プロパー3人の5人、事務長も5人の交替があり、人は去り、またやってきました。
筆者の経験から類推すると、ローテーション人事によるゼネラリスト(1、2年から3、4年で交替)には、その部署での経験と知識の蓄積が無いため長期的視野からの<企画・立案>というものが欠落せざるを得ないと考えられます。どうしても、短期指向になりがちであります。
筆者は、小さな基金事務所(ずっと、理事長以下4、5人のスタッフ、業容は拡大しましたが機械化で省力化達成)から、行政、運用機関、母体企業等のそれぞれの場面での動向を見ることができましたし、人々のリアクションの多様性と類型性を度々見せつけられましたが、お陰様で、大勢の関係者の理解・支援を得ることができ、基金の自主性の確立(業務機械化・総幹事離れ・資産運用指図等)と加入員等ならびに事業主へのローコスト・ハイリターンの提供を旨とする経営指針を創出・継続・維持出来たと考えます。基金業務従事経験年数も25年になろうとしており、欧米の資産運用現場も見てきたし、平成時代になってからの金融関係読書も1000冊になってきました。
さて、このような小さな基金事務所の経験・実績・知識・知見等からではありますが、今時世間で行なわれている議論を筆者なりに考えると、いささか、おやっ! と思わされ、それはこうなっているとか、ミスリードではないですかとか、指導の強要以外のなにものでもないですとか、無知なゼネラリストの「創造的破壊」ならぬ<近視眼的破壊>だとか、ぶら下がり意識の典型だとか……様々な動向を見ることができました。
このような観点から、現下の年金基金に関する議論の中心命題になっている<代行>の問題について、考えてみたいと思います。

2.代行の由来
基金制度が考えられた背景には、昭和30年代後半の物価上昇や人手不足等により賃金が上昇し、併せて退職金も年々上昇、企業は財政上その支払いに振り回され、経営が不安定になっていたという事情がありました。そこへ厚生年金と退職金の費用負担の調整が経営サイドから浮上し、税の優遇を受けた資金手当の平準化が可能な企業年金制度が創設されたのです。初めに税制適格年金が厚生年金基金制度の発足までのつなぎ措置で昭和37年にスタート、昭和41年には厚生年金基金制度が厚生年金の一部代行という世界に類をみない方式でスタートしたのです。これは、言ってみれば一方的に経営サイドの要望によって創設された制度なのです。自らの意思で基金設立を認可申請した企業は、本体代行・確定給付・事前積立て財政・5.5%の予定利率・独立法人方式等々で契約し、事務負担・債務負担を承知の上で給付を約束したのです。
制度がスタートしてからは、大蔵省の産業資本調達の統制計画経済をバックグランドに厚生省の裁量行政が始まり、大蔵省に通じていた信託・生保の各種の既得権益確保も制御出来ずに、信託・生保の恫喝営業(例えば、持株比率によるシェア分配強要、持株を餌に解約拒絶、信託・生保の一営業員がアポも取らずに社長面談要求、事務局に対して上の方で決定しているのですからと理事長印を求めたり……)も見ぬ振りを通したり、俗に言います箸の上げおろしにまで法的根拠の無い厚生官僚の裁量により介入したり、経験者でなかったらばわからない数々の実態(たとえば、業務委託指定法人のカンバンだけ営業、実際には事業を行う人的・物的設備のないままカンバンだけだしているのを承知もせず、申請がありますから指定法人にしているだけという厚生官僚とか、総幹事制度での掛金拠出・年金給付業務のとりまとめに対する報酬はお幾ら? に答えられる官僚も信託・生保も常務理事もいないというのが実態であり、答えはせいぜい別体系と言い逃れるだけとか)があります。
結局、日本の厚生年金基金制度というのは、厚生年金と退職金との調整手法の代行という妥協の産物に、官僚が民間の要望を信託・生保に利便を提供するという形で成立した政府の政策マターで始まり、政治家の集票のために再々の年金引上げにより社会保険マターとなり、ここにきて内部に仕掛けられていた本来の金融マターとしての<代行>というのが明らかになってきたということでしょう。


公共的な便益のための手段が整備されればされるほど、それらを民間の手で実現
しょうとするインセンティブは少なくなることを知らなくてはなりません。……。
自立心は他へ依存する度合いが高まるにつれ徐々に弱められていくのは確かである。

C.P.キンドルバーガー『金融恐慌は再来するか』


そういう由来をもつ基金制度であるのですが、最近の財政逼迫に際して、30年前の契約の無効を政府にすがって免除してもらいましょうとする者、又は契約破棄を望む者がやたらに多いということは、或る意味では、日本の法治国家としてのレベルの低さを表すとともに、法を捩じ曲げても自分の主張を通しましょうとするのは、先般の大蔵省・銀行・証券会社等を巡る一連の不始末で明らかになった日本の経済・社会構造と同一の他者依存体質を未だに残存させているということではないでしょうか。
これは、別に言えば、戦後から50年に及ぶ統制経済の裁量行政の強権下で、聞く耳を持たなかったかたくなな行政サイドの対処の仕方に対して国民がすっかり対抗的に官依存体質を固めてしまい、官が問題解決をするのが当然の義務とする風潮を生み出しているのかもしれません。そうであるとするなら、そのような官を育ててきたということで国民はまたまたここでも高額納税を強いられることになりましょう。堂々巡りの非効率の極みです。こう言うのを<国民的ロス>というのでしょう。

3.代行の隠された財政構造
年金数理、大数の法則のもと、収支相等の原則、諸変数(基礎率)の設定により統計学的に構造化されている年金財政は、予測に基づく<確率>の世界の事柄です。一般的に大数の法則は、べースになる計量数値が統計的に大きく長いほど確率が増し、精度が高まることになっているとのことです。厚生年金本体であれば、大数の法則もあるいは成立するのでありましょうが、個々の個別基金レベルにおいてはたして成立するのでしょうか。長い間、厚生官僚が免除保険料率の個別化(現在は7ランクのまま凍結されている)に抵抗してきましたのは、こういう配慮が優先していたのかもしれません。
免除保険料率が全国一律でした平成8年4月迄は、各基金とも毎年数理人が計算します「代行に要す掛金率」が全国一律免除保険料率との格差に<憤りを感じる基金>と<内心ほくそ笑む>基金とに2極化していたのが実態であり、モラルハザードが常態化していましました。筆者の勤務する基金は、業態として平均年齢の高い基金で万年<憤りを感じる基金>でありましたが、免除料率不足の年数は昭和48年から平成7年まで23年にも及びました。一方、大企業基金は<ほくそえむ>基金が多く、免除料率不足を発言する中小基金の声は各都道府県の協議会なり連合会の委員会には届かなかったようです。というのも、そういうところの主要ポストは<内心ほくそ笑む>大企業基金が牛耳っていたのですから。
設立23年経って積立金が100億円規模の小さな基金で、約10億円(1割)の免除料率不足金(次ぺージの「免除料率不足による損失額」参照)が発生していたのだととすれば、1,000億円の大企業基金であれば100億円の剰余を生み出していたのではないでしょうか。この推定はあながち無理の無いところでしょう。これは、当時としては厚生官僚が行った口封じのための補助金以外のなにものでもなかったのかもしれません。それゆえ、現在代行返上論に対する官僚の物言いがきつくなっているのもうなずけると言うものです。民間大企業のたかり体質も極まったということになりましょう。


「人様のお金」OPM(A4・224頁)  連載 3

2013年03月03日 | 厚生年金基金

(4)平成10年度現在の状況

さて、厚生年金基金の資産運用方法の輪郭について述べていくに際して、平成10年現在の基金を取り巻く状況はどのようになっているのでしょうか。
一般的な状況は、制度発足後30年経過し、確定給付型年金制度は日本経済の10年に及ぶ経済低迷・超低金利政策により、事前積立方式の倒壊を招きつつ積立不足基金を続出させ、制度の是非が問われて何年になるでしょうという状態にあります。一方、現実の年金給付は、代行スタイルの本邦基金の代行部分(国の老齢厚生年金の報酬比例部分)の年金が加入期間の長期化に伴い、厚生年金本体から給付される老齢基礎年金等(厚生年金の定額部分)と、同額程度まで実績を積み上げており、加入員の老後生活の安定という基金制度の初期の目的を達成しつつあります。
しかし、年金給付はさておき、制度発足時の民間活力活用という大義名分は、30年に渡る代行制度の継続のうちにまったく官僚支配に押さえ込まれてきました。それでも、基金制度の内部に仕掛けられていました<資産運用>という反官僚的時限爆弾が積立不足という炸裂を10年に渡ってそこここで起こし始めて、行政の裁量を縮小させ規制緩和の歩みから規制撤廃をもたらしつつ、事後監視型行政に移行しつつあるという状況でありましょう。
次の10年の民間活力活用目標は、<代行>という官僚的国家的仕組みが商工民族風<資産運用>という民間事業とは水と油の取合せであることから、自から<厚生年金基金の完全民営化>に収斂していくことでありましょう。仮に、官僚が民営化を阻止したいのであれば、基金制度から<資産運用>という仕組みを外さなければならないでしょうが、ここまでの現実の積み上げがあるなかではそれはまったくの暴挙、傲慢以外のなにものでもないでしょうし、世論の大きな流れはそれを許さないでしょう。
併せて、加算部分に組み込まれた終身雇用と年功序列賃金を基本構造とする退職金制度の矛盾(功労報奨退職金)が露呈し、国際会計基準の導入(平成12年4月)により引導を渡される場面(要支給額方式から退職給付債務方式)を迎えています。このことは、いまひとつの大義名分でありました<退職金の年金化>が、基金制度発足の時から信託・生保のセールス・トークではありましたが年金化の進展は思うに任せないまま経過し、世界の常識という国際会計基準のフレーム・ワークの強制力が作用して、実現へ向けて現実的な歩みを始めようとしていることを意味するのでしょう。このような二つの観点からだけでも、基金制度はフレーム・ワークの変更の時期を迎えていると言えるでありましょう。
厚生年金基金の内部構造に組み込まれている<資産運用>そのものの状況は、5・3・3・2規制の撤廃を受け、「運用自由化の時代」(厚生年金基金連合会:資産運用研究会)を迎えてはいます。各基金とも、現在その対応に懸命に取り組んでいるところですが、超低金利の中、<お任せ運用>から<運用指図>という場面転換を迎え、積立不足を抱えながら基金制度の再点検、経営指針の再設定、組織の再構築、運用技術の修得等々が緊急の課題となっていますが、歩みはそうそうスピードアップを期待出来ません。
一方、本邦金融機関・金融市場・金融行政は金融破綻・金融不祥事の状況からの脱出を目指してインフラ整備に取り組んでいますが、こちらも同様でしょう。反対に、金融の世界のグローバリゼーションは猛烈なスピードで展開しており、日本の<資産運用>がキャッチ・アップするのは当分見込めない状態にあると考えて誤りはないでしょう。


バーチャル化し、グローバル化した市場資本主義の動きは速い。それは、人間
の物理的能力をおそらくこえたスピードで動いている。ロシアからラテン・アメリ
カ、そしてウォール・ストリート、東京と、場面は次々とまわっていく。

榊原英資『国際金融の現場』


基金サイドにも徐々に変化が現われ、ゼネラリストの無能が露呈し一般認識が進捗して資産運用のプロフェッショナル(金融機関等からのハンティング)の採用、セカンド・ベターな選択として企業の財務畑人材の登用が増加しつつあります。基金自体の研鑽も進み、証券アナリスト試験に合格された人も現われましたし、将来はMBA取得者も数理人も公認会計士もSEも法律家も輩出するのではないでしょうか。或いは、基金が招請することになりましょう。
長い年月、基金業務を黙々と担当・経験してきた職員も増加し、ベテランとなりスペシャリストとなりプロ化しつつあります。そうではあっても、30年も勤務していれば自動的にプロだということもないのですが、単なる永年勤続表彰と違い「基金のプロ」というのは公認のものになってはいませんが、年金アロケーターとしてその多様な業務(財政・法律・制度設計・啓蒙・資産運用等の経営マネジメント業務と、機関管理・掛金徴収・年金給付・福祉施設・情報公開等のバックオフィス業務のない混ぜになった事業)を掌握・展開している人が基金に続々と輩出してきたということであります。


