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【異文化交流クイズ】【2-4問題】「ジャポニズム」のフランスへの本格流入の経緯

2021-01-30 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ、セカンドシーズン新シリーズ第4回は「ジャポニズム」のフランスへの本格的な流入についてからの出題です。
日本の品物を扱う商店がパリに最初に登場したのは1860年初頭。もっとも店名が「支那の門」というのは如何な物かとw。
それでも最初の浮世絵の到着による衝撃とそれをきっかけとした愛好家達の熱狂振りは凄まじく、美術批評家として日本美術に関する記事を発表したアストリュックは以下のように書き記しています。
『もっとも慎ましい絵冊子ですら高値で競りにかけられた。人々は商品の到着を待ち伏せて、あちこちの店を駆け回った。花瓶や布地や着物しか見つけられなかったときの何という失望! しかし着物だってとても貴重な物なのだ。繊細な彫金細工を施した箱、彫刻を施した玩具、眩いばかりの模様で飾られた漆器、動物や魚や風変わりなブロンズが、法外な値段で飛ぶように売れた。素描はとりわけ画家や造詣の深い愛好家に適していた』。
とはいえ、本格的にパリの人々に日本美術と触れさせることになるのは1867年のパリ万博のこと。
幕府以外にも、薩摩藩、佐賀藩などが出展したこの万博では、日本の家の模型や武者人形、浮世絵類、屏風や絵巻物、そして刀剣、磁器、蒔絵漆器、根付などなど、後に人気を博する物が大集合といった具合です。
しかもその殆ど全てが万博以後に売り立てられ、かなり幅広い愛好家達の手に渡ったことから、ジャポニズムのブレイクの大きなきっかけとなります。
そしてそれが最高潮に達したのがその11年後。1878年のパリ万博において。
ある批評家は当時の状況をこう表現しています。『もはや流行ではなく、熱狂であり、狂気であった』と。
同じ年に、フランス装飾美術振興の旗振り役の一人であったエルネスト・シェノーが発表した論文『パリの日本』で、日本美術蒐集の実態とフランス美術に与えた影響について以下のように明瞭に記しています。
『少しでも学識を鼻にかけたいのならば《フランスの芸術と産業に対する日本の諸芸術の影響について》という題名で大仰な論文を書くことが出来るだろう。この相当に大きく明白な影響は、主要なものを挙げるだけでも、我が国のブロンズや壁紙や陶器などの製造において一種これ見よがしに告白され、誇示されてさえいるが、それはまた、人々の支持を受けている何人かの画家たちの才能にも、潜在的でもっと覆い隠された形ではあるが、やはり確実に作用したのだった。実際、日本美術の趣味がパリに確実に根を下ろし、愛好家たちや社交界の人々に伝わり、その後工芸品に幅を利かせたのは、我が国の画家たちを介してである。その熱狂は、導火線の上を走る炎のような素早さで、すべてのアトリエに広がった』。
以下第1回でも述べた各論なので省略しますが、この論文から分かるのが、1860年代におけるジャポニズムの初期形成は画家達が、特に伝統的な美術の変革を目指していた印象派の画家たちが先行主導していたということ。
そして浮世絵版画から受けた衝撃が、ルネッサンス以来の西洋絵画の表現様式を根本的に刷新するプロセスに深く関わっていくことになるわけです。勿論この点を過剰に強調するのは問題がありますけれど。
さて、そんな画家達の中で一番初期に導入かつ一番ジャポニズムの要素を備えていると云われるのが、これまた日本でも有名なエドゥアール・マネ。
そして彼の(少なくとも日本では)最も有名な作品と云えば『笛を吹く少年』
実はこの作品、発表された1866年当時の風潮としては当然の事ながら、というべきか、サロンでは落選しています。
遠近感を廃し、人物の動きを効果的ながら最小限にとどめ、コントラストの強い色を平面的に用いている様は浮世絵の技法そのものですね。
ここで今回のクエスチョン。当時としては異端だったこの作品を高く評価したジャポニザンの同志でもある「とある批評家兼作家」の肖像をこの2年後マネは描き、これまたジャポニズムの影響の色濃い作品として後世に知られることになりますが、当時はまだ駆け出しだった、この「とある作家」とは一体誰でしょう?

