鎌倉評論 (平井 嵩のページ)

市民の目から世界と日本と地域を見つめる

近代日本の死期は近いのでは    歴史から見えてくる日本近代150年の寿命

2015-06-18 10:39:31 | 日記

 

えらく悲観論を述べて恐縮なのだが、筆者のまだ出版してない近著『日本は近代思想をやり直せ』のまえがきからコピーしてみたい。誰も言わないことだし、面白い見解であるとは思う。筆者が日本近代思想史を調べて気がついたことである。

日本近代150年は人の一生と相似形である

 維新後一五〇年経てきた日本近代思想史を否定しようという試みは大胆すぎるかもしれない。だが筆者が感じるところ、日本人の思弁活動には虚構性が匂っているように思える。そのことはすぐ後の序論でくわしく書くが、多くの有力な思想家も告白していることである。つまりわれわれは自分の本心でないこと、思弁する動機も必要もないことを、それが近代文明の作法であるからということで、無理に取り組んできたのではないかという疑いである。われわれには脳裏で思弁する以外に、精神の深層で無意識的に思索しているものがあるのではないか。それは黙示思想と呼ぶべき、言語化もされず論述化されることもない、習俗的直感的感情的なものとして、民族心理に充満しているのではなかろうか。

 このような思いに立ってみると、近代日本の思想は隔靴掻痒の感のする、浮遊物という気がする。日本人は、近代に入って西洋化の波のなかで自分を失ったままではないのか。本来的な自己性、大地的精神性の上に立った思索を行っていないのではないか、ということである。それは感覚な文化面においてだけではなく、目の見えぬ精神的局面においても言えるのではないか。日本人は劣化し始めていると言われることがあるが、無意識的「空気」、それとも知らず行ってきた無意識的思索力を失いつつあり、つまり全面的アノミー状態、あるいは深い混迷のなかに沈みつつあるのではないか、という思いである。

 日本近代期に死期が迫っているのではないかという思いは、日本の近代精神史を通覧して強く感じることである。明治維新以降現代にいたるまでの一五〇年の近代精神史は、じつに人の一生と相似形ではないか、という思いである。いま両者を簡単に対比してみるとこうである。

 

   日本近代の幼少年期

 江戸期という別世界の胎内から、黒船に刺激されて近代日本はオギャーと生まれた。どんな国をつくるかと、政治家たちはあれこれ考えたが、天皇君主制と決めた。西南戦争など内乱や、自由民権運動など少年期らしい動乱があった。

   小学時代

 明治二一年憲法が制定され、翌年民法など法体系が定まり、やっと近代国家の体裁が整った。まさに小学校入学である。殖産興業を目ざし、資本主義の芽をつくった。志を抱いたのである。

   中・高・大学時代

 日清、日露戦に勝利し、資本主義は発展し、工業化が進んだ。農村型国家から都市型国家に変わり、労働者階級が発生。社会主義思想が入って社会運動が始まった。近代としての性質、つまり大人としての苦悩が始まった。大正時代には大正ロマンという思春期的精神状態が現われる。カチューシャの唄を歌い竹久夢二の絵に見入るという少女趣味的ロマンチズム感情を抱いた時代である。

  壮年期(三〇~五〇歳)

 軍事大国となり、帝国主義的野心をもって海外への進出を図る。だが勢い余って太平洋戦争に突入し惨敗する。それでも壮年期の元気をもってたちまち経済を回復し、経済大国となる。学生運動や社会主義運動も盛んだった。

  五〇歳代

 経済成長は頂点に達し、ジャパンアズナンバーワンといわれるようになる。だがバブルが発生し、末年にはそれが破裂し勢いを失う。

  六〇歳~七〇歳代

 バブルが破裂した後、失われた二〇年といわれる老年期にいる。構造改革などで老年の不調を直そうとするが、うまくいかない。はじめて政権政党を野党の民主党に変えてみるがこれも不調。安倍政権はアベノミクスというカンフル剤的政策をとっているが、これも未知数である。

