我々団塊の世代(私は尻尾に引っ掛かっている年代だが)が
これから大量に退職することによって起きるであろう
企業内における技術継承の問題や日本という国家内での
社会保障制度(年金、介護など)の問題を提起し
決してマスコミなどで騒がれているような
団塊の世代景気などに結びつくものではないことを明言している。
定年後の生活を悠々自適でエンジョイできるのは
ほんの一部の人間だけで、多くの人は
定年後も働かざるを得ず、また細々と年金に頼って生活する人たちも
預貯金はやがて来るであろう介護のために
取り崩すことはないであろうという。
目先の利益に惑わされて一時の間、若年層を雇用しなかった企業のつけ
少子化という名のもと、なんの対策もなくここまで来てしまった国家
これらを考慮すれば、まだまだ団塊の世代は
悠々自適な老後とは無縁で、企業のために働き、その技術を若い世代に伝え
また、我々を支えるであろう若年層のために
少ない年金がさらに少なくなることを受け入れ
さらに何もなければ、少しくらいの贅沢はできるかもしれないが
病気、老いという要素は遠慮なく忍び込んでくるので
とてもじゃないが、優雅な退職後の生活などは期待できそうもないということだ。
そこで高村氏は、これからの十数年を我々が如何に生きてゆくかによって
老いることの見本を示して欲しいと述べている。
もちろん彼女自身も含めてのことだろうが
最低限の生活が営まれるのに必要なお金はともかくとして
老後を如何に過ごすかと言う大きな命題に我々は
立ち向かわざるを得ない。
それは、人としてどう生きてゆくかということであり
なにも、海外旅行や趣味に金を掛けて余生を過ごすことでもない。
人が幸せに生きるためには、どうすればいいのか
それも子や孫の世代に大きなつけを背負わせることもなく
どうすれば充足感のある残りの人生が送れるかという命題だ。
しかし最初に書いたように、これは最低限の生活が営まれるという
保障があってのことだ。
残念ながら、現在のわが国において
毎年何万人と言う人々が自殺によって命を絶っているという現実を前にして
悲観的にならざるを得ない。
だがこの現実を何とかしてゆくのは、政治家の問題だ。
そして我々に出来ることは、幸せとは何か
幸せな社会とは何かを、それぞれが追求すること意外に道は無い。
目先の利益や、自分勝手な考えを慎み、人が幸せに生きるために
それぞれが行動し、考え、充足感を得て老いて行く。
そのためには具体的にどうして行けばよいのか
私は、深く考えさせられた。
お金が無くても人が人として幸せに生きてゆける希望のようなもの
精神的な支柱、そんなイメージが頭に浮かべば、夢は具現化しそうである。
老いの見本となるような生き方とは、
とどのつまり人が人生の価値を何に見出すかということに尽きる。