【異文化交流クイズ】【2-3回答】明治の美術商である林忠正がヨーロッパに輸出した浮世絵版画は、およそ何枚?

2021-01-29 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。セカンドシーズン第3回は「モネやゴンクール兄弟とも深い交流を結んだ美術商林忠正が当時ヨーロッパに輸出した浮世絵版画は、およそ何枚だったと考えられているでしょうか?」という問題でした。
今回の正解は・・・『15万枚』でした。
それほど当時の日本には浮世絵があったのかと思わされる程に半端じゃない数字ですね。
正確な数字を挙げると、以下のような記録が残されています。
『1890年から1901年の11年間に版画15万6487枚、絵本類9708冊、掛物846を日本から送らせて売りさばいた』
なお現在浮世絵版画の隅に「若井をやぢ」或いは「林忠正」という朱印が押されているものが大量に流通していますが、これが彼らの商品に対する保証の極印だったわけです。
さて、これだけ輸出した結果、当然の事ながら良質の浮世絵は日本国内で払底。というより日本の美術商たちが「このままでは日本で浮世絵がなくなってしまう」と危機感を抱いて日本国内で展覧会を開催するほどに。事態がここに至って、今度は積極的に美術工芸品としての浮世絵を作成しようと前述の「起立工商会社」が中心となり、デザインも欧米の需要にあったものを量産しようとしましたが、物の見事に失敗し倒産に至ります。
要するに「狙って作った」しかも「欧米の需要に合わせて作った」作品ではまるで相手にされなかった、と云うことですね。
この辺が工芸品と芸術の間にある埋めがたい溝なのでしょう。
というところで、浮世絵の海外流出に関する総論でした。次回からはジャポニズムの各論に入ります

【異文化交流クイズ】【2-3問題】浮世絵が与えた衝撃

2021-01-28 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。セカンドシーズン第3回は「ジャポニズム」の中心とも言うべき、浮世絵からの出題です。
前回も書きましたが、浮世絵は陶磁器などと較べると、随分遅くになって輸出が開始されています。
これは浮世絵版画の頂点をなす木版による精巧な多色刷りの「錦絵」が開発されたのが1765年(明和2年)頃とされているからです。
で、実は現在の研究では最初に浮世絵をヨーロッパに運搬したと思われる人物まで特定されていて、これは1779年から1784年までオランダ商館長を勤めたイサーク・ティツィングだと考えられています。
彼に続くのが、かの有名なシーボルト。彼は1823年に来日し、1829年に日本地図持ち出しを図って国外退去させられていますが、この6年間に収集したコレクションがドイツの彼の自宅で1830年以降公開され、また北斎の「写真画譜」をパリやウィーンの図書館に寄贈したことにより、浮世絵が一般の人の眼に触れるきっかけとなります。
本格的に流出し始めたのはやはり開国以降で、先陣を切ったペリーは彼の遠征記録に歌川広重の浮世絵を石版で複製し掲載していますし、彼に続いて来日した外国人たちはその訪問記の扉絵や挿絵に盛んに浮世絵版画を入れたりしました。
勿論、複製だけでなく浮世絵そのものも同時に流出していきます。とりわけある意味で「皮肉な話」というか「運が良い」というべきか、明治政府のお雇い外国人達――モース、フェノロサ、キヨッソーネ等々――は明治政府から得た高給を、そのまま日本美術の収集に当て、それらの作品が現在ではボストン美術館、ワシントンDCのフリーア美術館、ジェノバのキヨッソーネ美術館、ウィーン国立工芸博物館の東洋美術コレクションの礎となっているわけです。
そして欧米で革命的な表現として浮世絵版画の評価が上がると、需要は爆発的に増加します。
しかし当の日本人にとっては、日常的に手に触れる、安価な大量印刷物である浮世絵版画は美術品とは認識されず、浮世絵輸出を扱う美術商林忠正が、市価の数倍で買い取ろうとしたとき、誰もが押入をかき回して競って売り渡したと言われています。
なんと、この林の経営する会社「だけ」でも輸出した浮世絵版画の枚数はなんと!
さて、ここで今回のクエスチョン。この林忠正は学生時代の1878年、パリ万博の出展に辺り、1873年のウィーン万博にあたり政府に替わって日本の美術品を販売することを目的に若井兼三郎によって設立された起立工商会社に雇われた通訳ですが、万博終了後、パリ駐在員として現地に残り、後に独立。モネやゴンクール兄弟とも深い交流を図りましたが、彼の会社が輸出した浮世絵版画は、およそ何枚だったと考えられているでしょうか? 

