旅と酒とバッグに文庫本

人生3分の2が過ぎた。気持ちだけは若い...

たまにはTVも、いいもんだ

2011年09月28日 | Weblog

昨夜、BS朝日放送で青森の農民画家「常田健」を紹介する番組があって
僕はそれをHDに録画しておいたので、風呂上りに観た。
中央画壇に登場することも無く、絵を売ることもなく、また作品を発表することも無く
農業を営みながら、絵を描くことに集中して生きた彼の生き様がみられて面白かった。
もう少し絵を写して欲しかったが、彼の絵からは力強さとともに、穏やかで優しい彼の視線が感じられ
アースカラーである、緑や黄土色の色彩が多く見られ、大変興味を魅かれた。

それでも、やはり青森の地主の長男として生まれた故の裕福さというか、余裕のようなものがあって
土蔵を改造したアトリエを持ち、リンゴを栽培しながらも、その利益追求に走ることも無く
実に優雅な絵画的生活だったようにも思えた。

それから、ふいにチャンネルを変えると、古い映画をやっていた。
ロシアの大自然の中で、ロシア将校と漁師らしき人物が、死に目に遭いながら知恵と勇気で生き抜く
素朴な感動を覚える映画で、僕は思わずその画面に引き込まれてしまった。
これは、究極のアウトドアというかサバイバルであり
自然と人間の調和であり、対決だった。
映画は2部構成で成っており、1部が終わったところで、この映画が「デルス・ウザーラ」であることがわかった。
結局、最後まで観てしまったら、終わったのは午前零時を廻っていた。
「デルス・ウザーラ」という題名には、遠い記憶があり、ずいぶん前にその名前を耳にしたことがあった。
映画が終わり、字幕が出て、僕は初めてこの映画がクロサワ監督によるものだと判明した。
確か、「どですかでん」という映画を観た記憶があり、その頃に同じクロサワが撮った映画だったと記憶が蘇った。
調べてみると、「どですかでん」が1970年、「デルス」が1975年の作品。
僕が大学生で、もしくは卒業したばかりで、一番多感だったころの映画だ。
僕はこの映画は両方とも観ている。
すっかり忘れてしまっていたが、どこかで記憶の片隅に引っかかったような気がしたのはそのせいだ。

僕はクロサワよりも今村昌平のほうが好きで、三船敏郎や仲代達矢といった俳優もあまり好きでなかったので
当時は、クロサワのことはあまり気にかけてなかった。

しかし今、こうしてTV画面でではあるがこの「デルス…」を観ると、
さすがにクロサワは偉大だなあ~と感心してしまうよりほかはない。
いや、むしろこの「デルス…」というクロサワにとっても異色の作品だからこそ
僕は感心してしまったのかもしれない。

いや、たまにはTVもいいもんだと思った。


旅を終えて

2011年09月15日 | 

8月初旬の暑い盛りに旅に出て、真っ黒に日焼けしながら愛車のカブを走らせたのが嘘のように
最近は、朝晩涼しくなり、先日カミさんと久しぶりに出掛けた九重の長者原では、早や秋の気配の風。
空は抜けるような青空で、まだ日中は暑いものの、高原や木陰では涼しくて気持ちが良い。
夕方、別府の街に降り、鉄輪の温泉に浸かると、露天風呂が気持ちよい。

このところ仕事がまだ暇なため、週に何度か近くの平尾台から貫山へとトレールし体力を養っている。
ここにも、秋の気配は薄っすらと有り、風と虫の音が気持ちを良くしてくれる。
貫山頂では、上着を脱いで裸になり身体を冷やすも、まだ強烈な太陽のおかげでかなり日焼け。

山頂の風に吹かれながら、つくづく今年の旅は終わったのだなあと実感するとともに
来年はまたどこへ行こうかしらんと、そのことを思うと気分も浮き浮きする。

今回の旅の想い出は、深く胸の奥に刻み込まれ
ブログには詳細に記憶や会話を書き記すことによって、後にいつでもその記憶を
詳細に辿ることを容易にしたつもりである。
だからこれは、悪魔でもごく個人的な日記のようなものなのだ。
その日記に、いつもコメントを下さる方々には本当に感謝する。
できればその方々と旅を共有したいものである。

もうしばらくすると、仕事がとても忙しくなる。
だがその仕事も、一月もすれば大体片付く。
以前ほどの入れ込みは無くなった。
ただ、淡々とこなすのみである。
苦あれば楽有り。その後には秋の冷涼な季節が待ち受けているではないか。
今年は仕事は二の次にして季節を楽しむことにしよう。
いずれ人間が住めなくなるかもしれないこの日本のことを思うと
刹那の季節感がとても愛おしく感じられてしまう。

この何日か、五十肩でとても苦しい思いをしている。
整骨院にも通うが、なかなかである。
痛みで朝起きるのが辛い。

旅中に読み終えた福澤徹三の「汝、隣人を愛せよ」のあと読み終えた本。
久坂部羊「神の手」上下巻、桐野夏生「ポリティコン」上下巻、野田知佑「僕の還る川」part1,2
ヤン・ソギル「Y氏の妄想録」、辺見庸「美と破局」、志賀直哉「城崎にて」。
町田康の「東京飄然」と平野啓一郎「エッセイ」は途中で読むのを止めた。
評論や随筆よりも、作品そのものの方が私には楽しい。


カブは頼もしい奴

2011年09月13日 | 



さて、真夏の旅からちょうど1ヶ月という月日が経った。
8月の今頃、僕は身近島を出て、遥か北九州の我が家まで、一目散に駆けて行った。
愛車のカブは、一度も故障することも無く、リッター60キロという驚異的な燃費でもって、
お金の無い僕の懐を暖かくしてくれたのだった。
その代わりといっては何だが、太股の汗疹と強烈な日焼けが僕を待っていた。

身近島では、時間が許されるならもう2,3日は滞在したかった。
ここのキャンプ場は非常にユニークな存在で、キャンパーの経歴が並大抵のものではない方が多い。
昨年ここで会った方もそうだったし、今年出会った方も旅の達人のような方だった。
ここには多くの野宿遍路や日本全国を旅している強者が集まるようだ。

昨夕、掃除に来られた管理人の年配の方と僕と先人(A氏としておく)の方とでしばらく雑談した。
もう、1週間はここに居るというAは、四国での遍路を何度かやっており、若い時から
家庭も職も持たず、ずっと全国を放浪して廻っているらしかった。

「彼女とはどこで知り合ったんですか?」
「以前、四国でお遍路やってる時に、偶然出会ったんです。彼女、若いのに一人で危険な遍路道を歩いていたし
あちこちで、野宿なんかして廻っていたので、気をつけないと危ないよと注意したのが切っ掛けなんです」
「じゃ、それからずっと一緒に?」
「いや、そうじゃなくて、その時は一緒に廻ったんですが、彼女は名古屋で介護の仕事をしているんで
僕が四国や彼女の近くにいった時に、遊びに来ないかと連絡したりするんですよ」
「じゃ、今回も名古屋から?」
「ええ、昨日来たばかりなんです。一人でお遍路やってたくらいだから、肝が据わってるのかと思ってましたが
テントで寝るなんてほとんど経験がないみたいで、昨日も虫が出て大騒ぎでした」

彼女は無口で、たまに愛想笑いするくらいで、ほとんど会話には加わらなかった。

「今回もお遍路で?」
「いや、今回は何となく四国を廻っているんですが…。もうかれこれ、2,3回全部の寺を廻りましたしね…」
「えーっ、ずっと歩きですか?」
「ええ、お金もないし車も持ってないので歩きです。でも結構お接待で皆さん良くしてくれますし、ご飯をご馳走になったり
アルバイトの世話をしてくださっりで、まったく不自由は感じませんね」
「失礼ですが、今おいくつなんですか?」
「53歳になります」
「もう若いときからずっとこんな生活を?」
「ええ、若いときはずいぶん悩みもしましたし、将来のことを考えると憂鬱になったりもしましたが
あっという間ですよ、本当に。でもこの歳まで来ると、なんだか楽観的になってきました」
「彼女とは、一緒にならないのですか?」
「まさか?、収入も無いのに結婚なんかできませんよ。僕は今のままで充分です」
「でも、女性の方は、そうはいかないでしょう?」
「いや、今のところですが、こうして時々会って、一緒に旅したりする生活に満足してるみたいですけどね。
結構、介護の仕事はハードなんで、時々こうして息抜きにくるんですよ」

