旅と酒とバッグに文庫本

人生3分の2が過ぎた。気持ちだけは若い...

愛犬の老衰

2006年12月29日 | 

 このところ急に愛犬セレスの調子がおかしくなった。
あれだけ食いしん坊の彼女が、えさを食べようとしない。
水は飲んでいるので、なんとか生きているが、
このままでは体力が落ちてしまうと、好きなリンゴやキャベツを与えてみると食べた。
いつものドライフードは少しずつは食べるが、周りにいっぱいこぼしている。
もしかすると歯が悪いのかもしれないと思い、お湯でふやかしてやると
よく食べるようになった。
ショップに行き、老犬用の柔らかい餌や、缶詰を買って与えると
おいしそうに食べたので、一安心した。

それでも、後ろ足の具合が悪いのか、散歩にも行きたがらない。
無理やりに小屋から出して、抱えるようにして外に連れ出すと
トコトコと歩く。
小便や大便をするときに、そのまま立ち上がれなくなって
情けない顔で私を見る。

「なんてこった」

以前から、そのような兆候は見受けられたが
こんなに一気に症状がひどくなるとは、思ってもみなかった。
かかりつけの獣医に見せようかとも思ったが
長年の経験から察するに、どうみても老化の現象だ。
私にできることは、語りかけ優しく撫でてやることくらいである。
確実にお迎えが近づいているのだ。

今朝はこの冬いちばんの冷え込みのなかで
排便のために小屋からでたものの、排便したまま立ち上がれなくて
便のうえに座り込んだまま、寒そうに震えていた。
カミさんがお尻を拭いて小屋に戻してやると、また情けない顔で私達をみつめる。
その目がほんとうに

「長い間お世話になりました」

と言っているようで、涙がでそうになった。


離婚

2006年12月22日 | Weblog
人生が出会いと別れであるなら、究極の出会いは出生であり
究極の別れは死であろう。
しかし、7歳の少女にとって、両親の離婚と言うものは
究極の別れと思われるかもしれない。

昨日の朝、いつものように愛犬と散歩をしていた。
ちょうど小学生の子どもたちの登校時間と重なる。
何人かの顔見知りの子達と挨拶をかわす。
そのなかの1人と目があった。
時々挨拶する○○ちゃんである。

「あはよう」
「おはよう」
「この犬かわいいね」
「そう?もうおばあちゃんだけどね」
「何歳くらい?」
「んー、人間で言えば80歳はすぎてるね」
「えーっ、すごい」

たわいもない会話でいつもは別れるのだが
この日は彼女の様子がなんとなく変で
上の公園まで一緒に行くことにした。

「わたしねー、今度小学校かわるの」
「えっ、パパ転勤するの?せっかく新しいお家に引っ越してきたのに、じゃ、お家は他人に貸すの?」
「ううん、そうじゃなくてパパは1人で残って、ママと弟と三人で福岡に行くの」
「ええーっ、じゃママがお仕事してて、ママが転勤?パパ可哀相だねー」

実は、私は一週間ほど前に、ある発表会の会場でこのファミリーの仲のよい姿を拝見していた。

「ううん、そうじゃないの」
そう言ったきり、彼女はしばらく黙った。
そして、堰を切ったように、突然喋り始めた。

「パパとママね、離婚するの」
「それでね、パパがひとり家に残ってママと私たちは福岡に行くの」
「いまね、お家にたくさんダンボールがきて、荷物を詰めてるの」
「もうどうしようもないみたい」
一瞬彼女の顔を見ると、寂しさと諦めとなにか呆けたような表情が見えた。