【異文化交流クイズ】【2-2回答】浮世絵同様、明治期に大量に西洋に流出した、象牙などで作る日本独自の工芸品とは?

2021-01-27 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ジャポニズム特集第2回は「浮世絵同様、当初は個人的趣味で持ち出され、後に浮世絵同様、明治になって大量西洋に流出した、象牙やツゲの木などで作る日本独自の工芸品とは何でしょう?」という問題でした。
今回の正解は・・・『根付』でした。
この根付というのは「巾着袋や印籠、煙草入れなどの持ち物を着物の帯に吊り下げるために、紐の先端に滑り止めとしてつけて用いられていた小さな彫刻」のことで、江戸時代の男性なら誰でも持っていたものですね。
江戸期前半に形作られ、文化・文政期から江戸末期まで最盛期を誇った根付ですが、一般的なものはツゲのような堅い木に、高価なモノになると象牙に、様々な形――人間、動物、植物、建物などなど――の複雑で精巧な彫刻を施したものが作られました。
手放せない日常品であると同時に、帯の上の目立つところに身に着けられたことから、今日風で云うとさりげないお洒落の一環として、大いに発展したようです(中には現在もなお実物を前にしても「どうやって彫ったのか分からない」という超絶技巧の代物まであるそうで)。
勿論当の江戸期の人々は意識しなかったのですが、幕末以降やって来た外国人達の目にはまさに『ヨーロッパ人にとっては芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権に過ぎない。ところが日本では芸術は万人の所有物なのだ』と映ったわけです。
もっともこの根付、現代の日本では滅多に見かけません。というのは明治期に入り、服装が和服から洋服に替わった時点で無用の長物(小さいですがw)と成り果て、精緻な根付はそこに芸術的価値を認めた欧米に大量流出。
日本国内には纏まった博物館がないのに対して、現在では倫敦の骨董街に競市が立ち、大英博物館、ロサンゼルス・カウンティー美術館など有名海外美術館において質の高い根付の展示が見られる、という逆転現象が発生しているのは嬉しいのやら悲しいのやら。
さて、ジャポニズムに関する基礎的な歴史の流れはこの二回でご説明致しましたので、来週以降、本格的に各論に

