鎌倉評論 (平井 嵩のページ)

市民の目から世界と日本と地域を見つめる

世界の混迷は精神の混迷  現代人間世界を解剖する

2016-02-11 12:06:24 | 日記

(鎌倉評論56号、3月号用の論説を書いたのでここにアップする。新聞は月末発行予定)

 

人間は精神の産物であり思想が重要である

世界の混迷が感じられる時代である。表層の政治世界ばかりか内面の精神世界も基盤が動揺し、何を信じ何をよすがとすればいいか迷いが覆う時代である。多くのジャーナリズムは政治情勢や経済状況ばかり解説してそれ以上を分析することはないが、むしろ肉体(実体)現象は結果にすぎないのであって、人間は精神として生き、思想を杖としている。それは海のように深く多層であり、その深層を読まないでは時代の流れは分からない。本欄は今回及ばずながら、現代の混迷を人間精神の深層のものとして考えてみた。

1、宗教の衰退

 宗教について論じるにはまず西洋一神教(キリスト教)から始めねばならない。なぜなら、西洋は古代中世的宗教を疑い、脱宗教化することにより、現在ある近代文明を築いてきたからだ。彼らの脱宗教は昨日今日始まったことではなかった。それは人類の精神革命として近世頃からヨーロッパにおいてのみ起こった。それは人間が個人的存在であるということに目覚めることだった。反宗教反キリスト教は、デカルトの懐疑主義哲学を生み、カントなど人間主義の哲学を生んだ。人間の「主体」が意識され、主体を動かす理性が神に代わって信じられた。理性はガリレオに始まる科学を発展させ、科学思考は益々宗教を不信に陥れた。そればかりか、科学技術は産業革命という飛躍的文明を発展させると同時に、資本主義という個人主義的欲望経済を発展させた。脱宗教はフランス革命など劇的な政治改革となり、王を殺し民主主義をつくることになった。今日われわれが信奉し実行している民主主義、個人主義、自由主義、資本主義などは西洋人の脱宗教思考から生まれたものと言っていいのである。

 そしてついに、今日ヨーロッパには無神論が一般化し、教会には閑古鳥が鳴いているという。脱宗教化、無神論化は「神は死んだ」といった哲学者ニーチェ自身が言うように、生きる目的や価値の基準を失うこと、すなわち人間精神をニヒリズムに陥れることだった。ヨーロッパ人はそれに苦しむようになり、今日、無神論を抱いて平然としている日本人や老荘思想、禅思想に興味を持ち始めた。

 日本人の宗教はどうか。もともと日本人は一神教徒のようには宗教に頼らない民族だった。自分は無神論だという人が多いし、冠婚葬祭にみるように宗教にこだわりがない。歌人西行の歌「何さまのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」に見るように、日本人の宗教はそこはかとない宇宙的なものへの崇拝心だった。それは今も我々の宗教心だろう。したがって近代化のなかにあっても、神を失うという深刻な打撃はない。

 問題は今日騒ぎを起こしているイスラム教である。イスラム教は強烈な一神教であるが、脱宗教化しなかった宗教である。18世紀ごろまでは宗教帝国を保つことができたが、その後中世的迷妄宗教から抜け出さず、近代技術で武装した西洋に赤子の手をひねるように植民地化された。20世紀、近代化のなかで彼らもイスラム教の改革運動をおこすが、それは脱宗教化の方向ではなく、イスラム教的信仰心を強化する方に向かうものだった。しかし彼らの生活も西洋化の波に洗われ、経済の工業化が必要だったが、アラーの賜物といわれる石油のおかげで宗教的迷妄のなかに生きつづけた。彼らの迷妄的宗教は天国の存在を信仰の必須条件とし、ジハード(聖戦)で死ぬことをそこへ行く切符だと信じている。自爆テロはこの天国信仰から行われている。とくに原理主義者がそうである。これをやめさせるのは爆弾を落とすことでもマンガでからかうことでもなく、この迷妄を吹き払ってやることだ。「ジハードで死んでも、天国なんに行けないよ。もともと天国なんてムハンマドの作り話だ」と言ってやることだ。だが、貧困と砂漠しかない彼らには、幻想の天国の方がいいのかもしれない。

2、哲学の衰退

 哲学といえばやはり西洋哲学がメインである。日本人は明治以降それを輸入して学び始めた。それは文明開化の一環として東京大学に哲学科がおかれ、カントやヘーゲルといった難解な学問を何か有難いものとして拝聴し始めたものだった。しかし今日まで日本の講壇哲学者は西洋哲学の講釈師、翻訳家、後追い三流思想家でありつづけている。その訳は哲学が自発的な日本の知ではないからだ。

 その厳かな西洋哲学も今日黄昏のなかに消えようとしている。ハイデッガーによると、古代ギリシャ人が哲学を始めた理由は、この世界が自意識(自己内部)ですべて生起していることへの愕きであったという。つまりギリシャ人およびその後継者西洋人は、異常に強い自意識をもった民族だった。自意識をもつのは人間共通の本質的意識だが、彼らはそれを世界の存立の根拠とまで考えた。カントヘーゲルなど近代哲学は、自分のなかに「主体」という抽象的で形而上学的なものが実在すると考えた。(フッセルは「超越論的主体性」という)主体主義哲学の絶頂期はヘーゲルの「世界精神」という考えだろう。それは自我意識は発展向上し、世界を覆うのである。自我意識のひどい妄想であるが、西洋人は自分の主体の優越性やその思想を支えとした自尊心(他民族への優越心)をもって帝国主義的世界進出をしていった。産業革命や科学的成功はその自尊心や優越心を支える証拠だった。自由主義や個人主義を求める社会改革(革命)もこのような主体哲学が支えていた。哲学は彼らにとって必要にして有効な信念だった。

