渡辺姓の探検室

全国第五位の大姓 渡辺氏の歴史を探るブログです。

源頼光と一条邸

2008-10-06 08:16:27 | 渡辺さんの由来
《源頼光と一条邸》
所在地 京都市上京区堀川通一条東入ル
2008年7月京都歴史地理同考会によって建立された石碑の側面に、「藤原道綱母子 源頼光 一条邸跡」と記してあります。

源頼光(みなもと の よりみつ) 天暦2年(948)生~治安元年(1021)歿。
渡辺綱を始め、四天王と呼ばれる家臣を率い武勇の人として称えられる武将です。俗に、「みなもとのらいこう」と呼ばれることもあります。

鎮守府将軍満仲の長男で、父満仲の遺領摂津国多田(兵庫県川西市)を相続しました。
この子孫は「摂津源氏」と呼ばれ、異母弟源頼信の子孫は「河内源氏」と呼ばれ後に源義家が出て武家源氏の主流となります。
源頼光は但馬国・伊予国・摂津国の受領を歴任し多くの財産を蓄えました。一条に邸宅を構え、たびたび藤原道長に進物をして、時の権力者藤原摂関家の家司として源氏の興隆の礎を築きました。
大江山の酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話が知られています。


無料テキスト 3ヶ月で出来る150年家系図
PDFファイルにて無料配信、ワードファイル希望の方はお知らせください
お申し込みはこちら


無料メール・マガジン「先祖はだれ? かんたんルーツ探検」も配信中
先祖・ルーツ探検や家系図作成に役立つ情報を紹介しています。
お申し込みはこちら

よろしければ、Facebookの
「いいね!」ボタンをポチットお願いします。!!ニコニコ
家系図作成 ~家族の樹



Facebookページも宣伝



坐摩神社(いかすりじんじゃ)

2008-09-08 09:32:15 | 渡辺さんの由来
《坐摩神社(いかすりじんじゃ)》
所在地 大阪市中央区久太郎町4-3

大阪市中央区にある坐摩神社は、かつて渡辺津があった場所(現在の中央区石町)にありました。天正11年(1583)大坂城築城により現在地へ移転したといわれています。

坐摩神社は神功皇后が三韓征伐より帰還し淀川河口の地に坐摩神を祀ったことに由来し、住吉大社と同じく摂津国一宮を称しています。世襲宮司の渡辺氏は都下国造の末裔、或いは嵯峨源氏渡辺氏の流れを汲むといわれています。


よろしければ、Facebookの
「いいね!」ボタンをポチットお願いします。!!ニコニコ
家系図作成 ~家族の樹



Facebookページも宣伝



古今著聞集の渡辺綱 3

2008-07-02 09:24:07 | 渡辺さんの祖渡辺綱
古今著聞集 巻第九 武勇十二
《源頼光、鬼同丸を誅する事》③
頼光、あんのごとくに来たりけり。浄衣(禊の装束)に太刀をぞはきたりける。渡辺綱・坂田公時・碓井定道(貞光)・卜部季武など、皆供にありけり。頼光、馬をひかへて、「野のけしき興あり。牛その数あり。おのおの牛おふものあらばや(牛追物をしよう)」といはれければ、四天王の輩、我も我もと懸けて射けり。実に興ありてぞ見えける。
その中に、渡辺綱いかが思ひけん。とがり矢をぬきて死にたる牛に向ひて弓を引きけり。人あやしと見る所に、牛の腹のほどをさして矢をはなちたるに、死にたる牛ゆすゆすとはたらきて腹の内より大の童、打刀をぬきて走り出でて、頼光にかかりけり。見れば鬼同丸なりけり。
矢を射たてられながら、なほ事ともせず敵に向ひけり。頼光もすこしもさわがで太刀をぬきて、鬼同丸が頸を打ち落としてけり。
やがてもたふれず、打刀をぬきて鞍のまへつわを突きたり。さて頸は、ぬながいに食ひつきたりけるとなん。死ぬるなで武くいかめしう(勢いはげしく)侍りけるよし、語りつたへたり。実なりける事にや。され頼光はそれより帰りにける。