【異文化交流クイズ】【2-2問題】工芸品へのジャポニズムの影響

2021-01-26 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。所謂「ジャポニズム」をテーマにしたセカンドシーズン第2回。第1回が絵画でしたので今週は工芸品の歴史からの出題。
日本の磁器と陶器などが本格的に西洋諸国に輸出されるようになったきっかけは、従来の輸入元だった明朝が滅亡したのがきっかけです。
そういった経緯から当初は中国製品のコピーが多かったわけですが、オランダから手先の器用さを買われ、ヨーロッパ好みの注文が増えていきます。丁度時期相まって古伊万里、柿右衛門、色鍋島などが開発され、一気に「磁器の国」日本のイメージがヨーロッパに拡がります。
この輸出の最盛期は17世紀後半で、この時期に約百九十万個の磁器が輸出されたとされています。
しかしマイセン、セーブルで白磁器の生産が盛んになるに連れて、日本からの輸出は減少していきます。「なんでも鑑定団」に登場する海外輸出された磁器に古伊万里が多いのは、実は「古い方が数が多い」といった事情もあるわけです。
もう一方の輸出の花形の漆器は、更に海外との関わりが深いです。
戦国末期にやって来た宣教師達は高台寺蒔絵の華麗さに感嘆し、これで教会の祭具を作ろうとします。この時、彼らが注文を付けたのが螺鈿細工の技法。こうして日本独自の草花文様に、キリスト教の幾何学的文様を混合した新しい様式の漆器が出来上がります。
そして東インド会社が本格的にヨーロッパに輸入するようになると品目は祭具から日常品まで拡がっていき、漆器が日本の代名詞「ジャパン」となるわけです。
もっともこのような大規模な輸出があったのは17世紀後半がピークで、この後は輸入取扱業者が質素堅実な生活を好むオランダ人主体となるため、輸出品はデザインも地味な、しかし精巧さが求められる品目となっていきます。
ジャポニズムと最も関わりの深い浮世絵に至っては、浮世絵版画の頂点をなす木版による精巧な多色刷りの錦絵が開発されたのが1765年頃であることもあって最後発な上に、あくまでヨーロッパには見られないモチーフとその表現法に対する純粋な興味と関心から、個人的に持ち出されていくわけですが、これに関してはまた別の回に改めて。
同じように輸出用と考えられていなかった、あくまで身の回りの日常品である木工金工の家具、調度、什器の類も持ち帰られ、西洋の人々に工芸に対する新しい眼を開かせる結果となります。
というのは、日本では尾形光琳・乾山のように「画家にして工芸家」なんて例は珍しくありませんが、同時期の西洋ではロココ家具のように豪奢なものであっても、制作技術そのものに対して高い評価はされたものの、あくまで「職人」としてしか扱われていませんでした。ましてや庶民の使う道具類は芸術とは全く無縁と考えられていたわけです。
それだけに日本では平凡な生活用具がそのまま優れた芸術品であることを知った時、西欧の人々は新しい価値の体系に直面して驚きを隠せず、1871年に日本を訪れ、東京の下町の盛り場を歩いた、後に印象派の擁護者の一人となるテオドール・デュレは次のように書き記しています。
『路の両側には、刀剣の装飾品や煙管、煙草入れ、陶磁器など、贅を凝らした様々の工芸品を売る店が並んでいる。そこでは精巧で芸術的な多くの品物が売られているのだが、日本人にとってはそれらはあくまで日用品に過ぎない』
更にある外国人は次のように記しています。
『この国においては、ヨーロッパの如何なる国よりも、芸術の享受・趣味が下層階級にまで行き渡っているのだ。どんなに慎ましい住居の屋根の下でも、そういうことを示すものを見いだすことが出来る。ヨーロッパ人にとっては芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権に過ぎない。ところが日本では芸術は万人の所有物なのだ』
要するに、日本では生活用具と芸術の間に境界線がなく、生活そのものが芸術化されている驚きがこの記録には現れています。
さて、これが西洋の装飾芸術復権運動に如何に関わっていくのか、についてはまた改めて述べることとして、ここで本日のクエスチョン。
浮世絵同様、当初は個人的趣味で持ち出され、後に浮世絵同様、明治になって大量に西洋に流出した、象牙やツゲの木などで作る日本独自の工芸品とは何でしょう?

【異文化交流クイズ】【2-1正解】浮世絵を『影によって存在を、断片によって全体を暗示する』と表現し積極的にその技法を取り入れた画家は誰?

2021-01-25 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ジャポニズム特集第1回は「画面の世界はそれだけでは完結せず、更に画面の外にも拡がっていること」を暗示するという浮世絵の手法を『影によって存在を、断片によって全体を暗示する』と表現し、積極的に自分の絵画に取り入れてた印象派の画家とは誰でしょう?」という問題でした。
正解は・・・「睡蓮」「印象、日の出」などで日本でも絶大な人気を誇る『クロード・モネ』でした。
このモネが1909年、デュラン・リュエル画廊で《睡蓮》の連作を集めた展覧会を開催した際、新聞紙上に次のような言葉を残しています。
『作品の源泉をどうしても知りたいというのなら、その一つとして、昔の日本人たちと結びつけてほしい。彼らの稀に見る洗練された趣味は、いつも私を魅了してきた。影によって存在を、断片によって全体を暗示する美学は、私の心にかなうものであった』
具体例を見て頂いた方が分かりやすいので、検索してオランジュリー美術館の「睡蓮」をクリックしてご覧下さい。
画面は全て水面によって覆われ、岸も空も見えませんが、空の雲も岸辺の樹木も水面に映る影によって表現されています。
この他にも岸辺の樹木の樹幹のみが表現されているものも睡蓮の連作の中にはありますが、このような「影」と「断片」の特異な構成、そして水面表現が見せる俯瞰の構図も、明らかに日本美術の表現の影響と考えられています。

【異文化交流クイズ】【1-10回答】漂流の末、英国船に救われた日本人が出された米料理にウンザリした理由は?

