一通りの買い物を済ませ、私は店の外にある花や植木を見ていた。
その時である、ふと予感のようなものを感じて私は振り返った。
植木の枝の間から、懐かしい口元が見えた。
唇を固く結んで、両端を吊り上げて笑うその微笑。
それは紛れも無くあのMの微笑みだった。
距離にして約20メートル、まるで望遠レンズを覗いた時のように
その微笑みはアップで写し出された。
Mとは、もう35年ほど前に付き合ったことがある。
私が大学を卒業し、小さな店に勤めていたころのことである。
彼女は、まだ短大の学生で、二十歳。
私は彼女より4~5歳年上だったと思う。
私たちの交際は1年ほど続いたが、彼女の家の厳格な習慣から
あまり思ったような交際ができず、いつのまにか疎遠になってしまった。
とても感じの良い娘で、頭も良かったので、別れたあとも
私の記憶の中ではずっと気になっていた。
しばらくして私は一度、車を運転している途中に彼女を見かけたことがある。
小さな児を胸に抱いて、バス停に佇んでいる姿を見て
「ああ、結婚したんだ…」と思い、その幸せそうな微笑に
私も嬉しくなった記憶がある。
それから一度も会うことも無く、永い年月が経った。
顔の下半分は紛れも無くMだった。
私はちらっと視線を顔の上半分に移した。
それから私は、それがMであるかどうか確信が持てなくなった。
バス停で見かけたときは、まだ彼女そのものだったが
それから30年近い年月の変遷は、彼女を変えてしまったのか
それとも私の記憶を曖昧にさせてしまったのか
解からなくなってしまった。
それでもあの微笑にだけは確信があったので
まず間違いはあるまいと思ったが、私も家内と一緒だったし
向こうも娘さんのような方と一緒だったので声は掛けず仕舞いだった。
私の感じでは、たぶん向こうも私に気づいたように思う。
連れの女性を促して帰ろうとしていた。
そしてその後姿は紛れも無くMだった。
相変わらずの長い黒髪、少しO脚気味の歩き方
体型は以前より少し肉がついたような感じだが
昔は全く感じられなかった生活感が少し漂っていた。
化粧もせず、普段着だったので私を避けたような感じだった。
一瞬私は、あとを追いかけたがやめた。
そして白のワーゲン「ポロ」を運転して去ってゆくのを見て
まず彼女に間違いあるまいと確信した。
車を見て確信するというのも変な話だが
彼女の感性からして、「ポロ」はまず間違いあるまいと思ったのだから
仕方の無いことである。
それにしても偶然ってあるんだなーと思った。
いま私は、村上春樹の「東京奇譚集」という本を読んでおり
その物語は、「奇譚」とあるように、奇妙で、不思議で、偶然性の強い
物語ばかりである。
そんな本を読んで、世の中って結構不可思議なことがあるんだなー
と思っていた矢先に懐かしい人が現れるなんて…