二人は、とても仲睦まじく食事をしている。
時々会話する声が聞こえるくらいで、悠長な時が流れる。
ワンセグでテレビを観て、一緒に笑ったり…。
他愛も無い会話が時々、僕の耳に届く。
男と女の情的な関係がほとんど感じられない。
まるで、茶の間で過ごしている日常のような光景だ。

「四国以外はどちらへ?」
「日本全国です。北海道から沖縄まで。夏は北海道に居て、寒くなる前に南下して、冬には暖かい石垣島まで行きます。
定期的に、アルバイトの農作業が決まっているんで、沖縄と北海道は、まあ働きに行くようなもんですけどね」
「あっ、その話聞いたことがあります。けっこうそうして日本国中旅している人が多いとか…」
「ええ、会わせる顔は決まっていますね、だいたい…」
「ずっと歩きなんですか?」
「いや、鉄道やバスも使いますよ。お金があるときは旅して、無くなると途中でも働いて…。けっこう知り合いが多くなって
色んなところで泊めてもらったりもします。四国の遍路で覚えた般若心経で、托鉢なんかもしますけど
けっこうそれで生きてゆけますよ。田舎は特に情が厚いですからね。」

管理人のおじさんも愛想よく、彼らに米などを提供してくれたそうだ。
そうか、こういう生き方もあったのか。
だけど、その生き方を実践している人とこうして出会ったのは初めてだが
まったく貧乏臭くない。
顔に悲壮感や屈辱感がないのがいい。
人は、ある決意とともに、こんなにも自由に生きて行けるんだと思うと、思わず唸ってしまう。
僕の今までの人生は一体全体、何だったのだろうと。

彼との話は尽きない。
このまま、ずっとここに居て、目の前のうみで泳いだり、隣の島まで買い物に行ったり、そして彼と話たしたい。
しかし、現の事実が目に浮かぶ。
盆の墓参りや、遣り残した仕事、カミさんのこと等々…。
いまの僕は、やはりまだ帰らなければならないのだ。
いろんなことを捨て去るには、いろんなことを曖昧にはできない。
きちんと決着を着けなければならないのだ。
いや、もしかするとそれは邪道なのかもしれない。
捨てるということは、惜しげもなく捨て去ることなのだから、とも思う。
煩悩は尽きない。
近いうちに、僕も歩きの遍路をやってみることにしよう。突然そう思ったりもする。
中田氏は無事、今回のお遍路を貫徹しただろうか?

ふと、知り合いのH氏がくれた古い映画のDVDを思った。
「旅の重さ」、若き高橋洋子氏が主演した懐かしい映画である。
四国のお遍路をやりながら、母親から自立する少女像の内容だったように思う。
吉田拓郎の「今日までそして明日から」が主題歌に採用されていた。
「あのころは良かったなあ~」的な懐かしさがこみ上がる。

さて、いろんな想いを振り切るように僕は、彼らに別れを告げ、カブのスターターをキックする。
いつものように、快調なエンジン音。
彼らの、この関係がいつまでも続くことを祈りながら、走り出す。

途中、大島で、昨日キャンプ場に居た年配の野宿者が歩いているのを見かける。

「昨日はよく眠れましたか?」
「あっ、おはようございます。きのうはどうもありがとうございました。」
「いえいえ、大したこともできませんで。お遍路さんですか?」
「いえ、私は歩いてしまなみを旅しています」
「そうですか、お気をつけて」

旅の形はいろいろである。


朝の「しまなみ」は思ったよりも、通勤のバイクが多い。
絵に描いたような晴天の空の下、朝の涼しい海の空気を感じながら大島を抜け、今治へと走る。
国道196号線。海岸沿いの道路は快適で、いくつかの海水浴場や漁師町を抜ける。
しかし、海岸沿いの道を抜けると、通勤の渋滞が始まる。
朝の通勤時間帯の町を走ることほど嫌なものは無い。
渋滞と喧騒。まったく気分が滅入る。しかも暑くなる。
松山まで、たっぷり2時間は掛かった。
松山から伊予まで56号線。
ここも車が多く、しかも車線が多いので、原付にとっては苦手な道だ。
しかし、あとしばらくの辛抱。伊予まで走ると、海沿いの378号線に入ることになる。
僕は、56号線は使わずに、海沿いの378号線を選択し、三崎港まで走ることにしたのだ。
少し遠回りに思うが、片側1車線の海沿いの道の魅力は捨てきれない。

思ったとおり、378号線は今まで走った四国の道の中では僕は一番推奨する。
交通量も少なく、景色が良く、瀬戸内の風光明媚な光景に思わず見とれてしまう。
この道路は「夕やけ子やけライン」と呼ばれている。

大洲市に入り、しばらく行くと、「じゃこ天」の幟旗が目立つ。
そういえば、小腹が空いてきたので、おやつがわりに食べることにする。
時間も11時半過ぎ。身近島を出てから4時間半も走り続けている。



小さな倉庫のようなところで「じゃこ天」を売っていたので入って行く。

「こんにちは。じゃこ天をください」
「はい、何枚ですか?」
「う~ん、2枚くらいでいいかな?」
「はい、まいど、ありがとう。200円です」
「ここで食べてもいいですか?」
「ああ、いいよ」

狭い店内の小さな丸イスに腰掛けて、その場で食べる。

「美味いですね、これは。僕はもともと練り物は好きなんだけど、これは美味い」
「美味いじゃろ、水飲むかい?」

と、冷たい水を冷蔵庫から出してくれる。
70才過ぎくらいのご老人が一人でじゃこ天を揚げている。

「ああ、どうも。ところでこのじゃこ天っていうのは、ちりめんじゃこが 入っているんですか?」
「みんなそう言う人が多いね。じゃこってえのは雑魚のことだよ。ざつぎょと描いて雑魚。そこからじゃこ天なんじゃよ。
わしは昔、漁師やっててな、ほじゃから自分でよう作っとったよ。いろんな小魚でな。
わしんところのは、アジ、イワシ、メンボウ、ヒイラギ、太刀魚、いろんなものが入っとる。」
「ああ、だから味に深みがあるんですね。いや~本当に美味いっすよ」
「これ食べてみ。揚げ立ちやから美味いで。なあ、美味いやろ、揚げ立ちは」
「熱っ、いや~最高」
「ほれ、もう1枚。金はいらんから食べなさい」
「いや~、いいんですかね?」

ということで、計4枚も食べてしまった。
その間にも大口の注文が入り、忙しそうだったが、僕のことを気に入ったのか
女性の好みのことや、漁師をやってた頃の事などお構い無しに話し、
僕がカブに乗って北九州から来たことなど告げると

「小倉な?わし、よう競馬場に通ったな昔は」
「あっ、家は競馬場のすぐ近くですよ」
と言うと、また、ただでじゃこ天をくれそうになったので、丁重にお断りした。
これ以上食うと、お昼が食えなくなってしまう。

「さっき、ここ居ったやろ、よう太った女子が。あれがわしの母ちゃん。やっぱり女は少し太ったのがええなあ」

と、自分の嫁さん自慢なんかしたりして、とても気さくなご老人。

「少しじゃないな、ビヤ樽やな、今は。昔はええ女子じゃったがなあ~」



僕は噴き出しそうになりながら、2枚分200円を払って、丁寧にお礼を言い
また来た時には寄るので、いつまでも元気で商売するようにと願った。

八幡浜近くまで来ると、今度は「佐多岬メロディーライン」の197号線を走る。
ここから三崎港までは、一直線である。
今回の四国の旅の初めに走った道である。
実は、旅の終わりに三崎で美味い魚でも食べようと思っていたのだが
じゃこ天4枚で、お腹は満腹。
このままじゃ、何も食えないなと、どこかに寄り道を考える。