  そして現代

 現在、日本近代は八〇歳くらいになっているのではなかろうか。八〇歳の現在、日本人は劣化したといわれだし、書籍の売り上げなど年々減り、知力が落ちてきたのではないかと囁かれる。学生運動など火が消えたようだし、社会に目標も夢も感じられんない。

 

 日本近代一五〇年を人の人生になぞらえるとざっと以上のようなことなのだが、もちろん歴史の解釈はいろいろだし、このような観かたは筆者の独断的偏見なのかもしれない。そうあってほしいと思うが、筆者の目には現代日本が一五〇年の人生の終末期に見える。その終末がどのような姿をとって現われるのかは予想しがたい。大きい経済破綻が起きて戦後のような状態になるのか、ハルマゲドンのような破滅的事件が起きるのか。といって日本国家やネーションが消滅することは考えられない。するとその終末とは日本近代というドラマの終わりを意味するのかもしれない。いずれにしろ近代一五〇年を人生になぞらえてみると、それは今死期に近づいているのではなかろうか。こういう展望をもってみると、『日本は近代思想をやり直せ』という呼びかけも大言壮語とは思えず、むしろ時機に適っているのではないかと思えてくるわけである。

 

                 雨だれの音聞く窓辺に書を広げ 

                    菖蒲花咲く池の面を観る

 

 

 


「鎌倉評論ブログ」第1回   書くことによって自分を開発してきた横町の評論家、私

2015-06-10 12:34:43 | 日記

 

勘定してみたら8年近くつづけてきた「鎌倉評論」ホームページであったが、急にこのブログに転居することになった。同じような画面なのに、なんだかぼろ屋に引っ越ししてきたような気がする。N氏に勧められて難しいHTMLというむつかしいコンピュータ言語を勉強し始めたものだった。はや8年もたったか。

 何の得にもならず、誰が読んでくれているかもわからないホームページとやらに8年もよく書きつづけたものだと思うが、思えば、それが知らず知らず自分を開発してきたことに気づいた。

これを書くために、新聞雑誌書籍を注意深く読み、考えて、事象を統合的に把握しようとしてきた。関心は四方八方に飛び、とくに関心を持つことはノートにとり、感想を書いたりした。

そしてとうとう2冊の本まで出版してしまった。現在3冊目の本を書き終えて、出版社を探している。タイトルは『日本は近代思想をやりなおせ』といういわさか壮大すぎる、あるいは大げさでホラっぽい名前をつけている。筆者としては、大真面目なのだが、無名で、肩書もない人間が言うと、どうしても大言壮語に聞こえる。

この出版不況で、大学生まで本を読まなくなったという、知力の落ちた現代日本で、こんな本を出してくれる出版社があるとは思えず、人知れずお蔵入り哉と思っている。どこか奇特な出版社、あるいはカネを出してくれる(200万円)メセナがいないものかと夢みているこの頃である。

しかし筆者の書きぐせ、思索ぐせはもはや止まらず、これからもこのブログをはじめ、新聞書籍の執筆に死ぬまで取り組むことになりそうだ。

 次なる著作のタイトルは『さむらい精神の哲学』である。侍という人格は、日本人の支配階級だった武家層がつくりあげた人間の人格であるが、それは単に階級的性格という以上に、それを支えた日本人の哲学、思想があった、と筆者は考える。

 武士道論といえば、新渡戸稲造の『武士道』が有名であるが、この本は英語で外国人向けに書かれただけに、いささか欧米との比較、背比べのような言葉が多くて鼻につくし、かつその思想を儒教や仏教に依存しており、さくらい精神が日本人自身の思索と思想を内包していることに気づいていない。私の前著『日本人の黙示思想』『ニヒリズムと闘った人類精神史』の考えを踏まえて、さむらい精神を日本人自身の哲学として解明してみたい。

 さむらい精神の哲学思想は、享楽とエゴイズムによって人間の精神者としての統合性を失いつつある現代日本人に呼び戻されねばならないものと考える。

                     夏近き逢魔時に独り行けば誰かに会えるときめきのあり