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うだうだ帳

心がヒリヒリするときにイタイ文章を書いています。
実生活は“うだうだ”していないので、そっとしておいてやってください。

リアルヤクザの思い出

2009年10月28日 12時15分52秒 | Weblog
実家には時々やくざのおっちゃんがやって来た。

おっちゃんは父に会いにいつも突然やって来るのだった。父は一般人だが、おっちゃんとひょんなことで知り合い、以来おっちゃんは父を「先輩」と呼んで慕っていた。おっちゃんは大酒飲みの父にとってタメで飲める数少ない友人で、いつも夕食時にやってきては、既に飲み始めている父と一緒にガンガン飲むのだった。

おっちゃんはその世界では大物らしかった。子分のような男を連れてきていることもあったが、母が激しく嫌がって以来、いつも一人でふらっとやってきた。必ずみたらし団子を持ってきて、「ひるあんどんちゃん、お土産や」とまだ子供だった私に渡すのだった。私はこの団子が大好きで、いつもどこで買えるのか尋ねたが、おっちゃんは決して教えてくれなかった。

父はおっちゃんにうやうやしく酒を注がれても偉そうにすることはなかった。おっちゃんとの関係を何かに利用するということもなかった。ふたりはたわいもない話をしながら、いつも気持ちよく大酒を飲んでいた。ただひたすら楽しい飲み友達だった。

成人して自分も酒を飲むようになってから、不機嫌な母に変わって私がおっちゃんにお燗をすることもあった。ある時、いつものようにみたらし団子を渡すおっちゃんの顔を見て驚いた。白目が濁っているのである。

「おっちゃん、具合悪うない?」と私が尋ねると、父が横から「辛気くさいこと言うてんと、早う酒持って来てぇや」と言った。私は甘いホットミルクを作っておっちゃんの前にデン、と置き、「おっちゃん、黄疸出てるやん。病院行ってるんか。私はもう、お酒は出せへん。」と宣言した。「かなんなあ、ひるあんどんちゃんは」と大男のおっちゃんは言い、「甘ぁ」とホットミルクをちびちび飲んだ。

それから私は何度かおっちゃんにホットミルクを出した。そのうちおっちゃんは来なくなった。肝臓癌で死んだと聞いた。父はそれ以来、一人で晩酌するようになった。


何年か経って公園でくつろいでいると、年輩の女性が近づいてきた。おっちゃんの伴侶だった。女性は私に突然「ありがとうな」と言った。私がきょとんとしていると、「いつもいつも家で心配して待ってたけど、ひるあんどんさんとこ行く言うときだけ安心してた。ホットミルクしか出されへん、いうさかい」と言った。

あのとき、あのみたらし団子がどこで買えるのか聞けばよかった。

蒲生4丁目

2009年10月23日 21時50分22秒 | Weblog
大阪市営地下鉄の谷町線には谷町4丁目・谷町6丁目・谷町9丁目という駅があり、私たち地元民は「たによん」「たにろく」「たにきゅう」と省略して呼んでいる。3つも駅があるのだから丁目を付けないとね。

しかし長堀鶴見緑地線と今里筋線の「蒲生4丁目」は、どうして4丁目なのか。
いちいち4丁目と主張する蒲生4丁目に対して、私たち他の町の大阪人は苦笑してしまうのである。

蒲生4丁目に住んでいる人に「何で蒲生4丁目なん?」と尋ねたことがあるが、「4丁目やから」という答えだった。いや、そういう意味やなくて…

先の話だが一人暮らしがしたくて不動産屋でよく賃貸のチラシをもらう。京橋って便利で物価も安くて京都にも行きやすいしいいかも、ともらったチラシに「蒲生4丁目」が…

超高級マンション
勝ち組の象徴!!