 ところが20世紀も深まると、「主体主義」には何の根拠もないことが分かってきた。妄想的形而上学は破棄され、人間存在は「今ここにある」という実存であり、「主体」は掴みどころのない幽霊のようなもの、と考えられるようになった。主体主義哲学の崩壊である。

 しかし日本の西洋哲学はお稽古哲学であり、江藤淳が言うように〝ごつこ〟であり、学者とマニアの玩弄物で日本人の内面に打撃を与えることはない。日本人の本当の哲学は西洋哲学をとっくに超えている、と筆者は考えている。「天台本覚思想」とか「華厳思想」思想、「真如観」などだ。この説明をするスペースはないが、日本の西洋哲学者がこうした日本思想にどうして目を向けないのか不思議である。

3、思想の衰退

 マルクス主義という思想は現代人類に束の間の希望と輝きを与え、突如絶望と落胆のなかに墜落した。格差と欲望主義の資本主義に代わって、平等と平和の世界をもたらすはずだった共産思想は、それが目的とした人類の幸福などそっちのけにして、残忍な殺し合いと欺瞞と秘密主義の20世紀をもたらしたのだった。その思想はいまだ中国や北朝鮮に化石のように生きているが、思想としては消滅し、そればかりか人類に思想というものへの絶望感を与えた。「大文字の物語の終焉」といわれるように、西洋が築き我々が現在奉している近代思想全般への不信を生じさせた。民主主義も自由主義も相対主義の疑念のなかに包まれ、不透明な時代といわれるようになった。イスラム過激派も貧困と砂漠の中から彼らの理由をもって近代主義を恨み、北朝鮮の独裁者も人民を苦しめながら、だからどうしたといわんばかりに自己主張するのである。

 人間は思想的存在である。無意識的にではあれ、さまざまな思想、信条、存在了解がなくては生きていけない。〝あれは自動車だ〟〝あれは隣のお父さんだ〟という日常の認識も立派な思想である。人間は無限と言えるほどの記憶の山を抱え、それをコントロールし、統合し、正気を保ちつづけている。そのコントロールが利かなくなった人間を「狂人」というが、本能のない人間は狂人になる欠点と脆弱さをもっているといえるのだ。

宗教も失い、或いは原理主義化し、哲学も失い、思想も朦朧となり、すべて相対主義の霧に包まれた不透明な現代は、世界政治にも社会にも狂人的現象が現われてくる。IS(イスラム国)という了解不能な狂人集団、ホロコーストもなかったという歴史修正主義、ヘイトスピーチ集団、狂的な額の金を抱えて悦に入っている富裕者、自分を失ってひきこもる若者、その他多数の狂的現象には、時代的精神の「脱コード(規定)化」、ニヒリズムの底流がある。

 どうすればよいか。これを救う思想が「日本人」という思想のなかにあると筆者は思っている。

4、『日本は近代思想をやり直せ』

筆者は最近「日本は近代思想をやり直せ」という本を出版したが、ここで主張したのは、日本人がすぐれた思想をもっているのに、近代以降西洋に事大し、自分の本質に気づかず、世界に向かって思想的指導性も貢献もできていないでいるということである。

日本に長く滞在したドイツの哲学者カール・ルーヴィットは「日本人は二階屋に住み、その二階には西洋思想がプラトンからカントまで並んでいるが、自分の行動は一階の自分の思想で行っている」と評している。まさに日本の近代思想は二階の庭園での遊びであり、本当の日本精神はロゴス化されず、言説化されず見捨てられている。この気づかれず、見捨てられた思想のなかに、西洋思想が考えなかった優れた思想が埋まっているのだ。たとえば「侘び」思想、それはお茶の美意識と思われているが、自尊を抑えよというその思想は西洋にないものだ。

 日本人の思想は現代の混迷を救うものに違いない。本書は現代日本人に覚酔を求める。是非一読を乞う。◇

 

 

 

 

 

 


1 コメント

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平井崇著『日本は近代思想をやり直せ』(図書新聞) (鎌倉社会問題研究会 代表)
2016-03-04 01:00:18
学生時代に、ニーチェに傾倒していた時期があり、*K.レーヴィットの著作『ニーチェの哲学』柴田治三郎訳を読んで感無量の思いが甦る。
そのカール・レーヴィットが東北大学にいた時期に書いた『ナチズムと私の生活 仙台からの告発』も大変興味深く感じた記憶がある。
現代では、表層的な「手続き主義の思考」が横行する中、レーヴィットのような思想家を敢えて取り上げ、『近代思想をやり直せ』と啓発しながら、日本近代思想批判をしうる平井崇氏のような著述家は極めて少ないように思える。

『職業としての学問』という著作(講演)の中で、マックス・ウェーバーはこう述べている。
・・・学問的に「達成された」仕事というものは、新たな「問い」を提起するものであって、[その問いに答える後の仕事によって][凌駕され]ることを、時代遅れになることを、”望んでいる”ものなのです。・・・
歴史的なマックス・ウェーバーの講演を実際にその場で聴いて感動した大学生レーヴィット。標記の言葉の覚悟を語り、少年時代からの夢、哲学者への学究の道を目指したそうです。

平井崇氏の最新作である『日本は近代思想をやり直せ』(図書新聞)に、『新たな「問い」を提起するもの』として大いに期待する。

*カール・レーヴィット
(Karl Löwith、1897年1月9日 - 1973年5月26日)東北帝国大学で、哲学とドイツ文学を講義した亡命ユダヤ人の著名思想家(仙台に暮らした歴史に残る西欧の思想家)

参考↓ホームページ
東北大学萩友会
http://www.bureau.tohoku.ac.jp/alumni/hitogoroku/201309/index.html

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