和を乱し、村八分にされたならば、田の水がもらえなくなる。私たちは一人では
生きていけない米社会民族の子孫であり、競争が不得意だ。
……。ところが、一人ひとりの競争になると、日本人はまるで弱い。個人で競争
し、人を押しのけて自己を売り出すのは、気品がないことだとしつけられてきた。
逆境のなかで、孤独に闘う力はまったくない。日本にはノーベル賞学者が極端に少
ないのも、ベンチャー・ビジネスが出にくいのも、そのためだ。また、私たちは集
団のなかで平等に生きることにすっかり慣れたため、自分の努力不足や判断ミスに
よる不幸を、すべて集団の責任にする癖がついてしまった。判断力と責任感を失っ
てしまったのである。

竹内 宏『金融敗戦』


(5)資産運用マネジメント

厚生年金基金の資産運用マネジメントというものは、いろいろ資料に当たり諸外国を見ても出来上がった体系があるという状態ではありません。そもそも資産運用マネジメントというものは、演繹的に物事を取り決め計画して現実をとり押さえていけるほどのものを対象にしているわけではなく、仮置きしたものから始めて日々現実のキャパシティからの見返りを浴びつつ帰納的に立ち上げていく経過的なものであり、体系化には馴染まないものでありましょう。
ということは、厚生年金基金の資産運用マネジメントは、月並みではあるが基金制度の目的、基金の事業内容、基金を取り巻く環境、基金が抱えている問題等々をよくよく熟慮しつつ、試行錯誤の経験を積み重ねつつ、徐々に変動し続ける輪郭として形成されるものでしょう。言ってみれば、アメーバー状の活動であり、蓄積されたものの増殖によってテリトリーを獲得していく態のものであるのでしょう。厚生年金基金の資産運用マネジメントが今後どう構築されていくのか、その行方については確認も予想も出来がたいのですが、従来の日本の文化にまったくなかったと言ってよいだろう<資産運用>というものが根づくためには、単にこれは厚生年金基金の問題ということではなく、法制度から始まって政治・行政・企業活動等を含めた経済・社会の日本全体を巻き込んだ日本人の生き方のレベルまでが問われる問題なのでしょう。
ここでは、厚生年金基金の資産運用マネジメントに限定して、最近基金の現場で行われ始めた試行錯誤のマネジメントの概要について触れてみます。とは言っても、これは形成途上の遅れてきた者のコラージュ(切り貼り・寄せ集め)に過ぎませんが、それでもその素材の衝突から理路整然たる学者風理論ではない、より実効性の高い現実的な或る調和を形成したものが生まれることは確実であると考えられます。ここで求められる資質は、ただ、<切磋琢磨の試行錯誤>の希求心だけです。その素材になるものは、情報操作や情報隔離、情報遮断や議論遺棄等の統制的手法を覆す多種多様・多量な情報です。ここでは無知が取敢えずの敵です。


たとえば、96年の大和銀行ニューヨーク支店の110億ドルに上る損失を大蔵
省に相談しその公表を遅らせるといった方法が、なぜ日本でまかり通るのか。市場
経済が効率的であるということは、参入と退出が自由であり、その失敗は司法で裁
かれるのが自由主義国家の条件であるはずなのに、日本ではそれが官僚の判断に委
ねられている。ここに現在の金融危機の本質的問題がある。
住専7社の経営破綻に伴い大蔵省が発表した報告書で、「住専の元凶は、財務諸
表の分析もできなかった低劣なる審査能力にあった」と自己批判を行っている意味
は深い。

平成11年版「企業年金白書」:加藤 寛「「信」無くば立たず」


ちなみに、その素材になるものの幾つかを拾い上げれば、資産運用技術、グローバル金融、本邦市場の後進・特異性、法制、財政、税制、経済学史、哲学史、社会科学、金融理論、官僚、社会保障、社会・経済状況、企業活動等々……であり、個別な事項を上げていけば、厚生省の政省令・通知、情報収集の場として基金連合会の運用研修であり、総研や外資系運用機関のセミナー、地方協議会の研修、単独・連合基金連絡協議会等の資産運用問題委員会、現代金融理論研究会、年金経営問題研究会、海外金融機関調査等があり、情報機器のTV、ビデオ、Eメール、インターネット、ホ-ム・ペ-ジ等もあります。古来より最大の情報収集手段としての著作物、それも関係部門の本について、500冊ほども目を通せばおおよそのことは見えてくるでありましょう。
関係する多様な事項については、例えば非継続基準、積立水準、確定給付と確定拠出、利害関係者と受託者責任、5・3・3・2規制、お任せ運用、集中投資と分散投資、長期運用とデーリング、リスクとリターン、ボラティリティと為替ヘッジ、MPTとシティの経験、ばかなヘッジアンと非均衡論者のヘッジアン、アングロ・サクソン的経営とアジア的経営、政策的資本配分と市場メカニズム、国富論の読み直し、インデビュジアルと国家、金融業界裏話、官僚の処遇、紡績業裁判、会社都合要支給額と退職給付債務、三種の神器の機能不全、民営化論と代行返上論、社会保険方式と税法式、REOからEVAへ、戦略アセット・ミックスと資産運用指図、運用機関選択法と運用機関解約法、生保の使い方、本邦運用機関との内外商品比較、「外ー内の視線」、年金資産極大下の2ケタ運用利回り、ケイジアンと構造改革論者とマネタリストの論争、MBAとケンブリツジのケース・メソッド、均衡論に対する相互作用性、契約と倫理、フィランソロピーと非営利経営、チリの年金、北欧の市場政策、オルタナティブ、オーバーレイカレンシー、デリバティブ、オフショア、非相関運用、401(k)……と、読点もないまま、息も付かず、判断を中断したままこのような世界に身を晒す切磋琢磨が求められるのです。
厚生年金基金の業務を展開するのにこれだけ多種多様な方面・事項について承知し、ガバナンスしてマネジングしつづける方法とは、いったいどういうものになるのでしょう。
官僚好みのデカルト風科学的合理主義のような推論で、はたして問題をとりおさえられるでしょうか。「問題を調べ、それを細分化し、各部文を分析して解答を見出し、次ぎにその解答を再び組み上げて新しいシステムを作り、全般的に再検討することによってそのプロセスを締めくくる。それが「方法」である。」(R.オーブレー.P.M.コーヘン『「考える組織」の経営戦略』)とするならば、現代の「現実」ははるかに17世紀当時より重層的・水平的であり、時間のミクロ化が進展しているので、ミス・マッチになると言えるでしょう。ここは、オーブレー逹の言う、①超越的な知恵でもなく、②神秘的知恵でもなく、③WORKING WISDOMと呼ぶ実践的知恵の出番であるのかもしれません。
資産運用について、大半がお任せ運用でしたとはいえ30年の経緯を持つ厚生年金基金の現段階での資産運用マネジメントの概要というものがありうるとすれば、一般的に次のように考えるのは妥当なことではないでしょうか。





・厚生年金基金の組織

基金制度発足の資産運用が問題にもならなかった時代に、誰が現在の基金組織の骨格を作ったのでしょうか。例のごとく、関係金融機関の企画部の仕掛け、あるいは又、世評に高い官僚主導の<何々審議会>であったのでしょうか。どちらにしても、目論見・計画・構想というものは現実に対面したときどうしても馬脚をあらわすもので、そうですから当初の詳細な計画というものは机上論・空中楼閣になりやすく、そういうものは大枠・方向だけを決めておいて、都度工夫加工の試行錯誤を繰り返せばよいものでありましょう。統制計画経済が失敗した原因はこの演繹論であり、人間の愚かしさは演繹論で世界を掌中にしたと考えやすい点です。
資産運用が問題になってきたばかりの今の日本において、始めからこれはと言う厚生年金基金の資産運用組織が確立されている訳ではありません。過去の経験の上に、グローバルな金融事情を調査し、欧米の資産運用経験・理論・技術に学びつつ本邦金融市場・金融機関を見定めつつ、<切磋琢磨の試行錯誤>を繰り返すしか方法は無いのでしょう。とは言え、始めの問題として資産運用に取り組む基金関係者の意識・認識レベルが資産運用業務に反した農耕民族風世界観である<運営>意識であるなら、そこをまず改めざるをえないであろうとい点は強調されていいでしょう。
というのも、現在のグローバル金融の資産運用業務は商工民族風世界観による<経営>、オーナー意識により行われているのであり、<運営>意識の最たる計画経済的資産運用(ゼネラリスト運用)などというのは世界の金融界広く見ても日本の年金福祉事業団と基金位しかないでしょう。運用結果についても、太陽または風水のせいにするのではなく、自分の能力不足を断言出来なければならないでしょう。単なるジョブ・ローテーションで済まされるものではないのです。つまり、厚生省の言う文字通りの「熱意を有するもの」が執行する業務です。とても、「内―内の視線」しか持ち合わせません日本のゼネラリストには出来がたい業務ですし、やらせてはならない業務です。


自由でオープンな金融市場がなければ、政府や中央銀行は政策の失敗を官僚的な
壁の裏側に隠すことができる。金融市場は政府の経済運営を民主的にチェックでき
る唯一の民主的手段である。それは三、四年に一度しかない選挙と異なり毎日機能
する仕組みである。

米タイガー・マネジメント社M・Dイェスパー・コール
「ヘッジ・ファンド対策」日本経済新聞社:経済教室 99.4.23


そうではあっても、厚生年金基金の資産運用は利害関係者が数多く、特定少数の個人の資産運用(個人の退職金の運用とか、バフェットとか100人以下に制限されている私募形式のヘッジ・ファンド等)と違い、不特定多数を対象にしていますので、組織的な関わりの多い資産運用となるのは避けられない特質です。(この組織的関わりを遮断したインハウス運用を行うところが数年先には出て来るでありましょう。)
このため、効率と責任とセキュリティを組織の中で如何に確保するか、使命感を醸成し、倫理感を高揚させるインセンティブを如何に仕掛けられるか、利害関係者に如何に資産効果を高め還元したらよいのか、官僚の口出しを如何に排除したらよいのか、効率的な非営利団体の経営を如何に達成したらよいのか……等々。厚生年金基金の経営は非常に難しい問題ですと共に、単なる営利企業の製造業には無い経営の面白みがあり、経営の専門家であれば本来食指の動く経営体でありましょう。将来、MBA取得者を理事長に就任させるような時代になるのではないでしょぅか。

さて、現実に戻って、このような資産運用に取り組む現段階での厚生年金基金の組織関係図は下図のように縦割り組織として考えられるでありましょう。





実際には、このような組織図は静的・理念的でしかなく、単独・連合設立の基金では理事長は企業業務との兼務であったり、常務理事は健康保険組合を兼務したり、さらには運用執行理事を兼務するのが一般的であり、事務長・職員ですら専任というのが珍しいほどです。さらに、従来の厚生年金基金の事務所は社会保険行政の一端を執行する部署という社内事情で、社会保険担当部署の人事ローテーション上の一キャリアポストにしか過ぎなかったのです。ここを通過する者はまだしも、上がり意識で墓場とする者は最悪。こういう人たちに共通するのは学ぼうという姿勢が無い、「内ー内の視線」の優先、なりふりが最優先、過去にすがり付く、先送り体質……つまり、過去の基金事務所はサラリーマンの墓場になっていたということです。
<運営>の時代は、これでも足りていましたが、資産運用問題が浮上してから<経営>の時代になってはそうはいかなくなってきています。基金事務所も戦術的な武装が必要になり、機械化も進展しインターネットの操作も不可欠であり、金融理論を始め法制・財政等の理論武装も欠かせなくなってきていて、資産運用の手法・技術など0からのスタートです。まったく新しく学習・修得することばかりになってきています。
このような基金の現場では、従来のゼネラリストが当然と考えていました、業務は<部下からの提供・説明>というジョブ・ローテーションの仕組・慣習が機能しなくなってきています。つまり、資産運用については、暗中模索の状態であり、引継ぎ書も業務基準書も出来ていないのですから、ジョブ・ローテーションのゼネラリスト達は踊るに踊れず、「もっと、音楽を!」と、事務所で叫び出すことになっています。
このように、資産運用という新規業務が誕生してから、事務所自体の再生も不可欠でありますが、一方関係する業務にも多彩な人材・多様な専門家を要することになってきています。
オーナー経営者・財務マン・指定年金数理人・弁護士・公認会計士・金融理論の大学教授・記者・ファンド・マネージャー・証券アナリスト・為替ディーラー・コンサルタント・カストディアン・SE……要するに、厚生年金基金を廻る内外の状況は一変し、ゼネラリストからスペシャリスト、プロフェッショナルの時代になったということ。サラリーマンは、ましてやゼネラリストは機能しないし、不要、無用、通りの邪魔になるだけになっています。
このような多彩・多様な専門家との接点を基金事務所は維持・拡大しつつ、付加価値の高い専門情報を取り込み事業展開を図ることになりますので、おのずから組織も水平方向に延びていくことになりましょう。






