渡辺姓の探検室

全国第五位の大姓 渡辺氏の歴史を探るブログです。

嵯峨天皇

2007-07-12 15:01:53 | 渡辺さんの由来
《嵯峨天皇》
第五十二代天皇 はじめ神野(かみの)親王
延暦5年(786)生~承和9年(842)崩御 在位:大同4年(809)~弘仁14年(823)
桓武天皇の第二皇子 母は藤原乙牟漏 同母兄に平城天皇 異母弟に淳和天皇他
皇后は橘嘉智子(檀林皇后)

病弱の兄平城天皇はわずか3年で退位し大同4年即位しました。しかし、即位後すぐに大きな試練が待ち構えていました。
●薬子の変
平城京に静養していた平城上皇は再び国政に関心を示し、藤原式家の藤原仲成・薬子らと政界復帰を画策しました。上皇は大同4年(809)11月平城京に新宮殿の造営を始め、翌大同5年(810)には平城京修復の功労者に対し独自に叙位を行い、同年9月には「平城京遷都」の詔まで出しました。
この間、嵯峨天皇は新たに蔵人所を設けて藤原冬嗣らを配置し、天皇から指示命令の機構改革を行いました。
しかし、これ以上は「二所の朝廷」の分裂状態を放置できず、ついに嵯峨天皇は弘仁元年(810)9月10日「藤原仲成の佐渡左遷、薬子の宮中追放」を決定します。
これに対し平城上皇側は東国へ逃亡しようとしますが、坂上田村麻呂によって上皇軍の動きは封じ込まれ、仲成は射殺され薬子は自殺し、上皇は剃髪して仏門に入りました。
この結果、平城上皇の第三皇子高岳親王は廃され、異母弟の大伴親王(淳和天皇)皇太弟に立てられました。
その後、在位30年間は政局も安定し宮廷文化の華がひらきました。

嵯峨天皇は、幼くして聡敏で学問を好み、周りに霊気立ちこめ、自ずから天子としての器量があり、漢詩や書道に興味をもち、長じて経書や史書を博覧したといわれています。
嵯峨天皇、空海、橘逸勢(嵯峨天皇皇后の従兄)は能筆家として後世「三筆」と称えられています。天皇は、空海(弘法大師)や小野篁、橘逸勢などの人材も積極的登用しました。
また、律令制を整備するため『弘仁格』『弘仁式』が編纂され、弘仁10年(819)には『続日本紀』に次ぐ史書の編纂を命じています。
晩年を過ごした嵯峨院には多くの文化人を集め、彼らを支援し平安の華やかな文化の基礎を作る働きをしました。
嵯峨天皇は皇妃を寵愛し多くの皇子女に恵まれました。朝廷財政の逼迫していることから、皇子女を臣籍降下させ源朝臣姓を与えました。世にいう“嵯峨源氏”の始まりです。

嵯峨天皇は承和9年(842)7月嵯峨院で崩御しました。陵墓は嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)に造られましたが、葬送は遺詔により徹底した薄葬であったといいます。
天皇が崩御は、次の藤原北家の台頭をもたらすことになります。

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