「それでね、わたしは福岡の○○小学校に転校して、
弟はね○○幼稚園に変わるの」
「だからね、きょうお別れ会があるの」

小学校のお別れ会なのか、町内の子ども会のお別れ会なのかは聞かなかったが
彼女は、私に話すことで、少し納得したのか
別れ際に

「いってきます」と、はにかみながら笑顔で手を振った。
「いってらっしゃい」
「きっと遊びにおいで、大きくなったら、いつでもいいよ」

彼女は小学校にむかって登校していった。

「もうどうしようもないみたい」
と言ったときに見せた複雑な表情にわたしは固執した。
おそらく、まだ7歳くらいの彼女にとって
両親の離婚というものは、自分の存在の全否定に思われたのだろうと思う。
パパとママが出会って、その証として自分が生まれ、育ってきたのに
そのパパとママが別れてしまうなんて、
じゃ、私はいったい何なの?どうしたらいいの?なんのために生まれてきたの?
と思ったことだろう。

子どもが幼いうちの離婚は残酷なものだ。
男と女の愛憎劇のなせる業といえば、それまでだが
彼女が福岡で元気を取り戻してくれるように祈るしかなかった。

緑の絨毯

2006年12月21日 | 自転車



昨日、天気が良くて気持ちが良かったので
久しぶりに自転車に乗った。
それも、いつものように夜ではなく、昼間にである。
当然、仕事はサボった。

久しぶりに身に着ける自転車用のウェアーがなんとはなく気恥ずかしかった。
昼からカミサンに仕事を任せて家に帰り、昼食を済ませると
行く当ても無く坂を下った。

近所の道は結構アップダウンが多く
久しぶりのライディングに、早くもへばった。
ケイデンスも遅く、力も入らない。

「こりゃあかん」

来春には長距離に挑むつもりなのに、まったくトレーニング不足である。
少し寒そうだったので、ウィンドブレーカーを身に着けてきたために
向かい風の風をまともに身に受けて、ちっとも進まない。

サイクリング専用のシューズにクリートをつけて
初めての遠出である。
最初は違和感があったが、すぐに慣れた。
トゥークリップよりもつけたり、はずしたりが簡単で使いやすい。
目で確認しなくても、あてずっぽうで適当にやれば、クリートが入るし
カカトをちょいと捻ればはずれる。
こんなことなら、早くこいつにすれば良かったと思う。
が、一度だけスタンディングのまま静止しようとした時に
思わずバランスを崩して、足を着こうと思ったが
クリートが外れてなかったので、こけそうになった。
あやうくこけるところだったが、なんとか足をはずして、着地できた。

「なるほど、こいつだな、クリートでこけるのは」
「こりゃ、信号停止では前もってはずす習慣を身に着けておかないとなー」

行く当ても無く出掛けたが、足は自然と鱒淵ダム方面に向いてしまった。
金辺トンネルあたりまで、アップダウンの多い道を走り
頂吉方面へ向けて、裏からの鱒淵である。
こいつはきつかった。
かなり勾配がきつい。
息はゼーゼー、寒いのに汗びっしょり。
本当に汗が滴り落ちてきた。
途中で何度も止まろうと思ったが、必死の立ち漕ぎでなんとか登りきった。
このへんの根性はついたなーと思う。

「なに、こんなことで死ぬわけじゃない、もうしばらく我慢すればなんとかなる」
「おっ、足を着くのか?」「いや、ぜったい着かんぞ」
「死んでも着かんぞ」「あのカーブ曲がれば、峠だ」
「なに?まだ先があんの?」「むちゃ言うな」「もう少し、もう少し」

などと1人で悪態つきながら、必死の思いで登るのである。
登りきった時には、本当に息ゼーゼー、汗ボトボト。
それからの下りは言うまでもなく爽快。

「イヤッホー」

フルスピードで下って行く。



頂吉少年自然の家の裏手からダム湖一周のサイクリングロードである。
落ち葉がすごく、道が埋もれてしまっているくらいだ。
木陰はずっと湿ったままみたいで、車輪が水を跳ね上げる。
木漏れ日が当たる場所で、少し休憩し
右足のクリートの角度を調整し、サドルの高さも少し高くした。