第4章 厚生年金基金経営上の諸問題

(1)基金運営から基金経営へ

イ.代行故の官依存
厚生年金基金制度の目的は加入員の<老後生活安定の一助>です。これを達成するために、厚生年金の一部代行という形の民間活力活用で制度が発足し、確定給付システムによる事前積立方式で事業展開されているところです。
この日本の「厚生年金基金」は、世界にも例の無い公的年金の一部代行を行う制度のため行政による多様な介入・制約が生じ、事業はほとんど行政により取り仕切られていました。この結果、民間活力活用という制度発足の趣旨とは逆に厚生年金基金にとって裁量の余地が無い統制経済そのものの事業となってしまいました。全てが行政の手のうちで行われるということは、民間の創意工夫など必要とせず、基金は言われるがままに事業運営を展開していれば足りるという官僚依存の運命共同体的体質を作りだしてしまったのです。

ロ.ビルトインされていたものの浮上
そこに、制度発足の時点ですでにビルトインされてはいましたが、その矛盾が表面化していなかっただけの<反統制経済的行為である資産運用>という問題が積立金不足による解散基金の続出により浮上してきたのです。
ところが、厚生省の資産運用に関する規制緩和は平成9年12月の5.3.3.2規制撤廃によりほぼ完了したと言えるでしょうし、制度が発足して30年、資産運用が問題になってからでも10年は経過しているのですが、それでも、年金基金の事業展開において官僚統制の裁量行政がやまず、順法精神あふれる整合性維持の事業<運営>をしていればよいというのでは、制度発足の趣旨、本体代行による民間活力の活用は未達成のままです。
とは言え、余りに時間がかかり過ぎるとだけ言い置く訳にもいかない。というのも、この問題──官僚統制の世界に反統制経済的行為がなされるようになってきたということは、フレーム・ワークを単に替えるだけではすまない人心一新のために多くの議論の積み上げが必要であり、既得権益集団の血塗れの退場が不可欠であり、人々の哲学の更新が求められるような大きな問題であって、とても一朝一夕で事業は成就しやしないからです。
しかし、それも、当初から年金基金制度に仕掛けられていました<資産運用>という反統制経済的行為が起爆剤となり、<運営>からの脱皮が強要されることになってきたのです。というのも、<資産運用>は三種の神器などというピラミッド型組織人間が<運営>するものとはまったく異質の世界観のもとに行われるものであり、農耕民族風統制経済の<運営>から商工民族風自由経済の<経営>へ、基金事業は変わらざるをえないと考えられますし、変わるでしょう。
このことは、何も年金基金だけの問題ではなく、日本全般を被っている問題でもあります。外貨不足に呻吟していた時代から世界一の債権保持国に成り上がり、手持ちの札を如何に取り扱って言いものやら右往左往しているのが日本の今の現実です。つまり、金融資産を中心にした商工業経済で生きていかざるを得ないのであって、今更、農耕民族面しておれないのです。「しんどいから統制経済のぬるま湯でいいよ」と言うのは既得権益集団内だけのこと、日本の将来を切り開くのはそういう消え行く保守集団ではなく、もつとエネルギッシュな反組織的な猛烈な切磋琢磨を試行錯誤するイノベーター逹でしょう。


そう考えていくと、大蔵省は「母性」のかたまりのようであるし、年功序列も終
身雇用も全て「母性」によってつくられ守られてきたのだろう。つまり、金融ビッ
グバンなるものは「母性」によって堅く保護されてきた殻を破って「父性」を発揮
せよ、ということだと考えてみるのもいい。

有澤沙徒志『日本人はウォール街の狼たちに学べ』


現今の統制・規制方式から民営化への流れは歴史の必然でありましょう。そのうえ、基金事業に資産運用がインストール、内蔵されているのですから、基金事業は、<運営>から<経営>へ切り替わざるを得ないということになりましょうし、基金業務は社会保険マターではなく、金融ビジネスなのだという認識が一般的なことになりましょう。

ハ.グローバリゼーションの力学
この流れをさらに促進するためには、現今、次のような点が課題となりましょう。

1.行政の関与を最小限に制限すること
2.受給権確保のため年金法の施行
3.財政基盤確立のためインフラ整備
4.明確な年金基金の経営理念の確立
5.年金基金従事者の金融専門家・プロ化
6.資本の生産性向上のため徹底した合理化追求


旧体制を新体制に切り替えていくについては、非革命的に、つまり漸進主義で変えていくのが一般的な従来手法(統治・統制手法)ではありますが、それでは変革スピードが遅いということ、資本の生産性が低いということ、規制を嫌って規制の無いところへ国家を捨てて起業する人が増えてきている中(ボーダレス現象)で、既得権益集団の人々の恣意・意図とは別の分野で、資本の論理という強権(例えば、年金の資産運用利回りが5.5%以上必要と要請されている世界で金融ド素人の社会保険行政出身者でも金融の研究をして稼がざるを得ないとか、外資系金融機関が進出して来れば商品特性の比較が当然発生し消え行く金融機関も出てくるとか、スワップ市場での円金利が低コストで調達できるのですから大蔵省の長・短分離政策が無意味になってしまいましたとか、神の見えざる手が機能する市場の力による円高圧力・統制経済破壊等々)が、拒んでも拒みきれない力(グローバル化)で旧体制の強固に仕組まれていた既得権益集団組織を切り崩してしまうのです。

「人様のお金」OPM(A4・224頁)  連載 2

2013年03月02日 | 厚生年金基金
第2章 厚生年金基金の経営フレーム・ワーク

(1)経営などしたこともない!

企業業務の傍ら「基金兼任理事長」が民間感覚で、過去に時々基金業務に発言することがありましたが、事務局からかくかくしかじかになっていますという説明・助言を受けて言うことは、「誰が責任者なんだ!」、「誰が経営しているのか!」という怒りの声でした。
 規制・指導で雁字搦めになっていて裁量の余地を残してない基金制度について、基金事務所は<役所の出先>なのか、とよく叱られたものです。
というのも、理事長交替のたびに、基金業務の認可・指導行政の実態説明、大蔵省にべつたり張り付き厚生年金基金制度の直接の所管官庁の厚生省を無視した本邦金融機関の護送船団体制感覚、厚生省と民間の狭間で身動きが容易でない厚生年金基金連合会の実態、基金業界に蔓延する保守主義等々を説明し、ニツチがほとんどない実態を理解してもらうのに苦労したものです。
筆者は8人にのぼる理事長交替を経験してきましたが、代々の理事長の発言趣旨を要約すれば、各理事長は、基金の「経営など、したこともない!」ということになりましょう。
 今でも、<経営>などと基金業界で言い出すと、何処からともなく「<行政>なんだよ」、
と聞こえてくる始末です。別の人からは、「国の委託業務を粛々とこなすだけ」などという、第三セクター並みの発言を耳にしたこともあります。国が最終責任を取ってくれるという負け犬の姿勢、他力本願のゼネラリストの責任霧散体質が、このたびの資産運用利回りの低下による積立不足を身動き出来ない状態にまで引きずりこんでしまったということでしょう。


ヘッジ・ファンドは投資収益の絶対水準のみを追求し、例えば株価指数などの収益
差などには関心がない。……。最近では、少数の銘柄の株式、特定の通貨や債券に集中的に投資することは一般的には主流ではないが、成功しているヘッジ・ファンドは、自分たちが自信を持っている集中投資の戦略を堅持している。
つまり、ヘッジ・ファンドは、どこでもマーケットが動けば収益が上がるといった
楽観論に基づいて投資をするゼネラリストではない。明確な戦略に基づいて投資を
行うスペシャリストなのである。

米タイガー・マネジメント社M・Dイェスパー・コール
「ヘッジ・ファンド対策」日本経済新聞社:経済教室 99.4.23


30年余の長きにわたり国の委託業務のオペレーションで運営されてきた厚生年金基金には、経営主体など在りえようがなかったのです。経営権を剥奪されたまま、官僚の遠隔操作によってお祭りをしてきただけともいえるでしょう。


 (2)基金経営の組織機能

筆者は、機会あるごとに、従来の「基金運営」を「基金経営」に改めなければならないと主張してきたのですが、先日個人的に参加している<年金経営問題研究会>から次の例会は或る本について読書会をするという案内をもらいましたので、先の土曜・日曜にざっと目を通してまさしく開眼させられたことが二つありました。
それは、初めに、この本の著者達が「金融ビジネスとしての年金経営」を主張するのはP.ドラッカーを初めとしてそう奇異な考え方ではないですが、過去の年金経営が旨く機能していなかったのは「よい組織デザイン」がなかったからだと言う主張と、その分析がまったく新鮮でした。著者達は、年金経営の目的・使命達成は、状況認識のうえに「明確な組織の使命と、それを達成するための方針と戦略」の首尾一貫性によって導きだされると言い、これを達成するための組織機能の区別を明確に示したのです。
筆者は、ここまでの文脈の上に、それを次のように一部補正(< >部分)を加え整理してみました。




つまり、筆者の「基金運営」から「基金経営」へというパラダイム変換は、単に運営から経営への概念のシフト替えだけでは何も言っていないのと同じで、基金の目的設定、状況認識、「明確な組織の使命と、それを達成するための方針と戦略」をたて、それを上記の組織機能により追求するという経営概念の内実が不可欠であるということを認識させられたということです。
いま一つのそれは、従来の年金基金には「基金統治」と「基金管理」という機能はまったく欠落していましたということ、実態としてありましたのはオペレーションとしての「基金運営」だけであったのではないでしょうかという発見です。
「基金管理」さえ、過剰な規制により行政サイド(厚生・大蔵省)の遠隔操作で行われ、ましてや「基金統治」は全面的な行政の指導・誘導により言いなりで行わなければ認可が降りず事業実施が図れず、「そういうことになっています」と裁量の無い状態を代々の理事長は説明を受け、当事者でさえ一言も口をはさむ余地はなかったのです。理事会とか、代議員会を行政の<各種審議会>のように使い、見事に空洞化させてきたのであり、その結果が大半の基金の積立金不足を招いたということも言えるでありましょう。


年金改革論議によって明らかになってきた問題は、公的システムと市場システム
の機能不全と制度不信にあるといえよう。この2つのシステムが効率的に機能する
には、個人の持つ創意工夫が前提となる。制度不信の根底にあるものは、個人の創
造性を封印してきた制度そのものと、それをつかさどる行政の規制にある。

ライフデザイン研究所 平成11年版「企業年金白書」
:加藤 寛「「信」無くば立たず」


つまり、行政から「基金統治」と「基金管理」を奪いとらなければ厚生年金基金の存在理由はなく、逆に行政には「基金統治」と「基金管理」の裁量能力は無いですということであり、資産運用という商工業事業は官のテリトリーではなく民の活動の場であるということ。従来のような国の委託業務としてのオペレーションだけの厚生年金基金などという時代錯誤な制度は<代行返上論>以前の問題です。
要するに、筆者が主張してきました「基金経営」というパラダイムには首尾一貫した哲学が内包されていなければならないということであり、「基金運営」では行政からの国の委託業務という認識になるということです。


規制の存在が基金の自主性を摘み、運用能力を高めようとするインセンティブが
働かず、基金の運用能力が低いまま放置されたというのだ。(厚生年金基金連合会
の資産運用専門委員会の93年報告書)
しかしこの論理は逆立ちしている。基金の自主性を阻害したのは、基金制度を準
公的年金と位置付け、箸の上げ下げまで基金の運営を規制してきた厚生行政ではな
いか。それに触れずに、運用規制が自主性欠如の原因とするのは事実に反するので
ある。

河村健吉『企業年金危機』


ここから、確定給付型の厚生年金基金制度が掛金だけを財源とするのではなく資産運用による収益も財源の一部として組み込んでいる限り、現実の金融界相手に生き抜くためには遠隔操作される行政主体の「基金運営」では決して太刀打ち出来ず「基金経営」というパラダイムが必要不可欠です。これが長い間不問とされてきたため、基金業務は現在矛盾の塊となり「凍結」の事態に放置されているといえましょう。つまり、「社会保険業務を内包した金融ビジネス」に変貌しているというのが現実です。この点で、厚生年金基金を時代にマッチした制度に展開していくのにもっとも必要とされるものは<民意感覚>ということになります。