2021-01-23 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。今回は『長い漂流の末、英国商船に救われた日本人が、食事の際に米が出たにもかかわらず、うんざりしてしまったのは何故でしょう?』という問題でした。
今回の正解は・・・『米に砂糖がかけられてしまったから』でした。
要するにイギリス人から見るとこの米料理は「ライス・プディング」のつもりだったのです。実際のライス・プディングは水の代わりに牛乳がかけられているのでしょうが。
最近は知りませんが一定世代以上の世代の人間だと、英語を学び始めたばかりの頃に紹介される例文で「ライスプディングを作った」と云う文を見たことがあるでしょう。当時その例文を読んで「・・・お米のプリンって何?」と首を捻ったもので、実際今に至るも「ライス・プディング」なる料理を食べたことがない訳ですが、果たしてお米に牛乳と砂糖をぶっかけて美味しいものでしょうか? 
まあイギリス人は元々緑茶にも砂糖をぶち込んで飲んでいたわけですし、この辺は昔の日本人がなんでも大体醤油で味を調整していたのと同じ類の話なのでしょうか?(きっと違うw)
次回シリーズからは10回1セットで特定のテーマを絞って出題していきます。セカンドシーズンのテーマは『ジャポニズム』になります。

【異文化交流クイズ】【1-10問題】江戸人たちの想像した「外国人」の食習慣

2021-01-22 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ファーストシーズン第10回。今回は再び食に関する問題から。
日本は当然米食文化ですが、当然国によって食する食べ物は違うわけで。一般的に江戸時代は「鎖国」していたと思われていますが、現実には必ずしもそうではなく……という話は長くなりますので省略しますが、江戸時代の読者達は様々な書物で世界中に雑多な人間がいること、そして彼らの身体的特徴や習俗を知ることが出来ました。
勿論その中には現実には存在しない、胸に穴が空いた「穿胸人」だの、首だけで動き回る「飛首蛮」だの、女だけの「女護島」の住人たちがいたわけですが、同時に現実に存在する東洋人は勿論、西洋人も、トルコ人も、アフリカ人も、かなりのところまでその身体的特徴や習俗について知られていました。自分の手元にもありますが「和漢三才図会」の人種の類型のところなどは非常に興味深かったりします。
もっともその知識が正確かというと当然おかしな思いこみもあるわけで。
今回の主題である「食」に関してですと「アフリカには食人種がいる」というのは既に江戸時代の地理学では「常識」だったりします。画家として高名な司馬江漢などは、彼らの食人風景を図解さえしているくらいで。
このような認識が当時の日本人にどれだけ知られていたかと云えば、メキシコ近海まで漂流していてしまった商人の船が、やっと陸地を見つけたにもかかわらず「そこが食人種の島ではないか?」とまず恐れた、という記録さえ残っているくらいですから、現在の我々が想像する以上に「日本の外にある国」という認識はあったようです。
この話のポイントは江戸の人間ですら、既に「中華秩序以外の世界」が日本の外に広がっていることを認識していた、という点なのですが、長くなるのでこの話はまた別項で。
さて、話を戻して上記の漂流船は最終的には英国商船に救われます。この漂流船の船長である小栗重吉は詳細な記録を残しているのですが、食については本当に苦労したようです。
その記録によると、彼は船で出されるパンに水が滴っているのを見て、空腹にもかかわらず当初は食べる振りだけして捨ててしまいます。
当時の長期航海ですので、カチカチの保存用パンを食べるために水に浸すのは仕方ない慣習なのですが、元々パンを食べる習慣のない日本人が「得体のしれない固い物体を水で浸して柔らかくした食べ物」を口にするのにはさぞ勇気がいったでしょう。
しかしある日、食卓に米が現れたので彼は大喜びしますが、それさえも「次の瞬間にはうんざりしてしまった」と記録に残しています。
さて、ここで今回のクエスチョン。彼は何故この米料理に「うんざり」してしまったのでしょうか?
日本人とイギリス人の米に対する態度の違いが明らかに見受けられる回答になります。

【異文化交流クイズ】【1-9回答】「日新真事誌」を発刊した英人の息子が日本で着いた職業は?