岩肌にコケがびっしりと生えて、まるで「緑の絨毯」である。
逆光にキラキラと輝く。
しばらく足を止めて、見入る。写真に撮る。
時々、山歩きの壮年の夫婦などとすれ違う。
無言のまま、頭を下げる。彼らの笑みが返ってくる。
静かな静かな湖畔である。
一周し、もう一周とペダルを踏むが、日が翳り
急に寒くなってきた。
身体を温めようとペダルの回転を上げるが
身体は温まっても、指先や足の指先が切れるようだ。

「冬だなー」と思わずつぶやく。





湖畔を一周半したところで、今度は表方面の坂を下り家路に着く。
冬の夕暮れは早い。あっという間に薄暗くなる。

走行距離45キロちょっとの久しぶりのライディングであり息抜きであった。


薩南諸島の旅 その3

2006年12月18日 | 

船は翌朝、なにもなかったかのように名瀬の港に静かに着いた。
一睡もできなかった我々は、降船する際にタラップから落ちそうになるほど
フラフラ状態であった。
しかも異様な臭いがしていた。
下呂まみれになった3等船室の臭いだ。

港に降りてみて初めて陸地の揺れがないことに感動した。
全員三半規管がおかしくなっているみたいで
上陸したのに足元が覚束無い。
港には民宿のおっさんや、おばさん達が大勢呼び込みにきていた。
名瀬の町は思ったよりもずっと大きな町だった。
人口も多そうで、南国の小さな鄙びた島を期待していた私は
のっけから失望してしまった。

「Fよこの臭いをなんとかしようぜ」
盛んに呼び込みをかける連中を無視して、我々は港の端っこのほうに移動し
とりあえず、服を着たまま海に飛び込んだ。
3月の初めではあったが、海はそんなに冷たくはなかった。
天気がよかったので、我々は服を着たまま歩いた。
服はすぐに乾いたが、塩水のおかげでなんとなくベトベトした。
少し気持ちが悪かったが、嫌な臭いから開放されて気分がよくなった。

「Fよ腹減ったな」
バッグの中にはまだ、さつま揚げが残っていたが
さすがにそれを食べる気にはならなかった。

それにしてもやたらと広い島だった。
街を外れると、ほとんど人影が無く、山沿いに細い道が
クネクネと続いているだけで、海も思ったほどきれいでもなかった。
写真で見た事のある南国の透き通るような浅瀬の海を我々は期待していた。

「Fよ、こりゃー歩いてたら日が暮れてしまうぞ」
「そうだな、町に戻って地図と情報を仕入れようぜ」
「それに腹ごしらえもしないとな」

胃の中がすっかり空っぽになって、猛烈に空腹感が襲ってきた。
が、街の食堂は結構高かった。

「なにこれ?、北九州の方が安いじゃん」
「高っけーなー」

と言うわけでまた、例によってケチケチでパンとジュースを買い
観光案内を探し始めたのだった。
観光案内で地図とパンフレットを手に入れたものの
歩いて廻ってたら、何日かかるかわからないほど大きな島だったし
有るのは山ばかりで、道は島を一周するように海沿いにあるだけだった。
おまけに、「ハブ」という猛毒の蛇がいて
夜道や山の中ではいつ噛まれるかわからないし
噛まれると早く手当てしない限り死ぬと言うほどの危険な奴だった。

「Fよ、またヒッチハイクやるか?」「そうだな、やってみて駄目ならバスに乗ろう」

と言うわけで我々はまた道路で車を拾いながら
とりあえず島の北をめざしたが、まったく車が来ないのだ。
たまに来ると、観光客を乗せたタクシー。
見るからに島の人が運転しているボロボロのトラックなんかが来ても

「誰じゃ、あの汚そうな奴らは?」

と言う顔であっという間に遠ざかってしまうのだった。

「こりゃ、あかん」「おい、バスバス、バス乗ろうぜ」

と言うわけで、我々はバスに乗って一気に島の北部に着いたのだった。
この時乗ったのは、確かボンネットのある、あの懐かしいバスだったと思う。
もう地名は忘れてしまったが、浜のある海辺で我々はバスを降りた。

