鎌倉評論 (平井 嵩のページ)

市民の目から世界と日本と地域を見つめる

「鎌倉評論ブログ」第1回   書くことによって自分を開発してきた横町の評論家、私

2015-06-10 12:34:43 | 日記

 

勘定してみたら8年近くつづけてきた「鎌倉評論」ホームページであったが、急にこのブログに転居することになった。同じような画面なのに、なんだかぼろ屋に引っ越ししてきたような気がする。N氏に勧められて難しいHTMLというむつかしいコンピュータ言語を勉強し始めたものだった。はや8年もたったか。

 何の得にもならず、誰が読んでくれているかもわからないホームページとやらに8年もよく書きつづけたものだと思うが、思えば、それが知らず知らず自分を開発してきたことに気づいた。

これを書くために、新聞雑誌書籍を注意深く読み、考えて、事象を統合的に把握しようとしてきた。関心は四方八方に飛び、とくに関心を持つことはノートにとり、感想を書いたりした。

そしてとうとう2冊の本まで出版してしまった。現在3冊目の本を書き終えて、出版社を探している。タイトルは『日本は近代思想をやりなおせ』といういわさか壮大すぎる、あるいは大げさでホラっぽい名前をつけている。筆者としては、大真面目なのだが、無名で、肩書もない人間が言うと、どうしても大言壮語に聞こえる。

この出版不況で、大学生まで本を読まなくなったという、知力の落ちた現代日本で、こんな本を出してくれる出版社があるとは思えず、人知れずお蔵入り哉と思っている。どこか奇特な出版社、あるいはカネを出してくれる(200万円)メセナがいないものかと夢みているこの頃である。

しかし筆者の書きぐせ、思索ぐせはもはや止まらず、これからもこのブログをはじめ、新聞書籍の執筆に死ぬまで取り組むことになりそうだ。

 次なる著作のタイトルは『さむらい精神の哲学』である。侍という人格は、日本人の支配階級だった武家層がつくりあげた人間の人格であるが、それは単に階級的性格という以上に、それを支えた日本人の哲学、思想があった、と筆者は考える。

 武士道論といえば、新渡戸稲造の『武士道』が有名であるが、この本は英語で外国人向けに書かれただけに、いささか欧米との比較、背比べのような言葉が多くて鼻につくし、かつその思想を儒教や仏教に依存しており、さくらい精神が日本人自身の思索と思想を内包していることに気づいていない。私の前著『日本人の黙示思想』『ニヒリズムと闘った人類精神史』の考えを踏まえて、さむらい精神を日本人自身の哲学として解明してみたい。

 さむらい精神の哲学思想は、享楽とエゴイズムによって人間の精神者としての統合性を失いつつある現代日本人に呼び戻されねばならないものと考える。

                     夏近き逢魔時に独り行けば誰かに会えるときめきのあり