伊方町。
そういえば、今話題の原発、しかも四国唯一の原発がこの伊方町にある。
メロディーラインの途中で、伊方町の表示。
僕は、そこを行き過ぎて、ふと我に返ったようにカブをUターンさせ、伊方町の街中に入って行く。
四国の小さな地方漁師町に似つかわしくないような立派な役所や周りに居並ぶ、きれいな民宿。
官舎なのか町営住宅なのか、真新しい瀟洒なコンクリート住宅が立ち並ぶ。
こいつが原発マネーの力なのか、と思う。
ネットで見聞きしたとおりの街の景観。
小さな漁村が点在するしかないこの岬に、ここだけはちよっと異様な感じがする。

街中に入ると、その居住まいは寂れた地方の漁師町そのもの。
僕はお目当てのJAショップを探し、JAのみかんジュースをお土産に購入する。
本当は沢山買って皆さんにお配りしたいところだが、重いので3本にする。
つぶ入りのみかんジュースは1ダース単位でしか販売してなかったが
人の良いショップのおばさんが、特別に分けてくれた。
この町は、地方にある町の例に漏れず疲弊しているのだが、そこに住む人は素朴で人が良い。

何か、ちぐはぐな感じの伊方町を出て、三崎港に向かう。









途中、「伊方原発ビジターセンター」という看板を見つけたので行って見ることにする。
ビジターセンターというからには誰でも入れるのだろうと勝手に想像し
もし断られれば、その理由を問いただすべしと、ズカズカと入ってみると
そこはやはり名前の通り、誰もが訪れることのできる原発宣伝の施設。
受付嬢は愛想よく、美人ばかりで、パンフレットや団扇までくれる。
よくもまあ、この狭い町でこれだけの美人ばかり集めてきたものだと感心するほどの器量良しばかり。
館内は節電どころか、冷房が良く効いており、天国のような涼しさ。
しかし、展示している内容は全くの子供騙し。
あまりに観るものなく、退屈なので、子供たちは机で勉強しており
付き添いの保護者はソファーで昼寝の真っ最中。
よくもまあ、お金を掛けてこんな施設を作ったものだと感心するというか呆れる。
僕はこういった施設に来るといつも思うのだが、賛美、宣伝することばかりでなく
反対の見方なども情報を開示し、様々な方向からそのことの本質を考えさせるようにしたほうが効果的なのだ。
でなければ、こんな施設を作るよりも、原発そのものを見学させてくれたほうが良い。
見識の浅さを露呈するような施設なんか作ると、自らの下らなさを開示しているようなものである。
それともなにかい?そうまでして隠しおきたい事実でもあるのかい?
早々にここを後にする。実に下らなかった。

三崎港には13時ごろ到着。
今日の昼飯は豪勢に刺身のオンパレードで美味い潮汁など飲みながら食事をしてやろうと思っていたのだが
例のじゃこ天がお腹に効いており、仕方なく港近くの店で「うに丼」を頼む。
それでも昼食に2000円は僕にとって大判振る舞いなのである。
可も無く不可も無く、うに丼は美味かったが、美味いのは当たり前で



港町で2000円払って不味いうに丼でも食わされた日にゃ、店の看板でも蹴飛ばしてやりたくなるだろう。
もう少し腹を減らしてくるか、もうちょっと店を探してみればよかったと思った。

14時30分のフェリーで佐賀関に渡ることにする。
いよいよ四国ともお別れである。

三崎港を出ると、無数の風力発電の風車が目に付く。
まるで見せかけのような自然エネルギーの利用。
その下には四国の電力の80%を賄うという原発が延々と稼動しているのだ。
もしこの原発に異常が生じれば、対岸の九州も何もなかったでは済むまい。

15時40分過ぎ、少し遅れて佐賀関に到着。
いよいよ我が九州に帰り着いた。
ここまででも今日は130~40キロくらい走ってきただろう。
これから北九州まであと140キロ以上あるだろう。
合計すると1日で300キロ近くになる。
ただ、九州に来ると、勝手知ったる道で、不安感は無い。
あとは体力勝負である。

大分を経て別府に近づくころには、そろそろ夕方のラッシュが始まる。
しかもまた雨が降り始め、大粒の雨になってきたので別府の街の歩道橋の下でレインコートを引っ張り出す。

走れば走るほどに北九州に近づく。
雨のせいで、宇佐に着くころには暗くなり始める。
いつものように鰻の「志おや」で旅の最後を締めくくる食事を摂る。
うな重、松を注文する。
四万十の天然鰻とは全く違ったホクホクの食感。濃いタレの味。
やはり慣れた味は美味い。2000円。
今日は昼飯と晩飯で4000円か、大名旅行だな、これは…。

中津のガソリンスタンドで最後の給油。
スタンドのお兄ちゃん曰く
「このカブで今から小倉まで帰るんですか?」と、呆れたように聞いてきたので
「うん、今日は四国の今治からここまで走ってきたんだよ」
「ふぇー、本当ですか?」

途中、何度かトイレ休憩を取り、夜10時半頃我家に着く。
我家には博多から娘も帰ってきており、久しぶりの対面。
走行距離1300キロの今年の四国の旅は終わった。
カブはなんて頼もしい奴なんだろう。
旅のお供には最適である。


「しまなみ」再び、そして身近島

2011年09月06日 | 



さて、最近台風が来て一過とはいきませんでしたが、朝晩めっきり涼しくなってきました。
この旅がちょうど1ヶ月まえの8月上旬。
暑くて、というか蒸し暑くて汗の掻き通しだったのに、そのころに比べると隔世の感があります。
先日久しぶりに登った貫山も気温は日光直射で34度でしたが
響灘から吹いてくる風は心地よく、鈴虫の鳴き声に包まれていました。
山頂や高原はすっかり秋の気配です。



話は戻って8月の9日。
晴天の朝を迎え、気分良く朝食を摂り、腹を空かせた野良公にトマトなど与えてみたが流石に食わない。
今度はバナナを与えてみると、躊躇した挙句、食った。
やはり相当に空腹なのだろう。
誰がこんなところに捨てたのか、器量があまりよくないので誰も拾ってくれなかったのだろうか。
朝、公園には犬を連れて散歩に来る方も多く、じゃれ付く野良公に優しい方や
邪険に追い払う方など様々で、犬を飼っていても、本当に犬好きなのかどうか、すぐに判る。





しばらくこの野良公と遊ぶ。
公園事務所の話に拠ると、このほかにも親猫2匹に子猫3匹居て、苦情が多いのでこちらのほうは
なんとか保険所に渡す手はずが整っているらしいが、野良公はいくら罠を掛けても嵌らないそうである。
結構頭が良い奴らしい。
そうか、お前はいずれ始末される運命なのか、と思うと可愛そうだが
まだ若い犬なので、誰にでもじゃれ付いて廻るのが、犬の苦手な人には苦痛なのだろう。
なんとか生き延びてくれとは思うが、致し方ない。
誰か引き取り手が現れることを祈るしかあるまい。
昨夜、若いカップルにじゃれ付いたのだろう、女性の悲鳴が聞こえたりもしたが
やれやれと思う。噛み付いたりはしないんだけどな…。

朝食後、テントを撤収し、朝7時半、公園事務所に世話になった御礼のメモを書き残し
余ったゴミ袋とゴミの入った袋を置いて出発する。
あと1,2日で北九州に帰らねばならない。
ここは居心地が良いので、もう1泊くらいしても良かったのだが
なんだか天気がいいので、無性に長い距離を走りたくなり
昨年遣り残したしまなみの無人島「身近島」でのキャンプを思い立ち
宇和島、伊予、松山、今治を経てしまなみの伯方島まで走ることにした。
およそ200キロ近い距離である。
出発するとき野良公だけが見送ってくれた。
そんな顔で見るなよと言いたい位悲しそうな目で見ていた。