「おー南国!」「いいじゃねーか」「これこれ、これだよ」
「おれら、この海を見に来たんだよなー」

さんご礁のエメラルドグリーンのいわゆる南国の海がそこにはあった。

「Fよ、良かったなー、来て」「あー、今日はここで泊まれるかなー?」
「泊まれるとこ探そうぜ」「よしっ」

本当は野宿するつもりだったのに、あまりに嬉しそうなFの顔を見て
わたしは、思わず宿を探すことに賛成してしまった。
「ハブ」という猛毒の蛇のことも気になったので
そうせざるを得なかった。

その日の我々は贅沢だった。南国の海に戯れ
潜っては貝や雲丹を採り、貪り食った。
久しぶりに風呂に入り、服も洗濯して、暮れなずむ空と海を見ながら
宿の食事に舌鼓を打ったのであった。

「金、一気になくなったなー」「ああー」「今日だけ今日だけ」
「明日からまたケチるぞ」「ああー」

本当にこのまま行くとこの島だけで帰らないと、お金がもたなかった。
それほど無計画な旅だったのだが、計画的に旅をするほどの
軍資金も、まだ高校生だった我々には無理だったのだ。

翌朝、我々はまたバスに乗り、今度は島の南部にむかって移動した。
行けども行けども、山と海ばかりであった。

「Fよ、やっぱりここはでかすぎるなー」「次、行かねーか?」「ああー」

彼の返事はいつもそうである。

「よし、次行くぞー、港だ港、徳之島行ってみよー」

というわけで、我々は1泊しただけで奄美大島に見切りをつけ
少しでも早く次の徳之島にむかうべく、港へと急いだが
具合の悪いことに、その日は徳之島行きの船は無く、
次の日まで待たざるを得なかった。
我々は名瀬の町をブラブラしながら、時間をつぶし
一番安そうな宿を探して、質素な食事をし期待のかかる徳之島へと
夢を馳せるのであった。

つづく。


薩南諸島の旅 その2

2006年12月15日 | 

鹿児島に着くまでの汽車の中では、お互いにずっと黙ったままだった。
何かを喋らなければ、と思いながらも
さきほどのことを思い出せば、身体が震えてくる状態が続いていた。

「このままじゃ、まずい」
この旅は大学に入る前の今風に言えば、
いわば卒業旅行とでも呼べるような、希望溢れるものにしなければならなかった。

鹿児島に着き、駅の外に出ると、幾分暖かく感じられた。
さすが南国だと思った。
我々は港へと急いだ。
最近は旅行雑誌で見所を調べ、旨い物を食べさせてくれる店を調べ
時刻表なども前もって準備し、旅行社でチケットも前もって買い
そんなふうに旅をするみたいだが、
我々は時刻表などなにも調べてなく、島に行く船がどこから出るのかもわからない
行き当たりばったりであった。

「とにかく港へ向かえばなんとかなるさ」

私のそんな言葉に、Fはもうすでにうんざりしているようであったが
前年にひとりで九州一周している経験を持つ私に、しぶしぶ従った。
鹿児島港についた私たちは、まず情報収集をして
南の島に行く船会社が、「大島郵船」と「照国郵船」の二つであることがわかった。
鹿児島に来るまでに列車代として予想外のお金を使ったので
ここでも私はケチって、一番小さく、みすぼらしく、汚いフェリーを選んだ。
たしか当時、大きなものは1000トンを越える船があったと思うが
我々が乗るのは、300トンクラスの小さな貨物船のような船で
しかも一番安い、3等の船底大部屋であった。

昨日、私は徳之島目指して旅立ったと書いたが
それは誤りで、最初は奄美大島だったと思う。
本当は、種子島や屋久島から始めるつもりだったが
この2島の航路はまったく別の船会社であり
その2島からは、大島や徳之島方面に行くことができなかったのだった。
その2島からさらに南の島々に行くには、一度鹿児島に戻らなければならなかった。
それゆえ我々はその2島をとばして、奄美大島から始めたのだった。

