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「日本の敵」速報(海外の反応特化)+新型コロナウイルス関連海外の反応等

「日本の敵」&「新型コロナウイルス」に関する情報をまとめていきます

【異文化交流クイズ】【1-8回答】ロシア人革命が東京の各所で敬われているのに驚いた動物は?

2021-01-19 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。今回は「東京外国語学に勤務していたロシア人革命が東京の各所で敬われているのに驚いた動物は何か?」という問題でした。
今回の正解は・・・『狐』でした。当時は赤坂辺りでも狐が沢山いた記述は普通にありますね。あと「神の使い」というのは要は「稲荷」ですね。ヨーロッパの民話において狐は大抵『狡賢い存在』として描かれていますし、東洋圏、ぶっちゃけ中国でも狐は「基本的に好ましくない存在」という認識の筈なので、大陸から(あまり良くない印象の)狐の説話が流入しながらも、それが日本の土着信仰と結びついて「稲荷信仰」を産み出した日本は世界的にみると結構特殊なのかもしれません。
さて、今回出題元となったレフ・イリイッチ・メーチニコフは本当に話題の尽きない人物なのでもう少し補足しますと。
二十か国語を自在に操った彼が東京外国語学校勤務中の校長はかの中江兆民であり、中江兆民の思想の一部にメーチニコフから植え付けられたと思われる部分があるとする専門家がいたりしますし、更にこの時のメーチニコフの教え子の更に教え子が二葉亭四迷なので、二葉亭四迷は孫弟子と云えます。
そもそも彼は日本に来た時点で片足が義足だったわけですが、これはイタリア統一戦争での「名誉の負傷」。イタリア統一の立役者であるジュゼッペ・ガリバルディの軍に早くから参加し、当初は「多国籍軍」じみていたガリバルディ軍の所謂「千人隊」を纏めていくのにこの語学の天才は大いに役立ったそうです。
そんな彼の話を伝え聞いた「ある作家」が、片足を失って療養中のメーチニコフを自らの別荘に招き、彼を主人公とした一大歴史冒険小説を書くため話を聴こうとします。作家の名はアレクサンドル・デュマ。云わずと知れた「三銃士」の作者ですね。もっともメーチニコフはデュマを「他人の不幸を食い物にする、信念のない男」と手厳しく糾弾し、その申し込みを拒絶しています。
ちなみに。もしこれが実現していればメーチニコフ兄弟は揃って世界的作家の素材になったとして文学史に名を残すところでした。何故かと云えば、彼の兄イワン・イリイッチの生涯はロシアの文豪トルストイの傑作「イワン・イリイッチの死」で素材となっているからです。岩波文庫から邦訳版も出ていますから興味のある方は是非ご一読を。
そして更にメーチニコフには弟がいて、実は二人の兄よりも遥かに有名人であり、彼の著作も岩波文庫から出ているほどの人物ですが・・・「彼」に関するエピソードは大変長くなる上に面白い話が満載なのでまたの機会に。