                             ロッキィーズ物語

・そもそも

家族5人が湘南の地に転居した昭和55年、上の男の子が10歳になった頃であ
った。家の前のジャリ道で、私とキャッチボールをしていた息子が「お父さん、小
学校で野球やっているよ!」と言うので、子供たちとグランドを垣根越しに覗きに行
ったのがそもそもの始まりだった。
以来、20年ほど地域の少年野球チーム「ロッキィーズ」との日々が始まった。




(3)厚生年金基金の過渡的経営フレーム・ワーク

戦後日本経済を推進してきたケインズ主義的マクロ政策主導の基本理念であります大陸法の硬直的なシステムに対して、英米法の柔軟さのほうがフレーム・ワーク等の構造を構築するとき、より現実にフィットしたものになるでありましょう。演繹論と帰納論の二元図式思考はそれなりの落とし穴があると考えられますが、演繹論オンリーでスタートするのは世界を小さくしてしまいやしないでしょうか。その実例が、戦後日本経済の計画経済・統制経済がついに現実遊離な状況を招来し経済全体の破綻を現象させたことに象徴されています。それよりは、現行までの成果・実績の上に試行錯誤を積み上げていく方式の方が現実的対応と言えるでありましょう。
 さて、現時点での厚生年金基金の経営フレーム・ワークを考えるにつけ、昭和の終わり・平成の始まり頃のことを思い出してみると、隔世のかんがあります。
あの当時の厚生年金基金は掛金徴収団体であるに過ぎず、資産運用と言えば、年次決産報告書に総利回りが何パーセントと表記されているのを横目に収益受入金×××億円と損益計算書に計上するだけでしたのです。
それが、今ではどうでしょう。積立資産は巨額になり、あわせて年金給付も年間掛金を上回るような状態になってきています。あんなに強固な専制を敷いてきた大蔵省の護送船団体制も崩れだし、裁量行政から事後監視型行政へ厚生省も移行せざるを得ない事態となり、世の中の規制緩和大合唱の中で5.3.3.2規制も廃止され、貸付金運用から有価証券運用に様変わりし、基金の戦略アセット・ミックスで運用機関に指図するようになってきました。


長い間、科学では「ユークリッド」ないしは「ニュートン」的な先入観が支配し
ていた。これは「還元」および「線形性」への偏向があったことを意味する。科学
者たちは安定した行動には、直線を当てはめた。もちろん、これはユークリッド科
学に誤謬があるということではなく、先入観があまりに強すぎるということだ。現
実を見れば、決して線形でないものが多く存在する。

L.トゥヴェーデ『信用恐慌の謎』


一方、この間、基金の積立金は危機的な未曾有な積立不足になり、解散基金の続出、潜在的な解散予備軍の基金を3分の1(500基金)も生み出してしまい、紡績業基金の裁判では国家賠償法を適用せざるを得ないほどの法体制の不備も露呈し、気がついてみると基金問題が国を揺さぶる問題になってしまいました。
厚生年金基金の財政悪化の真因を何処に置くかは議論のあるところですが、日本経済のバブル崩壊に始まる超低金利政策の導入を始まりとして、資産運用の低迷、財政基準の不備、会計基準の簿価主義、厚生官僚がセットした本体代行の裁量行政と資産運用とういう商工業事業を基金に行わせたミス・マッチ等々、複雑に絡み合いました厚生年金基金制度は日本の社会・経済混乱の縮図となってしまいました。
とは言いましても、後世のために言って置くべきは、この10年間(「失われた10年」と言う人もいますが)行政も企業も基金も運用機関もただ手を拱いていたのではなく、懸命な研鑽、切磋琢磨の試行錯誤(痛みを伴う改革、旧体制の引退、新規事業の研究開発、インフラの整備、金融理論の研究・導入等々)は行なわれていました。遅々たる歩みでありましたが、着実に生まれ変わるつらい作業は継続され「実りある10年」でもありました。
例えば、厚生年金基金連合会の各種啓蒙・提言活動、受託者責任研究会のガイドライン制定作業、それに海外年金事情調査旅行、厚生省年金局の問題含みではある「平成9年版年金白書」、「たん・れん」の7委員会活動、社団法人日本証券アナリスト協会の活動、証券系総研の研究活動、R&I社の「現代投資理論研究会」、外資系金融機関個社のプレゼンテーション、それに最近では多数の金融機関協賛形式の米国「プランスポンサー」誌の10回目になる年金セミナー、シンガポールAiC社の日本年金セミナー、米国インステーチュート社の年金セミナー、日本のマーケット・メーカーズ社のW.シャープ博士を招いての年金セミナー、企業年金研究所の「年金経営問題研究会」、山崎元氏の『年金運用の実際知識』とアセット・アロケーション計画検証ツール、幾つかの基金のホ-ム・ペ-ジ開設、Eメール網の普及、とくにJMMの金融セクションの7万部に及ぶメール配信、基金関係者の自由参加による『年金倶楽部』のメール交換の場、FAS会計のインパクト、401(k)の衝撃、厚生年金基金連合会の『受託者責任ハンドブック(理事篇・運用機関篇)』のとりまとめ、年金関係の放送・出版・新聞報道の隆盛、等々。
このような官民合わせての研究・議論の精励により、充分なインフラとは言えませんが、この10年間に、経過・過渡的な姿ではあるがまさに生み出されようとしているものがあります。さらに、基金会計には企業会計に先んじて時価(財政運営規程の制定)が導入され、5.3.3.2規制撤廃を受けて戦略アセット・ミックス(資産運用基本方針の設定)が立ち上がり、確定給付型年金の見直し(代行制度等の検討)も急ピッチで進行し、数年後には確定拠出型年金もスタートしようとしています。まさに状況は沸き立ってきたところです。
つぎに、現在までのところで、官民共同の作業によって仮置きされた厚生年金基金の経営フレーム・ワークの幾つかの事例を並べてみましょう。これは、いわゆる決定版などとは無縁の叩き台、マドリング・スルーなドメスティックな代物、検討・研究材料の提供ということになりますが、巻末の資料集をご覧頂きたいと思います。


<厚生年金基金の経営フレーム・ワーク資料集>

(1) 厚生年金基金規程集
(2) 厚生年金基金の経営フレーム・ワーク
(3) 制度絵図
(4) 退職に際して、年金・一時金該当フロー図
(5) 一時金、それとも年金?
(6) 財政運営規程
(7) ABC厚生年金基金の組織体制
(8) ABC厚生年金基金の資産運用委員会規程
(9) ABC厚生年金基金の業務一覧
(10)資産運用マネジメント
(11) 基金の資産運用鉄則
(12) ABC厚生年金基金資産運用基本方針
(13) 戦略アセット・ミックス
(14) 個社別ガイドライン
(15) 運用管理規程
(16) 受託者責任の概要
(17) 四半期資産運用配分状況表
(18) 平成11年度資産運用報告
(19) 厚生年金基金のリスク管理(フロー図)
(20) 厚生年金基金のリスク管理規程
(21) 厚生年金基金のリスク管理規程様式集
(22) 加入員等への情報開示取扱い基準
(23) 加入員向けPCホ-ム・ペ-ジ環境(A4×100枚)
(24) 福祉施設事業
(25) ライフプラン事業



第3章 厚生年金基金の資産運用方法

(1)それとも資産運用で稼ぐか

日本全体が未曾有な事態を迎えているという認識は一般的になってきましたが、その原因・背景については国民のコンセンサスとまではなってはいないようです。しかし、グローバリゼーションの進展・ボーダレスの蔓延が繰り広げられており、そして日本特有のこととして三種の神器(終身雇用・年功序列・企業内組合)の崩壊が現象する事態となっていることは認識されて来たようです。
これにつれて、日本の年金の世界、とくに年金基金の現場では積立金不足の事態から「掛金増か、給付減か、解散か。」が議論・実行されています。そんな中で、最後の選択肢として資産運用の規制緩和・撤廃を受けて「資産運用で稼ぐ」というシンプルな方法を取り出した基金も現われてきています。当然、現実の基金経営の場面では、これらのどれか一つだけの対処で足りるとは誰も考えてはいなくて、これらの幾つかの現実的な組み合わせを模索することになるのでありましょう。
積立不足金の実態を細分化してみるだけでも、低金利政策による代行分の政治的ロスの穴埋めを大蔵省にもとめたり、免除料率不足による不足金は厚生省に請求書をだすべきものですし、数理的不足金分は制度を採用した企業の当然の負担ですとか、プロを冠に商売する資産運用機関には定性・定量両面において実績が実現出来ないのであれば、例え企業サイドの株式持合いとか政策運用がまかりとおる事態であっても、シェア・ダウン、または解約で立ち向かうのは当然の行為でしょう。






とはいえ、これら全てのガバナンスの失敗は、最終的に基金事務局の責任ということは言い逃れ出来ませんが、<試行錯誤の切磋琢磨>という道だけは避けて通れないのです。要するに、ここにきてガバナンスが一層重要になってきている現状、行政サイドは5.3.3.2規制を撤廃する大転換をおこなってきて事後監視型行政に移行しつつあるとは言え、圧倒的に基金のガバナンスは官僚の手に握られており、依然独立法人としての態を無さない状態にあります。基金のガバナンスを考えるうえで、この点が最大のネックですし、ターゲットは明確にここに定まってきたということです。
とはいえ、ガバナンスというものは遺産相続のように贈与されるものではなく、さらに年金基金の世界によく見られる所与の条件で運営していれば足りるなどという発想とは革命的に異なり、新たに作りだすもの、イメージするもの、起業するものです。予定利率5.5%という指標ひとつにしても、厚生省お墨付きの長期国債の5年平均を使うか、或いは逆に基金の必要経費率を、一例として「短期は6.0%、長期は9.0%」の利回りに集約してターゲットとして定め、関係者のインセンティブを鼓舞する仕掛けを内在させるか。これは、経営判断でしょう。
とは言え、一般的に基金はオーナー経営ではないので、組織の中で経営判断の場所として資産運用委員会を機動的に使うことになるのでしょう。その点で、現状では組織に基金問題をオーソライズするには、事務局の指導力というより推進力発揮は不可欠であるし、そのために高度な裏情報も含めた情報収集能力が必要であるし、代替としてコンサルタント等の力も借りなければならないでしょう。


                            ロッキィーズ物語

・恐怖のアメリカン・ノック

子供たちが尋ねた。「Oコーチ、今度は何?」 「何?」
「アメリカン・ノック!」 「ええっ、アメリカンですか」 「アメリカン!」
子供たちには<恐怖のアメリカン>ではあったが、遊び心と挑戦心で喜々として
センターに走っていった。
ホームベース上から地を這うノック・ボールが、次から次へとレフトとライトへ
飛んでいく。時には、不規則になり、フライも混ざって飛んでいくボールを選手た
ちは取り逃すまいとセンターから懸命に走る。捕球したら、即座にワン・バゥンド
でキャッチャーに返球する。これが、なかなかうまく行かず、30分もやると全員
フラフラとなる。
最後は、捕球した者から順次上がるのだが、息を弾ませて、ホームベースに戻っ
てくる純白の立ち襟ユニフォームの紅顔の野球少年たちの、おお、なんと凛々しい
ことよ! ピュアなことよ!