確かな記憶が蘇ってきた。

夜になってからの乗船であり、それまで時間があったので
我々は近くの町を散策し、夕食と夜食にと
安いさつま揚げをしこたま買い込んだのだった。
このときも私は、元来練り物や揚げ物が好きだったので
なにも不満に思うことはなかったのだが、Fはそういった類のものが
あまり好きではなかったらしく、ブスくれていた。
あまりにこういった状態が続くのを、わたしも少し疎ましくなってきていたので
まだ二十歳まえであるにも拘わらず、ビールを2,3本買った。
船の中で飲んで酔っ払って関係を修復するつもりだった。
当時、まだ真面目な高校生だった私は、いまの高校生のように
酒など飲んだこともなかったし、あとになってわかったことだが
あまり酒に強い体質でもなかったのだ。

夜8時過ぎだったと思うが、船は奄美にむけて静かに鹿児島港を出発した。

我々は、まずは腹ごしらえと、さつま揚げを貪り食いながら
飲み慣れないビールを飲んだ。
さすがにさつま揚げだけでは、胸がむかついてきた。
ビールも入り、ますますむかつく胸に気分が悪くなりかけたころだった。
鹿児島湾を抜けて外洋にでた船が揺れ始めた。
しかも低気圧が近づいているとかで、猛烈に揺れ始めたのだった。
しばらくは皆そんな揺れを、笑いながら楽しんでいたが
誰かひとりが突然吐いた。

「グウェー」

洗面器を口に当て吐いた。
そのころからだ、みんなやばいと思い始めたのは。
船室のあちこちで吐く音がしだした。
最初はなんのために洗面器があちこちに置いてあるのかわからなかったが
いまになってわかった。
ものすごい揺れである。こんな船の揺れは体験したことがなかった。
さつま揚げの食いすぎで、すでにムカムカしていた私も
5分ともたなかった。
横を見れば、Fも吐いている。すぐに洗面器が足りなくなった。
そして横揺れが激しくなってきた。
面白いように人が転がる。
なにかに摑まっても転がる。
阿鼻叫喚、地獄の沙汰とはこのことである。
我々は揺れに任せて転がり、下呂にまみれ
胃の中から吐くものがなくなって、胃液を吐きながら
転がり続けたのだった。

一睡もしないままに翌朝よく晴れた奄美大島に船は静かに着いたのだった。
こんな小さな船をその安さだけで選んだ私に向けるFの目は
ますます厳しさを増すばかりだった。

つづく。


薩南諸島の旅 その1

2006年12月14日 | 

一昨日のイルミネーション撮影で、また風邪を引きなおしてしまった。
昨夜は、咳も出て少し悪寒がするので薬を飲んで早めに寝た。
薬と言えば、何年か前の修学旅行で昼食時に、先生が薬を飲み始めた。

「緑茶で飲むのは、まずいんじゃないすか?」と言うと

彼女は一言「アバウト」と答えた。
「アバウトですか」と言って、思わず苦笑してしまった。
「アバウト」という言葉の使い方がとても新鮮だったからだ。
彼女は娘の担任をしたこともあり、顔見知りの先生だったが
とても意欲的で熱心で、そして美人でもあった。
娘は彼女に憧れて先生になろうと決心したようだが
実際に先生になったいま、連絡はとったのだろうか?
こういう知らせは教師冥利につきると思われるんだが…。

今日、なんということなく「Google」で「与論島」の検索をしてみた。
ひとつや二つくらいはヒットするだろうと思っていたのに
な・な・な・なぁ~んと、凄い数のサイトがあるではないか。
こんなにたくさんホテルが建ってるのか、ビジネスホテルまであるじゃないか。
役場のしょうもないホームページくらいしか期待してなかったのに
一体全体「与論島」はどうなっているのだ。

私が始めて訪れたころは、島内に民宿が2,3軒しかなく
そのなかでも一番安い「便利屋」という、婆さんがやっている民宿に泊まったものだ。
確か一泊300円だったと思う。もちろん食事付きである。

