私はテキスト庵という場所が好きだった。あのフォントが好きだった。「すこしふるい新しいテキスト」なんていう言葉のセンスが好きだった。広告がないのが好きだった。手動で報告するというアナログな感じも好きだった。そこに集まってくるテキストが好きだった。
テキスト庵というリンク集は運営者の作品だった。ああいう いかした作品は、他の誰にも作れない。
誰が書いていたのかは忘れたけれども、作家になりたいのなら編集の仕事はするな、発送係になれという言葉があった。編集のような本作りに関わる仕事をしてしまうと、もうそれでそこそこ満足してしまい、書かなくなってしまうというような意味だったと思う。
そういう意味ではテキスト庵は危険な場所だった。更新報告するとダイレクトに反応があるので、“しょせんWEB日記”と言いながら校正もそこそこにテキトーで無責任な文章を垂れ流していた。ものを書くという点ではそれで十分満足してしまう。私は時々、同じ労力を紙媒体の文章に注いでいたら…と後悔し、いっそのことテキスト庵がなければ、と考えてみたこともあった。なければ、というのは自分から離れるか、テキスト庵がなくなるかのどちらかだ。そして実際に離れていた時期もあった。私の登録番号は1245で、5000人以上の登録者がいるテキスト庵では輝かしき千番台だが、常連とは言い難いし、10位以内にランキングされたことはない(と思う、たぶん)。
それでも書き続けているのは、それがよそでは書けない文章だからに他ならない。私がネット上にハンドルネームで書くのは、実生活の私が話しそうもないこと、でも誰かに聞いてもらわないと苦しいことで、それは最初に日記を書き始めたころからそうだった。
ネット上で読むテキストも、紙媒体では読めないものを選ぶ。たとえば私は雑誌というものをもうほとんど買わなくなったけど、それはどこかのメーカーとのタイアップ記事や、タイアップでないけれどなんか気を遣ってるようなライターの文章にお金を出すのが馬鹿馬鹿しくなったからだ。現代作家の小説やエッセイもあまり読まない。こちらの方がよっぽど面白いという書き手がネット上には数人いるし、この手の文章はデビューできないだろう、でもそこがいい、というタイプの文章も読める。
もちろん厖大なハズレの中にまともな文章が潜んでいるわけだけれど、テキスト庵という場所はなかなか優秀なフィルターで、他のリンク集よりもハズレが圧倒的に少なかったのだ。
だけども、すれっからしのプロではなく、書かずにはおれないという書き手のうぶなテキストは危険と隣り合わせだ。既に一つのコミュニティになっていたテキスト庵では、不快なテキストに対して住民が拒絶反応を示すようになっていた。そんなとき、運営者は招かれざるブログの書き手に対しても「安心して書き続けてください」とコメントした。私はそのコメントに感銘を受けた。くさい言葉で言えば美意識のようなものを感じた。かつてなんだかよくわからない文法のハンドルネームの人が現れて大暴れしていたことがあったが、そのときも運営者は登録削除したりする強権発動はしなかったのだ。
ちょうクールでいかしたテキスト庵には、登録削除とかどうとかいう俗世間の匂いは似合わない。そんな不細工なことをするくらいなら、あっさり解散してしまった方が似合っている。
テキスト庵が解散してから1週間以上過ぎた。こんなに喪失感があるとは思わなかった。自分でもびっくりするくらいだ。まるで大切な人を亡くしたみたいだ。でもリンク集は人間とは違う。死んだのではなく、今は重態だけど息を吹き返すのかもしれない。私たちはまた、懐かしいアドレスに運営者の「オープン!」という言葉を見つけるかもしれないのだ。
テキスト庵というリンク集は運営者の作品だった。ああいう いかした作品は、他の誰にも作れない。
誰が書いていたのかは忘れたけれども、作家になりたいのなら編集の仕事はするな、発送係になれという言葉があった。編集のような本作りに関わる仕事をしてしまうと、もうそれでそこそこ満足してしまい、書かなくなってしまうというような意味だったと思う。
そういう意味ではテキスト庵は危険な場所だった。更新報告するとダイレクトに反応があるので、“しょせんWEB日記”と言いながら校正もそこそこにテキトーで無責任な文章を垂れ流していた。ものを書くという点ではそれで十分満足してしまう。私は時々、同じ労力を紙媒体の文章に注いでいたら…と後悔し、いっそのことテキスト庵がなければ、と考えてみたこともあった。なければ、というのは自分から離れるか、テキスト庵がなくなるかのどちらかだ。そして実際に離れていた時期もあった。私の登録番号は1245で、5000人以上の登録者がいるテキスト庵では輝かしき千番台だが、常連とは言い難いし、10位以内にランキングされたことはない(と思う、たぶん)。
それでも書き続けているのは、それがよそでは書けない文章だからに他ならない。私がネット上にハンドルネームで書くのは、実生活の私が話しそうもないこと、でも誰かに聞いてもらわないと苦しいことで、それは最初に日記を書き始めたころからそうだった。
ネット上で読むテキストも、紙媒体では読めないものを選ぶ。たとえば私は雑誌というものをもうほとんど買わなくなったけど、それはどこかのメーカーとのタイアップ記事や、タイアップでないけれどなんか気を遣ってるようなライターの文章にお金を出すのが馬鹿馬鹿しくなったからだ。現代作家の小説やエッセイもあまり読まない。こちらの方がよっぽど面白いという書き手がネット上には数人いるし、この手の文章はデビューできないだろう、でもそこがいい、というタイプの文章も読める。
もちろん厖大なハズレの中にまともな文章が潜んでいるわけだけれど、テキスト庵という場所はなかなか優秀なフィルターで、他のリンク集よりもハズレが圧倒的に少なかったのだ。
だけども、すれっからしのプロではなく、書かずにはおれないという書き手のうぶなテキストは危険と隣り合わせだ。既に一つのコミュニティになっていたテキスト庵では、不快なテキストに対して住民が拒絶反応を示すようになっていた。そんなとき、運営者は招かれざるブログの書き手に対しても「安心して書き続けてください」とコメントした。私はそのコメントに感銘を受けた。くさい言葉で言えば美意識のようなものを感じた。かつてなんだかよくわからない文法のハンドルネームの人が現れて大暴れしていたことがあったが、そのときも運営者は登録削除したりする強権発動はしなかったのだ。
ちょうクールでいかしたテキスト庵には、登録削除とかどうとかいう俗世間の匂いは似合わない。そんな不細工なことをするくらいなら、あっさり解散してしまった方が似合っている。
テキスト庵が解散してから1週間以上過ぎた。こんなに喪失感があるとは思わなかった。自分でもびっくりするくらいだ。まるで大切な人を亡くしたみたいだ。でもリンク集は人間とは違う。死んだのではなく、今は重態だけど息を吹き返すのかもしれない。私たちはまた、懐かしいアドレスに運営者の「オープン!」という言葉を見つけるかもしれないのだ。