夏目漱石の『それから』の代助は大人になっても親の金で暮らし、定職についていない。「遊民」である。友人が「なぜ働かない」と詰問すると「世の中が悪いからだ」と言う。
日本は無理に一等国の仲間入りをしようとしている。国民は切りつめた教育で、こき使われるから神経衰弱になっている。そんな社会では働きたくないというのだ。
その例えとして「牛と競争する蛙と同じことで、もう君、腹が裂けるよ」と、語っている。
「牛と競争する蛙」はイソップ寓話(ぐうわ)でもポピュラーな話だった。
子供の蛙から初めて見た牛の話を聞いた母親の蛙が「そいつはこのくらい大きかったかい」と、腹をふくらませる。「いやいやもっと」と言われ、無理に腹を大きくしているうちに、とうとう破裂する。
イソップの寓話は時代により変容しており、この話にもさまざまなバージョンがあるが、蛙が牛に見せようと無理に腹を膨らませるのが基本だ。
小堀桂一郎氏は、著書『イソップ寓話』で『それから』が書かれた明治40年代、日本でのイソップの普及率は相当高かった、と述べる。だから「漱石は、彼の読者達のうち誰一人として知らぬ者はない有名な、よく普及した譬喩(たとえ)と考えてこの牛と蛙の話を自分の作品中に持ち出したものであったろう」と、推察している。
「無理に一等国に…」は、漱石が日露戦争の直後から日本に発していた警告だった。もっと早く耳を傾けるべきだったのかもしれない。それどころかこの寓話すらも、今や日本人から忘れさられたような気がする。
(皿木喜久)
(MSN)