もうかれこれ38年も前のことだ。
大学受験を終えて、あとは合格発表と入学式を待つだけのころ
一ヶ月近く間があったので、私は同級生たちに

「南の島に行ってみないか?」ともちかけたのだった。

最初は何人かが手を挙げていたが、いざ行く段になると
みんなあれやこれやと理由をつけて辞退し
結局それほど仲がよかったわけでもないFが一緒に行くことになったのだった。
高校2年の春に1人で九州一周無銭旅行と銘打って
ヒッチハイクで九州を旅したことのあった私はFに

「鹿児島まではヒッチで行くぞ」と言ってしまったのだった。

二人で北九州から博多までヒッチし、確か水城あたりで降ろされた。
気持ちのよい田舎道を歩いていると、道に迷ってしまい
鹿児島本線だか、西鉄大牟田線だかの線路にでくわした。
あたりに大きな道路も見えないので、まあこの線路を辿れば駅に出る。
駅に出れば必ずや道路があるというわけで
我々はこの線路上を歩き始めたのだった。
しばらく歩くと川を横切る鉄橋にでくわした。

この時私たちはまさに九死に一生を得るような体験をしたのだった。

線路に耳を押し当てて、列車が来る気配がないことを察して
我々はこの鉄橋を恐る恐る渡り始めたのだった。
高さにして約20メートルはあっただろうか
下を流れる川は水深が浅く、川底が透けて見えた。
鉄橋の長さは5,60メートルくらいだったろうか、いやもっと長かったような気もした。
あまりの高さと枕木の隙間から見える川底が災いして
我々は本当に亀の歩みのようなスピードで進んでいたのだった。
そのときである、嫌な予感が的中して、列車が迫ってくるような音が聞こえた。
後ろを振り返ってみると、汽笛とともに列車があっというまに
鉄橋に差し掛かろうとしているではないか。
一瞬、運転手の引きつった顔と目が合った。
我々はまだ、半分も渡りきっていなかった。

「走れF、走れー」大声で叫びながら、我々は死に物狂いで走った。

もう、高さなんて構っていられなかった。
「死ぬかもしれない」一瞬そう思いながらも、結構冷静に考えられた。
最悪の場合は川に飛び込もう、私はそう考えた。
水深が浅いこともわかってはいたが、死ぬよりましである。
飛び込めば、助かる確率もある。
枕木にうつぶせになろうかとも考えたが、大きな荷を背負っていたし
Fは多少肥満気味でもあったので、この考えは諦めた。
人間とはすごいもので、こんなことを全力で走りながら
一瞬のうちに判断していたのだった。

そのときである、ちらっと鉄橋を支える支柱が目に入った。
「F、飛べ、飛びつくんだー、あの柱に」
我々は、必死の思いで飛んだ。
飛んだそのすぐあとに列車が通り過ぎた。

なんとか助かったという思いと、こりゃ大目玉を喰うなという思いが交錯したが
列車はそのまま立ち止まることもなく行ってしまった。

我々は鉄の支柱にしがみついたまま、恐怖に震えていた。
なんとか線路に戻り、もう全速力で走った。
鉄橋を渡りきったとき、Fがバッグを川に落としてしまったことに気がついた。
春まだ浅い冷たい川に入り、バッグを回収したものの
Fのカメラはまったく水浸しになっていた。
当時、カメラはまだ貴重品で、サラリーマンが稼ぐ一か月分くらいの
サラリーにあたるほどの値段だったのだ。

すっかり落胆してしまったFに対して、私はなにも言うことができず
もう、家に帰りたいような顔をしているFに小さな声で

「俺、ひとりで行こうか?」と言ったが
その後もFは私について来た。

あの支柱がなければ、我々は旅どころか
死亡していたか、大怪我をして新聞沙汰になっていたところだった。

それから鹿児島まではFに
「ここからは汽車で行くか?」と言うと、彼は黙って頷き
我々は、少ないお金をはたいて、鹿児島行きの切符を買ったのだった。

その鹿児島から、まずは徳之島にむけて我々は旅立ったのであった。


イルミネーション

2006年12月13日 | 写真

 