国道56号線は、とても交通量が多い。
とくに宇和島近郊、および松山に向かう峠道など狭くて大きなトラックなども多いので
とても神経質にならざるを得ない。
そういえば、昨夜はキャンプ場の前を走るトラックの轟音が響き、良く眠れなかった。
その前の晩は日曜日だったので、トラックの通行が少なかったのだろう。
しかし平日は朝早くから、鮮魚でも運んでいるのか、ひっきりなしにトラックが走る。
しかも例外なく飛ばしているので、その音が山に反響して非常に五月蝿い。
そのことが須の川のキャンプ場を出ることにした一因でもある。

宇和島の市内は、初日に泊まったが、駅前などは寂れていたが
庁舎の近くは大変な賑わいで、そういえばここに闘牛場も有ったのだと再認識する。
駅前よりもむしろこちらのほうが中心になっているらしい。
宇和島市内の56号線は複雑になっており、右に左に屈折している。
しかし、さすがに四国地方の一地方都市である。
バイクで走るとすぐに駅前に出て、郊外へと続く道に入る。
慣れれば、とても狭い街なんだろうなと思う。

峠に差し掛かると例外なくトンネルに入る。
最近できた新しいものは、広く明るくて、まったく恐怖感がないのだが
古く、暗いしかも長いトンネル内は、エンジン音とタイヤの音の轟音で
しかも前が見辛く、道路の幅が狭いので、非常に危険であり、並大抵の恐怖感じゃない。
大きく避けてくれるトラックは良いのだが、なかにはイラついたようにギリギリで通過するトラックもある。
空気の流れで引き込まれそうになり、何度か死ぬ思いを味わった。
こちらも迷惑にならないよう何とか時速50キロくらまでスピードを出して走っているのだが
それ以上のスピードですれすれに追い抜いて行くトラックなどは本当に殴ってやりたくなる。

伊予が近くなると、道は幅が広く新しくなり、非常に快適になるが
またしても日本全国皆同じ的な風景ばかりで、興味が殺がれる。

昼近くになったので、街道沿いの大きな蕎麦屋さんに入る。
「蕎麦吉」というような名前の店だったと思うが、久しぶりに天麩羅蕎麦を食す。
蕎麦も天麩羅も本当に久しぶりである。
江川崎のスーパーで買ったパック入りの蕎麦は食ったが、僕的にはあんなものは蕎麦とは言わない。
店内は冷房がよく効いており、昼時のサラリーマンたちが大勢で
とても活気の有る店であり、蕎麦の味はなかなか良かった。
なんだか、最近は昼飯に金を掛けすぎているようにも思う。

伊予から松山まではすぐなのだが、さすがに松山は大都市で交通量も多く
行けども行けども量販店やチェーン店のような店が立ち並ぶいつもの風景に
僕としては、ただ早く通り過ぎるのみであり
そういえば、須の川の海で、松山から来たというファミリーの父親が
昨年に続き北九州から四国に来たという僕の話に、「松山はどうでしたか?」と問われたが
「ぼっちゃんの湯」くらいしか行ってないし、観光地には無縁だし、キャンプ場も無いので
「あまり興味がありません」と素直に言ったら、笑って「そうですね、単なる都会ですもんね」と答えた。

広い松山をやっとこさ抜け、今治に向かって走るが、遠い遠い。
松山から今治までがこんなにも遠いとは僕の中の感覚には無かった。
時速40キロ弱なので、信号待ちなど入れると、たっぷり2時間近く掛かった。

そして今治に着いたは良いが、毎度のことで「しまなみ」の原付自転車道の入り口が見つからず
1時間近く彷徨う。
地元の人に尋ねても、皆さん車でしか行かないから、みんな知らないのだ。
もうすでに3時を廻ってしまった。
高校生らしき男の子を捕まえ、道を尋ねると、こちらの方がよく知っていて
丁寧に教えてくれる。
国道の標識には自動車道の表示しかないので、本当に不親切である。
国交庁の姿勢がこんなところにも垣間見える。
奴らにとって自転車や原付などはどうでもいいのだ。
どうせ子供のころから学校と塾で勉強ばかりで、自転車に乗って旅したこともないのだろう。
しまなみは本当は自動車専用道路にしたかったのだろうが
点在する島々のために仕方なく歩行者や自転車、原付道を付け足したような気がする。
だから、入り口が非常にわかりにくいし、橋桁から一気に上がって行く、螺旋の急坂になっているので
夏の暑い盛りには、マゾヒストのような自転車乗りが喘ぎながら坂を登っている風景をよく目にする。
歩いて渡っている人などはほとんど見かけないのが常だ。
なんの酔狂でこんなところを自転車で走るのか、僕にはちっとも分からない。
涼しい春秋ならまだしも…。

4時近くになって伯方島に着く。
早速、道の駅に寄って、伯方の塩ソフトクリームを食べ、昨年と同じみかんジュースをカミさんに発送する。
人工浜の海水浴場ではまだ多くの人たちが水遊びを楽しんでいる。
対面には身近島のキャンプ場が見える。あちらは天然の浜で、プライベートビーチなのだ。



昨年と同じように、船折の瀬戸や漁港近くの店を散策し、買い物の目安をつけて
身近島へと向かう。
身近島は大島と伯方島の中間にある小さな無人島である。
島にはキャンプ場の管理棟が建っているのみである。
しかしこの島には自動車では行けない。
徒歩、もしくは自転車、原付のみが行ける島なのである。まあ、シーカヤックでもあれば別だが…。
それゆえに全く荒らされてない。

伯方島から大島方面へ戻り、途中の見落としそうな身近島の表示から急坂を降りてゆく。
懐かしい身近島である。
昨年ここに寄ったときは、まだ四国に渡る前で、2週間近く長逗留している
同年輩のキャンパーが一人居たのだった。

キャンプ場には、2名の先人が居た。
管理事務所横の屋根がある一番良いところに二つのテントが張ってある。
芝生の広いサイトがあるのだが、なにせ屋根付きの場合は、タープを張らないで良いので楽なのだ。
それに雨が降っても、下地が湿る事もない。
先人はかなり長逗留の様子なのが見て取れる。
大きな長テーブルの上に、炊事道具が乱雑に置かれ、自由に使えるコンセントにも炊飯器が繋がれていた。

「こんにちは。芝生のほうは暑いので、ここにテントを張ってもよろしいでしょうか?」
「はい、どうぞご勝手に。」
「ありがとうございます。助かります」

40代から50代前半といった感じの男性が、携帯でワンセグ放送でも見ているのか
あまり関心が無い様子で、ざっくばらんに答えた。

僕は、早速テントを張る。
グランドシートを敷き、テントを広げ、ポールを放り投げると、ほとんど原型ができあがる。
あとはテントの上端をこのポールに引っ掛けるだけで完成する。
僕が使っているのはモンベルのムーンライト3型だが、このテントは組上げが実に簡単である。
フライを被せてセットするのが多少手間取るが、フライを使わなければ、2分でセットが完了する。
キャンプ場に来るキャンパーのテントの張り方で大体のキャンプ歴が判る。
キャンプ歴の長い人は、テント自体もコンパクトで簡単な張り方のものを使っているし
張り方にも淀みが無い。
反対に初心者のキャンプは、テント張りに相当な時間が掛かり、苦労している様が見て取れる。
ファミリーキャンプでも同じだ。
大きなテントは概して時間が掛かるが
キャンプの回数をこなしている人は、全員が手分けして上手く張ってしまう。
が、中には説明書と格闘しながら張っている人も見受けられる。
思わず苦笑してしまう。
せめて一度だけでも、自宅かその周辺で張ってみることを推奨したい。

先人の片割れはどうやら女性のようである。しかもまだ若い。

「ご夫婦でキャンプですか?」

と僕は聞いてみる。

「いえ、友達です」
「あっ、そうなんですか?お邪魔じゃありませんかねー」
「気を使わないでください。まったく気にしてませんから、僕らは」
「ここは長いんですか?」
「ええ、1週間くらいになりますかね。彼女はまだ来たばかりですけど」

