異文化交流クイズ。所謂「ジャポニズム」をテーマにしたセカンドシーズン第2回。第1回が絵画でしたので今週は工芸品の歴史からの出題。
日本の磁器と陶器などが本格的に西洋諸国に輸出されるようになったきっかけは、従来の輸入元だった明朝が滅亡したのがきっかけです。
そういった経緯から当初は中国製品のコピーが多かったわけですが、オランダから手先の器用さを買われ、ヨーロッパ好みの注文が増えていきます。丁度時期相まって古伊万里、柿右衛門、色鍋島などが開発され、一気に「磁器の国」日本のイメージがヨーロッパに拡がります。
この輸出の最盛期は17世紀後半で、この時期に約百九十万個の磁器が輸出されたとされています。
しかしマイセン、セーブルで白磁器の生産が盛んになるに連れて、日本からの輸出は減少していきます。「なんでも鑑定団」に登場する海外輸出された磁器に古伊万里が多いのは、実は「古い方が数が多い」といった事情もあるわけです。
もう一方の輸出の花形の漆器は、更に海外との関わりが深いです。
戦国末期にやって来た宣教師達は高台寺蒔絵の華麗さに感嘆し、これで教会の祭具を作ろうとします。この時、彼らが注文を付けたのが螺鈿細工の技法。こうして日本独自の草花文様に、キリスト教の幾何学的文様を混合した新しい様式の漆器が出来上がります。
そして東インド会社が本格的にヨーロッパに輸入するようになると品目は祭具から日常品まで拡がっていき、漆器が日本の代名詞「ジャパン」となるわけです。
もっともこのような大規模な輸出があったのは17世紀後半がピークで、この後は輸入取扱業者が質素堅実な生活を好むオランダ人主体となるため、輸出品はデザインも地味な、しかし精巧さが求められる品目となっていきます。
ジャポニズムと最も関わりの深い浮世絵に至っては、浮世絵版画の頂点をなす木版による精巧な多色刷りの錦絵が開発されたのが1765年頃であることもあって最後発な上に、あくまでヨーロッパには見られないモチーフとその表現法に対する純粋な興味と関心から、個人的に持ち出されていくわけですが、これに関してはまた別の回に改めて。
同じように輸出用と考えられていなかった、あくまで身の回りの日常品である木工金工の家具、調度、什器の類も持ち帰られ、西洋の人々に工芸に対する新しい眼を開かせる結果となります。
というのは、日本では尾形光琳・乾山のように「画家にして工芸家」なんて例は珍しくありませんが、同時期の西洋ではロココ家具のように豪奢なものであっても、制作技術そのものに対して高い評価はされたものの、あくまで「職人」としてしか扱われていませんでした。ましてや庶民の使う道具類は芸術とは全く無縁と考えられていたわけです。
それだけに日本では平凡な生活用具がそのまま優れた芸術品であることを知った時、西欧の人々は新しい価値の体系に直面して驚きを隠せず、1871年に日本を訪れ、東京の下町の盛り場を歩いた、後に印象派の擁護者の一人となるテオドール・デュレは次のように書き記しています。
『路の両側には、刀剣の装飾品や煙管、煙草入れ、陶磁器など、贅を凝らした様々の工芸品を売る店が並んでいる。そこでは精巧で芸術的な多くの品物が売られているのだが、日本人にとってはそれらはあくまで日用品に過ぎない』
更にある外国人は次のように記しています。
『この国においては、ヨーロッパの如何なる国よりも、芸術の享受・趣味が下層階級にまで行き渡っているのだ。どんなに慎ましい住居の屋根の下でも、そういうことを示すものを見いだすことが出来る。ヨーロッパ人にとっては芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権に過ぎない。ところが日本では芸術は万人の所有物なのだ』
要するに、日本では生活用具と芸術の間に境界線がなく、生活そのものが芸術化されている驚きがこの記録には現れています。
さて、これが西洋の装飾芸術復権運動に如何に関わっていくのか、についてはまた改めて述べることとして、ここで本日のクエスチョン。
浮世絵同様、当初は個人的趣味で持ち出され、後に浮世絵同様、明治になって大量に西洋に流出した、象牙やツゲの木などで作る日本独自の工芸品とは何でしょう?
