鎌倉評論 (平井 嵩のページ)

市民の目から世界と日本と地域を見つめる

「中村県議は早く辞めなさい」  鎌倉新年祝賀会でヤジの大声があがる。

2016-01-07 12:03:45 | 日記

1月5日は鎌倉市役所主催の市民新年祝賀会が毎年行われる。2千円払えば市民だれでも出席できる。参加者が偏っているという批難もあるが、毎年マンネリで行われている。今年もいつものように、市長、国会議員、県会議員、それにきれいどころのミス鎌倉などが壇上に並んで挨拶をする。

おそらくその時であろう。満場の起立している聴衆の中から、表題のような言葉が大声で発せられた。一瞬満場は水をうったようにしんとしたそうだ。

新聞ではすでに各紙で報道されているように、中村県議は政治活動費横領の疑いで、県自民党県議団から議員辞職を勧告されている。

30年以上自民党員として県議を務め、県議団長も県会議長も務めた、自民党にとっては功績ある人物を、その自民党が議員をやめろというのだから、自民党はよほど自分の政治的ダメージを心配してのことだろう。

しかし県議にしてみれば一生勤めた県会議員だ。たかがこれしきの不明でやめる気にはならない。なんとか我慢してほっかぶりしておれば、馬鹿な世論はそのうち忘れるだろう、と思ったのだろう。それに1600万円もの年収を自分から捨てるなんてもったいない。知らぬ存ぜぬを押し通して耐えることだ。

ところがどっこい。世論は御人よしでも馬鹿でもない。覚えるべきことはちゃんと覚えている。中村県議の辞職は自主性にまかされており、本人がどこまで良心に痛みを感じるかの問題だ。

      つとに聞く 悪い奴ほど よく眠る

 


日本近代は死期に近づいている   近代150年の歴史から見える日本の未来予測

2016-01-04 11:31:56 | 日記

(前口上   筆者の3作目の著作が2月20日に発刊の予定である。タイトルは『日本は近代思想をやり直せ』といういささか過激ななまえをつけたが、中味は日本人論とそれを踏まえた日本近代思想史批判である。

その冒頭の「はじめに」の文章をここにアップしたい。年のはじめに悲観的な予測になるが、1、2年の短期予測でなく、日本近代150年を踏まえた長期観測である。)

 

『日本は近代思想をやり直せ』

はじめに   日本近代は死期を迎えている

 いささか過激な本書のタイトルについて釈明しておかねばなるまあい。維新後150年経てきた日本近代思想史を全否定するという試みは大胆すぎるかもしれない。だが日本人の思弁活動には欺瞞性が匂っているようにおもえる。そのことはすぐ後の序論でくわしく書くが、多くの有力な思想家も告発していることである。つまりわれわれ自身の本心でないこと、思弁する動機も必要もないことを、それが西洋近代の問題であるからということで、無理に取り組んできたのではないかという疑いである。われわれは脳裏で思弁する以外に、精神の深層で無意識的に思索しているものがあるのではないか。それは黙示思想と呼ぶべき、言語化もされるず論述化されることもない、習俗的直観的感情的なものとして、民族心理に充満しているのではなかろうか。われわれが根本的に必要なことは、ソクラテスの「汝自身を知れ」に倣って言うなら、「日本人自身を知れ」ということであることを主張したい。

 日本近代に死期が近づいているのではないかという思いは、日本の近代精神史を通覧して強く感じることである。明治維新以降現代にいたるまでの150年の近代精神史は、じつに人の人生と相似形ではないか、という思いである。いま両者を簡単に対比してみるとこうである。

日本近代の幼少年期

江戸時代という別世界の胎内から、黒船に刺激されて日本近代はオギャーと生まれた。どんな国を作るかと、政治家たちはあれこれ考えたが、天皇君主制と決めた。西南戦争など内乱や、自由民権運動など少年期らしい動乱があった。                                                                                  

小学時代 

明治21年憲法が制定され、翌年民法など法律体系が定まり、近代日本の体裁が整った。まさに小学校入学である。殖産興 業を目ざし、資本主義の目を造った。志を抱いたのである。

中、高、大学時代

日清日露戦に勝利し、資本主義は発展し、工業化が進んだ。農業型国家から都市型国家に変わり、労働者階級が発生。社会主義思想が入って社会運動が始まった。近代としての性質、つまり大人のしての苦悩が始まった。大正時代には大正ロマンという思春期てき精神状態が現われる。カチューシャの唄を歌い竹久夢二の絵を見入るという少女趣味的ロマンチズム感情を抱いた時代である。

