鎌倉評論 (平井 嵩のページ)

市民の目から世界と日本と地域を見つめる

なぜグローバリズムは後退しナショナリズムが台頭するか

2020-05-02 12:55:22 | 日記

なぜグローバリズムは後退しナショナリズムが台頭するか

 グローバりズムの虚像とナショナリズムの深淵

 

・グローバリズムは自然発生的現象であり、人類の夢想であり、虚像である・
・人間は個体的存在であると同時に社会的存在であるという、相矛盾する二面性からできている
・民族性は「土と血=風土と歴史」に根ざし、人間の社会的存在性の有力な一部である
・それ故ナショナリズムはいつでも頭をもたげ、民族の利己的欲求を正当化し、理性を狂わせ、戦争のエネルギーとなる。


ナショナリズムへの逆流
 昨今世界は再びナショナリズムの心情に回帰している。前世紀、人類は熱狂的なナショナリズム(民族主義)に燃え上がり、悲惨な大戦を2度も経験し、その結果強い自己嫌悪と反省に陥り、民族主義的心情や思想を危険なものとして遠ざけてきた。一方、それに代わって、グロバりズムなるもの、国際的連帯、世界的分業生産、インターナショナリズム、国連主義、などという、人類の一体化思想や運動を、目指すべきもの、理想とすべきものとしてもてはやされてきた。それが今日ここに来て逆流し始めた。そこで今回はグローバリズムとナショナリズムを論じてみたい。


1、  グローバリズムムのなりゆき的発展と脆弱さ
 総じてグローバリズムという、人類が政治的にも文化的にも一体化する動きは、人類がそれを意図的な思想なり理念なり運動として行ってきたとは到底言えるものではない。13世紀、モンゴル族の世界進出も、16世紀ポルトガル、スペインの大航海時代も、その後のヨーロッパの帝国主義進出もすべて人間の征服欲や利益獲得欲に基づいていた。人類が一体になろう、連帯しようなどという考えは毛頭なく、こうした交流は動物的欲望に駆られた歴史のなりゆ
き、いわば自然現象としか言えない。19世紀、ヨーロッパ人は、アジアはじめ後進の野蛮国を文明化するという考えを以て帝国主義的進出をしたといわれるが、その実態は植民地の獲得であり、資源の収奪が目的であった。
 第一次大戦の後、国際連盟が作られ、人類は初めて人類の一体化というに値する組織を意図的に創った。しかし国家間の分裂的性質を秘めた民族主義は当時ますます盛んで、アメリカ大統領ウイルソンは、国際連盟と同時に民族自決主義を発表しなければならなかった。
 第二次大戦は、燃え盛るような熱狂的民族主義に駆られて、戦争やホロコーストといわれるとてつもない殺戮を行った。人類は民族主義の危険な熱病性に嫌気がさし、戦後は民族主義を危険なものと意識し、国際連帯、国連主義を叫ぶようになった。
国連憲章の前文、「一生のうち2度までも言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争…・国際平和及び安全を維持するために力を合わせ・・・」。日本国憲法前文、「平和を愛する諸国民の公正と正義を信頼して、われらの安全と平和を保持しようと決意した。…自国のことのみに専念して、他国を無視してはならないのであって・・・」。こうした宣言は国際協調や、連帯の思想を主張している。これらの宣言文は今日のグローバリズムの思想であり精神と考えられる。これまでなりゆき的に発展してきたグローバリズムは第2次大戦後イデオロギーとして確信されるようになったのだ。それは無論大戦の惨禍や独裁制の狂気への反省から生まれたものだ。人類は強い懺悔の念に立つことによってのみグローナリズムを発展させることができるのではなかろうか。
 この考えに対し、憲法前文を非現実的であるとし、改訂し、迫り来る中国、朝鮮に備えるべきという声は高いが、その声は日本国民の大勢になっていない。
もともとグローバリズムという言葉は、大企業の工場の世界分散や資本移動の国際化から云われるようになったものだ。この経済活動によるグローバリズムもなりゆきとしか言えず、資本主義の欲得に基づいており、世界をどこへ導くかという思想性などない。
 同じことが科学技術についてもいえる。世界一体化の歴史は科学技術に負うところが大きいのだが、それはグローバリズムのなりゆき的進展を推し進めているばかりで、目的も意図も持たない。
 かくしてグローバリズムは、人類を連帯と平和に導く女神のようにイメージされているが、それは虚像であり実態は漠然とした人間の夢であり、状況によっては、ナショナリズムによってたやすく壊されるもろいものなのだ。っしかしグローバリズムは歴史のなりゆきであり、そのなりゆきは遠い過去から続いtおり。ナショナリズムへの一時的回帰はあっても、それはこれからも人類の意思を無視して、あたかもかm、胃の意思のごとく進んでいくと考えられる。われわれはこのグローバリズムの流れを、いかに人類の夢に叶うものに発展させていくかを賢慮せねばならない。

