鎌倉評論 (平井 嵩のページ)

市民の目から世界と日本と地域を見つめる

北鎌トンネル問題   市の常軌を逸した決意   裏に寺と檀家のただならぬ事情

2016-07-30 11:58:19 | 日記

7月8日、「文化財専門委員会」の会合で、文化庁から派遣された2名の外部委員を入れた会議で、当該トンネルを含む尾根が文化財だと判定された。

これは、市と開削推進派にとっては大きな誤算、痛手になったことだろう。

文化財専門委員会に文化庁から委員が派遣された委員がいて(五味教授、藤原教授)彼らが強力な発言をし、委員会の空気が変わったことは、文化庁がこの件に関し、開削反対を支持していることを意味している。開削反対市民にとっては大きな味方を得たことになる、

鎌倉市と開削派は文化庁を敵にしたともいえる。

7月25日、松尾市長は「文化財委員会」の判断を受けて、尾根保全を発表したのだが、トンネルの安全性についてはまだ未解決であるとし、開削案を取りやめたわけではないといった。そして一時的応急措置として、1月までに、トンネル壁をコンクリで固める工事をすると発表した。

市長の実に煮え切らぬ発言であるが、それには裏があった。

情報によると、8日の「専門家会議」の前、5日の日に雲頂庵で、寺と檀家衆、それに松尾市長と役人2人が会合した。そこで、檀家衆は専門家会議で文化財と判定されたらどうするのか、開削工事をこのまま進めるのか、と激しく詰め寄ったという。これに対し市長は、そういう判断が出ても工事を進めます、と約束したという。

これは「専門家委員会」という正当な機関の権威を無視し、鎌倉行政権力が無理やり権力によって工事を行うと、約束したものである。

あまりにひどい権力専横であり、民主的手続きの無視である。寺と市は一体どのような利害関係、因縁によってむすばれのだろうか。市長も役人も個人的にはぽっとやってきたものであり、そのうち転属や任期満了でやめていくものである。これほど強い因縁が発生する理由が考えられない。

そこで筆者は考えた。これは寺が墓地を作って資金をえなけらば立ち行かなくなるような切羽づまった状況にあるのではなかろうか。寺が苦しくなるということは、それを支える檀家衆の負担が増えるということだ。檀家の旦那が目くじら立てて市長に迫った理由はそこらへんにあるのではないか。

そうなrば、筆者も寺や檀家衆の切羽づまった事情を理解できる。もしそういう事情があるなら、寺側は正直にそのことを言うべきだ。お互い腹を割って話し合えば解決の道もある。

たとえば、寺が立ち行かぬほど困っているなら市が補助金を出すことも考えられる。円覚寺の由緒ある塔頭である雲頂庵だ。尾根と同じように立派な文化財であるから、墓地など作らなくとも、市民も協力するのではないか。

 

               蝉しぐれ黙念の中に追い来る

 

 

 

 


北鎌トンネル問題   市、振り上げた危険のこぶしをどこへ持っていくか 25日市長会見

2016-07-29 11:36:30 | 日記

さる25日北鎌トンネルの開削について市長の特別発表がるというので、これは市の降参宣言かと思い期待して駆けつけた。

もちろんこの市長の行動は、先日8日、「文化財委員会」が在って、ここで、市が期待した「あの尾根は文化財にあらず」というのが、その正反対の「文化財である」という結論になったことを受けている。

「文化財委員会」の会議の流れは、市の御要学者たち7人の外に市民側の要請した外部委員2人の意見によって大きく左右されたものだった。

御要学者委員は会議の最初、この尾根は文化財的価値に疑問があると言っていたが、東大名誉教授五味文彦氏と青山学院大学藤原良章氏の外部委員が、「これが史跡でなくてなんであろう」ときつく言うと、御要学者は前の意見をくるりと変えて「史跡である」と云いだした。なんともお笑いの場面であった。

しかしながら官僚にはメンツがあるし、危険と云って来て通行止めまでしてきたのに、その問題を簡単に投げ出すわけにいかない。

したがってこの市長会見も、開削をやめて元の状態に放置するとは云わない。市長及び役人はこの席で、市議から元の状態にすると約束しろ、と激しく詰めよられたが決してそうしますとは云わない。

結局応急措置として、仮設工事をして危険防止をすると発表した。

それはダイヤプレート方式というもので、要するに、岩壁をコンクリートで固めるというものである。これだと車の通行はできないが、安全にはなるというものだ。

しかし市民の求めているものは、もとの自然壁のままを残し、風情ある景観を残せというものである。コンクリ固めの工事では市民の求めているものにならない。

このまま放っておけばカネもかからずに済むものを、官僚のコケンか、云いがかり上のメンツのために、こんな工事をやらざるをえないのだ。

官僚のメンツなんて犬にくれてやればいい。

         最後までメンツにこだわる犬官僚

 

