伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む元市議会議員。1960年生まれ。最近は遠野和紙に関わる話題が多し。気ままに更新中。

語られない物語を紡ぎだす心と想像力の弱さが少し悲しい

2019年04月01日 | 読書
 どう決まるのか、何に決まるのか、マスコミが大騒ぎしてきた新元号が、「令和」となることになった。

 朝から関係する場所をマスコミが包囲し、決まるまで、また決まった後も、報道は新元号について大騒ぎしていた。

 この大騒ぎは心をざわつかせるが、たまに見る絵本は、心をほんわかさせ、安らぎを覚えさせてくれる。

 最近は、できれば小学校入学式に新1年生の祝辞に使えればいいなと思って妥当な本を探しているのだが、なかなか思うようにいかない。

 この間、2冊を読んだ。てるてるぼうずを題にした絵本。これは、現在印刷発注している「活動日誌」のコラム(全文はこちら)の一部に活用した。表現としては「『ぼく、あめふりお』という本がある。雨降りがつきまとうてるてる坊主のお話だ。今年なら、連れてきてとみんな望むだろう」とごくわずかな部分だが。



 コラムは、ヘイトへの疑問を投げかけることが結論となっており少しテーマは堅いが、絵本そのものはとてもほのぼのした空気に満ちたものだ。

 「ぼく、あめふりお」は、そう「泣いた赤鬼」「おにたのぼうし」を思い出すお話だ。優しくしてくれた女の子のために、やっと見つけた自分の居場から立ち去るお話だ。「泣いた赤鬼」は人間好きの赤鬼のため、青鬼が人間の敵を振る舞って赤鬼に対峙させ、青鬼は赤鬼の元を去ってひっそり暮らすというお話だ。「おにたのぼうし」は、節分で居所を失ったおにたが、目をつきさす柊のない貧しい家に入り込み、けなげに母を看病する女の子のためにごちそうを用意してあげるが、彼女の願いが鬼を追い出す豆まきだと知り、豆を用意し、その家を静かに離れていくというお話だった。どのお話も、哀しみの中に人を思う心に優しさがあふれる。

 「てるてるぼうず」は、単純にいろんな天気の下にあるてるてるぼうずのお話と思っていた。何度か読み返すうちにひらめいた。これおそらくてるてるぼずが体験した夏の一日だ。

 晴れた日に雲が広がり、雨が降り出した。おそらく夏の夕立だ。雷がなり、風が吹き、瞬間荒れた空もやがて晴れ上がり、美しく空を焼いた夕焼けがやがて満天の星空に変わり、さわやか朝を迎え、心地よい一日がまた始まった。てるてるぼうずは変わりゆく空を見つめ、変化に耐え、そして楽しんでいる。これもとても心を優しくする。

 考えてみれば、絵本のストーりーは簡単で分かりやすい。ストーリーを表現する言葉はとても少なく、絵が言葉を補完するが、想像力で、言葉と言葉の間、行と行の間を埋めていくことで物語は豊かに広がっていく。言葉は少ないが、読み手によってストーリーは幾通りも誕生する。そういう幅広さを持っているように思う。ある意味、心と想像力が豊かでなければ、そこに埋もれたストーリーを紡ぎだし味わうことは難しいとも言えそうだ。普段読んでいる小説をはじめとした大人向けの本は、行間に埋め込まれたストーリーがあるとしても、基本的には本に書かれた言葉で具体的なストーリも心の動きも表現されていく。表現のために作家によって生み出された言葉、その言葉どう紡がれ、何を表現していくのかに物語の良さがある。絵本は大人向けの本とは対極にあるのかもしれない。

 何となくそんなことを思い浮かべながら、絵本を読んでいた。

 語られない物語を紡ぎだす心と想像力が私にもっとあれば、この絵本ももっと豊かにお話を展開するのだろうな。そう思うと少し悲しい。

 さて、この絵本、入学式の祝辞に使えないかな・・。


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