2、 ナショナリズムの深淵と危険性

ナショナリズムとは
 グローバリズムを、各地の国家共同体の垣根を低くし、世界を一体化する思想や運動とするなら、その反対に、、国家や民族の垣根を高くし自己へ収斂しようとする運動、つまり国家主義や民族主義の考えや運動がある。それは常識的には「土と血=風土と歴史」に根ざした地域主義であり、言語や歴史や風俗、風習を共有し、共通の政治的法的体系の下に暮らすことを了解する考えである。ナショナリズムとは何か、これについては多くの論説が書かれている。概してこれらの説はナショナリズムを定義困難なもの考えてているようだ。そのもっとも新しい説は、アンソニー・D・スミス(英、社会学者)の『エスノ象徴主義』(1971年)だ・これはナショナリズムが風土や歴史、言語といったエスニックなものにもとづき、さらにそれが、神から与えられた神聖なものだといういささか精神論的な説である。
 筆者は、ナショナリズムをスミスが言う以上に、人間の存在論に根を持った、人間の存在条件の一つと考える。それは神聖なものというより、人間の心に深くからまっている存在性というべきものなのだ。
 民族共同体(ネーション・ステート)はそのような民族性(=人間の存在性)に立脚しているがゆえに不可避的に構成員個々人のアイデンティティー(自己同一性)となるのであり、それなくしては彼は人間でなくなるものである。ユダヤ人とか、クルド人とかロヒンギャなど、虐げられ国土もない民が同化もせずに存在し続けているのはそのせいではないだろうか。


日本人のナショナリズム
 日本人は島国人であるせいか、互いに無意識の濃厚な土着性(エスニシティ―)を共有しているため、それに反発して外国かぶれを生んだり、日本嫌いを生んだりするが、一度外国の空気に触れると熱烈な愛国者になったりする。
 また日本人は大戦中熱烈なナショナリズムに囚われて戦にまい進したため、こんにち民族主義という心情をいたく敬遠しているが、おそらくそれは隠され伏された埋もれ火であり、一旦緩急あれば日本人の民族主義は熱烈なものとして現れるだろう。

 アメリカのナショナリズム
アメリカは近世になって建てられた人為的な移民国家であり、世界各地のエスニシティ―を持った人たちを寄せ集めた国である。アメリカ国民が彼らの各地の民族性を脱ぎ捨て、一つのアメリカ人になれるかということは一つの実験であったと思う。それ故にアメリカは人類のグローバリズムの実験場でもあり、その国力の優勢さとともに、世界のグローバリズムを指導していくことが期待された。
 ところが、近世以来のアメリカの歴史を担ってきたヨーロッパ白人がs構成員の6割に減じ、その上彼らの多数が貧困になると、建国精神を担い歴史や文化を培ってきたのはその白人たちだ、という一種のナショナリズムが頭をもたげてきた。このアメリカナショナリズムを担うのは共和党だろう。「アメリカファースト」という叫びは、単に国家のエイズムゴや強がりを主張しているのではなく、「伝統を担ってきた白人ファースト」「俺たちがほんとのアメリカ人だ」という、アメリカの土着性を主張しているのだ。アメリカの歴史と文化を担ってきた土着アメリカ人が他の移民民族、例えば日系人とかヒスパニックと精神的に融和することができるかということが問われている。現在両者の間に精神的分裂が起き始めているように思える。
アメリカや世界各地の分裂傾向は、自分の存在の根拠(アイデンティティ)を求めたいという欲求からきている。技術の発展や人の交流の拡大により、グローバリズムは表面的には進展しているが、内面的には自分の故郷に戻りたい自分の土と血を確認したいという気持ちが高まっている。