…あなどれん、蒲生4丁目。

闘う

2009年09月29日 18時28分15秒 | Weblog
大学・大学院と進みふつうの会社で働いたことのない私は、もしかすると自分がとんでもなく常識知らずで社会性が欠如しているのではないかと、時々思う。

#私には世間で常識知らずや社会性が欠如しているといわれている魅力的な知人が結構いて、それは楽しいことだし、常識知らずでも社会性が欠如していても、素晴らしい研究をしていれば(同僚は大変だけど)研究者としてはいいんじゃないかと思う。実生活では嫌な目に遭わされて好きになれないのに、研究は素晴らしくて研究者として好きな人もいる。(ちょっと脱線)

…というわけで。研究者でない同居人と住み始めて、ちょっとしたことで怒鳴られ罵られても、いつも常識知らずで社会性が欠如している自分が悪いのかなと思っていた。穏やかな家庭に憧れていたので怒鳴り返して本格的な喧嘩をしたくなかったということもある。謝れと言われれば納得できなくても謝っていた。

怒鳴られ罵られ続けていると、不思議なことに自分が怒鳴られて当然のような罵られても仕方ないような気分にだんだんなってくるのだ、これが。体調を崩す前は、怒鳴られるたびに自動車にぶつかったかのような衝撃で心身共にヘトヘトになっていた。

怒鳴られていることは恥ずかしくて誰にも話せなかったけれど、ぼちぼち話すと皆私は悪くないと言ってくれる。研究者の友人はもとより、専業主婦の友人も悪くないと言ってくれる。いろんなことがクリアに見えてくると、自分は社会的に常識的に同居人として十分にやっている、怒鳴られたりお前呼ばわりされて罵られるいわれはないと確信するようになった。そしてだんだん自信がついてきて、最後に怒鳴られたこの冬に、もう同居人に気を遣って話しかけるのはやめようと決めた。そうするとほとんど会話がなくなった。

昨夜、久々に怒鳴られたので、怒鳴り返して返事をしてみた。むこうが怒鳴るのをやめないかぎりこちらの返事も怒鳴ってみた。冷静に論理的に怒鳴り返して睨み続けてみた。

これからは闘おうと決めた。睨みながら、同居人の機嫌は日経平均に連動しているなと思って笑いそうになった。梱包の用意をしていた宅配便の箱をブチ投げられたのを、つい片付けてしまったけれど、こういうのも次回からデジカメで撮って記録しておこうと思う。

本を分解する人がいた!

2009年09月25日 09時33分54秒 | Weblog
9月18日に本を分解するという文章を書いたが、連休中ネットを見ていて同じことをしている方を発見した。乙幡啓子という方の高校の頃の工夫と怠惰である。そうそう、私の教科書もまさにこんな感じだった。

この記事に行き当たったのは、秋冬に向けて編み物関係を検索していたからだけど、こんな興味深い人の記事を今まで知らなかったなんて!


以下、覚え書き。まねしたい手芸の数々。

アレシボ・メッセージをマフラーにして宇宙人に備える
私はセーターにしたい!

サーモグラフィ・セーターで暖かくみえるか
内蔵とかモノクロで骨とかどうだろう。

「捕らえられた宇宙人」がエコバックに

『妄想工作』という本も出しておられるそうで、ネットに書いている以上のことがあれば買おうと思う!

Rubber Duck

2009年09月24日 11時13分07秒 | Weblog
連休中、ぶらっと八軒家浜にRubber Duckを見に行った。川縁で特に何もせずぼんやり夕方まで過ごしてしまった。
アクアライナーと。
お尻にある秘密。
天神橋を渡って正面から。
さよならアヒルちゃん。また世界のどこかで会おうね。