2021-01-21 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。今回は外国人による初の日本語新聞である「日新真事誌」を発刊したジョン・L・ブラックの息子、ヘンリー・J・ブラックがついた職業は何か? という問題でした。
今回の正解は・・・「落語家」でした。今日も続く「快楽亭ブラック」という名跡は彼に由来する物です。
ヘンリー・J・ブラックは父親に連れられていった先で出会った講談師に勧められ、最初は演説や西洋事情を語ったり、奇術や催眠術まで行っていたようですが、後に本格的に落語界に入門。
そして遂には「真打ち」まで昇格して「快楽亭ブラック」を名乗り、日本の落語史上に甚大な影響を与えることになります。
名人中の名人と謳われた初代三遊亭円朝も彼から刺激を受け、西洋の物語の翻訳モノを高座にかけたりもしています。
しかも「外国人だからおかしな日本語が面白かった」という訳ではありません。事実は全く逆で彼は「日本人より日本語が上手かった」という証言が残されているくらいで。なお彼は後に日本人と結婚して帰化していますが「ブラック」に当てた漢字が「貌刺屈」だったのは凄いセンスだよなぁと。

【異文化交流クイズ】【1-9問題】外国人による初の日本語新聞を発行したイギリス人の見た生麦事件の真相

2021-01-20 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ファーストシーズン第8回。今回は明治初期、外国人による初の日本語新聞を発行したイギリス人ジョン・L・ブラックの話題から始めましょう。
彼が主幹となって発行した新聞が「日新真事誌」ですが、この新聞名は一部高校教科書には載っていたりします(少なくとも自分が学生当時は載っていた)。何故かと云えばいわゆる「民選議員設立建白書」をすっぱ抜いた新聞として今日知られているからです。
さてこのイギリス人ジョン・L・ブラックが幕末時から日本にやって来ており、詳細な記録を残してくれているお陰で「何故か」今日の歴史本では殆ど語られることのない「生麦事件」の「イギリス人側から見た実態」を知ることができます。
以下、箇条書きで「生麦事件が発生する直前の被害者の客観的状況」を見ていきましょう。
勿論、その場で斬り捨てたことに対する薩摩藩の責任は確かにあるのですが、こういう裏事情を知ると少々馬鹿馬鹿しくなります。
1 事前に外国人居留地に「今日は薩摩藩の大名行列が通るから外出は避けるように」という事前通達があり、
2 行列の「先触れ」に接触した時点で、薩摩藩士たちは目配せや身振り等で立ち退くように合図し、
3 同行していたイギリス人も「後生だから道を譲ろう」と頼み込んだにもかかわらず、
4 中国国内でも相当酷い態度を取ったとの悪評を買った悪名高きイギリス人が、
5 先頭を切って堂々と大名行列の本隊に突っ込んでいった
・・・薩摩人に対してこれをやる馬鹿が当時の日本国内には間違ってもいるわけもなく、しかも相手が外国人だということで薩摩側も当初は我慢していたにも関わらず、完全に神経を逆撫でするためだけの挑発を続けたこの馬鹿イギリス人のことを『当日、薩摩藩の行列と何事もなくすれ違っている』外国人は露骨に「自業自得だ」と記述しています。
ただこの馬鹿がぶっ〇されたのは確かに自業自得なのですが、巻き添えで死んだ同行者たちは確かにお気の毒様でした。
なお生麦事件の発生の知らせを聞いた横浜居留地のイギリス人たちは即座に報復するよう駐留イギリス軍に詰め寄り、結果的に薩英戦争が勃発するわけですが、この居留地にいたイギリス人商人たちはイギリスの報復に備えて武器調達を図った薩摩側にも武器を販売しているわけで・・・こういう輩を「死の商人」というのでしょう。
さて、本題に戻ってここから今回のクエスチョン。
このジョン・L・ブラックの息子ヘンリー・J・ブラックは4歳の頃に来日した為、日本語はペラペラ、遂には日本でその一生終えますが、彼は日本でも非常に珍しい職業についています。さて、その職業とは一体なんでしょう?