僕はテントの中で水着に着替え、目の前にある海へと向かう。
対岸の伯方島もビーチでは大勢の人が泳いでいるが、こちらは僕一人。
海の水は生暖かく、お風呂を少し冷たくしたような状態。
それでも仰向けになって浮かんでいると、とても気持ちがいい。
汗が流されて、体温が少し低くなったような感じになる。
潮が引くと砂浜が現れるが、満潮になると浜は完全に水没してしまうような感じである。
海から上がり、炊事等の水道にホースを繋いで、身体を洗う。
風呂は大三島まで行かないと無いので、今日はこの水浴びだけである。
管理棟からは離れているし、ちょうど身体も下半身は隠れるので
素っ裸になって、シャンプー、石鹸を使う。これで風呂無しでもOK。

「ちょっと伯方島まで買出しに行ってきます」

先人にそう告げ、カブに乗って伯方島まで走り、見つけておいたスーパーで
氷やコーヒーゼリー、ジュース、パン、うどん玉、トマト、ばら寿司などを買う。
キャンプ場に戻ると、一人、歩き遍路のような感じの壮年の男性が来ていた。
遠く離れたベンチで寝転がっている。
テントも無い様子で、食事も摂らずに、薄い寝袋に潜ってラジオを聴いている。
彼にみかんゼリーを持って行き、「こんなものしかありませんけど、よかったら」と手渡す。
彼は恐縮した様子で受け取り、礼を述べたが、疲れているのか、また寝転がってしまったので
話もせずに自分のテントに戻った。

今日の夕食は残っていたレトルトカレーを使った、カレーうどんとばら寿司。
カレーうどんはなかなか美味い。
このメニューは、キャンプには持って来いかもしれない。
湯を沸かし、うどん玉を入れて茹で、その湯を少し残して捨て、あとはカレールーを入れて煮込めばOK。
うどん玉ならコンビニにも売ってるし、なにもご飯でなければならないということはない。
最近、ご飯だけってのは、なかなか売ってないからね。
あってもレンジでチンなんてご飯ばかりだから、キャンプでは使い物にならない。
食事後、最後の土佐鶴に氷を入れて、チビチビやっていると、バイクに乗った青年が一人やって来た。

「あのー、ここは勝手に何処でもテントを張っていいのですか?」
「はい、いいみたいですよ」
「テントを張ってから食事に行ってきますので、よろしくお願いします」
「はい、いってらっしゃい」

先人によると、昨日は蒸し暑くて蚊が多く、嫌な日だったということであるが
今夜は、強いくらいの風が吹いて、蚊もほとんど出てこず、テント内は涼しいくらいで
ぐっすり眠れそうである。
それにしてもよく走ったなー、今日は。


「びやびや」の深浦漁港

2011年09月05日 | 



昨夜は久しぶりに良く寝た。
ふかふかの芝生のベッドで気持ちがよく、心地よい風が吹き込んで寒かったくらい。
ただ、また時折雨粒の落ちてくる音がして、「ああ、また雨だ」と思うと
なんだか、やりきれない気分だった。
朝、6時にここでも松田聖子のスウィートメモリーで起こされる。
そしてやはり小雨がぱらついている。
なんだか、僕が行くところは雨ばかりになりそうな予感がして全く嫌になる。

昨夜はぐっすり眠ったと言ったが、実は一度、気色の悪いことがあった。
夜中に寝返りを打って、手を頭上に伸ばした時、何だかグニュとした暖かい感触が伝わって
一瞬、飛び起きそうになった。
有る筈の無いものがそこに有るというのは、ちょっと嫌なもので
しかも生暖かい感触だったので、ドキッとしたものだ。
誰かが悪戯で生ごみか何か置いたのかと思ったが、生暖かいので動物の屍骸を連想した。
一瞬迷ったが、手で触り、押してみる。動かない。「ドキッ!」。
そしてもう一度思い切って押してみる。するとその物体はすっと動いていなくなった。
テントの外を覗いてみると何も居ないが、なんだか獣っぽい匂いがする。
そういえば、昨夕テントを張る時に、野良猫や野良犬が居たのを思い出した。
軽く雨が降ったのと、人恋しさにテントのタープの下に紛れ込んだようだ。
そう思うと、一瞬掻いた冷や汗が止まり、安心して眠りに就いたのだった。

朝8時半になると公園の事務所が開く。
私は、連泊する予定で、300円を払い、美味しそうなサンドウィッチを見つけて購入する。
中くらいのパックにぎっしりと詰まったサンドウィッチは僕の大好きなタマゴが一杯に詰まっており
しかも250円という安さ。

「どうしてこんなに安いのですか?普通なら安くても400円でしょう?このボリュームなら」
「本当は値段を上げたいんですが、上げると売れなくなるし、手作りなんで何とか赤字じゃないんですよ」

僕はその場でパックを開け、食ってみたが、これが実に美味い。
他にお弁当もあったので、夕方まで置いてもらうことにして、すぐにこれも買った。
そして深浦漁港に有る漁師食堂を知っているかどうか事務所の方に尋ねてみた。

「昨夜、ゆらり内海のお風呂で地元の人に聞いたんですが、深浦という漁港に美味しくて安い食堂があるって…。
せっかく鰹の本場に来たものですから、話のネタに食ってみたいんですが」
「ああ、そう言えば確かそんな食堂がありましたねー。ちょっと聞いてみましょうか?」
「ぜひお願いします」

実は須の川から深浦まではバイクでも30分以上掛かる距離なんだが
田舎のいいところで、薄っぺらい電話帳を捲るとすぐに電話を掛け尋ねてくれた。

「深浦漁港ですか?ちょっとお尋ねしますが、おたくに食堂がありましたよね、ええそうです。
びやびやの刺身やたたきを食べさせてくれる。今日はやってますか?
はい、ああそうですか、はい5時まで?はい、今日はびやびやは無し?わかりました」
「朝7時から夕方5時までやってるそうです。事務所の有る建屋に食堂があるそうですが
今日はびやびやは入ってないそうですが…」
「普通の鰹ならOKということですか?」
「ええ、鰹はいつでもあると思いますよ」
「ありがとうございます。とりあえず行ってみます」

「びやびや」とはこのあたりの方言で「とても新鮮な」といった意味だそうである。
厳密に言えば、1本釣りで釣った鰹を船上ですぐに絞めて氷浸けにし
持ち帰った鰹をその日のうちに食すことを言う。

「びやびや」が入ってないということに少し落胆したが
あとから入って来た船が持ってることも有るからという事務所の方の言に期待して
僕は、いそいそと出かけた。
このころにはすっかり天気も良くなり、陽が射して暑くなる。
昨日来た道を延々と大森山キャンプ場のあたりまで走ると、ここに紫電改資料館があるというので寄ってみることにした。
昨日、日が暮れてやって来たバイクのキャンパーに朝、挨拶をしているときに
彼がその紫電改の資料館のことを教えてくれたのだ。
彼はクオーターのオフロードバイクで名古屋からやって来たということで
以前には自転車で日本一周したこともあるという強者だった。
これから高知に出て「よさこい」を見るつもりだが、この近くに紫電改の資料館があって
実物の紫電改が展示してあるので絶対見たほうが良いと言っていた。
自分は戦争物おたくだとも言っていた。恥ずかしそうに笑いながら…。





キャンプ場の入り口を過ぎ、しばらく走ると紫電改資料館があった。
中に入ると、適度に冷房が効いており、自分のほかに観光客らしき小さな子連れの家族が1組。
受付には、年配の女性が1人で静かに読書でもしているのだろうか。
僕はこういった施設には仕事絡みで行くことが多いが、いつも時間に追われてゆっくり見る暇がない。
だからこうして、プライベートで来ると本当にほっとする。
小さな子のむずかる声が少々耳障りだが、紫電改の解説ビデオをじっくりと観る。
こうした資料館に付き物のどうしようもなくくだらないビデオとは一味違って
太平洋戦争末期に登場した紫電改が、いかに当時の技術力を結集したものであるかを
滔滔と説明してくれるドキュメンタリー風の解説になっている。
実は僕は子供のころからの紫電改ファンで、当時大人気だった零式戦闘機よりも
ちょっと敵機グラマンに似た、少しズングリしたスタイルが好きで
流行り始めたプラモデルでは、いつもこの紫電改のプラモを作っていたのだ。
それにしても昭和40年代に宇和海でダイバーにより偶然発見されたものらしいが
よくもまあ、これほど完璧に残っていたものだと感心する。
恐らく腕のいいパイロットが敵襲に遭いながら、墜落を免れ上手く海上に不時着した機体であろうということだった。
自動調整フラップや燃料タンクの発火防止装置など実に上手く考えられており
やはり日本人は優秀だったのだと感心せざるを得ない。
それにしても室内に展示された紫電改は実に大きく見える。
もっと小さなものを想像していたので、僕はその大きさに戸惑った。
この戦闘機に一人乗った若者が勇んで大空に駆けて行き、敵機を叩き、ある者は海の藻屑となった事実に
なんだか目頭が熱くなってしまった。