『古今著聞集 上』新潮日本古典集成より

よろしければ、Facebookの
「いいね!」ボタンをポチットお願いします。
家系図作成 ~家族の樹



Facebookページも宣伝



古今著聞集の渡辺綱 2

2008-06-30 07:44:24 | 渡辺さんの祖渡辺綱
古今著聞集 巻第九 武勇十二
《源頼光、鬼同丸を誅する事》②
鬼同丸、頼光ののたまふ事を聞くより、「口惜しきものかな。何ともあれ、今夜のうちに、この恨みをばむくはんずるものを」と思ひゐたりけり。盃酌数献になりて、頼光も酔ひて臥しぬ。頼信も入りにけり。夜の中しづまるほどに、鬼同丸、屈強のものにて、いましめたる縄・金鎖ふみ切りてのがれ出でむ。狐戸より入りて、頼光の寝たるうへの天井にあり。この天井ひきはなちて落ちかかりなば、勝負すべき事、異義あらじ(むずかしくあるまい)と思ひためらふほどに、頼光も直人(ただひろ)にあらねば、早くさとりにけり。落ちかかりなば大事なりと思ひて、「天井に、いたちよりも大きに、テンよりも小さきものの音こそすれ」といひて、「誰か候」と呼びければ、渡辺綱、なのりて参りたりけり。「明日は鞍馬へ参るべし。いまだ夜を籠めて(夜が深いが)、これからやがて参らんずるぞ。某々供すべし」といはれければ、綱奉りて、「皆これに候」と申してゐたり。
鬼同丸この事を聞きて、ここにては今は叶ふまじ、酔ひ臥したらばとこそ思ひつて、なまさかしき事しいでてはあしかりなん、と思ひて、明日の鞍馬の道にてこそ、と思ひかへして、天井をのがれ出でて、鞍馬のかたへ向きて、市野原の辺にて、便宜の処を求むるに、立ち隠るべき所なし。野飼ひの牛のあまたありける中に、ことに大きなるを殺して路頭に引き伏せて、牛の腹をかきやぶりて、その中に入りて、目ばかり見だして侍りけり。~(続く)

『古今著聞集 上』新潮日本古典集成より

よろしければ、Facebookの
「いいね!」ボタンをポチットお願いします。
家系図作成 ~家族の樹



Facebookページも宣伝



古今著聞集の渡辺綱

2008-06-19 09:16:01 | 渡辺さんの祖渡辺綱
古今著聞集 巻第九 武勇十二
《源頼光、鬼同丸を誅する事》①
源頼光(948~1021)朝臣、寒夜に物へありきて帰りけるに、源頼信(968~1048)の家近くよりたれば、坂田金時(頼光四天王の一人)を使にて「只今こそ罷り過ぎ侍れ。この寒さこそはしたなけれ。美酒侍りや」といひやりたりければ、頼信朝臣、折ふし酒飲みてゐたりける時なりければ、興に入りて「只今見む様に申し給ふべし。この仰せ殊に悦び思ひ給ひ候ふ。御渡りあるべし。」といひければ、頼光則ち入りにけり。
盃酌の間、頼光厩の方を見やりたりければ、童を一人いましめて置きたりけり。あやしと見て、頼信に「あれにいましめておきたるものはたそ」と問ひければ、「鬼同丸なり」とこたふ。
頼光驚きて「いかに鬼同丸などを、あれていにはいましめ置き給ひたるぞ。(罪を)をかしあるものならば、かくほどあだにあるまじきものを(いい加減な縛り方ではだめだ)」といはれければ、頼信、「実にさる事に候」とて郎等を呼びて、なほしたたかにいましめさせければ、金鎖を取り出して、よく逃げぬ様にしたためてけり(縛り上げた)。~(続く)

『古今著聞集 上』新潮日本古典集成より

よろしければ、Facebookの
「いいね!」ボタンをポチットお願いします。
家系図作成 ~家族の樹



Facebookページも宣伝



渡辺津

2008-06-17 15:46:04 | 渡辺さんの由来
《渡辺津(わたなべのつ)》
旧淀川河口近くにあった港。現在の 天満橋から天神橋の間辺り]といわれています。まさに、大阪のど真ん中です。
「渡辺津」は瀬戸内海と京都を結ぶ水上交通の拠点として、また淀川の渡し場として栄えました。近くには四天王寺や住吉大社があり、熊野詣では「渡辺津」が起点であったといわれています。室町後期には近くに浄土真宗の本拠石山本願寺が築かれています。
ここを名字の地とした渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団を起こしました。港に立地することから水軍として勢力を持ち、瀬戸内水軍の棟梁となりました。「渡辺津」にちなんだ「渡辺橋」が四つ橋筋にありますが、渡辺津のあった場所から少し下流にあります。