【異文化交流クイズ】【1-8問題】ロシア人革命家が見た幕末期の外国人の悪行

2021-01-18 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ファーストシーズン第8回。今回はロシア人お雇い外国人、レフ・イリイッチ・メーチニコフの記述から。
彼は東京外国語大学ロシア語学科の講師として雇われるわけですが、そもそも彼を日本に招聘したのは西郷隆盛(正確にはヨーロッパ留学時代の大山巌の家庭教師だった関係)。「西郷が江戸で開設予定だった私学校の講師として招聘された」というのも驚きですが、更に驚くべきことは彼の「本業」が「革命家」だったということ。「革命家」という職業があること自体、ロシアは不思議な国ですがw。
ですが彼が日本に着いてみると西郷は鹿児島に引き上げた後で、路頭に迷うところを明治政府が雇ったという、変わった遍歴の持ち主です。「革命家を政府の役人として雇う」という日本政府の奇行wですが、当時の日本人に「革命家」という概念が理解できる筈もなく。
メーチニコフの記述は革命家だけあって、全ての物事の観察視点が「革命」を機軸にしていて、日本人にとって奇妙な記述も結構あり「資本主義に毒されたw」西洋人達の行動にも手厳しいです。
以下、彼の記述による、幕末期に外人たちの間で「流行った」お手軽な「保険金詐欺」の方法。
①築地の租界地に粗末な倉庫を建て、商品のように見せかけて石油をしまい込む。
②隣の品川近辺で、護衛付きで高慢な侍たちの集団に喧嘩を売る。
③次の闇夜に「何故か」彼ら所有の倉庫が燃え上がる。
④自分達が被った「商品の損害」の勘定書を幕府に叩きつける。
⑤保険会社に火災保険の請求して「二重取り」をする。
・・・治外法権が如何に彼らにとって役立つかの典型的な見本ですねー。
さて今回の出題は、その辺のことは一切関係なく、彼が東京の街中で見た光景から。
メーチニコフは他の国々では特別に繊細かつ臆病なことで知られている「ある動物」が日本では「神の使い」として敬われ、白昼堂々町中に出没して傍若無人な行動をしても追い回されたりはしない事に驚いています。
さて、ここでクエスチョン。この「ある動物」とは一体なんでしょう?

【異文化交流クイズ】【1-7回答】アメリカ人の設立した日本最初の醸造所が元になって出来た日本のビールメーカーの現在の社名は?

2021-01-17 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。今回のクエスチョンは《ノルウェー系アメリカ人のW.コープランドが横浜山手の天沼に建設した日本最初の醸造所が元になって出来た、現在の日本の主要ビールメーカーは何処か?》という問題でした。
このW.コープランドが当時発売したビールに貼られていたのは「バーバリアン・ビアー」「ラガー・ビアー」というラベルであり、後者が恐らく現在の「キリン・ラガービール」の原型になった模様。
という訳で、今回の正解は……『キリン』でした。
ちなみに現在もキリンビールに使用されているラベルに描かれた麒麟を描いたのはイギリス人、C.B.バーナード。それが細かいバージョンチェンジを繰り返しながら、現在に引き継がれています。これは少し意外ですが、云われてみれば「如何にも西洋的視点からの東洋っぽいデザイン」という気もしますね。
更に余談。日本中にあっという間に普及したビールですが「ビールを冷やして飲む」という習慣は日本が発祥の地というのが一般的な認識の模様。いや世界中を探せば日本以外にもビールを冷やして飲む国もあったと思いますが「国民を挙げて冷えたビールを飲む」というのは日本がスタンダードにした様式であることは間違いなさそうです。これはビールの香りや味を楽しむのではなく「喉ごし」を楽しむという日本人的感覚が作用しているのかな、と思っているわけですが、明確なソースがないので「個人の感想」ということでm(_)m。

【異文化交流クイズ】【1-7問題】日本最初のビール醸造所とその後の発展

2021-01-16 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ファーストシーズン第7回。今回も引き続き「日本初めてシリーズ」から日本におけるビールの普及に関する出題。
幕末に来日した外国人達のビールの消費量は凄まじかったものの、当然の事ながら全てイギリス、アメリカドイツなどからの輸入品でした。
そこに目を付けたのがW.コープランドというノルウェー系アメリカ人の醸造業者。
彼は明治2年、横浜山手の天沼という場所に清水の湧き出ているのを見て、ここに日本で初めての醸造所である「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」を作ります(実は異説があるのですが、長くなるのでカット)。
このビールは「天沼ビヤザケ」という名前で、どうやら日本人の口にはビールが余程似合っていたらしく「古参」の洋酒であるワインとは対照的に、あっという間に日本中に普及します。
このコープランドが作った醸造所は、その後多少の変遷を伴いますが、現在もなお生き残っており、日本の主要ビールメーカーの原型となっています。しかもその名残として現在も当時の名前を基本的に受け継いだビールの銘柄まで存在しています。
さてここで今回のクエスチョン。このメーカーとは一体何処のことでしょう?

【異文化交流クイズ】【1-6回答】日本初の運動会で「蛺蝶趁花」と名付けられた競技の正体とは?