平成10年になって、日本発の世界同時株安不安、株式と債券の異様な相関性(過去30年ほどの統計では必ず逆の動き方をしていた)などという、これまでの金融常識では考えられない事態が生じて現代金融理論(MPT)等の成果である「国際分散投資」に疑問符が冠せられる事態となり、そこから従来のカントリーによる分散からテーマによる分散、ベンチマーク無意味論、それに「非相関運用」等が脚光を浴び始めてきています。
それなのに、この国の金融インフラ・ノウハウは「国際分散投資」にさえキャッチ・アップ出来ず、一部の本邦系信託銀行では外物のカストディを外資系信託銀行に手放さざるを得ない事態を迎えています。従来の護送船団体制では、そのようなことは外聞が悪いからとハイコストで利益にならないことでも負担してきたようですが、コスト意識の点では現実認識が進んだということで評価できることではありますが、グローバリゼーションの進展のなか一歩も二歩も後退ではないのでしょうか。というより、本邦系金融機関の実力が「総提携化」に走らざるを得ないほどのレベルであることを認識されたいということなのでしょうか。
このようなグローバルな金融動向と国内金融事情の大幅な乖離の中で、日本の年金基金の資産運用をどのように構築していったら良いのか、ここは各基金とも更に一層切磋琢磨の時ですということでしょう。


マクロ的に見ると、家計の支出は住宅投資を含めても、所得の枠内に収まるが、
法人部門では所得の二倍以上の設備投資をしている。
経済環境にダイナミックに反応する企業にメリットを与える(保険方式から税法
式へ)ことで、年金財源の変更という、一見ゼロサムの政策が「有」を生む可能性
がある……

猿山純夫「基礎年金改革―税法式、マクロ改善効果も」
日本経済新聞:経済教室 1999.8.13


 (2)基金の見た日本の資産運用環境

この国の資産運用環境に遅れて参加した年金基金は、大蔵省の産業資本調達システムと化している統制市場と風説の流布等により賭場と化している投機市場、<人様のお金>を業者にかっさらうがままにさせている政府・国民の拙劣な資産運用文化の後進性を見せられることになりました。併せて、基金自体の資産運用文化の度合いを振り返ってみることにもなり、丸投げとも言われる全面的な「お任せ運用」の実態に愕然とすることになりました。
どちらにしても、資産運用に関しては日本全体が0からのスタートであることは変わらないのです。資産運用すべき元手がない<肉体労働>の汗水時代が長く続いてきて、突然、金が積み上がって来たのです。それなのに、政府も行政も学会も金融機関も企業も個人も、そして年金基金も、<資産運用>についてはまったくのド素人であり、プロフェッショナルがいない状態なのです。
厚生省管轄の厚生年金基金制度の中に資産運用という省をまたぐ問題がクローズアップされ、監督当局が縦割り行政の弊害で二つになり、行政の整合性がはかりがたくなっていました(直近ではこれが4省問題になっています)。それが図らずも具現されたのが、先般の紡績業裁判での司法当局の判例と厚生省が推し進めている受託者責任の考え方の相違であります。国の指針のこうも明らかな相違は政治の明確なビジョンが確立していません混迷期特有の試行錯誤の一つかと見るにはお粗末に過ぎやしないでしょうか。法制・行政サイドにも、不勉強な経験のない偏差値秀才しかいなくてプロと呼べる頑健な者が育成されていない実態が明らかになってしまいました。
さらに、制度発足以来、基金の世界では、信託・生保を資産運用のプロと位置付けてきましたのは、昭和時代の終り頃まででありましたろうか。今にして思えば、基金自体のド素人程度から推し量り相対的にプロでありますと、基金が勝手に責任を押しつける意味で使っていたのであり、護送船団体制の中でぬくぬくと生きてきた者逹の化けの皮が剥がれてみると、ド素人より質の悪い全て金太郎飴のゼネラリストのゴマスリ集団にしか過ぎなかったのです。一方、年金基金の資産運用を担う役職員はどうかと言えば、行政サイドや金融機関等と同様に単独・連合設立基金では基金事務所の位置付けさえ一般企業ゼネラリストのキャリアの2~3年の通過セクションでしかなく、悪くすればゼネラリストの墓場となっていましたし、総合設立基金の天下り役職員に至っては社会保険行政経験者ではあっても複式簿記すら知らず、ましてや資産運用業務など夢の又夢のような仕事でありました。
つまり、戦後、日本全体が総じてゼネラリストと化していて専門職を育成しなかったのです。ゼネラリストの金太郎飴集団だけで足りるような統制を実行してきました結果、得たものは統制によって囲い込まれた巨額な金融資産と、それに反比例して国民の全体主義的封じ込み、国民の子羊化をもたらしてしまったのです。
このような環境の中で、基金の資産運用能力も行政サイドに封じ込められていて何もない状態でありました。基金経営の観念も資産運用という哲学も金融の実務も、ましてや経営指針も運用方針も運用体制も、さらに戦術的に重要なノウハウ(マネージヤー・セレクション、カレンシー・オーバーレイ、アクティブ・ヘッジ等)もない、ゼロ状態でしたのです。


 (3)世界の資産運用環境

運河の国オランダの郊外はこんもりとした森の多い国で、1990年に地方小都市の基金事務所を訪問したとき、調査団のバス(UDにあらずベンツ)が訪問先の事務所が森の中で分からなくなってしまい、しばし立ち往生。街角の花屋のガーベラ咲き誇る店先で。
事務所からの迎えの車に先導され森の中の街路をしばらく行くと、敷地を示す簡素な門を入って森の中の点在する木々の下の芝生が見事に養生された中の曲がりくねった道を5分も走っただろうか、3階建ての事務所の前にバスは止まった。見れば、事務所わきの小屋の前に「PENSIONENFONDS PGGM」とシンプルに記されていました。
ほとんどが森の広大な敷地の中央に3階建ての独立ビルを構えたこの年金基金事務所は加入員数36万人、年金受給者6万3千人というオランダの病院および福祉事業従事者を対象とした基金で、オランダで二番手の大きさの基金とのこと、職員数は600人である。
部屋を薄暗くして行われたプレゼンテーションで印象的だったのは、年金をインフレからまもって保証することを基金の目的にしていること、35年という長期展望のもとに計画をたてていること、分散投資に注力していること、不動産投資で極東・日本にまで投資しているとのこと等々でした。1990年当時の日本の厚生年金基金レベルとは天と地の開きの有る現実に、調査団一同ただただ呆然とするばかり。叩きのめされたようなインパクト!
あれからほぼ10年、グローバルな金融の世界ではいろんなことがあったし、本邦金融機関にも未曾有な事態が押し寄せ、日本の基金サイドの研究・情報収集も進み、資産運用規制もほとんどなくなり運用体制も徐々に整ってきました。資産運用環境の激変はかってないスピードと量で行われています。マネーの論理は、ついにソビエトの統制経済をも打ちのめしてしまいました。ロンドンには金融のウィンブルトン現象が発生し、東京には純然たる本邦金融機関は無くなりすっかり外資系金融機関と提携するに至りました。ベアリング、米国大和證券、住専、日産生命、山一、託銀、長銀、大蔵省等々、明らかになるのは<旧来組織の疲弊>ばかりです。ブレ幅の大きくなったボラティリティ増大のデリバティブ市場にβの資本資産評価モデルあり、投機に特化した莫迦なヘッジ・ファンドあり、非相関運用あり、世界同時株安で怪しくなってきました国際分散投資理論ありで、市場環境はグローバルでボーダレス化し、運用技術の多様化・高度化につれ瞬時性を高め、次々と規制・統制を破壊しつつあり、それに連れてリスクは高まる一方です。


統計的データとその定量的分析はカントリーリスク評価における重要な役割をに
なっているが、この問題が複雑なだけに、主観的な判断もまた決定的重要性をもっ
ている。
(チャータード銀行)

カントリーリスク評価は、しょせん科学というより芸術である。
(チェイス銀行、マリン・ミツドランド銀行)

渡辺長雄『カントリーリスク』



「人様のお金」OPM(A4・224頁)  連載 1

2013年03月01日 | 厚生年金基金



目 次

はじめに
第1章 制度発足30年経過して
第2章 厚生年金基金の経営フレーム・ワーク
1. 経営などしたこともない!
2. 基金経営の組織機能
3. 厚生年金基金の過渡的な経営フレーム・ワーク
第3章 厚生年金基金の資産運用方法
1.それとも資産運用で稼ぐか
2.基金の見た日本の資産運用環境
3.世界の資産運用環境
4.平成10年度現在の資産運用状況
5. 資産運用マネジメント
第4章 厚生年金基金経営上の諸問題
1.基金運営から基金経営へ
2.厚生年金基金のリスク管理
3.代行の金縛り
4.<人様のお金>
5.果たすべき約束
6.パブリック・コメント?
第5章 401(k)の百聞は一見に如かず
1.401(k)一見
2.訪問先個社マター
3.日本版確定給付型年金の完全民営化
第6章 凍結した死に体
1.「厚生年金基金は死に体!」
2.基金問題のインパクト
3.<人様のお金>が変える日本のインフラストラクチュア
第7章 ビジョン「年金基金」
1.戦後日本の哲学もどき
2.「年金基金」というビジョン
3.ビジョンのメッセージ

謝 辞
・厚生年金基金の経営フレーム・ワーク資料集
・情報収集先
・書籍等一覧
・年金関係インターネツト・サイト



はじめに

 最近、「人様のお金」という言葉をお聞きになったことがおありでしょうか? 
 「他人の金」という言い方は時々見聞きするようになりましたが、一般的にはまだまだ「自分たちのカネ」という意識、といいますより、そのようなことに無頓着な無意識の行動が幅を利かせているようです。つまり、「人様のお金」を「自分たちのカネ」に摩り替える政官財のモラルハザードは極まってきているということ。
 なにはともあれ、「人様のお金」などという言い回しは久しく聞いたこともなく、死語と化しているというのが現実のことでしょう。
 そうではありましても、日本人ならどなたでもこの言葉に何やら、懐かしい響き……が、母親の面影が立ち上がってくるような気がしませんでしょうか。他界してしまった母親のように遠い何処かに、江戸時代か、明治の商人世界、あるいは終戦直後等の一昔前に、まったく忘れ去られたかのような感じがします。

 「厚生年金基金って、何んだ?」という筆者の25年に及ぶ小さな基金事務所での実務経験に基づくドメスティックな一考察が、厚生年金基金制度の提供主体である官僚と企業人が、「自分たちのカネ」とばかり思い込んでいました厚生年金基金の年金給付<代行分>と<加算年金>は、実は他人の金、「人様のお金」ですということを発見したのです。つまり、年金給付を受ける当事者自身の<皆さんのお金>でありましたという発見を基金の現場でのマドリング・スルーの結果導きだしたのです。
 同じように、「似たような状況において蓄積された経験」(R・ジアモ)の幾多の繰り返しにより厚生年金基金の公的部分(代行)と私的部分(加算)、つまり、この国家と企業のフレーム・ワークは、各々が実施してきました国民と社員の<統制手法>なのだという認識を生み出したのです。この論理的帰結として、国家と企業の手から分離された形での「人様のお金」=「年金基金」というビジョンが成立したのです。
 さらに、このビジョンが日本の金融・年金・資産運用等のインフラストラクチュアを、強いて言えば、日本そのもののインフラストラクチュアを再構築することになりましょうという、<壮大な経路>(三ツ谷誠:JMMメール)の発見につながったのです。
 要するに、「人様のお金」というフレーズは、刈谷武昭さんが『金融工学とは何か』(岩波新書)でおっしゃっている「不完備制度の完備化」の機能を果たすことになるのでしょう。

 このようなことは、すでに30年程前、1976年に米国でドラッカー教授が『見えざる革命―来るべき高齢化社会の衝撃』で予言していたことであり、愈々そのようなことが、この日本でも少子化という問題を上乗せした形ではありますが具体化しつつあります。現実に日本のGDP500兆円に対して年金資産は半分強にまで積み上がってきているのです。資料によりますと、日本全体の年金資産は300兆円弱に積みあがり、厚生年金基金の資産も60兆円となってきています。このような年金資産(実態は、「人様のお金」)の<資本の論理>が保持しているパワーが、政官財の旧来システムの見直し・断罪を強く要請することになるでしょうし、サラリーマン・ゼネラリストを馘首し、様々なオーナーを次々と誕生させるでしょう。<倫理ファンド>、ベンチャー・キャピタル、ストック・オプション等の隆盛をもたらすにとどまらず、国家、企業等の組織都合な統治発想は否認され、インンディビュジアル(個人)レベルから新たなインフラストラクチュアが構築されることになるのでしょう。
 とは言いましても、日本の構造改革は国債の大量発行に象徴されますように民意度は後進国並みですから、未だしばらくは遅々たる進展しか望めないでしょうが、方向だけは定まってきたようです。

 さて、通常一冊の本は、事前に推敲の経緯・経過は捨象され、抽象化されたうえで書かれるものと考えられます。泥の中を通り抜けるマドリング・スルーな経過そのものは主題足り得ないものなのでしょう。
 しかし、この「人様のお金」を、筆者は平成8年6月に厚生年金基金の経営を主題に「ペンションファンドマネジメント」として書き始め、推敲のドメスティックな展開そのものを内容にして、平成12年8月にタイトルを「人様のお金」(第1部厚生年金基金の変貌、第2部厚生年金基金の資産運用ドキュメント、第3部厚生年金基金の経営の3部構成、400字詰め原稿用紙2200枚)と改めて、書き上げました。
 その後、何人かの人に目を通していただきましたところ、商業べースに乗らないということで、皆さん一様に余りに大部に過ぎるということでした。そこで、編集し直し、500枚ほどをカットし、1700枚としました。
 さらに、それを「経営資源の有機的連結」を中心にした500枚ほどを独立させ『事務長奮闘記―厚生年金基金って、何んだ?』とし、残りの1200枚ほどをこの『人様のお金―厚生年金基金は、何になるのか?』に分冊しました。それでもなお、一般の本に比べて分厚くなりましたのは主題追求の手法のせいとご容赦ください。