EUのナショナリズム
 EUはグローバリズムの先鞭として注目され、現在貨幣の統一や関税の撤廃などに
進んでおり、政治統一も近いと思われたが、イギリスのEU離脱とか各国の移民排斥感情からくる民族主義が高まっている。EUがグローバリズムの先導となるいう期待はしぼんでいる。フランスやドイツで民族主義政党が政権をとれば、その傾向はさらに明瞭になるだろう。20世紀の民族主義的国家主義が再び人類に戻ってくることになる。

中国のナショナリズム
中国は中国共産党という得体にしれない独裁政党によって指導され、政治的にも経済的にも成功している。中国はアメリカに代わる覇権国になり、20世紀の屈辱に復讐を企んでいるという学者もいる。この国は多くの民族を抱えた多民族国家であり、民族自決主義をとれば、この国は四分五裂せねばならない。中国指導者はそれを最も恐れ、ウイグル人やチベット人を収容所に入れて洗脳し、彼らの民族精神を消し去ろうとしているといわれ、それをアメリカは非人道主義として非難している。中国のしていることは民族浄化(エスニック・クレンジング)であり、人間性に反することだ。
 中共はまた「中華民族」というにわか作りの思想をでっち上げ、14億の民すべてが一つの民族であるかのごとく言いつのり、「中華民族の栄光」というナショナルズムを宣揚し、他民族への対抗意識を国民に宣伝している。これは20世紀型の極めて危険な政治であり、日本人の民族主義にも火をつけるものだ。

3、民族主義とどう向き合うべきか
筆者は、人間が共同体に根を持った存在であり、それをそ人間存在の条件と考えた。したがってナショナルズムはたんに近代的国民国家の性質でもなければ、共同体の共同幻想でもない、否もっと深い人間の存在条件と考えた。人間は世界がいかに一体化し、民族融和が進んだとしても、民族性や郷土性、エスニシティ―、土と血へのへその緒は断ち切ることはできない。
 そうであるが故に、民族性は尊重されねばならないのであり、その民族の誇りと存立を担保するものとして尊ばれねばならない。個々人が人格を尊重されるように、各民族の民族性も対等のもの として尊重されねばならない。それはややもすると、ナチズムのように他民族排斥の政治思想として使われる危険性をもっており、、自己の優越性や差別意識を持つために使われたりする。我々はナショナリズムに慎重かつ真摯に向き合わねばならない。


韓国人とは何者か

2019-10-08 16:44:39 | 日記

韓国人とは何者か

 

恨(はん)をエネルギーとして夢想 的思考に生き

国際的視野が持てず派閥分裂的思考から逃れられず(事大主義)

反日を至上の正義と妄想してエネルギーとし

情実、利権、法の軽視を平然とする

 

民族の深層心理から読む

日本がハイテク商品を売らないといったときから、韓国はやたらと日本に突っかかってくるようになった。正直、日本人は韓国にあまり関心を持っていなかったと思うのだが、大勢来ていた観光客がぴたりと来なくなり、そのため対馬当たりでは商売の死活問題となり、飛行機便も多くなくなるという事態となって国内も騒がしくなってきた。韓国の繰り出す報復パンチに日本は参らねばならないのか。このくらいのパンチで動じていたのでは男がすたるというやつだが、それにしても、どちらも特得にならないことがどうして起きるのか、

 問題が発生して以来連日新聞テレビは報じているが、時事解説的なものばかりで核心に迫っていない気がする。そこで本紙は歴史に由来し、形成された民心理から解読してみたい。心理学者ゆんぐの言い出した考えに「アーキタイプ」という概念がある。「集合的真相心理」と訳されているが、要するに民族など人間集団に潜み、民族の行動を支配する心理のことである。