2021-01-15 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。今回のクエスチョンは《日本で初めて開催された運動会のプログラムにおいて「蛺蝶趁花」と記された競技とは現在で云うどの競技でしょう?》という問題でした。
今回のクイズの回答は・・・『二人三脚』でした。「蝶々」をイメージしての、美しい造語ですね。
ちなみにこれ以外の競技としては
「1ヤード毎においた鶏卵二十個を拾い集めて走る」
「目隠しして50ヤードの距離を走る」、
「頭上の水桶から水を零さないように50ヤードを走る」
などの競技があったようで、これらの競技を政府の高官まで招いて大真面目に取り組んでいた光景はさぞ愉快だったことでしょう。
なお「豚の尻尾掴み競争」に関しては「尻尾が引き毟られ、豚にとって残酷なゲーム」だったが故に、日本では定着しませんでした。……そうでなくても、定着したとは思えませんがw。

【異文化交流クイズ】【1-6問題】日本で最初の運動会で開催された競技は?

2021-01-14 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ファーストシーズン第6回。今回は「日本はじめて物語」を。
日本で最初の「運動会」が開かれたのは明治7年3月21日の、築地の海軍兵学寮です。きっかけは講師として招かれた英国海軍教師団の教師達が、授業が教室内のものばかりで体力面の配慮がまるでないことを憂慮して、屋外の体操を取り入れるように進言。運動会はその延長上で開催されることになりました。ちなみにこの運動会を公認したのが、当時海軍卿だった勝海舟です。
さて、この日本最初の運動会の正式名称は「競闘遊戯会」……なんか「民明書房w」にでも出てきそうな由来の名前ですね。
競技自体も英国海軍のものを基本的に流用したため距離の単位はヤードが標準だったり、三段跳びの時には既に掛け声として「ホップ・ステップ・ジャンプ」が定着していたり、おかしな競技としては離した豚の尻尾を捕まえるレースがあったりしました。
ちなみにこの第一回の参加者の中には、斎藤実加藤友三郎という後に総理を経験する人間が二人もいます。
さて、この運動会のプログラムは日本語と英語を用意してあったわけですが、競技は全て4文字の漢語で記されています。
例えば12歳以下の150ヤード競争は「雀雛出巣」。高跳びは「大鯔跋扈」。棒高跳びは「蜻蛉飜風」といった感じなのですが、ここで今回のクエスチョン。
この競闘遊戯会のプログラムで「蛺蝶趁花」と記された競技は現在の運動会の定番競技となっていますが、その競技とは一体なんでしょう? 
ヒントとしては漢字から推察してみて下さい、回答を知れば納得できるものの筈です。

【異文化交流クイズ】【1-5問題】エジプト・インドにも旅行歴がある美術史家が耐えられないと訴えたほどの暑さの日本の地域は?

2021-01-13 12:00:00 | クイズ
今回のクエスチョンは《アメリカやエジプト、インドから日本まで旅行したことのあるオーストリアの美術史家が、その地のあまりの暑さに我慢の限界を迎えたと書いている都道府県は何処だったでしょうか?》という問題でした。
今回のクイズの回答は・・・『岐阜県』でした。
ヒントとして上げた、フィッシャーが見に来た『この地で夕方から行われる行事』というのは長良川の鵜飼いのことですね。
なお夏の京都も暑いですが、フィッシャーは岐阜に来る前後に京都に滞在していますので、少なくとも彼の基準だと岐阜の方が暑く感じたようです。多分他の地域の方にはピンと来ないと思いますが、まとわりつくような岐阜の暑さは、地元ながら毎年大変です。
さてこの長良川の鵜飼いは「漆黒の闇に浮かび上がる篝火、そして千年以上を誇る歴史」もあることから、来日した外国人たちには非常にウケが良かったらしく、特に鵜飼いを愛していたとされる世界的有名人としては、チャップリンがいます。
もっともチャップリンは戦前・戦後と岐阜を二度訪れていますが、戦前は真っ暗な中で鵜飼を観ることができ大変感動したものの、戦後再び訪れた時には周りが明るくなりすぎ、がっかりしたということが新聞記事も残っていいます。
ただ現在は長良川の鵜飼を開催する付近の堤防道路は、鵜飼の際に車のヘッドライトが当たらないよう整備されてたお陰で、多少は元の雰囲気を取り戻しています。
更にこのコロナ騒動の結果、鵜飼観覧船からではなく、河畔で無料で鵜飼いを見られる催しを開催したりしておりますので、コロナが終息した際には是非岐阜に寄って鵜飼を見に来てください。
また長良川鵜飼いをやっている場所の、文字通りの真横に聳えるのが頂上に岐阜城を頂く金華山であり、夏の時期は期間限定でロープウェイの夜間運航をやっており、岐阜城の天守閣からの夜景は本当に素晴らしいですので(丁度長良川の流れの部分だけ真っ暗で、岐阜の町の光との素晴らしいコントラストになる)、ご興味のある方は是非一度。

