異文化交流クイズ。ファーストシーズン第8回。今回は明治初期、外国人による初の日本語新聞を発行したイギリス人ジョン・L・ブラックの話題から始めましょう。
彼が主幹となって発行した新聞が「日新真事誌」ですが、この新聞名は一部高校教科書には載っていたりします(少なくとも自分が学生当時は載っていた)。何故かと云えばいわゆる「民選議員設立建白書」をすっぱ抜いた新聞として今日知られているからです。
さてこのイギリス人ジョン・L・ブラックが幕末時から日本にやって来ており、詳細な記録を残してくれているお陰で「何故か」今日の歴史本では殆ど語られることのない「生麦事件」の「イギリス人側から見た実態」を知ることができます。
以下、箇条書きで「生麦事件が発生する直前の被害者の客観的状況」を見ていきましょう。
勿論、その場で斬り捨てたことに対する薩摩藩の責任は確かにあるのですが、こういう裏事情を知ると少々馬鹿馬鹿しくなります。
1 事前に外国人居留地に「今日は薩摩藩の大名行列が通るから外出は避けるように」という事前通達があり、
2 行列の「先触れ」に接触した時点で、薩摩藩士たちは目配せや身振り等で立ち退くように合図し、
3 同行していたイギリス人も「後生だから道を譲ろう」と頼み込んだにもかかわらず、
4 中国国内でも相当酷い態度を取ったとの悪評を買った悪名高きイギリス人が、
5 先頭を切って堂々と大名行列の本隊に突っ込んでいった
・・・薩摩人に対してこれをやる馬鹿が当時の日本国内には間違ってもいるわけもなく、しかも相手が外国人だということで薩摩側も当初は我慢していたにも関わらず、完全に神経を逆撫でするためだけの挑発を続けたこの馬鹿イギリス人のことを『当日、薩摩藩の行列と何事もなくすれ違っている』外国人は露骨に「自業自得だ」と記述しています。
ただこの馬鹿がぶっ〇されたのは確かに自業自得なのですが、巻き添えで死んだ同行者たちは確かにお気の毒様でした。
なお生麦事件の発生の知らせを聞いた横浜居留地のイギリス人たちは即座に報復するよう駐留イギリス軍に詰め寄り、結果的に薩英戦争が勃発するわけですが、この居留地にいたイギリス人商人たちはイギリスの報復に備えて武器調達を図った薩摩側にも武器を販売しているわけで・・・こういう輩を「死の商人」というのでしょう。
さて、本題に戻ってここから今回のクエスチョン。
このジョン・L・ブラックの息子ヘンリー・J・ブラックは4歳の頃に来日した為、日本語はペラペラ、遂には日本でその一生終えますが、彼は日本でも非常に珍しい職業についています。さて、その職業とは一体なんでしょう?
彼が主幹となって発行した新聞が「日新真事誌」ですが、この新聞名は一部高校教科書には載っていたりします(少なくとも自分が学生当時は載っていた)。何故かと云えばいわゆる「民選議員設立建白書」をすっぱ抜いた新聞として今日知られているからです。
さてこのイギリス人ジョン・L・ブラックが幕末時から日本にやって来ており、詳細な記録を残してくれているお陰で「何故か」今日の歴史本では殆ど語られることのない「生麦事件」の「イギリス人側から見た実態」を知ることができます。
以下、箇条書きで「生麦事件が発生する直前の被害者の客観的状況」を見ていきましょう。
勿論、その場で斬り捨てたことに対する薩摩藩の責任は確かにあるのですが、こういう裏事情を知ると少々馬鹿馬鹿しくなります。
1 事前に外国人居留地に「今日は薩摩藩の大名行列が通るから外出は避けるように」という事前通達があり、
2 行列の「先触れ」に接触した時点で、薩摩藩士たちは目配せや身振り等で立ち退くように合図し、
3 同行していたイギリス人も「後生だから道を譲ろう」と頼み込んだにもかかわらず、
4 中国国内でも相当酷い態度を取ったとの悪評を買った悪名高きイギリス人が、
5 先頭を切って堂々と大名行列の本隊に突っ込んでいった
・・・薩摩人に対してこれをやる馬鹿が当時の日本国内には間違ってもいるわけもなく、しかも相手が外国人だということで薩摩側も当初は我慢していたにも関わらず、完全に神経を逆撫でするためだけの挑発を続けたこの馬鹿イギリス人のことを『当日、薩摩藩の行列と何事もなくすれ違っている』外国人は露骨に「自業自得だ」と記述しています。
ただこの馬鹿がぶっ〇されたのは確かに自業自得なのですが、巻き添えで死んだ同行者たちは確かにお気の毒様でした。
なお生麦事件の発生の知らせを聞いた横浜居留地のイギリス人たちは即座に報復するよう駐留イギリス軍に詰め寄り、結果的に薩英戦争が勃発するわけですが、この居留地にいたイギリス人商人たちはイギリスの報復に備えて武器調達を図った薩摩側にも武器を販売しているわけで・・・こういう輩を「死の商人」というのでしょう。
さて、本題に戻ってここから今回のクエスチョン。
このジョン・L・ブラックの息子ヘンリー・J・ブラックは4歳の頃に来日した為、日本語はペラペラ、遂には日本でその一生終えますが、彼は日本でも非常に珍しい職業についています。さて、その職業とは一体なんでしょう?