goo blog サービス終了のお知らせ 

うだうだ帳

心がヒリヒリするときにイタイ文章を書いています。
実生活は“うだうだ”していないので、そっとしておいてやってください。

ラブレター

2009年08月18日 17時22分39秒 | Weblog
絵葉書をためこまず使おうと思ってから、ふと、どうしてるんだろうと思い出した人に出すようにしている。短い文章でも久しぶりに手紙を書くのは新鮮だ。

小学校の友達に出したら「相変わらず筆まめやねえ」と言われた。その頃から手紙魔だったのか。残ってたらどうしよう。見てみたい気もするけど、恐ろしい…。

特に恐ろしいのはラブレターだ。私は当時の友人に言わせると「情熱的な文学少女」だったので量産していると思う。惚れっぽくて醒めやすかったから中身は忘れたけど。万が一持っている人がいたら「そういうの10人くらいに書いてると思います、しかもすっかり忘れました、スミマセン」と伝えに行きたい。そういう自分も片付けをしている最中にまだ2人分持ってるのを発掘した。捨てなければ。

そういえば生まれて初めて書いたラブレターの中身は覚えている。私と他の男の子のことをからかう子に、私はあの子じゃなくてアンタのことが好きなんだからね、あ、別に私を好きになってくれって言ってるんじゃないよ、ちょっとはっきりさせときたかっただけ――という内容だった。今だったらこういう態度もアリなんだろうか。青春ドラマが流行っててみんな直球ど真ん中の恋愛をしていたあの頃、こんなひねくれた手紙を貰ったら対処に苦しんだのではないか。

なんであんな手紙を出したんだろう。なんであんな手紙のこと思い出したんだろう。

夏休みだなあ。

岡崎里美を覚えていますか

2009年08月17日 15時34分05秒 | Weblog
確かこんな題名で…とネットで探していたら見つけた。懐かしい。
岡崎里美『自殺への序曲』

私はこの本を街の小さな図書館で見つけたのだった。白い表紙の真ん中に、カブトムシの絵と黒い文字でシンプルに、『自殺への序曲』という題名が記されていた。十七歳で自殺したという無名の少女の本だった。

なんてかっこいいんだろうと思った私は、何度もこの本を借り直した。そして自殺に憧れた。荒井由美の「ひこうき雲」が流行り、少女の自殺が社会問題になっていた。

両親は感受性の強い子供だった小学生の私がタイトルに自殺と書かれた本を読んでいるのに気付き、驚愕した。つい最近までドリトル先生とかいう動物のお話のシリーズを買ってくれとせがんでいた娘が、十三で男を知り奔放な生活の末自殺した少女の本に心酔しているのだ。

いろんなことがあった。

あのころ私は何故か自分が同じように十代で死ぬと思っていた。通い詰めた図書館の、しんとした空気を今でも思い出す。

本のある家

2009年08月13日 17時10分43秒 | Weblog
地震で本棚が倒れて来るかもと不安になりながら、もう一つ本棚を買うしかないとも思う。でもこれだけ本があると本棚自体の重みも気になる。ついでに本棚の値段も気になる。そんなことを考えていたら、収納用ダンボールというのを見つけた。これいいかも。引っ越しの時も便利だ。

数年前、痛恨の思いで専門書以外の本はほとんど減らした。その数年後、専門書でも一生引用しないだろうなと思うものを処分した。スペースの関係でだ。

今でも思い出すと辛い。本に埋もれて死んだ方がマシ(実際そういう目に遭われた方と遺族の方に酷いことを言っているのはわかっているのだが)と思ってしまうほど辛い。だからあれから本を売りに行ったことはない。増える一方だ。

次に引っ越して自由な一人身になったら、玄関にも洗面所にもトイレにも本を置こう。洋間と和室の二間ある部屋を借りて、洋間は書斎にして、和室でご飯食べて布団引いて寝よう。和室はこたつにするか。そうだ、和室にも背の低い本棚を置こう。

作りつけの本棚のある一軒家なんて望んでいないのだ。これくらいの夢、叶ってほしい。

無様に生き残ったからには

2009年07月31日 15時11分32秒 | Weblog
昼食は久し振りに会った友人Sと中華粥。芸術家であるところのSは、長い長い暗黒時代を抜け出しそうで、本当によかった。