受付の女性としばし歓談。
彼女はあまりこういった戦闘機や戦争に興味が無いらしく
それじゃ、受付の仕事は退屈でしょうと問いかけると
始めたころは退屈で死にそうだったが、今は読書を覚え、まったく退屈しないということである。
家事や育児に終われ、若いころは全く本なんて読まなかったそうだが
返す返すも残念であるという。
こんなにも読書が面白いなんてまったく思いもしなかったと。
公務員という硬い仕事を退職し、第三セクのような今の会社に再就職し
この資料館の受付をしているということだが、仕事はほとんどなく
毎日読書の日々だというので、贅沢ですねと僕が言うと
たぶんこの仕事を辞めると、次は無いと悟っていらっしゃるようで
彼女は次のステップとして、残された人生を充実したものにするために
あれこれと思案しているようなので、僕のバイクを見て、盛んに旅の話を持ちかけてきた。
ずっと年上の方かと思っていたが、僕よりも1歳先輩ということで大いに話が盛り上がり
瞬く間に昼近くになってしまった。

そろそろお暇しなければと思い、別れを告げ、深浦漁港に向かう。
彼女は再度ここに来たときにはまだこの仕事をやっているだろうか?

深浦漁港はそこからは意外と近く、数分で到着。
漁港の事務所や食堂もすぐに見つかり、11時半過ぎに少し早いが昼食にする。

食堂に入りメニューを見るが、天麩羅定食、カツ丼、カレー、焼き飯といった普通のメニューばかりで
ちっとも鰹の文字が目に入らない。
そうか、漁師たちは鰹なんて腐るほど食ってるから、こういった食堂では普通のものしか食わないのかと一人心地て

「あのー、鰹を食べに来たんですけどそういったものはないんですか?」
「ああ、ありますよ刺身にしますか、それともたたき?今日はびやびやが無いからたたきのほうがいいかもね」
「ああ、やっぱり無いんですね。もしかすると後から入ったかもと思ってましたが」
「この何日かはあまり取れなくてね、それにもうすぐ盆に入るから漁師さんもあんまり漁に出ないし」
「なるほど、じゃたたき定食をください」

よく見るとメニューには乗っていなかったが、壁に刺身定食、たたき定食、800円とある。
実は僕は鰹が苦手で、普段はほとんど食べない。
生臭く、身が柔らかいので何となく苦手なのだ。

「お待ちどうさん」

食堂のおばちゃんが持ってきたたたき定食は大盛りで、しかもフライまで付いている。
いつものことだが、忘れないように早速写真を撮る。
だからこの定食の写真はまったく箸をつけてない非常に稀な食い物の写真なのである。
僕の食い物の写真はほとんどが食っている最中の写真か食い終わった写真ばかりで
このときは珍しく食う前にちゃんと撮った。

「美味い…。」

一口食っただけで、北九州のスーパーなんかで売っている鰹のたたきとは違うと実感できる。
玉ねぎとニンニクのスライスがタップリと乗り
さっぱりとした酢醤油が実に美味い。
何と言っても、鰹の生臭みが無い。

「びやびやというのは、もっと美味いんですか?僕らが食ってもその違いが判るほど美味いんですか?
このたたきでも充分なんですけど」
「そりゃー違いますよ。食べてごらんなさい、全く違う食べ物だから。私らびやびや以外はよー食べんね」
「そーなんですか、そーなると絶対に食べんわけにはいかんなー」
「でもここんとこ揚がってないからねー」
「あっ、そうか、となるとまた別の機会に来なけりゃならんなー」
「お客さんどちらから?」
「北九州です」
「あれまー、そりゃ遠いねー、残念じゃねー。でもまあ明日にならんとわからんけどまた電話しておいで」
「そーさせていただきます」

結局、今回の旅で残念だったのは、四万十川の沈下橋からの飛び込みとこのびやびやの鰹ということになった。
旅の最中には、やるべきことは遠慮なくやっておくことである。
また後で…なんていうのはやらないことと同義なんだ。

深浦の漁港をしばらくバイクで走り回った。
さすがに日本一の鰹水揚げ量を誇る港らしく、鰹の匂いが充満している。
鰹節を作る作業場からの煙のようだ。
残念だったのは、海にゴミが多く、漁師らしき男が海に向かって用を足していたりする。
沖合いの海で生きる漁師には、目の前の海はどうでもいいもののようでもある。
もう少し意識を高く持って欲しいものである。

帰り道の途中で100円ショップに寄り、洗濯ばさみを購入する。
昨年もそうだったが、ちょっと汗を掻いたくらいのシャツやタオルは水洗いして干しておくのだが
洗濯ばさみが無いと、風に飛ばされたりして大変なのだ。
いつも家から持って出るのを忘れるので、この際キャンプ道具入れに放り込んでおくことにする。

須の川のキャンプ場近くまで走って、昨日会った親子3人連れらしきお遍路さんにまた出会った。
縁は異なものというではないか、僕はバイクを停め、「こんにちは」と話しかけてみた。
暑い中歩き続けてきた疲労感に打ちのめされたような顔で、ぐったりしながら「こんにちは」と返してくる。
すると、どこかで見たような顔で、年の頃は40台半ば、背が高く、筋骨隆々とした体つき。
元ジャイアンツの桑田投手に似たような顔つき。
僕は必死にその顔を思い出し

「もしかして、横浜市長をされていた中田さんでしょうか?」
「はい、中田です。娘二人とお遍路してます」
「これはこれは、奇遇というか、こんな暑い中、歩きの遍路ですか?」
「ええ、毎年やってるんですよ。今から41番札所に向かうところです」
「そうですか、菅総理のようなパフォーマンスじゃないみたいですね。少し見直しました。あなたのこと」
「今は大学で教鞭をとってるもので、夏休みですから…」
「もう政界には戻られないのですか?」
「いえ、まだ先のことは判りませんが、高知県知事にも会ってきました」
「そうですか、娘さんもご一緒でいいですね。気を付けて」
「ありがとうございます。この先に海水浴場がありますよね?」
「いや、私はここの者じゃありませんから判りませんけど、このキャンプ場の裏でも泳げるみたいですよ」

というような会話をして別れた。

もう少し深浦寄りの国道では、足摺岬で会った大学生くらいの若い男の子が懸命に自転車を漕いでいる姿も見た。
彼の顔はすでに真っ黒で、荷物は背中のナップサックくらいで、ママチャリに乗っていた。
あのアップダウンの激しい道をもうここまで漕いできたのかと思うと驚嘆に値する。
身一つで野宿といった感じだ。
軽くクラクションを鳴らし、手を挙げて、激励の合図を送る。
彼は軽く頭を下げ、委細構わずペダルを漕ぎ続ける。
今回の旅では、いろんな人に出会う。

公園に帰り着くと、事務所に赴き、鰹の報告をし礼を述べる。
天気も良くなったので、裏の海に出かけることにする。
江川崎のキャンプ場に、シュノーケルとメガネを忘れてきたので事務所で借りることにする。
ここの公園の良いところは、すべて安いということである。
シュノーケルとメガネのレンタルが4時間で200円。
足ひれやウエットスーツまで借りても、1000円くらいである。