ユダヤ人の始祖

半島民族の恨(はん)という民族的深層心理の形成

恨(はん)とは文字通り「恨み」である。一体誰に対する恨みか。それは半島民族族の被った歴史を見なければならない。朝鮮半島はそこに人が民族集団と国家を形成するに十分な広さと地域性をもっていた。中国に併呑され一地方とならない地域性があった。とはいえそこは北方(中国や満州)の他」民族の政治的圧力を受けやすいところで、中国人や満州族が絶えず侵略して来た。要するに朝鮮朝鮮民族は強大な中国の文化的政治的影響のもとに生きざるを得なかった。日本も先進中國の影響を受けたが、文化的な面だけであり政治的圧力(搾取、命令)は全くなく、自国性を保つことができた。」

中国人や北方人は挑戦を多民族と思うと搾取や無理難題もひとしお強かっただろう。彼らは日本のように鎖国して自国を富ませる余裕ができなかった。恨(はん)という民族の深層心理は、朝鮮民族の地理的条件から被った民族の苦難の歴史から生まれたものだった。半島民族は他民族との接触が多かっただけに民族意識は早くから養われ強いものがあったと思われる。その点日本人の民族意識は、孤立した島国だけに全国民が民族意識に目覚めたのはようやく幕末になってからであろう。

 半島民族にとって悔しいことは、彼らは一度も北方人に反撃することができなかったことだ。モンゴル民族は世界制覇を果たしたし、満州族は漢民族を征服し清王朝を建てている。朝鮮民族はひたすら北方人にいじめられ搾取されてばかりだった。とくに元が攻めてきたときは無理難題を押し付けられ日本攻撃の御先棒を担がされた。恐らく彼らは北方人(中国)には自己主張する気力もなくなるほど従属の気象を強いられたと思える。

北方ばかりでなく、彼らは南方(日本)の侵略も受けねばならなかった。しかし日本の侵略は単発的であり北方人に比べると恒常的ではなかったといえる。7世紀、白村江(はくすきえ)の戦い、中世の和寇、17世紀豊臣秀吉の侵攻(文禄慶長の役)、、そして近代の出兵と植民地化である。近代の植民地化は時代が近いだけに大きな屈辱的侵略と感じられるのであろう。彼らの深層に積もった恨み(はん)の情にいやがうえに火を注ぐものなのだろう。

古代ユダヤ民族と似た境遇と性格

かくして日本人に比べ早くから民族意識に目覚めながら民族の自尊心は満たされず、いたずらに得体のしれない恨(はん)の心情を、その深層心理に募らせていったのだ。このことは古代ユダヤ民族とよく似た境遇と性格であることを指摘できる。

ユダヤ人の始祖アブラハムが神のお告げによって選んだ移住先のカナン(現イスラエル)の地も、北方南方の大民族が往き来する通路のような場所だった。モーゼに率いられてエジプトを逃れた後、一時ソロモン王の下で繁栄するが、すぐ南北ユダヤに分裂、その後バビロニアに征服されバビロニアに連れていかれる。その後もローマの属領となりいじめられる続ける。よせばよいのにローマに逆らい国を滅ぼされ、民族全員離散する(ディアスポラ)。その後国なき民となって彼らは苦労する。

民族的事大精神

北と南の大民族に挟まれ、両民族とも十分独立することができず民族の自尊心は傷つけられぱなしだった。この状況下でユダヤ民族は抵抗の気概を示し亡国の民となったが、朝鮮民族は事大精神を養いあくまで生き残る道を選んだ。事大主義とは強国への従順を方針とする外交で、はじめから独立志向の気概を捨てることである。朝鮮民族は何時の時代も北に属するか南に属するかの派閥を生じた。尤もほとんどの事大は北方に事大したのであり南に事大したことは近代をおいて以外はない。明治時代にも、韓国の開国を願った福沢諭吉は、韓国の派閥抗争の激しさに嫌気がさして『脱亜論』という社説を書き。こんな頑冥偏狭な国は見捨てよ言っている。今日もおそらく福沢の論は有効な気がする。

彼らは自国に対して国際的視野が持てず、今日でも北(中国ロシア)に事大するか、南(アメリカ日本)に事大するかの発想しか持てない。

日韓が真の友好を持つには、彼らが国際的視野を持ち真の自立心を持つ必要がある。

 といっても、日本人も韓国人を嗤っておれない。日本人は現在西洋文明に事大しており、とくに思想哲学分野の事大は致命的状態だ。筆者は最近『侘び寂びびの哲学』という本を出版し、ここで日本人のいまだ失われていない深層心理の日本的精神を論じ、真の日本精神の自覚を目指した。