体力と気力はリンクしているのではないかという話になった。私など昔から体力はないが気力だけはあると思っていたが、もう若くない年齢になってくると、Sの言うように体力と気力がお互いに補い合っているように感じる。

一時は引きこもりになったり鬱状態に陥っていたり入院したりしていたSが、最近目覚ましなしで夜明けに目が覚め、アトリエに行くまでに腕立て伏せやスクワットをするという。体力が付いてくると気力も充実してきたという。S以外にもランニングをしている人が周りに多い。末永く仕事をしていくためには体力づくりも必要なのだろう。

Sとは美術部時代からの付き合いだが、あの頃私たちは健康とか体力づくりとかいう感覚とは程遠いところにいたのではなかったか。精神的チキンレースのような状態で、危うければ危ういほどカッコイイものを生み出すことができると考えていたのではなかったか。

私たち、生き残ったからには、これからも無様に健康的に仕事をしていくしかないんだろう。

生活のために あのころの理想からずいぶん離れてしまったけれど、これからのまだまだ続く人生のなかで、ぶれてしまった生き方を少しでも修正していくしかないんだろう。そのためにも、無様ついでにかつてあんなに呪っていた「健康」を大切にしたい。


夕飯にメバルの煮付けを作るかたわらケーキを焼いた。キウイが安かったのでキウイのケーキにした。

肥やしになるから

2009年07月17日 16時46分13秒 | Weblog
人生 忘れたいことばっかりだ。

研究会の後、浴びるように酒飲んでたら、Tさんに「どんな体験も人文系の学者には全部肥やしになるから」と慰められた。優しいなあ。酔いを醒ますため、帰り道一人で一駅ぶらぶら歩いた。

肥やし、生かせるかなあ。このまま肥やしにまみれて死んでいきそうな気が、ちょっとだけ、した。

何の曲でしょう?

2009年07月11日 01時23分06秒 | Weblog
ほんまかいな、夢ちゃうか?
ほんまやったら、地滑りに遭うたみたいなもんや、もう逃げられへん。
よう目ぇ開けて、お天道様見てみぃ。
おれは哀れなヤツやけど、同情されたないんや。
根っからのお気楽モンやからな。ええ時もわるい時もある。
どっちゃみち風は吹く。おれには関係のないことや。

なあ おかん、今さっき人殺してきてしもた。
銃をこないして そいつの頭に当ててな、
引き金引いたら、死によってん。
なあ おかん、おれの人生始まったばっかりやのに、
もう自分でワヤにしてもうたわ。
なあ おかん、
おかん泣かそ思うてへんねんけど、
もしあした今ごろ、おれ帰ってけえへんかったら
あんじょう やっていってな、
なんにもあらへんかったみたいに。

もう遅いわ、おれの人生終わりや。
ゾゾ気走ってきたわ。
なんや体のあちこち痛なってきた。
ほな さいなら みなさん、おれもう行くわ。
行ってカタ付けなあかん。
ああ おかん、
おれホンマは死にたないねん。
こんなんやったら生まれてけえへんかったらよかったわ。


長いからここまで。おやすみなさい。

続き書こうとしたら↓こんなコピペを教えられた。このまま歌えるよ! あまりの出来に書く気なくなった。

441 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/06/23(火) 19:57:12.59 ID:oT1J4zu4O
(・∀・)ガリレオ!
( ゜Д゜)ガリレヨー!
(・∀・)ガリレオ!
( ゜Д゜)ガリレヨー!
( ゜Д゜)ガリレオフィガロー!
(・∀・)マグニフィコー
オ━━(・∀・)━オ━( ・∀)━オ━( ・)━オ━(  )━━(Д゜ )━━( ゜Д゜)━━!!
(;´Д`)アイムジャスタプーアボーイノーバディラブズミー
(;´Д`)ヒージャスタプーアボーイフロムポーファムリースペーリンヒズライフロムヒズウォッツコシティ
( ゜Д゜)イジカムイジゴーウィルユレットミゴ
(・A・)ビスミッラッ!
(;´Д`)ノー!
( ゜Д゜)ウィウィルナッレチュゴ
(・∀・)レヒゴー!
(・A・)ビスミッラッ!
( ゜Д゜)ウィウィルナッレチュゴ
(・∀・)レヒゴー!
(・A・)ビスミッラッ!
( ゜Д゜)ウィウィルナッレチュゴ
(・∀・)レヒゴー!
( ゜Д゜)ウィウィルナッレチュゴ
(・∀・)レミゴー!
(;´Д`)ネバネバネバネバレミゴー!
オ━━(・∀・)━オ━( ・∀)━オ━( ・)━オ━(  )━━(Д゜ )━━( ゜Д゜)━━!!
(・A・)ノー!(`Д´)ノー!( ゜Д゜)ノー!(´ゝ`)ノー!(#゜Д゜)ノー!(;゜A゜)ノー!(・A・)ノー!
(・∀・)ママミヤママミヤ
( ゜Д゜)ママミヤレミゴー
(・∀・)ビーヤーズブハズアデボプッタサイドフォーミー
(;´Д`)フォーミー!
(;´Д`)フォーミー!