【異文化交流クイズ】【1-5問題】世界中旅行した美術史家が暑さに耐えかねた日本の都道府県は?

2021-01-12 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ファーストシーズン第5回。今回はオーストリアの美術史家アドルフ・フィッシャーの記録から。
もっとも訳本の裏表紙には「美術史家」とありますが、詳細を読むと専門の学者ではなく在野の研究者、というか前職は「市立劇場の監督」という変わり種。それでも日本とアジア趣味が高じて、後に所蔵品を提供してケルン市に東洋美術館設立させているわけですが。
この本の特徴は一度目の来日で日本に魅せられた彼が、二度目の来日時には画家の友人を同伴させたこと。ということで、非常に挿絵が豊富で明治中期の日本の雰囲気がよく分かります。
しかも前職が市立劇場の監督だったということで、当時の日本の芝居について――能や歌舞伎、狂言は勿論、壮士芝居まで――非常に詳細に記されていてこれまた興味深い資料です。
さて、ここで今回のクエスチョン。
彼はアメリカやエジプトを始め、アジア趣味が高じてからは「インドから日本にかけて」世界中を旅行していますが、日本の某所でこんな愚痴をもらしています。
『恐ろしい暑さであった。インドから日本まで様々なことを耐え抜いたわたしでさえ、ほとんど我慢の限界に来た』と。
さて、このインドやエジプトよりも暑いと書かれた『某所』とは一体何処のことでしょうか? 回答は都道府県名で。
ヒントとしては、これは日本特有の暑さであり、かつフィッシャーはこの地で夕方から行われる“行事”を見に来るために、この地域にやってきています。

【異文化交流クイズ】【1-4回答】海外船舶に乗った維新志士にして漢学者が命名し、現在では誰もが使う行事名は何でしょう?

2021-01-11 12:00:00 | クイズ
今回のクエスチョンは≪維新志士にして漢学者の中井弘が長崎からイギリスへの途上の船中で見た、船員や乗客達が集って行った『ある行事』を的確に表現するために生み出した日本語とは一体何でしょう?》という問題でした。
これは実はこの『ある行事』が開催されたのが1866年の大晦日だったことに意味がありまして。
水夫もコックも手に旗を持ち奇妙な帽子をかぶり、笛を吹き太鼓を叩き、歌い踊って、女性も大いに酒を飲み踊り歌うパーティ。
勿論、宴会好きの中井はこの愉快な催しに率先して参加し、後にその紀行文の中でこの行事のことを『忘年会』と名付けたのでした。
ということで今回のクイズの回答は・・・『忘年会』でした。
正確を期すなら外国人たちにとってはこの船上パーティーは「新年会」だったのでしょうが、中井がこう名付けた結果、日本に『忘年会』という名称が生まれることになるのです。
しかし何故「忘年会」などというありふれた(ように思われる)言葉が、あっという間に普及したのかと云いますと。
この中井弘、実際に日本において記録に残っている最初の「ドンチャン騒ぎの忘年会」にも「幹事として」参加して、素敵なエピソードを残したりしたりするからなのです。
明治10年12月28日に東京築地の「大椿楼」に集った面子は伊藤博文や山県有朋等々政府高官ばかり。
にもかかわらず会の模様は、まさにどんちゃん騒ぎだったと当時勃興期だった新聞に報道されたほどで。
この「忘年会」の途中、中井が酔い潰れてしまい、伊藤博文が悪戯で中井のヒゲを剃り落としてしまった、なんて馬鹿な逸話さえ残っていますw。
こんな模様が巷間に伝わり、日本特有のあの「忘年会」になってしまったわけで、我々はその習慣を作り上げた中井に感謝すべきなのか否かw。
こんな話ばかり書いていますと「ただのお調子者」ですが、前回書いたように幕末時には英国公使館との折衝の最先端におり、いざという時には刺客を返り討ちにする剣の腕前、それでいて出世欲もまるでなく最高位は京都府知事どまり。
ちなみに「とある愛国的視点か強すぎる本」で中井弘は「熱烈な愛国者にして改革者」扱いされていていますが、実際の中井本人は官僚仕事はあまり好きではなく、優秀な部下を見出して彼らに自由に手腕をふるわせ、当の本人は悠々自適な生活をしていたようです。
実際中井弘の人物鑑定眼が素晴らしいものであったことを証明するエピソードを最後に。
中井は娘婿に、まだ当時海の物とも山の物とも知れぬ一介の新聞記者を選びます。
しかもその新聞記者は「朝敵」であった藩の出身者であり、更に云うと熱心なクリスチャンでした。
ちなみにこの娘婿は中井の死後、本格的に政治家の道を歩むことになります。
―――娘婿の名前は原敬。後の平民宰相ですね。