恨(はん)とルサンチマン(恨み)

 周辺民族にいじめられた両民族とも、恨みというという心情を育てた。ニーチェによると、ユダヤ人は恨み(ルサンチマン)の心情から、「僧侶的狡猾さ」をもって、原罪とか、キリストの処刑はその原罪を一身に負った死であり人間はイエスに恩を感じねばならない、という神話を創って、ヨーロッパ人を去勢してしまったというのだ。ユダヤ人はこれによってルサンチマンを晴らした。

 この考えがヨーロッパ人の反宗教感情を掻き立て、強者礼賛の思想は「力への意思」という人間観を強め、自尊に飢えた現代モブのドイツ民衆にナチズムの嵐を呼んだのだった。

韓民族の恨(はん)は、ユダヤ人のようなでかいことはできなかったが、しかし彼らのその定かな理由も目的もない恨みを晴らすという心情は民族の生きるエネルギーであり、恨を向ける相手に立ち向かうことによってカタルシスを得るのだ。日本は朝鮮史にそれほど関わっていないにもかかわらず、近代の植民地化という事象が彼らの恰好の大きな恨の対象となった。

韓国人の夢想主義とユダヤ人の希望主義

他民族からたえずいじめられた両民族はひとつの共通した精神を持った。まずユダヤ人から云うと、彼らはいつまでも続く忍従の生活からたわいない夢を抱きそれを希望にして生きた。その夢は、世界はそのうちハルマゲドンによっいぇ滅び、その時ユダヤ人だけは救われ以後の世界の支配者になるというものだった。これは虐げられる弱小民族が生き延びるために必要な夢想だったろう。しかしこの希望主義はキリスト教を通じて、ヘブライ精神としてョーロッパ人に伝えられ、かれらの歴史観を創った。つまり歴史は未来に向かって進んでいくという歴史観である。近代のブルジョワ思想にも、マルクス思想にもそれは受け継がれている。

朝鮮民族も苦難の歴史から物事を夢想的に考える心になった。たとえば、「韓国は世界の中心である」と考えていることなどだ。現在のムン大統の発言も民族の夢想精神が現れている。日本がホワイト国から外したとき、大統領は5年で日本が輸出を止めるという商品を作ってみせるといった。「故障するのが当たり前」の国民が、「故障しないのが当たり前」の国民にそうたやすく勝てるとは客観的に思えない。また彼は北朝鮮と一緒になれば日本を追い越すといったが、まったく合理性をもたない夢想的な考えだ。韓国民族の夢想的精神から出ている発想だ。

北方(中国)から受け継いだ善悪二元精神

儒教は古代中国に生まれた倫理中心の教えである。西方の一神教と異なり、もっぱら現世の倫理道徳を説いたのは中国人をはじめ東アジア人が現世主義精神が強かったからだ。島国日本への儒教の影響は江戸期になって幕府の御用学として本格的に導入された。中国、朝鮮と儒教に対する扱いが違ったのは、それを官吏登用試験科挙‘(かきょ)の試験科目にしなかったことだ。もともと日本は政治体制が封建制で身分も世襲制で、科挙が入る余地はなかったいえる。。日本の儒教は純粋な学問として、また道徳としてのみ行われた。中国の儒教は官吏登用という実益を伴ったため、表の学問と裏のホンネとが離反し善悪二元の精神をやしなった。道徳的修養よりホンネとタテマエのある偽善者を創ることになった。中国人の表と裏の二元精神は、異民族の侵入絶え間ないという厳しい生活環境にも原因があったろう

 圧倒的北方(中国)文化の影響を受けざるをえなかった朝鮮半島民族は、儒教の倫理思想を忠実模範的に受け容れ、同時に中国的善悪二元、表と裏のある偽善習慣も受け継いだ。韓国は中国と同じくワイロ社会で、表の正義と裏の悪事が平然と同居する社会である。現在韓国で問題になっている法務長官が、表ではきれいな正義を弁じながら裏では平気で不正を行っていたというのはその表れである。ㇺン大統領がこのような不正疑惑のある人物を、法をつかさどる長官に任命できたということ自体が韓国人一般の精神を示している。日本や西洋では少しの不正の疑いがあるだけで法務の長官につけるなどというのはあり得ない。韓国人はこのような自国の体質を恥じかつ改善しないでは国際性は持てない。