倒れた

2009年06月29日 09時32分17秒 | Weblog
夜中の3時過ぎまで仕事をして、この頭ではいくらなんでもと朝一番で美容院に行って、その後もギリギリまでバタバタと仕事をして、出かけた。

そうしたら。
出先が仕事関係でないから気が抜けていたのか、倒れました。えらい騒ぎに。関係者各位にご迷惑おかけしました…。

しかし、働き過ぎでこの年収ってどうなんやと思う。思わずじっと手を見てしまうよ。…そういえば健康保険と奨学金返済と年金払うの明日までだったな。この間来たねんきんナントカ便見ても、もっと働いて小金持ってないとやばくない? という金額だった。

なんていうか、この社会は一度レールをはずれるともうどうにもならないんだなあと感じることが多い。倒れるくらい働いて、健康保険も年金も真面目にきちんと払って、ゴミも分別して出して選挙も棄権せず(だんだん関係なさそうなことになってきた)お天道様に恥ずかしくない暮らしをしているのだが、こんな底辺の暮らし。

すべては自分が選択したことなんだけど。大卒で企業に就職しなかったわたくしが悪うございました。修士を取った時点で教職にでも就かなかった私が悪うございました。

でもねえ、私は基本ものすごく前向きで、おっとりしてそうと言われる外見に反してガンガン行く方なんですが、そんな私でも凹んだり倒れたりしているのですから、ふつうの“高学歴ワーキングプアー”の方々はどうなさっているのかなと思います。

みんなゆるく繋がろーぜぃ。

何言ってるかわかんないけどご容赦下さい。ああ、明日の講義のプリント作らねば。月末〆切の原稿書かねば。

ネットがなくても書くような人の

2009年06月18日 19時08分33秒 | Weblog
昨日の日記で、忙しい忙しい、なんでだろ思わぬところで無駄な時間を使っているのかもしれないなどと書きながら、思わぬ所ってここやろと自分に突っ込んだ私です。

中学生高校生のころは、自分で書いたものを人に読んでもらうとなると大変だった。

まずいろんな所に投書した。結構採用されたが、これは思いのまま書いて載せてもらえるというわけには行かない。高校の時、自分の意見に反論した投書が載って、その反論を投書したのに没になったとき、何もかも嫌になって投書は止めた(未だにやりとりの内容は覚えているし、私の意見に対する反論は論のすり替えだったと思う)。

次の手段として、コピーして冊子にして配ったりもした(かなりイタイ)が、冊子の数と配る範囲が限られる。文芸部に入って雑誌に書いたりもした。しかしこれも同様。せいぜい周辺の学校まで。

そんなことを思い起こすと、今のネットのある環境は夢のようだ。瞬時にして(理屈の上では)世界中の人に見てもらえるのだから。もともと書きたくてたまらないビョーキなのだ。これが書かずにおれましょうや。


しかし私が文芸部に何か書いていたころ、大部分の高校生はモノを書こうとなんてしなかった。今はかなりの割合の人々がネットで何か書いているから、あのころ私たちを変わり者扱いしていた層も今ではブログを書いていることになる。

私がよく見に行くサイトは「ああこの人、ネットの環境がなくても、手書きでコピーしてホッチキスで留めても、こういうことを書くんだろうな」と思えるところだ。そういうところの文章は、「巨大なゴミ箱」に入れたくない。

あと何日?