昨日、風邪の具合が少し良くなったので、久しぶりに
「もどき」に乗って北区まで出かけた。
3週間ぶりである。

気温の冷え込みもなく、かなり暖かな夜だったのと
久しぶりに自転車を漕いだのとで、すこし汗がでた。
紫川沿いの歩道では、ホームレスの方が、ギターを弾きながら歌っていた。
ちょっと寄り道をして行こうかと思ったが、9時過ぎて家を出たので
先を急ぐことにした。

第1ホテルの近くまで来ると、かなりイルミネーションの灯りが見えてくる。
ホテルの裏手の川沿いでしばらくリバーウォーク方面の灯りに見とれる。
ホテルの前を左折して、役所方面へ向かい、横断歩道を渡ると
ここでも若い男性がサックスとギターの練習をしている。
なかなかの腕前だ。
ここから川沿いにずっとイルミネーションの道が続く。
藤棚には最近流行のブルーのLEDが煌々と灯りまるで藤の花のようである。
がしかし、本当の藤のような清楚さはない。
かなり派手である。

井筒屋方面にむかう橋の上は、光のトンネル状態だ。
なにかしら人々の顔も華やいで見える。

 



イルミネーションにみとれて撮影に夢中になっていると
少し身体が冷えてくる。
こんどはリバーウォークにむかう。
こちらは紫色のイルミネーションが魅力的だ。

 



小倉城のお堀までもがライトアップされていて、これには苦笑してしまった。

もうすぐクリスマスがやってくるが、そのころには人々でごった返していることだろう。

帰りがけに香春口の小倉カトリック教会の前を通ったが
小さな一対のリースにほんのりと控えめなイルミネーションが灯っていて
何故かほっとしたのであった。


ずっと風邪気味

2006年12月07日 | Weblog
このところ忙しいのと、風邪気味なのと、悪天候なのとで
まったく「じゃじゃ馬」も「もどき」もガレージから出ていない。
油注したり、磨いたりもしてやってなく、申し訳ないと思う。
ガレージの暗い片隅でじっと息を潜めているようだ。

愛犬の「セレス」も調子が悪い。
4,5日まえから急に餌を食べなくなった。
もともと大食漢の犬種であるから、食べないのは気になる。
犬舎に毛布を敷き、犬舎の上にも毛布を掛け、保温してやる。
鼻水などもでてないし、咳が出るわけでもなく、風邪ではないと思う。
何か変なものを公園で口にした可能性が大きい。
ほとんど水しか飲まないので、便も出ず、元気もなく心配である。
とにかく何か食べさせて体力をつけさせなければと
牛乳を温めたり、温野菜を食べさせたりと大変である。
少しずつ食べるようになり、いくらか元気にはなってきたが
まだ、階段も自分であがれない。
仕方ないので抱えてあがるしかない。どうも腰も痛めているようだ。
もうしばらく様子を見て、暇になったら病院に診せてみようと思う。

12月のこの気世話しさはなんとかならないものか。
まるで何かに追いかけらているようである。
12月は新年のためにあるわけでもあるまいに。

毎日夜遅くなってから、ほんの少しの時間を使って読書する。
「藤原新也」の2冊はとても読み応えがある。
「渋谷」は読み終えたが、また時々読み返している。
「黄泉の犬」はオーム真理教の麻原について言及している。
彼と水俣病との関連についての件はとても興味深い。
丸山健二の「貝の帆」は中断したままである。
少し読み疲れた感がある。もう少しで読了なんだけどね。

さて今日は早めに帰るとするか、
今日も雨で街に出られそうにもない。
街の灯りを写真に撮らなくっちゃ。
12月も中盤にかかってきた。
もうすこしすると忘年会も待っています。
その前にもう一仕事片付けなくっちゃ。