 これらのことを、筆者は母体企業の再三の肩叩きを肩透かししつつ、厚生年金基金業務に全人的にのめり込むという原始的な手法で、現場事務所で「厚生年金基金って、何んだ?」と追い求めたのです。このような不器用な生き様は決してエフィシェント(効率的)とは言えませんが、愚かな素朴さ、ピュアであるとは言えるかもしれません。単に、ドメスティックなだけに終わっているかも知れませんが……。
 しかし、この判断は読者諸賢がお決めになること。筆者としては、ただ「厚生年金基金は、何になるのか?」の「叩かれ台」(山崎元『年金運用の実際知識』)を、「人様のお金」の素材提供が出来ましたのであれば、または、せめて読者の基金に対するイメージ構成が幾分かでも立ち上がり始めましたら良しとしなければならないでしょう。

 後は、ただ、笑而不答……



第1章 制度発足30年経過して

厚生年金基金制度は昭和41年に創設以来、30年が経過しました。
つつがなかった昭和の時代が終わり、戦後日本経済の閉塞状況と共に平成の時代に入ってから制度発足以来の「未曾有な事態」を迎えています。この「未曾有な事態」とは、年金基金の資産運用の低利回りが恒常化したことに伴い財政悪化が募り、1900弱基金中、500基金程の多くの基金が年金資産の積立水準をクリアー出来ず、中には耐え切れずに解散する基金も出始めていることをいいます。
しかも、この度の事態は単なる制度疲労とは違い、従来のような対症療法、つまり日本経済の製造業が得意技としてきた業務の一部見直し、各種の業務改善手法等で対応できるようなものではなく、年金基金の基盤を形成している制度の構造、フレーム・ワーク、運営方法、特にサラリーマン的手法による基金運営を根本のところから変えなければならないような事態なのです。そしてこの背景には、戦後日本経済が培ってきました各種の経済スタンダードが機能不全をきたし、グローバル・スタンダードへの変換を強要されている事態があるのも明らかです。

さて、この30年の間に、厚生年金基金は単なる「掛金徴収団体」から「年金給付団体」に変身し、少なからざる人々の老後生活の安定に寄与しつつある現実は見逃せません。基金加入期間が30年にもなり、厚生年金本体の「老齢年金額」と年金基金の代行分の「基本年金額」が半々にまでなってきているのが現実です。たまたま資産運用利回りの低下が恒常化したために、世情でかまびすしく取りざたされることになりましたのも、そういう現実があるために社会問題となったのでありましょう。
このようなきっかけとは言え、年金基金制度について議論されることは基金問題が国民的関心事に浮上してきたということであり、インサイダーとして基金関係者と基金の役職員(筆者は1企業の社会保険担当から昭和50年にこの企業の基金へ出向して20年余になる)は慶賀すべきことなのでありましょう。
しかし、アウトサイダーからの発言が多いということは逆に当事者の発言が少ないことを意味しますが、そういうことというのは罷り通るのでしょうか。マナ板に乗せられた年金基金に対してインサイダーからの発言があってもよろしいのではないでしょうか。インサイダーのそれは、議論の質の向上と議論の公平さを保つためにも必要でありましょう。それとも、インサイダーは沈黙を守るのが、この日本の<世間の掟>でしょうか。百家争鳴の百花繚乱に馴染のない言論統制状態が現在の日本なのでしょうか。「万機公論ニ決スベシ」は明治の智恵止まりなのでしょうか。

当初の<掛金徴収時代>は基金に関係した多くの人たちにとって「年金基金」とうイメージが定かではなく、老後生活の安定を図るための具体策がなかなか見出せず、試行錯誤の繰返しばかりでありました。筆者が基金に出向した時の事務長は、「困難なフレーム・ワークのなかで、ともかく何かを試して転がしてみないことには次が始まらない。」といいつつ、志し半ばにして亡くなりました。
年金基金は戦略もポリシーも経営資源も無い中から基金を立ち上げていく過程で、関係者多数の人の叡智と努力が結集されて単に年金を支払うだけでなく、その他業務の経営資源も有機的に結び付けて、「厚生年金基金」(ペンションファンド)という老後生活の安定を図る構造体を曲がりなりにもこの日本に実現したのです。

戦後日本の世間一般のように、 年金基金も<基金の変貌>を計る間に、やみくもな試行錯誤の繰返しの中で様々な業務改善を行なってきましたが、しかし、この度の<未曾有な事態>に対しては、先にも申したように従来手法による単なる業務改善ではもはや如何んともし難いでありましょう。というのも、業務改善の思考スタイルというのは基本的に線状論理で構築されていて、改善に改善を重ねて一直線上をひた走るのです。そのスタイルは硬直的、断定的、固定的、静的、無機的でありすぎ、或る一つの世界だけに捕らわれた硬直状態が特徴であり、別の世界の可能性を初めから排除した競争馬の如き疾走の世界であり、フレキシビリィティ、柔軟さ、遊びが無い世界であります。
例えば、「自動車」というコンセプトは業務改善にとって「自動車」という既成のイメージが大前提としてあって、それは壊しようのないものになっています。つまり、方法の持っている限界が初めから内部にリンクされているのです。その延長線の上だけのごく狭く限定された世界であって、そこでの果実を取り入れてしまえば<おしまい>しかない方法論なのであります。あるいはまた、免除料率や予定利率等の<全基金-律基準方式>に見られる一点豪華主義的行政手法の頑迷さはこの度の基金の<未曾有な事態>で明らかになりつつあるところです。
もはや、スタティックな業務改善では動的な現実に対応出来なくなっているのです。コンセプトの拡張は新しい視点、複眼、逆照射、超現実主義的な手法等を駆使しての<型の変貌>を求めているのです。それには、清濁・大小への許容力、未完成のままに放置されることに対する忍耐が必要であり、日本経済が未経験なそのエレガントなコンセプトの世界は、群れの発想とはまったく違って個人の直感的飛躍の能力(ブレイクスルー)が求められる世界であります。

いま、年金基金は<未曾有な事態>に直面して経営体としての年金基金を確立・発展させるために、従来手法の審議会や役人、既得権益集団の資産運用機関、母体企業のサラリーマン的経営者等に全面的に頼るだけでは何の解決も計れないでありましょう。そういう外部の力に全面的に依存し続ける心性が年金基金の関係者にある限り、年金基金など潰れるままに放置しておけばよいでしょうし、黙っていても潰れていくことでありましょう。
そうではなく、年金基金自らがイニシアティブを発揮して<未曾有な事態>に取り組まなければならないのです。というのも、年金基金にとって遺産が転がり込むなどという降って湧いたような話は週刊誌の三文小説だけのことにしたいものですが、現実の年金基金役職員の中にはこのような<外部の力に全面的に依存し続ける心性>が数多く見られるのも事実です。人をして「基金農協論」といわせる所以があるのも否定出来ないことですし、今風にいえば「基金住専論」とも言える一面もあると考えられます。
独立法人たる年金基金(とはいえ、基金は商法上の登記は行なわれていず、行政の設立認可のみの税法上の公益法人)の自主性などは、そもそも制度発足の時から無いのだと考える人が多いのも事実です。基金制度のフレーム・ワークは年金基金の自主性を考慮して作られているわけではなく、むしろそれをないがしろにして金融機関が官僚とつるんで互いの利益をむさぼる形ででっち上げたものですと、制度発足の経緯を知る人から聞いたことがあります。<退職金の年金化促進>という大義と、公的年金の一部を民間に放出すること(代行方式)による民間活力の奨励を隠れ蓑にして制度が発足することにより、金融機関(信託銀行と生命保険会社)サイドは年金資産の独占を確保し、官僚サイドは天下り先の確保という好餌を得たわけでありますし、それが、「調整年金」(厚生年金基金の当初の呼称)という言葉の隠された背景でありましょう。

これらのことをつらつら考えますに、今、<未曾有な事態>に直面して年金基金の関係者がまず為さなければならないことは、基金制度創設時の不幸な生いたちとそのフレーム・ワークの中で形成された基金の役職員の受動的な心性を払拭することであり、それは別の言い方をすれば基金の独立法人たる独立性、自主性の確立・確保ということであります。この自主性確立・確保の事業は、コンビニの商品棚に定価を付けて並べられているようなものではなく、基金自らが<未曾有な事態>に取り組む、その個々の事業への姿勢の中にあるのは確かでしょう。
とはいえ、現在の年金基金資産運用能力の程度が示していますように、とても受動的な心性を払拭しているとは言えず、「基金農協論」といわれるのも甘んじて受けなければならないのでありましょう。これをなんとか年金基金の将来のために変えていかなければならない状況にあることは間違いないことでしょう。イニシアティブ発揮のための戦略、財政安定のための戦略は外部の力への依存の従来スタイル、理解を求めるとか、根回しとか、抱込みとかのサラリーマン世界特有の構造的手法ではなく、年金資産を経営資源としてオーナー的にフル活用するという単純な事であります。その上で、年金基金の当面の対策は只一つ、<資産運用の効率化>ということになりましょう。
30年も経過した日本の年金基金は各基金とも資産規模が大きくなり(個々の基金で、100億とか5,000億円、全体では平成9年度で48兆円?)、規模のメリットを算出できる状態にあり、資本の生産性を問われる規模にもなっています。しかし、2ケタの利回りが当たり前になっている欧米の年金資産運用の世界(1989~93米国15.92%、英国16.68%、日本2.41%)に対して、何故日本だけが最近のように5.5%さえも(平成8年度までの基金では、年金給付も資産の積立水準の検証も全基金一律に5.5%と規定されている)達成出来ないのか。出来ない部分は、基レベルの心性に始まる人的体制の未整備、ぬるま湯環境による切磋琢磨の欠如、規制によるローリターン・ハイコストの構造化、護送船団方式による幼稚園レベルの金融インフラ、プロといわれる運用機関の能力の立ち遅れ、日本一局集中投資のハイリスク認識と世界発のグローバル・スタンダードからの視点の欠如等々によるものと考えられます。
それとも、事業主と加入員の艱難辛苦の結晶である年金資産の金融資本としての社会的価値というものは、年率2、3%程度のものなのでしょうか。あるいは、或る大学の故人となられた経済学部教授が言いましたように、その年次のGDPが客観的な数値になるのでしょうか。又は、「10年物国債流通利回り」等が妥当な指標になるのでしょうか。
問題の分析も学問的な論定もさておいて、年金基金は今、直ちに「稼ぎださなければ」全てが始まらないのです。稼ぎだすために必要なのは、現在のように資産運用をめぐる状況が混乱している場面で、ディフェンシブな農耕的取組み(得てして市場環境のせいにし、全てを太陽が支配しているという)より、先手、先手と撃って出る狩猟的取組みの試行錯誤場面での解決能力に期待する方が現実的な対応ではないかと考えられます。
その意味で、「ディフェンスが最大の攻撃」というよく耳にするセオリーは理論臭が強すぎ、それは体系が完成している世界での保守感覚ではないでしょうか。あるいは、何もしない群れの発想の隠れ蓑になっていないでしょうか。それとも、こういう考え方は「経験不足の青二才奴!」と、お叱りを受けるのでしょうか。
仮にそうではあっても、資産運用という未経験ゾーンに立ち入るのは日本全体がそもそもそういう世界を承知していないのですから、国民全体が経験不足の青二才なのです。そのような世界に立ち向かうのにいきなりのアッパーカットを繰り出すような賭けは、晴れる日もあれば雨の日もあるのですから、そのようなアッパーを繰り出すような「投機」は余りにハイリスクです。まず、ジャブでさぐりを入れるのが勝者の常道でありましょう。ボクシングでは、ジャブが世界を制覇するといいます。明大ラクビー部のように、常に「まえへ!」というところもあり、少年野球ロッキーズ(? 後述)のように、「打て、打て!」の大合唱をチームカラーにするところもあります。
つまるところ、戦う年金基金、攻めの年金基金、<ジャブかましの年金基金>が、この<未曾有な事態>に対する年金基金のポリシーとならなければ、世情噂されているように何もしない常務理事や学識経験監事の馘首が今以上に蔓延することになりましょうし、解散基金が続出することになりましょう。今のままではとてもとても日本版ビック・バンさえ乗り越えられないでしょう。
要するに、<未曾有な事態>に対して<基金経営の中心戦略は年金資産運用の効率化>に尽きると見つけました。