2009年05月13日 10時38分06秒 | Weblog
人を変えることは難しい。

同居人はちょっと問題のある人間だ。そして本人はそのことに気付いていない。彼の周囲でそれを指摘しようと思った人はいなかったようだ。

同居人とは心がカチッとあった記憶が全くない。同居人とは数えるほどしか喧嘩をしたことがないが、それは仲がいいのではなくてそもそもコミュニケーションできていないからである。喧嘩といっても、私がまれに自分の意見を主張すると同居人が怒鳴る、それだけ。

そんな相手とどうして同居人になったかというと、いろいろ理由はあるが、その一つは彼を か わ い そ う だ と思ったからだ。私が彼を 変 え て あ げ よ う と思ったからだ。彼に暖かい家庭というものを教えてあげようと思ったからだ。

なんておこがましいのでしょう。

当然の結果として私は同居人を変えることなどできないまま、その存在を持て余し苦しんでいる。

ええ、昔の自分の若さと甘さを呪うばかりです。

知らないものは存在しないのだ。知らないものは欲しがったりしないのだ。暖かい家庭などなくても、同居人は私の大嫌いなスナック菓子を食べながら私の大嫌いなTVを見て一人で笑い声をあげて機嫌良く暮らしていくのだろう。

数年前アドバイスされて読んだサイトや本によると、同居人から離れるしか自分の精神を保つ方法がないように思われた。それからまたしばらくして、同居人に対して心を砕くのをやめることにした。昨年また怒鳴られたとき、もう自分から必要以上のことを話しかけるのもやめた。

それからここを出ていく日を決めた。ええい出て言ってやる~と飛び出す若さもないが、慎重にしていると永遠に抜け出せないようで。なんとか、暮らしていけるようにしなければ。

あと何日?

自由が何かもわからないままに

2009年04月05日 02時46分36秒 | Weblog
どうしてわかりやすい反抗のしかたをするのか不思議だった。学校で煙草を吸えばバレるに決まってる。万引きすれば親に連絡されるに決まってる。そうか、あの子たちは親や先生にかまってほしいんだ、そう納得して私は自分の部屋で一人咳止めシロップを一気飲みした。

盗んだバイクで走り出したり夜の校舎の窓ガラス割ったりとは程遠い優等生も、優等生なりに大変だった。

何にあんなに苛立っていたんだろう。私には学校も家庭も地域社会も、世の中の何もかもが窮屈だった。一言で言えば、自由がほしかった。自由って何かもわからないままに。

とりあえず学校から解放されたい。担任に辞めたいと言いに行った。芸術家でもあり進学校には珍しくリベラルな担任は、辞めるなとは言わなかったが、辞めても同じやでと まったりと語った。

気が抜けた私は学校を変えようと標榜する、高校の枠を越えた学生のサークルに入ろうとした。正式にメンバーになる直前に、共産党の下部組織だと気付いて止めた。政党に所属して自由を束縛されてどうする。

唯一話が合うヤツ、と私が思っていたのは幼馴染みのT君だった。当時パンクロックにはまっていた彼はいつもふらりと家にやってきたが、それは私に何か通じる物を感じていたからに違いない。彼も同じように世間に苛立っていたのだ。彼とは訳の分からないことをいろいろ話し込んだ。受験のためでなく本当の勉強をしたいと一緒にいろいろな本を読んだ。

T君が私と違っていたのは、人と人とのつながりを作って前向きに現状を打開しようとしていたことだった。彼は生徒会活動をしたり、気の合う仲間を集めてグループで何かしたりするのが好きだった。反対に、集団行動そのものが苦手な私は美術部や文芸部といった問題児の吹き溜まりに出入りして、自分の気持ちを表現することに夢中になっていった。

現状に対する不満は、彼にとっては組織や制度の問題で、私にとっては内面の問題だったのだ。

その点でふたりの志向するものは違っていた。孤独が好きな私には、彼のグループに引っぱって行かれるのは落ち着かないものがあった。彼のあまりに前向きな行動は、退廃的な芸術系のクラブにいる私には危なっかしいきれい事に映った。ずば抜けて頭のいい彼が他の仲間にカリスマ的に扱われると、反発する気持ちを抑えることができなかった。

それは私にとって外ならない 自由 を縛るものだと思ったからだ。

でもT君、自由って何だったんだろうね。今はあのころのような学校にいるわけでもないのに、私にはやっぱり何もかもが窮屈だ。

傷ついた男の子だった彼は、かつての自分を癒すかのような小児科医になった。ひねくれた女の子だった私は、どんな研究者になればいいのだろう。