 

 

 

 


「官僚的」とは善か悪か   官僚の精神改革こそ日本の構造改革の柱

2016-07-24 15:24:08 | 日記

鎌倉評論9月号のための論説を書いたのでアップする。

 

しばらくブログを書かないうちに外は夏になった。書籍の執筆に余念を失っている。

老耄は書籍の山に登りかね

蝉の声昼寝の風に融けて来る


「官僚的」とは善か悪か

   日本の真の構造改革のために

 

1、日本の屋台骨を占める官僚集団

「それは官僚的だ」とか「官僚主義はよくない」など「官僚的」という言葉がまるで組織の在り方として悪いことのように使われる。しかしそんなことがあっていいものなのか。なにしろ官僚は現に巨大な集団をなし、生きた組織として日本国に君臨しているのだ。そのあり方が悪い見本のように見なされ「官僚的」であることを当たり前のように見なしているのはおかしい話ではないか。このような素朴な疑問に基づいて、今回は「官僚的」であることの是非を論じてみたい。

 日本国の構造改革が云われて久しい。安部内閣は第三の矢と称して構造改革を図りながら一向に進んでいる気配はない。その原因が日本のあらゆる組織、とくに公務員をはじめそれに準ずる集団の「官僚的」体質にあるのではなかろうか。

 公務員の人数は、国家公務員30万人、地方公務員370万人合わせて、400k万人だ。日本の労働人口6400万人だからその占める割合は6.7%とされる。世界の中でも少ない方だが、しかし官僚がもつ指導性、権力、集めた税金を使い分配する権利、国民への誠意、やる気によって日本国の浮沈が大きく左右される。

 したがって公務員改革がいつの時代でも叫ばれ、現在も新しい人事制度が計画されている。しかし「官僚的」という言葉が内包する官僚の悪しき精神がなくならない限り、制度をいくらいじってみても「官僚的」であることから脱することはできないだろう。

2、「官僚的」悪の具体例

 一体「官僚的」とはどういうものなのか具体的に考えてみたい。一般的に云われていることのいくつかを挙げてみたい。

A)「縦割り」という悪

官僚組織の弊害の代表例として、この「タテ割り行政」ということが云われる。これを官僚組織の宿命的性癖として諦めていいものではない。タテ割り行政の弊害とはセクショナリズムの弊害ということだ。企業にもあることだが、なぜ官僚界にそれが弊害として現われるのか。その本質は人間の自己中心主義、全体が大事なのにそれに目を向けようとしない自己組織第一主義になるからだ。そのためには首長や議員など抱き込み、言いくるめ、利益誘導あるいは不利益誘導(えこひき)をして押し通そうとするほど強いのだ。

タテ割りの弊害は二重行政や無駄の発生だ。理念を忘れ大局を忘れ、ただ何か仕事をして時間をつぶしているという惰性に陥ることだ。 

 組織の一部分がそんなわがままをし、大手を振って不合理を行えるのは、資本原理(損得勘定)無視できるという税による運営体という特質にある。これはまた後で述べる。

B、前例踏襲(マンネリズム)という悪

役所では自己組織中心主義は強いが、個人としての自己主張や自己発揮は強く抑え込まれる。上意下達で上のいうとおりにする、という風が強い。これは公務員法にそうせよと書いてあるからかもしれないが、それが官僚組織をいたずらに硬直化させているものだ。新しいやり方や別のやり方というものを嫌い、今までやって来た通りのことをやっておればよいという気質である。しかし社会の変化、時代の移り変わりは早いのだ。それに、仕事は個人の創意や自主性ややる気に依存するところが大きい。それを無視するマンネリズム尊重の「官僚的」という気質は脱すべき悪と言える。

マートンというアメリカ社会学者は、官僚制の個人性抑圧、個人の創意工夫の抑圧傾向を「官僚制の逆機能」と言っている。学者がこう言っているくらいわかっているのなら、職員個人のイノベーション意欲を高める気風にすればいいのだが、現実は職員の成績査定においてもおとなしく順応するタイプを良しとし、その成績査定がかえって職員の自由性を抑圧する結果になっている。

C、法令主義という偽善(無責任体質)

役所は法令主義で規律されている。何をするにも法令の根拠を必要とする。それは役所が誰に対しても平等公平に対処しているという姿勢と言えるのだが、そのことは責任の所在が法にあり、役人(個人)にはないということになる。

 ところが実際は、法令の解釈によって、そこに顔の見えない、責任をもたない官僚の恣意的な意思がいくらでも入りうるのだ。つまり法令を依拠していると云いながら、法は言葉であるから官僚はそれを自分の考えで解釈できるのだ。「行政の裁量権」とか云ってそれは公認されている。その裁量が曲者である.法の言葉を最大限に解釈するか、最小限に解釈するかによって、現実にその差は大きくなる。このことを以て学者は「官僚優位論」と言っている。端役の役人が法解釈という手段で独裁的権力者になれるのだ。役人が、顔のない権力者と言われるゆえんである。