壮年期(30~50歳代)

軍事大国となり、帝国主義的野心をもって海外への進出を図る。だが勢い余って太平洋戦争に突入し惨敗する。それでも壮年期の元気をもってたちまち経済を回復し、経済大国となる。学生運動や社会主義運動も盛んだった。

50歳代

経済成長は頂点に達し、ジャパンアズナンバーワンと言われるようになる。だがバブルが発生し、末年にはそれが破裂し勢いを失う。

60歳~現在

バブルが破裂した後、失われた20年といわれる老年期に入る。構造改革など老年の不調を直そうとするが、うまくいかない。はじめて政権を野党の民主党に変えてみるがこれも不調。安倍政権はアベノミクスというカンフル剤的政策をとっているがこれも未知数である。現在日本近代は70歳くらいになっているのではなかろうか。70歳の現在、日本人は劣化したといわれだし、書籍の売り上げなど年々減り、知力が落ちたのではないかと囁かれる。学生運動など火が消えたようだし、社会の目標も夢も感じられない。

日本近代150年を人の一生になぞらえるとざっと以上のようなことなのだが、もちろん歴史の解釈はいろいろだし、このような観かたは筆者の独断的偏見かもしれない。そうあってほしいと思うが、現代日本が150年を経て人生の終末期にあるという見方もあながち否定できない。その終末がどのような姿をとって現われるのかは予想しがたい。大きい経済破綻が起きて戦後のような状態になるのか、ハルマゲドンのような破滅的事件が起きるのか。といって、日本国家やネーションが消滅することは考えられない。するとその消滅とは日本近代というドラマの終わりを意味するのかもしれない。いずれにしろ近代150年を人生になぞらえるとそれは今死期に近付いているのではなかろうか。こう言う展望をもってみると、『基本は近代思想をやり直せ』という呼びかけも大言壮語とは思えず、むしろ時機に適っているのではないかと思えてくる。

明治以降日本人を刺激してきた西洋近代思想も今日その光を失いつつある。マルクス主義思想は20世紀を壮大な闘争の渦にしたが、突然その虚構性を暴露し、《大文字の物語》への幻滅をおこした。民主主義思想も拭いがたい未熟性の故に専制主義や国家主義に脅かされ、自由主義は肥大した資本主義の独占物となり、社会は貧富の格差によって再び捻じれようとしている。このような事態において、日本の思想は現代を切り拓く先兵として、自立的で創造的なものを構築せねばならない使命を帯びているのではないか。従来のように西洋思想に事大して、それを翻訳し講釈するだけという状態から脱し、日本人の土着精神に基づく土着的哲学を編みあげる必要に迫られていると感ずるのである。

近代においてわれわれ日本人は真に自らの精神地盤の上に思想現象を整理してきただろうか。日本には近代思想の通史を描いたものがないといわれるが、筆者の管見した限りでもたしかにどの通史も平板な記録的記述のものが多く、現代の足元まで言及が及んでいないし分析も深みに欠けるものがほとんどである。

日本人の大地的地盤はどこにあるのかを知るために近代思想史の分析的把握は不可欠であり、そこに日本人の全体像の証拠を見出すことができるはずである。筆者は日本近代史を概略的にではあるが検分し、その全体像を描いてみたいと考えた。日本近代思想史の通史をできるだけ広範囲な視野のもとにスケッチしてみようと考えた次第である。

本書は第一部「日本人の大地を求めて」と第二部「日本近代思想史批判」となっている。両部は論題が異なっており、、それぞれ別の本にまとめるべきところであるが、第二部はどうしても第一部の日本人論を踏まえて述べねば意味不明のものになるだろうという恐れから、第一部第二部として並べることにした。

 第一部は日本人論であり。日本人の大地的思想性を探っている。「日本人」という思想については過去に多くの人が語っているが、どれも部分的把握という感じがあり、統一的に全体像を描いたものがないという思いを筆者は抱いてきた。

第二部はそれを踏まえたうえでの近代思想史批判である。どちらが本書のメインテーマかは言い難いが、本書は筆者の日本人論=日本精神の解釈に立って近代思想分析をしたものである。

第二部では日本思想史を羅列するだけでは立体的姿は掴めないと思い、いくつかのテーマ別に分類した。そうすることによって近代思想史が波動を描いていることをみることができた。さらにそれぞれのテーマについて第一部の日本人論に立って批評を加え、平板な歴史喜寿にならないように努めた。読者諸兄の参考と刺激になれば幸いである。