【異文化交流クイズ】【1-4問題】維新志士にして漢学者の知られざる功績と抜群の命名センス

2021-01-10 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ファーストシーズン第4回。
今回は予告通り、アーネスト・サトウの記録に頻繁に登場する薩摩藩士、中井弘(桜州)を主題に。
この男は実に快活で陽気。いつも愉快な冗談が飛び出し、外国人達を招いた宴会をやる場合には、その仕切をいつもこの小男が任されるので、ついた渾名が「外国局の幇間(タイコモチ)」
――恐らく侮蔑の意味も入り交じってた渾名ですが、彼がただの“べんちゃら男”でないことは、1868年3月23日、京都においてイギリス公使ハリー・パークスが天皇との初謁見に向かおうとした際、公使を白昼襲ってきた刺客を見事に討ち取った、という有名なエピソードだけで分かるでしょう。
多数の警護者がいながら刺客に咄嗟に反応できたのがこの中井弘だけ(途中から後藤象二郎が加勢していますが)。もしこの場でパークスが殺されていたらイギリスとの関係が悪化していたことは疑いがなく、その後の明治維新への歴史が変わっていた可能性さえあるのです。
この功績により中井はイギリス女王から勲章と黄金作りの剣まで賜っています。
そしてこのコーナーの主題である異文化交流に関して云えば、中井はトルコを訪問して、紀行文を発表した最初の日本人でもあります。
こちらは明治維新後のことですが、それ以前にも幕末に後藤象二郎の推薦で、倫敦に二ヶ月間留学。帰路には開催中のパリ万博を視察し、帰国後「外国事務各国公使応接係」に任じられ……というのが概略なのですが、彼はこの初めての洋行を『西洋紀行・航海新説』という記録に書き残しています。
この中井弘は維新志士としては随一の漢学者であり、この紀行文の中でも尊敬する蘇東坡の一句を巧みに引用したり、七言絶句を織り交ぜて記述しています。
そして普通ならクエスチョンにしてしまうトリビアを先に種明かししてしまえば。
明治維新後、親友である井上馨のために、外国人達を迎える迎賓館のことを詩経から引用した文句を使い「鹿鳴館」と名付けたのもこの中井弘なのです。
なお親友と云いながらも中井と井上馨の関係は非常におかしなところがあり・・・というのは本筋とは離れるのでまたの機会に。
さて、本題に戻ってここで今回のクエスチョン。
『西洋紀行・航海新説』の中で中井は、長崎からイギリスへの途上の船中で見た、船員や乗客達が集って行った『ある行事』を的確に表現する日本語の『名詞』を産み出し、現在その単語を知らない日本人は誰一人としていません。
中井が産み出し、今日では誰もが使うようになった、ある『行事』を意味する日本語とは一体何でしょう? 
ヒントとしては江戸時代にその『行事』に特定の名詞がなかったことを不思議に思うでしょう。