よろしければ、Facebookの
「いいね!」ボタンをポチットお願いします。
家系図作成 ~家族の樹



Facebookページも宣伝



平家物語の渡辺綱4

2008-06-01 06:38:15 | 渡辺さんの祖渡辺綱
平家物語 剣の巻
《一条戻橋での鬼退治》④
来し方、行く末の物語りして、「さても物忌とは何事ぞ」とたづねければ、隠すべきことならねば、ありのままに語る。母、「さほどのこととは知らずして恨みしことのくやしさよ。されども親はまぼりなれば、いよいよつつがなかるべし。さて、その鬼の手といふなるもの、世の物語に見ばや」とぞ望みける。綱は「見せじ」とは思へども、さきの恨みが肝に染み、深く封じたる鬼の手を取り出し、養母に見せければ、「これはわが手ぞや」とておそろしげなる鬼になり、破風蹴破り、出てにけり。それより渡辺党は家に破風をたてず。あづまやにつくるなり。鬚切、鬼を切りてより「鬼丸」と改名しけり。

『平家物語 下 巻十一剣の巻下』新潮日本古典集成より

よろしければ、Facebookの
「いいね!」ボタンをポチットお願いします。
家系図作成 ~家族の樹



Facebookページも宣伝



平家物語の渡辺綱3

2008-05-30 07:53:13 | 渡辺さんの祖渡辺綱
平家物語 剣の巻
《一条戻橋での鬼退治》③
これを持参しければ、源頼光おどろき給ひて、播磨なる晴明を呼びて問はれければ、「綱には七日のいとま賜はつて、仁王経を購読すべし」とぞ申しける。第六日になる夜、門をたたく者あり。「たれ」と問へば、「綱が養母、渡辺よりのぼりたる」とこたふ。この養母と申すは、綱がためには伯母なり。「人してはあしかりなん。」とて綱立ち寄りて言ひけるは、「七日の物忌にて候へば、いづくにも一夜の宿を借り給ひて、明日入らせ給ふべし」と言えば、母さめざめと泣き、「生まれしよりあらき風にもあてず、人だてし甲斐ありて、頼光の御内に『箕田源四』とだに言ひつれば、肩を並ぶる者なし。うれしきにつけても、恋しとのみ思へば、このごろはひとしほ夢見心もとなくてのぼりたるに、門をさへひらかざりし。かかる不孝の咎なれば、神明もまぼり給はじ。七日の祈誓よしなし。今よりは子ともたのむべからず。親と思ふなよ。」とかきくどき言ひければ、綱は道理にせめられて、「たとひ身はいかになるとも」とて、門をひらきて入れてげり ~(続く)

『平家物語 下 巻十一剣の巻下』新潮日本古典集成より

よろしければ、Facebookの
「いいね!」ボタンをポチットお願いします。
家系図作成 ~家族の樹



Facebookページも宣伝



平家物語の渡辺綱 2

2008-05-26 06:25:35 | 渡辺さんの祖渡辺綱
平家物語 剣の巻
《一条戻橋での鬼退治》②
女房申す様、「わが住む所は都のほか。おくり給はんや。」
「さん候」とこたへたければ、「わが行く所は愛宕山ぞ」とて、綱が髻(もとどり)ひつ掴んで、乾(西北)をさして飛んでいく。綱はちともさわかず、(源家の名刀)鬚切を抜きあはせ、「鬼の手切る」と思へば、(綱は)北野の社の回廊の上にぞ落ちにける。
髻につきたる手を取ってみれば、女房の姿にては雪の膚とおぼえしが、色黒く、毛かがまりて小縮みなり。~(続く)

『平家物語 下 巻十一剣の巻下』新潮日本古典集成より

よろしければ、Facebookの
「いいね!」ボタンをポチットお願いします。
家系図作成 ~家族の樹



Facebookページも宣伝



平家物語の渡辺綱

2008-05-21 16:36:47 | 渡辺さんの祖渡辺綱
平家物語 剣の巻
《一条戻橋での鬼退治》
源頼光の郎等に「渡辺の源四郎綱」という者あり。武蔵の国箕田といふ所にて生まれければ、「箕田の源四」と申しけり。頼光の使として一条大宮につかはしけるが、夜陰におよび馬に乗り「おそろしき世の中なれば」とて(綱に源家名刀の)鬚切を帯かせらる。
一条堀川の戻橋にて、齢二十あまりの女房の、まことにきよげなるが、紅梅の薄衣の袖ごめに法華経持ち、懸帯してまぼりかけ、ただ一人行きけるが、綱がうち過ぐるを見て、(女房が)「夜ふけ、おそろしきに、送り給ひなんや」となつかしげに言ひければ、綱、馬より飛んでおり、「子細にやおよび候ふべき」とて、いだいて馬に乗せ、わが身も後輪にむずと乗り、堀川の東を南へ行きけるに、~(続く)

『平家物語 下 巻十一剣の巻下』新潮日本古典集成より

よろしければ、Facebookの
「いいね!」ボタンをポチットお願いします。
家系図作成 ~家族の樹



Facebookページも宣伝