日本はどう向き合うべきか

 え体のしれない自己の恨(はん)の心情にもだえ、そのはけ口を反日に求め、日本を叩くことを民族の正義と妄想し、その妄想のなかに、民族の生きる目的とエネルギーを得ている。彼らの恨の心情も、反日の怒りも彼ら自身の内面の問題であり、いうならば彼らの勝手な煩悩の苦しみではないのか。外部の者にはいかんともしがたい。それとも、日本人は彼らの煩悩の癒しにまで手を貸さねばならないのだろうか。筆者が思いつくのは、ナショナリズムや歴史にまったく触れない分野で共同作業をし、友好を深めることくらいだ。たとえば「日韓友好絵画展」を開くとか。

 


米中 冷戦始まる

2019-06-25 16:04:39 | 日記

米・中 冷戦はじまる

 

その実態は、中華帝国の亡霊が

スターリニズムの鎌をふるって歴史の復讐に乗り出す

疲れた民主主義諸国危うし

 

米中冷戦への道

 初め、米中の単なる貿易紛争に見えたものが、にわかにアメリカが敵意を露骨にし、大国中国の体制つぶしに取りかかった。またもやただならぬ時代が始まったといえる。まさに冷戦の復活であり、下手をすれば戦争を招く対立である。日本は中国の隣国であり、文化的恩恵も深いし、前の大戦時の懺悔もある。しかし民主主義に生きる国民として、現在の中国の本質をよく見極めねばならない。

78年、中國は改革開放政策を採り入れ、経済活動だけ自由化した。経済の自由主義(資本主義)を入れるということは生産活動にまで浸透していた共産主義の教条主義や悪平等を取り払うことで日本はその指導のためにカネと努力を注いだ。宝山製鉄所やコマツのエンジン工場での指導をとおして、教条主義に凝り固まった共産中国に、個人の自主性を重んじる資本主義の方法を教えた。その自主的創造性を重んじるやり方は、元来有能な中国人の頭脳を刺激し、今日の大発展を導いた。

 ところが中国は経済での自由主義はとり入れたが、政治的社会的共産主義(=全体主義)は残したままだった。アメリカはこれまで中国がやがて政治的自由主義にも向かっていくと期待していた。つまり多党制や選挙制のある民主主義へ転換すると思っていた。台湾のようになることを期待したのだ。ところが中国は経済力をつけると他国への支配力や不必要な軍事強化、南シナ海なあど領土的拡大を始め、アメリカとの覇権争いを示し始めた。

 ここに来てアメリカはこれまで、「チャイナメリカ」といわれるくらい深入りした関係を作っていたのを、「デカップリング」という別れの政策をとり始めた。アメリカは自分の覇権への恐怖を感じ、経済、文化すべての分野で中国離れを決意した。どうやらアメリカは友好的方法でなく、武力を含めた力による中国の体制転換を決意したのだ。今回の場合、ロシアの時のようにはっきりした敗北で終わるかどうかわからない。何しろ中国は経済力を身につけ、札束の力ばかりか軍事力も持っている。下手をするとかっての軍国日本のように、アメリカに戦争を挑むかもしれない。そして敗北してやっと民主国になるという、日本と同じ身の上が待っているかもしれない。アメリカが負ければ、世界はヒットラーに占領されたような中国的全体主義になる。歴史の大変化だ。人類にとって目が離せない展開となってきた。

中国政治体制の正体

シーチンピン(習近平)は、急速な経済成長に自信を得て、中国のやり方を「社会主義市場経済」と、あたかも創造的経済政策のごとくこれを宣伝しているが、その実態は「中国共産党指導による国家管理資本主義」というべきものである。国家管理経済はどこの国でもある程度やっているもので、中国の場合は「中国共産党」という得体のしれない階級集団が、経済活動ばかりか、政治文化思想芸術などあらゆる社会活動を監視、管理するのだ。