以上申してきたような背景の上で、筆者はこの『ペンションファンド・マネジメント』(当初のタイトル)を書いてみたいと考え、それも単なる学術書や研究書の類(それは他の専門家の仕事)ではなく、読者が直接関わりたくなるような、何らかの刺激、ちょっとしたヒントが得られるようなキラキラしたものにしたいと考えています。そうであれば、抽象され整理された決定版ではなく、ドロドロした原石、素材の提供ということになりましょう。それも、「真っ赤な炭火を直接わし掴みにするようなそんな生臭い術」(拙著『情緒の力業』あとがき。近代文藝社 1995年)を使わず、曖昧さを含んで揺れながら進行して、論理的不整合(或る種の人々に言わせますと最大のミス)など恐れないし、朝令暮改(或る種の人々にいわせると最大の信義違反)など朝飯前のこととするような、遊び(日本語の真の意味での深さ・幅・奥行き・含蓄)の、ブレのある、ブレイクスルーな仕掛けのあるものにしたいものです。このため、論理的整合性を求める人や頭脳明晰を自負する人には清濁合わせ飲むご自身の包容力の大きさを示して頂きたいですし、結論の無い宙ぶらりんのまま放り置かれる孤独と忍耐を経験してもらいたいとお願いします。
恐らく、「厚生年金基金」そのものの実像がまだまだ定まらず、概念の拡張作業(資産運用の低迷が定着してから研究・開発・規制撤廃等が着実に展開し、資産運用方法の合理化、行政手法の変換、時価会計への移行、数理基準の改正、支払い保証制度の充実、運用評価体制の確立、受託者責任のガイドライン制定、情報開示の姿勢等が日本経済の金融危機・日本版ビック・バンを背景に進められている)を続けているのであって、試行錯誤の連続による「叩き」の真最中なのですから、論理的整合性を求める人や頭脳明晰を自負する人向けに、お手軽に把握できるようにはなっていないのです。
要するに、これを書くのに筆者自身が前著で経験しました論理的不整合や朝令暮改を遠目に意識しながら苦しむなどということは一切したくありません。ましてや、チィベートのような議論は望んでもいません。この本を書くことが楽しみ! 50代半ばのたった今を夢中になって生きたい、書きたい、熱中したい! その結果、おもしろく、熱気のある本が出来たら幸いであります。

今朝も、我が家の坪庭に生え育った辛夷(こぶし)の青々とした葉揺れの向こうの朝まだき淡い空が、光り輝き始めました。ただ、そこに日々の営みは繰り広げられてはいますが、意味を知る者には、それは人の生の深みと厚みと流れがギリシャの蜂蜜のような濃厚な味わいを秘めて壮大な人生の絵図となって展開されています。

そうそう、本川達雄東京工業大学教授の「歌う生物学」(平成8年7月16日朝日新聞夕刊:私空間)のような発想が素晴らしい。
教授曰く、
 「講義で歌をうたっています。科目は大学一年生の生物学。講義の最後にまとめの歌をうたいます。(……)それにしても科学に歌とはねぇという意見もあります。科学は論理を重視するもの、歌は情緒やイメージが主体のものですから相性が良いようには見えないでしょう。でも私は科学教育にもイメージが必要だと考えています。(……)論理を理解した上で、さらにそれが何を意味しているのかというイメージが湧(わ)いた時に、本当に分かった! という気になるものです。
イメージが湧く教育をしなければなりません。言葉でイメージといえば詩。それに曲をつければ覚えやすくなります。だから歌う生物学なのです。」

筆者にも「歌うペンションファンド」が出来れば良いのですが、世の中そうそううまくは行きません。筆者に出来ることといえば、基金事務所から20数年の基金業務現場の地虫のような声を発することだけ。それも、筆者自身が基金業務について特別な能力も教育も受けていませんド素人であり、ただ母体企業に採用された理由が社会保険担当者の補充というご縁であっただけなのです。そういう現場の地虫のような声を発するに際し、ご理解を頂きたく私事に渡ることを申せば、高校は夜間の電気科、大学は哲学科、社会は基金「科」(?)、そしてその間のプライベートな研究が『情緒の力業』、そう、それに地域ボランティア活動としての少年野球のコーチという、総じていえば少々金融業風に「3部リーグ」的な基金に対する経歴であり、基金業務に関係する法律も経済学も年金数理も、更に資産運用も基金経営にもまったくのド素人なのです。
しかし、20数年も同じことに従事させて貰えたということは大変有り難いことであり、母体企業ABC㈱でもゼネラリストの多様な経験が尊重され単身赴任が勲章となっている中で、筆者は「異物」扱いされていますが、他に使いようがないからと基金の代々の上司始め母体企業の役員の配慮を頂いてきました。20数年も同じことをやっていれば、他の部門とは違うその世界独自な経験は誰でもするし当然なことですけれど、幸い事業の継続的な展開を維持出来たために貴重な基金業務の経験を数多くさせて頂いております。
ちなみに申せば、①代行型から加算型への移行、②業務委託Ⅱ型からⅠA型への移行、③単独設立から連合型への移行、④業務委託指定法人の採用に伴う総幹事離れ、⑤資産運用評価会社の採用、⑥外資系運用機関の採用、⑦手作り広報誌の定期発行、⑧年金ライフプランセミナーの開催、⑨シニアーズクラブの設立等々、基金のフレーム・ワークを大きく変え、年金支払団体としての基金の基盤整備の一部を達成出来たかと考えています。
この間、①理事長6人・天下り常務理事2人プロパー常務理事2人の下での事業展開、②単独連合厚生年金基金連絡協議会等での委員会活動、③厚生年金基金連合会の資産運用講座に10回連続出席、④平成2年の基金連合会主催15日間のヨーロッパ資産運用調査に参加、⑤四大證券会社の年金セミナーへの参加、⑥20社程の外資系運用機関年金プレゼンテーションへの参加、⑦私家版「厚生年金基金25年のノウハウ」作成、⑧日本公社債研究所主催青山護横浜国立大学教授の「現代投資理論研究会」、企業年金研究所主催「年金経営問題研究会」等への参加、それに平成時代になってからの⑨金融関係読書800冊程……等々の経験をさせて頂いています。それに、頂いた名刺が200枚ほどになる外資系金融機関の方々の資産運用ノウハウの教示の数々です。
これだけの経歴と経験で、ただ20年来基金業務に携わってきただけのベテランというだけで、世間一般のゼネラリストのような大所高所の客観性(?)はなく、自ずと現場の地虫のようなドメスティックな声にもなるというものです。

「厚生年金基金」(ペンションファンド)というイメージを攻めの厚生年金基金、<ジャブかましの厚生年金基金>という切り口で読者の皆さんに感得して頂くために、筆者は本書の構成を本論の3章構成の他に、本論を遮るかのように資産運用文化の精華と言える語句と、或る少年野球チームの物語をジャブの繰り出しのように散りばめて、アメーバー状にうごめく相関関係の増幅の末に、読者それぞれの「厚生年金基金」(ペンションファンド)が、本川教授のいうようにイメージとして確立されるようにしたいと考えています。
長い間、「基金農協論」といわれるほどであった厚生年金基金は「お任せ運営」でしたが、<ジャブかましの厚生年金基金>という無数の切磋琢磨の試行錯誤なジャブを次から次へと繰り出して着実に「基金経営」に脱皮すべきではないかと考えています。行政風な「お任せ運営」から金融子会社風な「基金経営」にキャッチ・アップを計る時期になったということでしょう。
 とはいえ、組織の中で現実を消化し未来を実現するのは日々の営為の積算しか方法はないでしょう。一発ホールイン・ワンは事務所では出来ません。そうではあっても、ブレイクスルーが実現するのも、その前段に無数・膨大なジャブかましがあっての上です。実は、そのひとつひとつのジャブかましのインパクトの瞬間に、強烈なアッパーの未来が既に成就しているのを承知するのは、勝者の手が高々と上げられた時です。要するに、「今」は既に「未来」を含んでいるのです。「ボールの行方は、フォロースルーに聞いてくれ!」

「金融市場は直線的ではない。本書の構成もそうである。」と、グレゴリー・J・ミルマンは『ヴァンダルの王冠―国際金融帝国の敗退』(渡辺靖訳・共同通信社・1996年)の「読者への言葉」で述べています。金融革命の解説には金融革命の実態に即した論理が必要でしょうと示唆し、「このように、章の番号は順列数をとっているが、読者は直線的な順序に縛られて読む必要はない。話の全体を読み取るには、本書に登場する多くのさまざまな人物や出来事を考慮に入れなければならない。それは、新国際金融システムへの参加者それぞれが相互に相手の行動の文脈を提供しているからである。本書の各章もまたそのような構成となっている。」と、ミルマンはいいます。
筆者の考えは多少違っております。論述の直線をあえて直接関係の無い事柄で遮り、揺さぶりをかけ、結論の無い宙ぶらりんを仕掛けて、まず読者の方向感覚を奪います。その上に、更に数多くの文脈の異なる材料を提供して、読者の交響感覚を刺激します。そうして、或る時、突然に、見知らぬ街で方向感覚が失われている時に風景全体がガラガラと音を立てて廻り、方角がどっかりと座るときの、その生理的揺り戻しのようなものを読者に感得してもらえたらと考えています。それには時間がかかります。読後数年を要するかもしれません。いつまでも、イメージが固まらないかも知れません。それを避けるためにも無数のジャブが必要です。非難・中傷をものともしない面の皮の厚さが必要ですし、無限の熱意・熱中が不可欠です。人の半生をかけた情熱的な関わりが必要でしょう。
はたして、そんな詐欺師のような手が読者に通じるのでしょうか。
早速、直接関係の無い引用を一つ。



右に揺れ左に揺れ戻りつつ展開する思惟の流れに、人はしばしば路を見失う。
要するに、一見単純な論理的構成にもかかわらず、『大乗起信論』の思惟形態は、直線的ではないのだ。だからこのような思考展開の行き方を、もし我々が一方向的な直線に引き伸ばして読むとすれば、『大乗起信論』の思想は自己矛盾だらけの思想、ということにもなりかねないだろう。

井筒俊彦『意識の形而上学』―「大乗起信論」の哲学 中央公論社 1993年



(平成8年6月5日起稿)



人様のお金

2012年12月28日 | 厚生年金基金



・はじめに

 最近、「人様のお金」という言葉をお聞きになったことがおありでしょうか? 
 「他人の金」という言い方は時々見聞きするようになりましたが、一般的にはまだまだ「自分たちのカネ」という意識、といいますより、そのようなことに無頓着な無意識の行動が幅を利かせているようです。つまり、「人様のお金」を「自分たちのカネ」に摩り替える政官財のモラルハザ-ドは極まってきているということ。
 なにはともあれ、「人様のお金」などという言い回しは久しく聞いたこともなく、死語と化しているというのが現実のことでしょう。
 そうではありましても、日本人ならどなたでもこの言葉に何やら、懐かしい響き……・が、母親の面影が立ち上がってくるような気がしませんでしょうか。他界してしまった母親のように遠い何処かに、江戸時代か、明治の商人世界、あるいは終戦直後等の一昔前に、まったく忘れ去られたかのような感じがします。

 「厚生年金基金って、何んだ?」という筆者の25年に及ぶ小さな基金事務所での実務経験に基づくドメスティックな一考察が、厚生年金基金制度の提供主体である官僚と企業人が、「自分たちのカネ」とばかり思い込んでいました厚生年金基金の年金給付<代行分>と<加算年金>は、実は他人の金、「人様のお金」ですということを発見したのです。つまり、年金給付を受ける当事者自身の<皆さんのお金>でありましたという発見を基金の現場でのマドリング・スル-の結果導きだしたのです。

 同じように、「似たような状況において蓄積された経験」(R・ジアモ)の幾多の繰り返しにより厚生年金基金の公的部分(代行)と私的部分(加算)、つまり、この国家と企業のフレームワークは、各々が実施してきました国民と社員の<統制手法>なのだという認識を生み出したのです。この論理的帰結として、国家と企業の手から分離された形での「人様のお金」=「年金基金」というビジョンが成立したのです。

 さらに、このビジョンが日本の金融・年金・資産運用等のインフラストラクチュアを、強いて言えば、日本そのもののインフラストラクチュアを再構築することになりましょうという、<壮大な経路>(三ツ谷誠:JMMメ-ル)の発見につながったのです。
 要するに、「人様のお金」というフレ-スは、刈谷武昭さんが『金融工学とは何か』(岩波新書)でおっしゃっている「不完備制度の完備化」の機能を果たすことになるのでしょう。