日本の磁器と陶器などが本格的に西洋諸国に輸出されるようになったきっかけは、従来の輸入元だった明朝が滅亡したのがきっかけです。
そういった経緯から当初は中国製品のコピーが多かったわけですが、オランダから手先の器用さを買われ、ヨーロッパ好みの注文が増えていきます。丁度時期相まって古伊万里、柿右衛門、色鍋島などが開発され、一気に「磁器の国」日本のイメージがヨーロッパに拡がります。
この輸出の最盛期は17世紀後半で、この時期に約百九十万個の磁器が輸出されたとされています。
しかしマイセン、セーブルで白磁器の生産が盛んになるに連れて、日本からの輸出は減少していきます。「なんでも鑑定団」に登場する海外輸出された磁器に古伊万里が多いのは、実は「古い方が数が多い」といった事情もあるわけです。
もう一方の輸出の花形の漆器は、更に海外との関わりが深いです。
戦国末期にやって来た宣教師達は高台寺蒔絵の華麗さに感嘆し、これで教会の祭具を作ろうとします。この時、彼らが注文を付けたのが螺鈿細工の技法。こうして日本独自の草花文様に、キリスト教の幾何学的文様を混合した新しい様式の漆器が出来上がります。
そして東インド会社が本格的にヨーロッパに輸入するようになると品目は祭具から日常品まで拡がっていき、漆器が日本の代名詞「ジャパン」となるわけです。
もっともこのような大規模な輸出があったのは17世紀後半がピークで、この後は輸入取扱業者が質素堅実な生活を好むオランダ人主体となるため、輸出品はデザインも地味な、しかし精巧さが求められる品目となっていきます。
ジャポニズムと最も関わりの深い浮世絵に至っては、浮世絵版画の頂点をなす木版による精巧な多色刷りの錦絵が開発されたのが1765年頃であることもあって最後発な上に、あくまでヨーロッパには見られないモチーフとその表現法に対する純粋な興味と関心から、個人的に持ち出されていくわけですが、これに関してはまた別の回に改めて。
同じように輸出用と考えられていなかった、あくまで身の回りの日常品である木工金工の家具、調度、什器の類も持ち帰られ、西洋の人々に工芸に対する新しい眼を開かせる結果となります。
というのは、日本では尾形光琳・乾山のように「画家にして工芸家」なんて例は珍しくありませんが、同時期の西洋ではロココ家具のように豪奢なものであっても、制作技術そのものに対して高い評価はされたものの、あくまで「職人」としてしか扱われていませんでした。ましてや庶民の使う道具類は芸術とは全く無縁と考えられていたわけです。
それだけに日本では平凡な生活用具がそのまま優れた芸術品であることを知った時、西欧の人々は新しい価値の体系に直面して驚きを隠せず、1871年に日本を訪れ、東京の下町の盛り場を歩いた、後に印象派の擁護者の一人となるテオドール・デュレは次のように書き記しています。
『路の両側には、刀剣の装飾品や煙管、煙草入れ、陶磁器など、贅を凝らした様々の工芸品を売る店が並んでいる。そこでは精巧で芸術的な多くの品物が売られているのだが、日本人にとってはそれらはあくまで日用品に過ぎない』
更にある外国人は次のように記しています。
『この国においては、ヨーロッパの如何なる国よりも、芸術の享受・趣味が下層階級にまで行き渡っているのだ。どんなに慎ましい住居の屋根の下でも、そういうことを示すものを見いだすことが出来る。ヨーロッパ人にとっては芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権に過ぎない。ところが日本では芸術は万人の所有物なのだ』
要するに、日本では生活用具と芸術の間に境界線がなく、生活そのものが芸術化されている驚きがこの記録には現れています。
さて、これが西洋の装飾芸術復権運動に如何に関わっていくのか、についてはまた改めて述べることとして、ここで本日のクエスチョン。
浮世絵同様、当初は個人的趣味で持ち出され、後に浮世絵同様、明治になって大量に西洋に流出した、象牙やツゲの木などで作る日本独自の工芸品とは何でしょう?