 最近の香港や台湾の動きに見るように、いちど民主主義や自由主義を知った国民は同じ中国人でも、個人の自由を圧殺する中国政治に激しく抵抗している。このことからも中国化なるものがいかに国民に抑圧的なものかわかる。

しかし中国化とはいえ、この政治体制は中国人が創ったものでなく、20世紀ロシア革命をはたしたソヴィエト共産党の下に作られたスターリニズムという政治の残骸なのだ。この政治は革命のとき資本主義国の敵意に囲まれた革命労働者が、資本主義への激しい憎しみのもとに作り上げたもので、武力主義を第一とし、容赦ない国民弾圧と強権主義の政治で、政敵は粛清という名で処刑し、反政府国民は強制収容所に入れて洗脳教育を行う。国民への情報遮断、言論集会の統制、家族も信用できない密告制、史上まれにみる暗黒政治だった。

 中国共産党はこの政治文化を受け継いでいる。このスターリニズムのうえに、中國の場合、以下に述べるさまざまな思想を国民掌握のための思想としている。1)に反日思想、2)に偉大な「中華民族」の復興というナショナリズム思想、3)が世界は中国が中心であるという「中華思想」である。

反日という策謀思想

 反日思想は先の大戦の歴史事実を誇張し、日本を中国の永遠の仇敵にする考えで、それを教えるため教科書に書き、反日映画や反日記念館を沢山作っている。反日思想はどうみても、歴史問題というより政治的作為性が強い。ドイツやロシアなど戦争で被害を受けた諸国のなかでいまだに過去の敵国を憎む教育をしている国などない。日本など空襲や原爆の怨みなど言ったことがない。反日は中国共産党が、89年の冷戦終結後も存在理由(レーゾンデートル)があることを民衆に主張するための策謀思想なのだ。

「中華民族」というでっち上げ思想

「中華民族」という概念も最近のにわか作りのものだ。「中華民族」などという言葉は聞いたことがない。漢民族というのはある。しかし中国は多民族が興亡を繰り返した土地であり、モンゴル族や満州族に支配されたこともあり、多民族は混じりあい、漢民族自体どこまで本当か分からない。そして今もチベット族やウイグル族など明らかな異民族を抱えている。したがって「中華民族」というのは中国人全部にかぶせた名前であるが、その狙いは、「中國共産党が支配する民」という意味が透けて見える。中国政府はそのために、ウイグルなど少数民族を収容所に入れ無理矢理「お前らは漢民族だ」と洗脳している。アメリカはこれを人権問題だと問題視している。「中華民族の栄光」とは結局「中国共産党の栄光」ということになる。一部の支配階級のための栄光を民族全体の栄光のごとくすり替えているのだ。

 しかし中国共産党がでっち上げ民族思想(意識)を国民に広め、ナショナリズムで国民を団結させようとすることは悪いことではない。元来中国人は政府権力を最も信頼しない国民といわれ、今日でも裕福になった人は外国に財産を持ち出し、親戚縁者に外国籍をとらせるものが多い。日本人が国内志向の国民なのに対し、中国人は拡散志向である。ユダヤ人に似ている。しかしながら現在のナショナリズム(中華民族思想)が異民族を無理矢理中国人にしたり、共産党の権威を高めるためだったり、他国への敵意や蔑視を作る20世紀型ナショナリズムであるところが問題なのだ。

「中華思想」という独特の伝統的傲慢思想

 中国の歴代皇帝政治には、中國が世界の中心だ、という思想があった。よく東夷、西戎、南蛮、北荻というが、先進中國文明はまわりの野蛮人に囲まれているという意識があった。また歴代皇帝はその野蛮人に対し「柵封体制」という従属関係を外交政策としてきた。中国と外交したい国の使節は、皇帝の前で「三跪九叩頭(さんききゅうこっとう)」という礼をせねばならなかった。これは三度ひざまずき、そのたび頭を地面に三回こすりつけるという、する方にとっては屈辱的なものだった。1840年イギリスはこんな儀礼をやっていたのではたまらないとアヘン戦争を仕掛けた。これが清朝没落の始まりとなった。