裏の海岸はゴロタ石の浜で、非常に歩きにくいが、10メートルも沖合いに泳ぎ出ると
そこは、珊瑚の群生と熱帯魚の乱舞場である。
ここの魚はよく人に慣れており、すぐに近くに寄ってきて身体を突く。
紫雲丹や赤雲丹がびっしりと岩に張り付いているのが見える。
昨日からの波高で海は少し濁っており、透明度はいまいちだったが
沖縄や石垣島以来の珊瑚の海である。
僕は時が経つのも忘れて、波間に漂い、そして潜った。
しかし、足ひれを着けてないので、思ったように潜れない。
海底まで3メートルくらいしかないのに、底まで到達しないのだ。
少し太りすぎなのだろうか?
怪我防止のためにはいているビーチサンダルの浮力も邪魔をする。
何度か挑戦してやっとのことで底まで到達するも、今度は息が続かない。
困ったもんだ、歳をとるというのは…。
2時間くらい遊んでキャンプ場に帰る。
身体はすっかり日焼けして、少しピリピリする。
冷たいシャワーを浴び、芝生の上の木陰で微睡む。至福の時間。

夕方カブに乗って近くを散策する。
何処まで行っても静かな海が続く。
民宿などもどんなものがあるか探索しながら走る。
このあたりは、海遊びというよりも釣師相手の民宿が多いようだ。
コンビニはキャンプ場の前後5キロ以内には、まったく見当たらないが
JAのスーパーが1軒だけあったので、久しぶりに甘いジュースや果物、トマトなどと朝食用のパンを買って帰る。
事務所で取っておいてもらった弁当を受け取り、テントに持ち帰って夕食を摂る。
野良公の若い黒い犬が、よほど腹を空かせているのか傍にやってきてじゃれ付く。
こいつだな、昨夜の生暖かい物体は…と思う。
弁当の残りを少し与え、シャワーの後まったく汗を掻いてないので風呂は辞めにするかと思案したが
今夜もまた「ゆらり内海」に出かける。

スパニッシュ風の受付嬢が今夜もまた「ごゆっくりどうぞ」と妙なイントネーションで声を掛けてくる。
今日は月曜日のせいか、風呂は貸切状態。
風呂から揚がってしばらくスパニッシュ風女性と話す。

「昨日は一杯だったけど、今日はお客さん少ないね」
「月曜日じゃからね。土日は多いよ」方言がごちゃ混ぜである。
「日本語上手いね、もう長いの?」
「ありがとね。そんなに長くない」

店長らしき中年の紳士がやってきて、3人で話す。

「去年も家内にみかんのジュース送ったので、今年もと思ってるんだが、ここのは高いね」
「そうですね、なかなか売れませんねー」
「高い高い、あたしも農協のジュースしか買わないよ。あっちのは300円。こっちのは800円」と受付嬢。
「ああ、そういえば今日、JAの店に売ってたね」
「あちらのは地元用ですからね。ここいらの人はみかんにこんなお金を払いません」

なんだか人の良さそうな店長さんで、とても正直。

歩いて3分のキャンプ場に戻り、寝ることにする。
野良公が少し離れたところからじっとこちらを眺めている。
「土佐鶴」も残りがほんの少しになってしまった。
月曜日なので、テントの数もぐっと減ってしまった。
夕方、フィアット500に乗ってきた若いカップルのテントが遠くに一つ。
近くにファミリーのテントが一つ。
こんなに広い公園に、たった三つのテントしかない。
今夜は星がきれいだ。
こんな夜は四国に来て初めてである。


足摺岬から愛南町へ

2011年09月01日 | 



この岩間の川原でもやはり朝のチャイムとラジオ体操が放送される。
ただ、朝のチャイムは無機的なチャイムではなく、松田聖子のスウィートメモリーに変わる。
学校の校内放送のようなチャイムから曲に変わっただけでも何だか嬉しくなる。
しかし、深い山間の村に鳴り響くスウィートメモリーはとても奇妙な感じを受ける。
どうせなら「グリーンスリーブス」か「七つの水仙」あたりのほうが似合いそうだ。

今朝の天気はまたまた雨。
まあ、ほとんど降ってないような天気ではあるが、雲行きは怪しく
山間の家々の周りには霧状の雲が纏わり付いている。
時折陽も差す。

この時点で、私は四万十川を離れる決心をした。
今年は本当に天気に関してはついてない。



簡単な朝食を済ませ、学芸大の連中にここを離れることを告げ
早速、テントの撤収に掛かる。
蒸し暑く、すぐに全身に汗をかく。
こんな天気に毎日川を眺め、奥深い山を見つめていると
何だか、雄大で開放的な海が見たくて仕方なくなる。
彼らと記念に集合写真を撮り、別れを告げて旅立つ。
女の子たちとも写真を撮り、そして彼女らは荷物を満載した私のカブをカメラに収める。

「こんなバイクを撮っても仕方ないでしょ?」
「いえ、私も卒業するときはバイクで一人旅に出たいと思ってるんです」
「大きなバイクじゃなくて?」
「ええ、こんな小さなバイクにたくさん荷物を積み込んで、なんだか旅してるって感じだし
格好いいです」
「そんなもんかな~」

まあ、悪い気はしない。

彼らは私の姿が見えなくなるまで手を振ってくれた。
今日で旅に出てから5日目である。

岩間のキャンプ場から10キロ以上走ったところでサングラスを落としたことに気づく。
たぶん、岩間のすぐ近くで、雨が降り出したためにレインコートを着たのだが
そのときの事に違いない。
一瞬、どうしようかと思ったが、この先サングラスがないとかなり困るし
結構高い物だったので、仕方なく引き返す。
それでも後続の車に弾かれて、潰れていれば、骨折り損である。
しかし、思ったとおりのところにサングラスはあった。しかも無傷のままである。
喜びの反面、往復20キロ以上の距離を無駄に走ったことへの後悔も大きい。

「いかんいかん、もっと気を引き締めて走らねば…」

今一度、バイクを停め荷の点検をする。
走っている最中に荷崩れでも起こせば、重大な事故に繋がる危険がある。



中村市に出るころには、すっかり天気も良くなり、雨具を着けたまま走っていることへの恥ずかしさの方が大きくなった。
それでも、そこそこの値段のレインコートを買ったので、通気性もよく、あまり暑苦しさは感じない。
空を見ると行く先には雨雲が垂れ込めているが、一旦コートを脱ぐ。
中村市街で美味そうな川魚料理の店を見つける。
昨日はもっとよく探してここで食えば良かったかなと思うが後の祭りである。
まだ昼時からは程遠い時間帯なので、今度来たときの楽しみに取っておくことにする。

赤いお洒落な四万十川橋を渡り、56号線を宿毛方面に走る。
足摺岬との分岐点でまたも強烈な雨に遭う。
このまま、宿毛まで行ってしまうか、それともせっかくなので足摺岬まで行ってみるか
大いに悩んだが、いずれにしても天気次第。
このまま雨が降るのであれば、岬になんか行っても仕方ないし、結構岬まで遠い。
しかし、ええーいっ、ままよと強引に岬方面へ進む。
雨が降るなら降れば良いし、夏なので風邪を引くこともあるまい。
海が近いので、日が暮れればどこでもテントを張れば済む。
そう思えば気も楽になり、通行量の少ない田舎道を延々と走る。
雨は止み、陽が射してくる。
天気が良くなればなったで暑い。

この足摺岬に向かう321号線は、お遍路さんの遍路道でも有り、結構その姿を見かける。
歩きの一人旅は、圧倒的に私と同じ年代の男性である。
みなさん、少し怖い顔をして寡黙に歩いている。
陽に焼け、顔は真っ黒。汗みどろになって歩いている。
それでも

「こんにちは!」

と、バイクに乗ったまま声を掛けると、例外なくにこやかな顔つきで

「こんにちは、暑いですね」

と返事が返ってくる。とても優しい顔付きである。
そんな中、娘さんらしき二人と、父親らしき男性の3人で歩いている遍路さんを見かける。
なんとなく、気になるお遍路さんではあったが、そのまま通り過ぎる。



321号線はとても快適な道である。
時折雄大な太平洋が垣間見える。
とくに高台から眺める大岐の浜は雄大な景色で、それはそれはスケールがでかい。
昨日までの風景とは全く違うものである。
風は海の湿気を含んだ重い感じだが、なんとなく爽やかに感じるのは気のせいだろうか。
気持ちが鬱々とならないのがいい。