 このようなことは、すでに30年程前、1976年に米国でドラッカ-教授が『見えざる革命-来るべき高齢化社会の衝撃』で予言していたことであり、愈々そのようなことが、この日本でも少子化という問題を上乗せした形ではありますが具体化しつつあります。現実に日本のGDP500兆円に対して年金資産は半分強にまで積み上がってきているのです。資料によりますと、日本全体の年金資産は300兆円弱に積みあがり、厚生年金基金の資産も60兆円となってきています。このような年金資産(実態は、「人様のお金」)の<資本の論理>が保持しているパワ-が、政官財の旧来システムの見直し・断罪を強く要請することになるでしょうし、サラリ-マン・ゼネラリストを馘首し、様々なオ-ナ-を次々と誕生させるでしょう。<倫理ファンド>、ベンチャ-キャピタル、ストックオプション等の隆盛をもたらすにとどまらず、国家、企業等の組織都合な統治発想は否認され、インンディビュジアル(個人)レベルから新たなインフラストラクチュアが構築されることになるのでしょう。

 とは言いましても、日本の構造改革は国債の大量発行に象徴されますように民意度は後進国並みですから、未だしばらくは遅々たる進展しか望めないでしょうが、方向だけは定まってきたようです。

 さて、通常一冊の本は、事前に推敲の経緯・経過は捨象され、抽象化されたうえで書かれるものと考えられます。泥の中を通り抜けるマドリング・スル-な経過そのものは主題足り得ないものなのでしょう。

 しかし、この「人様のお金」を、筆者は平成8年6月に厚生年金基金の経営を主題に「ペンションファンドマネジメント」として書き始め、推敲のドメスティックな展開そのものを内容にして、平成12年8月にタイトルを「人様のお金」(第1部厚生年金基金の変貌、第2部厚生年金基金の資産運用ドキュメント、第3部厚生年金基金の経営の3部構成、400字詰め原稿用紙2200枚)と改めて、書き上げました。

 その後、何人かの人に目を通していただきましたところ、商業べ-スに乗らないということで、皆さん一様に余りに大部に過ぎるということでした。そこで、編集し直し、500枚ほどをカットし、1700枚としました。

 さらに、それを「経営資源の有機的連結」を中心にした500枚ほどを独立させ『事務長奮闘記-厚生年金基金って、何んだ?』とし、残りの1200枚ほどをこの『人様のお金-厚生年金基金は、何になるのか?』に分冊しました。それでもなお、一般の本に比べて分厚くなりましたのは主題追求の手法のせいとご容赦ください。

 これらのことを、筆者は母体企業の再三の肩叩きを肩透かししつつ、厚生年金基金業務に全人的にのめり込むという原始的な手法で、現場事務所で「厚生年金基金って、何んだ?」と追い求めたのです。このような不器用な生き様は決してエフィシェント(効率的)とは言えませんが、愚かな素朴さ、ピュアであるとは言えるかもしれません。単に、ドメスティックなだけに終わっているかも知れませんが……・。

 しかし、この判断は読者諸賢がお決めになること。 筆者としては、ただ「厚生年金基金は、何になるのか?」の「叩かれ台」(山崎元『年金運用の実際知識』)を、「人様のお金」の素材提供が出来ましたのであれば、または、せめて読者の基金に対するイメ-ジ構成が幾分かでも立ち上がり始めましたら良しとしなければならないでしょう。

 後は、ただ、笑而不答……・


目 次

はじめに

第1章 制度発足30年経過して

第2章 厚生年金基金の経営フレームワーク
1. 経営などしたこともない!
2. 基金経営の組織機能
3. 厚生年金基金の過渡的な経営フレームワーク

第3章 厚生年金基金の資産運用方法
1.それとも資産運用で稼ぐか
2.基金の見た日本の資産運用環境
3.世界の資産運用環境
4.平成10年度現在の資産運用状況
5. 資産運用マネジメント

第4章 厚生年金基金経営上の諸問題
1.基金運営から基金経営へ
2.厚生年金基金のリスク管理
3.代行の金縛り
4.<人様のお金>
5.果たすべき約束
6.パブリック・コメント?

第5章 401(k)の百聞は一見に如かず
1.401(k)一見
2.訪問先個社マタ-
3.日本版確定給付型年金の完全民営化

第6章 凍結した死に体
1.「厚生年金基金は死に体!」
2.基金問題のインパクト
3.<人様のお金>が変える日本のインフラストラクチュア

第7章 ビジョン「年金基金」
1.戦後日本の哲学もどき
2.「年金基金」というビジョン
3.ビジョンのメッセ-ジ

謝 辞

・厚生年金基金の経営フレームワーク資料集
・情報収集先
・年金関係インタ-ネット・サイト

つづきは、人様のお金にお出かけください。


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「厚生年金基金事務長奮闘記」改訂版上下をパブーにアップ

2012年11月12日 | 厚生年金基金




あらまし 

戦後日本経済の復興と興隆を懐古趣味で振り返るのはマイナス思考の極みであり、日本経済の「失われた10年」とか、「20年」と言われるときに必須のことはそれをリアリズムに徹して見据えることであろうと考えるのは一般常識でありましょう。
戦後日本経済の数あるスキームのなかでも一時的にもっとも機能した年金制度、特に厚生年金基金制度については、いっとき1800余基金、資産規模60兆円、加入者1200万人にも達しましたが、ほとんどの基金の代行返上・解散を招き、残るのは辞めるに辞められない総合基金ばかりになってしまいました。つまり、いまや厚生年金基金制度は歴史的使命を果たし終えて、官僚の敗残の記念碑となりおおせてしまっております。
もはや、三種の神器も右肩上がり経済もありえず、あるのは少子高齢化とグローバリズムという現実の中で、いかに生き抜くかということになってきました。日本の年金制度の見直しはをどう展開したらよいのでしょう。それには、この厚生年金基金制度の実態はどのようなものであったのかをリアリスティックに見据えることが不可欠でしょう。それを、基金事務所のドメスティックな現場に視点を定めて、以下の5章で明らかにしてまいります。

第1章 ブレイクスルーな事態
 この章は筆者の講演録です。はじめに年金に関わった筆者の自己紹介をして、基金業務の幾つかの改善をしている最中に、改善に改善を重ねても動的現実に対処できないでいるとき、ブレイクスルーな思考方法に巡り合いました。
基金の資産運用が日本の金融システム、ノウハウの従来手法では機能不全をきたしているが、その原因は官僚による統制計画経済によりスポイルされた国民の総サラリーマン化であろうと考えられます。グローバル経済の下でサラリーマンでは太刀打ちできないと論じます。

第2章 厚生年金基金とは?
 厚生年金基金制度の仕組みは、その年金給付の仕方に特徴があります。それは国の厚生年金の一部を基金から支払うという世界にも稀な奇怪な姿をしています。

第3章 経営資源の有機的連結
 厚生年金法を始めとする政令・省令・告示・通知等の大枠に伴う行政サイドの規制と行政指導、それに基金を取り巻く日本経済の保守的環境の中で、小さな基金事務所の自主性確保の切磋琢磨な試行錯誤の一端を「経営資源の有機的連結」と題して述べます。
つまり、基金事務所のドメスティックな現場の奮闘をお話して、基金事務所の自主性獲得の様子をお読みいただきます。

第4章 フレームワークの刷新
厚生年金基金制度のフレームワーク(給付建て年金・設立形態・給付形態・業務委託形態等々)はシンクタンクとしての金融機関(信託銀行と生命保険会社)が主導して法律化された経緯があります。
その法律により、企業は厚生年金基金の設立認可申請を大臣宛にし、認可された後、人を派遣して事務所運営を行います。当初、機材搬入はありません。商店街にある不動産屋の店舗みたいなものです。机二つに椅子が二つで事足ります。
店開きしてみれば、所与のものとしてフレームワークが与えられており、年金給付は他に選択肢のない「給付建て年金」(確定給付年金)、設立形態は単独、連合、総合の選択肢があり、・給付形態は代行型と加算型、業務委託形態はⅡ型とⅠB型とⅠA型の選択肢があります。当初、一般的には単独、代行、Ⅱ型で設立されました。
このフレームワークは選択肢があるものについても継続的に維持されるばかりで、これを刷新しよう、改善しようという気運は基金事務所には起きませんでした。といいますのも、基金を取り巻く環境も基金事務所も保守的な姿勢が支配しており、自主性などという観念は革命的なもののように忌み嫌われたのが実態です。
そういう保守的土壌において、小さな基金事務所で単独設立を連合設立へ、代行型を加算型へ、そしてⅡ型をⅠA型へ移行し、フレームワークの刷新を図った事例をお読みください。

第5章 資産運用の立ち上げ
厚生年金基金は一般的に、貸借対照表の借方の資産を守り、貸方の債務を果たすことで、加入員等の老後生活を保障することを設立趣旨としています。つまり、資産の保全と債務の遂行のために基金は掛金を徴収し、年金を支払うことになります。これを全うするために、受給権を保護し、受託者責任を果たさなければなりません。このことは、基金は常に資産と債務のバランスを視野に入れた〈最良執行〉を求められているということになります。基金は〈最良執行〉を達成し、事業主と加入員等にローコスト・ハイリターンの老後生活保障を提供することになります。
これを達成するために基金事務所ではミクロの積み上げが重要になってきます。とは言え、ミクロを単発で個々バラバラに行っていては基金の顔が見えて来ないことになりますし、そういう基金の多いことも実態ではあります。そこで、重要になってくるのが「経営指針」に基づく資源の集中化・集約化、経営資源の有機的連結による資本のシナジー効果を高めることであります。具体的には、〈資産運用〉を中心にして衛星的に〈給付改善〉と〈福祉事業〉と〈広報事業〉を配置し、これらの有機的連結によってローコスト・ハイリターンの老後生活保障を実現することになります。
それでは、厚生年金基金事業の有機的連結の中心になる〈資産運用〉はどのように立ち上がり、どのように展開し、どのような成果をもたらしたのでしょう。
その事例をご案内いたします。昭和44年設立当初、ABC厚生年金基金の基金事務はソロバンで行われていました。筆者着任後、電卓をいれパソコンを設置して、業務委託形態もⅠA型にして自前で事務処理ができる体制を築きました。福祉施設事業も利差益を使って、弔慰金、OB会のパーティ運営、年金ライフプランセミナー開催、年金受給者の大型観光バス3台を連ねて一泊旅行も10年ほど行いました。
資産運用については、電気科・哲学科出身の筆者には畑違いも最たるもので、何の予備知識もありませんでした。又、会社にも事務所にもそのような経験を持っている人は誰も居ませんでした。
そのような背景の中、金融本の読書から始めました。また、筆者が移動アンテナになって、先行する基金に教えを請い、金融機関等のセミナーにも通い、数多くの研究会にも参加しました。そうして得た金融知識を事務所に反映し、業務に展開しました。
そうした成果が、戦略アセット・ミックスであり、資産運用機関の勝手格付けとなりました。
しかし、平成時代へ移行した頃、日本経済の凋落と共に厚生年金基金の積立金不足が明らかになり、厚生年金基金は未曾有な事態を迎えました。〈給付削減〉、〈資産運用効率化〉、〈基金解散〉が当面の緊急課題となりました。

こうして資産規模60兆円、1200万人が関わった厚生年金基金という一大ページェントが幕を下ろそうとしています。


                   
 平成24年8月改訂




年金カウンセラーのeBook



【厚生年金基金ア-カイブ】

2012年06月20日 | 厚生年金基金

【厚生年金基金ア-カイブ】 

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年金カウンセラー 高野 義博(たかの よしひろ) 

●1941年千葉市生まれ。1967年東洋大学哲学科卒業。ABC厚生年金基金に25年勤務。続いて社会保険事務所で年金相談員を5年。2001年OPM研究会設立。

●1990年欧州七ヶ国企業年金調査。1998年企業年金連合会の受託者責任研究会WGに参加。1999年米国401(k)調査。

●主な著作・評論に、1995年『情緒の力業』近代文藝社。2000年「人様のお金」Web公開。2000年「資産運用機関の勝手格付け」単独連合厚生年金基金連絡協議会冊子「たん・れん」掲載。2004年「年金生活への第一歩」Web公開。2007年「年金履歴書の作成による請求もれ年金発見の仕方」日本法令「ビジネスガイド」などがある。

●Webサイト・ナレッジサーブ「年金カウンセラー検定」で優秀賞受賞

●年金カウンセラーとして2007/6/2東京新聞朝刊「こちら特報部」「一年で照合は選挙対策」、2007/9/23週刊「サンデー毎日」「不安拡大! もらい損ね「企業年金」の重大欠陥」等の取材を受ける。

 


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