アヒルちゃんは可愛いだけでなく崇高な使命を負っているのです。浜の看板にもあったCONCEPTより。

 このフローティング・ダックは、
 政治的意味合いで分割される国境など、
 この世に存在しないことを知っています。

 そして、このアヒルが持つ、
 世界の緊張を和らげる癒しの特性は、
 あらゆる世代に優しく、親しみやすく
 受け入れられることでしょう。

 2007年より、ラバー・ダックは
 世界中に浮かべられてきました。
 オランダ、フランス、ブラジル、そして日本へ。

 ラバー・ダックは、オランダ人アーティスト、
 F・ホフマンの作品です。
 詳細情報はwww.florentijnhofman.nlをご覧下さい。

引用終わり。27日までです。個人的には、お昼に辻調の出しているお店で600円の水茄子カレーを食べるか、夜にジャズを聴きながらいっぱいやるかがお勧めです。

本を分解する

2009年09月18日 10時34分08秒 | Weblog
私は「本」を愛しているけれど、本の形をしている物はなんでも恭しく取り扱っているというわけでもない。例えば語学のテキストは、本という感覚ではないので書き込むのはもちろん平気で切り取ったりばらばらにしたりする。最近は風呂で読んでいるので読み終わったらぶよぶよだ。

中学や高校の時は分厚い教科書を分解して要る部分だけ持ち歩いていた。この話をするとわりと驚かれるのだが、高校の先生が一人そうしておられた。そして5年前のコラムでも同じことをしていた方のことが取り上げられていた。

2005年4月28日の日経のコラムより。

交遊抄 ダンディズム 寺出道雄

 慶應義塾大学で故小池基之教授に教えて頂いたのは一九七〇年代の中ごろのことだった。ある年、名誉教授になっておられた先生からアダム・スミスの「国富論」の講義を受けた。
 ここで語りたいのは講義の内容ではない。先生が当時まだ高価だったキャナン版と呼ばれる「国富論」の単行本をばらばらにむしり取り、毎回の授業に必要なページだけを無造作に携えて授業に臨んだ姿のことだ。
 キャナン版の「国富論」は相当に分厚いものだったから、それをばらばらにして持ち歩くことには実際の便利さもあったろう。しかし先生の振る舞いには、新しい単行本などは原書とは呼べず研究の道具に過ぎないという経済学史家としての自負、ないしポーズがあるように思われた。
 その根元には明治の末に生まれ、まだ戦時色が強くない時代に自己形成を遂げた戦前の知識人が身に付けていたダンディズムがあったと思われる。現在では、私を含めて小池先生のようなダンディズムを身に付けた大学教授にはとんとお目にかかれなくなった。
 コワかった先生には「国富論」をばらばらにしていた真意をうかがえずじまいだったが、かつての「学者」の典型であった先生の姿を、いま懐かしく思い出すのである。(てらで・みちお=慶応義塾大学教授)


私が教科書を分解して持ち歩いていたのには、この先生のように大層な意味はない。強いて理由を考えると、子供の頃から荷物の多いのが嫌いな性分だったからだ。

ふだんの授業だけでなく、試験期間にはできるだけ荷物を少なくした。さすがに手ぶらというわけには行かないから、鞄の中には筆箱だけとか、試験の最終日にはギターケースに筆箱だけ、という風に登校した。休み時間に必死で教科書や参考書を見直す同級生の傍らで、窓の外を眺めたりしていた。

…ここまで思い出すと、我ながら、なんて気取った嫌なヤツ! やっぱり私が教科書を分解していたのはええかっこしたいという気持ちがあったんだろうなあ。ダンディズムとは呼べないまでも。

藤村操を知っていますか

2009年09月10日 21時04分52秒 | Weblog
正しいものしか許せなかった。
美しいものしか愛せなかった。

一番純粋だったあの頃、死んでいたら誰かの心にいつまでも残っただろうか。
夭折というのは甘美な響きだ。


もし私が夭折者列伝を作るなら、トップバッターは藤村操だ。
藤村操の「巌頭之感」

あまりにも後追い自殺が多いので止めるためだったのだろう、宮武外骨が「巌頭の感」を茶化した文を残している。

テキスト庵に感謝

2009年09月05日 11時58分13秒 | Weblog
たいしておもしろくないことしか書けなくなってしまったのはネット社会が行き渡ったからであることに気付いた ひるあんどん です、こんにちは。

テキスト庵に登録したのがいつのことなのかわからない(全登録テキスト一覧で確認すると01.07.05となっていた)が、本宅は辛巳すなわち平成13年、西暦でいうと2001年、皇紀では2661年に開設している。開設と同時に日記を書いていて、途中いったんやめたがなんだかんだ言って9年続けていることになる。