土佐清水の町に着く。
ここから西回り、東回り、そして中央を走る通称「つばきロード」がある。
この岬の中央を走る384号線が一番近そうなのでここを走る。
しかし、この道は山間のアップダウンが激しい道で、排気量の少ないカブには一番苦手の道だった。
オーバーヒートしそうになりながらも、なんとか足摺岬まで辿り着く。昼少し前である。
8時半に岩間の沈下橋を出て3時間と少し、やっと着いたのだ。



足摺は見渡す限りの青空でしかも水平線が果てしない。
久しぶりにこういった風景に遭った様な気がする。
岬の先端まで歩き、しばしその景色に見とれる。
私はあまり、名所旧跡などには興味がないのだが、この風景はいい。
ただじっと見とれて、暑いのも時間が経つのも忘れる。
駐車場周辺には土産物屋、旅館、ホテル、などが立ち並ぶ。
そろそろ昼食の時間なので、美味い魚でも食うかと店を探すが、どれもいまいち。
38番札所の金剛寺の前にある土産物屋の主としばらく立ち話。
あまり景気が良くなさそう。こういったところは大型の観光バスが来ないと商売にならないらしい。
やはり春秋なのである。
観光案内所の親父にどこか美味い食べ物屋はないかと尋ねて見れば
土佐清水に出たほうが良いとのこと。このあたりは観光客相手なのであまり勧めないとのこと。
こんなんで観光案内所の仕事が勤まるのかしらんと思うが、正直でよろしい。
となれば、土佐清水までしばらく走り、親父推薦の「お川」という小さな店を目指す。
今度は、「つばきロード」ではなく、海沿いの道を走る。

土佐清水には「黒潮市場」という大きな漁港の施設もあったが、ここは美味いが高いという。
こういった施設もやはり、観光客相手なのだ。
小回りの利くカブで街中を探すことしばし、日曜日なので休みかもしれないという「お川」は開店していた。
表から見るとまるで喫茶店のような作りで、中に入るとやはり喫茶店の作りだった。
たぶん、喫茶店を居抜きで買って商売を始めたののだろう。
喫茶店と違うのは、店内に焼き魚の匂いが充満していた。
案内所の親父推薦の日替わり定食を注文する。
同年代のママさんが運んできた定食は、海老の天麩羅、メジカの刺身、鯖の塩焼き、味噌汁、サラダなどがついて840円。
しかも味がよく、鮮度もよく美味い。
これはラッキーとばかりに貪り食う。
私の悪い癖で、美味いものに出会うと、写真を撮るのも忘れて食ってしまう。
よくブログで丁寧に写真を撮っている方を拝見するが
美味いものを前にすると、つい食い意地が張ってしまうのだ。写真のことを思い出すが後の祭りである。
私は鯖は苦手なのだが、ここの鯖は塩加減も絶妙で、まったく臭わない。
ちなみにメジカとはソーダ鰹のことである。
食い終わった後、今度はコーヒーとシフォンケーキまで出てきた。

「頼んでませんけど…」
「これも付いてますから…」とママさん。

なんという安さであろうか、勘定の時思わず

「北九州なら、コーヒーとシフォンケーキだけで840円はします」と言ってしまった。

この先、宿毛から宇和島までの間にキャンプ場を知らないかとマスターに尋ねると
「ツーリングマップル四国」を持ってきてキャンプ場を教えてくれた。

「バイク乗られるんですか?」
「ええ、なかなか暇はありませんが…。表のカブで旅を?」
「ええ、北九州からあれで走ってきました」
「ええですね、私も早くそういう旅がしたい」

店内にかかる音楽が、井上陽水や高橋万梨子などだったので、歳を尋ねると、私の一つ下。
なんだかすっかり寛いでしまって、高知出身の漫画家、青柳雄介の話などで盛り上がってしまった。

「じゃ、ごちそうさん、また来たときには寄らせて頂きます。それまでお店やってください」
「ええ、もうしばらく頑張ります。じゃ、気をつけて」

腹もいっぱいになり、安くて美味い食い物にすっかり気を良くして快適にカブで飛ばす。
321号線、「足摺サニーロード」である。その名の通り、夕陽を見るには最適の海岸線の連続である。



愛南町に向かう途中、竜串あたりの海中公園などをぶらぶらするが、客は少ない。
四国の西海岸沿いはすっかり寂れてしまった町だ。
この日は風が強く、波が高いので海中公園には入らなかった。
たぶん海中は濁っているだろう。
このころになると、四万十の天気が嘘のようで、青空に白い波しぶき、やはりこちらに来て良かったと痛感する。

宿毛まで321号線を走る。宿毛は四国ではそこそこ大きな街である。
およそ北九州に有るような店やコンビニ、チェーン店などすべてが有る。
そしてここからまた56号線に入る。
四万十市から足摺に行かなければ、この56号線で直接宿毛まで来ることになる。



今日は良く走る。
もうどれくらい走ったのだろうか?
カブにはオドメーターが無いので、いちいち積算計の距離をメモしてなければ走った距離がわからない。
サイクルメーターを利用して、カブに取り付けてみようと思う。
そうすれば、最高速や平均速度などもすべてわかるので便利だ。
一本松と言う56号線沿いの町まで来ると、大きく近代的な建物があって
遍路宿&温泉とあるので、思わずここに泊まろうかと思ったが、まだ夕暮れまでには時間もあるし
もうしばらく走ることにする。

宿毛までは高知県だが、もうすでに愛媛県に入っている。
愛南町のはずれに、南レク大森山キャンプ場というのがある。
街道から少し入った山中にキャンプ場はあり、管理棟に行ってみたが
その日は子ども会らしきキャンプ客で一杯だった。
一人くらいなら何とかしようと管理人は言ってくれたが、鬱蒼とした林の中であり
テントを張ろうにも隣のテントに近いので、例によって人混みの嫌いな私はそこをお断りして
また56号線を宇和島方面に向かい走った。
今度だけは開放的な所でキャンプしたかったが、夜までに適当なところが見つからなければ
またここに戻ってくれば済むと思って安心していた。

それから30以上走っただろうか、もう宇和島市に近い「須の川」という
「お川」のマスターが教えてくれたキャンプ場に着いた。
56号線沿いにある広い芝生公園のキャンプ場で、何組かのファミリーキャンパーのテントが見られた。
管理棟に行って見ると、もうあと少しで閉まる時間であったので
今日はここに泊まることにして、公園清掃協力費という名目でゴミ袋を貰い300円を払った。
すぐ近くに高い山があるのでそこに雲がかかり、時折小雨がぱらつくときもあったが
川沿いとは違って、開放的で、風が吹きぬけ、快適な芝生の柔らかさで今夜は熟睡できそうだった。
近くにレストランも風呂もあるしという「お川」のマスターの言葉通り、
56号線を挟んで、歩いて3分と言うくらいの距離に、立派な「ゆらり内海」という施設があり
ここで、美味い魚も食えるし、風呂にゆったり入ることもできるのだ。
おまけにキャンプ場裏の海には珊瑚が見られると言うではないか。

いそいそとテントを張る。
風が気持ちいいし、虫も少ないので、汗もかかずに張り終わる。
途中のコンビニで、助六弁当を買っていたので、今晩はこれとカップヌードルで手早く食事を済ませ
早速「ゆらり内海」の風呂に行く。

「400円です。ごゆっくりどうぞ、いいお風呂ですよ」

私は、受付嬢の顔も見ずに財布の中からお金を出し、支払った。
そして思わず目が合った受付の女性はスパニッシュ系の外国人であった。

「えっ、日本語お上手ですね、全然わからなかった…」
「ありがとうございます、ごゆっくりどうぞ」

風呂は温泉ではなかったものの、塩水風呂であり、サウナも、水風呂もあり
江川崎の山村ヘルスセンターと比べれば、遥かに快適で広く、清潔で
風呂上りにはマッサージ器もあるので、どうも病みつきになりそうな予感。
9時近くまでここでのんびりし、館内備え付けの本を読み
テントに戻ると、お酒で寛ぎ、長距離を走った身体を労わるように眠りに就いた。