 以上みてきた三つの問題によっても、「官僚的」という組織運営が国家や自治体など公共共同体のために、決して良いことではないということがいえる。「官僚的」であることは一見公平公正に見せかけているが、その内実は人間的悪、不正、良識の麻痺などをおこさせるのだ。

 かつての旧共産国では、国民全員が公務員で私的自由というものがなかった。そのため国民すべてがこの「官僚的」という病気にかかり、国家はまったく発展できず、資本主義陣営に降参したのだ。共産主義では、私心を捨てて社会全体に尽くすという人間の崇高な誠意を前提にしていた。それは非現実的な理想主義であり、マルクスは人間を見誤ったというべきで、アダムスミスの方が正しかったということになった。市民のため国家のために尽くすという、官僚の観念的理念が強いほど、かえって組織を硬直化させ、偽善に走らせる。「官僚的」ということには共産主義国の気風と同じものがある。

 組織第一主義か個人尊重主義か、全体主義か個人主義か、という問題は、どこの組織いつの時代でも人間社会に課せられたアンビバレント(二律背反性)な問題であるが、とくに今日の官僚社会では資本主義原理(損得勘定)をもっていないという理由で、今なお近代主義(個人主義や自由主義)が機能しない世界になっている。

3、税という資金の体質

官僚社会に近代主義(資本主義)が入りこまない原因は、それが税によって運営され、税を使うだけの集団になっているからだ。税とは国民から強制的に集めたカネであり、企業が生産活動で得たカネとは性質が違う。そこには損得勘定という会計方式はない。必要とあらば国家はいくらでも国民のカネを取り上げることができる。

したがって官僚の金銭感覚は税金に対して全くルーズになる。予算制度と言って国民の懐にあるカネを当てにするカネを使うシステムである。それは結局国民のカネ全部を担保にしている考えだ。官僚世界ではカネは地から湧くか天から降ってくる感覚である。国民の膏血を絞るわけだから、血税などとは一応言うが、官僚にそんな意識はまったく湧かない。税金は無主のカネで、くすね盗ったり、だまし取ったりする対象ではあっても、心底倹約したり節約する気にはならない。一円も無駄にしないなど政治家は言うが、聞いてあきれるホラである。身近な例では舛添要一氏のことや、鎌倉市の生活保護費盗難事件などいくらでも例証できる。

このような会計運営システム、天から降ってくるカネで運営するというシステムではどんな素晴らしい官僚改革論を言っても、隔靴掻痒のものになるだろう。

4、税と官僚の歴史

「官僚的」と言われる組織運営の悪の原因は、この税と言う資金の在り方に根本原因がある。しかしこのシステムは止めようがない。なにしろ税金の歴史と官僚の歴史は古代社会にさかのぼる古さなのだ。

税は古代から封建時代まで、つまり全歴史を通じて、支配者を養うためにのみ使われ、民衆に還元されるカネなどほとんどなかった。つまり税とはお上に差し出すカネ、お上に取られるカネ、お上を養うカネという考えが国民にしみついていた。

日本の官僚はすべて敗戦までは天皇の臣であり、天皇に奉仕するもので国民など二の次だった。戦後はやっと西洋から民主主義という革命がもたらされたが、米ソ対立という世界情勢の関係で、政治体制は天皇君主制と民主制の曖昧な妥協の産物となった。官僚の思想や心情も曖昧な状態になったといえる。つまり自分は天皇の臣としてのお上なのか、主権者国民のしもべなのかというこんがらがった心情になっている。頭の中では国民が主権者で、役人は国民への奉仕者だと分かっているが、心の中はそううまく整理されていない。

5、「官僚的」という悪からの脱出を目ざして

アメリカのような植民者による自由主義を建国の原点とする国には、マレー・ロスバードなど無政府主義を唱える人もいる。彼らは官僚など全廃し、税もなく、何事も(警察、消防、軍隊までも)民間に任せてしまうという発想である。国家は最大の収奪機構であり、徴税とは強制的泥棒であるという。日本のような封建主義や国家主義の長い国では想像もつかない考えだが、考えると一理ある。そしてそれは現在の日本に、官僚機構の民営化という形で影響を及ぼしている。

筆者は無政府論を唱えるつもりはないが、それでも古い権威主義や形式主義、マンネリズムの「官僚的」気風は、自由主義的で個人主義的な気風に改善すべきと考える。日本の膨大な官僚社会が、悪しき組織主義的体質の「官僚的」なままでいると構造改革などいつになってもできないだろうし、そのうち日本は衰退していくだろう。◇◇◇