最初の「うだうだ帳」を書いていたころは自身の生活に明確な目標があり、それ故日記にも明確なテーマがあった。しかし次の「もうちょっとうだうだ帳」になると単なる身辺雑記のようになった。時事に触れてもその専門家でもない限り大したことは書けないし、責任も持てない。責任持てる文章が書ける(であろう)専門分野がらみだと身元が割れる。第一、そういう文章は紙媒体に書く。また仕事関係でも書きたいことは山ほどあるが、書くのは危険であるという社会になってしまった。そうなると話題は自ずからどうでもいいものに絞られていく。現在の「うだうだ帳」も、実生活では話さないが誰かに聞いてほしいことを書いていたが、結局本当の本音は「チラシの裏」と題された本当の意味での日記に書くようになった。

今書いている「うだうだ帳」で意味があるのは「1000個捨てる」プロジェクトくらいだろう。1000個捨てたらこの家を出る予定で、しばらくネットに繋げられるかどうかもわからない。それゆえ、このプロジェクトが終わるとここをまたいったん閉じるかもしれない。しかしそれまではだらだらと書き続けていこうと思う。それまではテキスト庵が続いていますように。

テキスト庵も10年目ということで、な さんには本当に感謝である。ありがとうございます。

日記帳

2009年08月27日 21時23分45秒 | Weblog
小学生の私にとって、ファンシーショップの日記帳はあこがれだった。立派な製本仕立てで、鍵が付いている。お姉さんの世代はきっとみな、ああいう日記帳を持っていて、ロマンチックな恋の日々を綴っているのだと思っていた。

お年玉で鍵付き日記帳を買おうと思ったら、親に隠し事をするのかと反対された。仕方なく私は同じタイプで鍵のない日記帳を買った。けれども小学生の私にはさして書く出来事も起こらず、その年の日記は三日坊主で終わった。

中学生になってから、また日記を書き始めた。このときは可愛い模様は付いているものの、普通のノートだった。友達とのちょっとしたいざこざや、親や先生の悪口、憎からず思っていた男の子のことも書いた。

ある時どうやら母親がこっそり日記を読んでいるらしいことに気付いた。それからは、日記に差し障りのないことだけを書くようにした。

私は「日記」を書くのをやめたのか――? 実は、やめていなかったのである。本物の日記と建前の日記の二つを書いていたのだった。建前の日記はいつもと同じ所に置いておいた。本音の日記をどこに隠すか、私はとても迷った。

そしてピアノの蓋の中に隠したのである。家族でピアノを弾けるのは私だけで、「日記」は一度も見つかった様子はなかった。私のピアノは忠実に秘密を守り抜く任務を遂行してくれたのだった。

夭折できなかった

2009年08月20日 10時16分12秒 | Weblog
「夭折」という言葉には甘美な響きがある。十代のうちに自殺してしまうことに憧れた。でもかっこよく夭折するためには十代で光り輝いていないとね。

十代の私は酒やブロンを飲んで絵を描いて詩を書いて家出を繰り返していた。当時の大人は私を感受性の強いちょっとブチ切れた子だとしか思っていなかったけど、今だったらあれはPTSDとかいうものに苦しんでいたのだと思う。だから私の荒れ具合は“文学少女”がちょっと拗ねているというレベルではなかった。危ないところだった。

今思い返すと、本当に死んでいたかもしれない時期があった。当時、子供の頃から仲のよかった友人が全力で私をかまってくれた。それはまさに、今こそおれの出番! という感じだった。うるさいくらいだった。きれいごと言うな、と思ったりもした。でも不思議と彼と話していると落ち着いた。

私たちはもちろん私が治療を要するレベルだったことに気付いていなかった。私は彼にだけは気を許していたけれど、それは幼いころから仲良しだったからなのか、彼の資質がそうさせたのかはわからない。二人の間にあったものが恋愛感情だったのかどうかも今でもわからない。

大人になってから、彼は優秀な精神科医になったと聞いた。