「柵封体制」は単に外交姿勢に終わらず、中国人全体の潜在意識に、「我が国は世界の中心である」という「中華思想」を植え付けた。現代の中国政府にも国民にもこのような思想があるといわれる。一種の民族的潜在妄想であるが、この中華思想だけは中国人独特の思想である。この中華思想から、一帯一路の考えや外国進出活動が出てきているのかもしれない。

表と裏の二元論を持つ中国精神

中國共産党の体質をさらに陰湿にさせているのは、中国史の持つ誠実を形式化する精神だ。つまり表の正しい考えと裏のよこしまな考えの両方を正しいとする二元論の精神である。表の正しい考えはタテマエであり、しかも裏のよこしまな考えも正当なのだ。中国人はメンツを重んじるといわれるが、彼らがタテマエを崩されるのがいやなのは、タテマエがなくなると裏のよこしまなカオスが出てくるからだ。中国史には優れた道徳論がある。孔子や孟子の道徳論だ。日本人はこの表の思想を真面目に学んだ。しかし中国人は孫氏や韓非子

の権謀術策を薦める思想も作っているし、清末には李宗吾の「厚黒学」という狡猾を薦める本が人気を博した。儒教は、中國では「科挙(かきょ)」という官吏登用試験の試験科目になったためとてつもない実利を伴うものになってしまい、儒教の道徳を学ぶより実利を得るための道具になってしまった。そこに表の学問と裏の現実が分離し、道徳の二元主義が生まれたと思われる。道学者といえば口では立派なことを言うが現実は俗物というイメージが生まれた。

さらにこれに輪をかけたのが政治情勢の厳しさである。中国史と云えば、漢民族単独の歴史のように思われるが、実態は多数の民族の興亡の歴史である。小国が乱立する戦国時代が何度もある、春秋戦国時代、五胡十六国時代、南北朝時代、五代十国時代などその外王朝の終わるたびに反乱がおきている。異民族に侵略されればどんな残酷なことが起きるか、一度もその経験がない日本人には分からない。中国人は「戮民(りくみん)といわれることがある。殺される民という意味だ。このような歴史の中で、善悪二元論者になるのも無理はない。善悪二元論はゾロアスター教やキリスト教グノーシス派もそうだったが、カトリック(正統派)が善一元論だったため、歴史から消えている。

しかし中国人の名誉のためにいうと、筆者は禅僧臨済の有名な言葉を挙げる。「赤肉団上一無位の真心たれ」、意訳すると、(人肉を食らうような不善の肉体を生きながら、社会的には無位無官の一人の普通人であることを良しとし、善人であることに努めよ)。過酷な状況のなかで懸命に善心を求めた中国人を感じる。

 

「統一戦線部」の恐怖

 革命後のソヴィエト共産党は資本主義国に共産党のシンパを作るために、他国へ宣伝工作員を送り込むことを考えた。スターリニズムの宣伝機関である。現代の中国共産党もその手法を使っており「孔子学園」という文化活動を装った中国宣伝の学校を世界中に作っている。大学の研究機関や政治家に資金援助をして抱き込む。「シャープパワー」といわれているが、アメリカは中国のこの巧妙な工作活動に気がついて、アメリカに沢山ある孔子学園を廃止している。しかし政治家など人に対する抱き込み工作は分かりにくく、アメリカは自国がいつの間にか中国化されるのではないかと恐れている。恐らく日本にも多くの工作員が送り込まれているだろう。この工作活動を統括するのが、共産党内の「統一戦線部」であり、その親玉は無論シーチンピン(習近平)だ。まさにこれはスターリニズムの鎌である。

中国の覇権には歴史的正当性がない

国際社会は正義も正当性もない、カネと武力の世界だという見方は相当事実であろう。しかし歴史をふまえると、人類は一定の「かしこい」方向に向かっている。人々は困窮した国民を助け合うようになったし、侵略戦争は国際世論が許さなくなった。グローバリズムは文化的社会的に進んでおり、人間同士の理解や友好関係は強まっている。こんな時代に中国は何の目的で覇権を求めるのか。中国自身は覇権を求めないと言っているが、その行動はそう思えないものだ。中国がアメリカに代わって覇権を求めるには、世界を納得させる思想が必要だが、失敗したマルクス主義や「社会主義市場経済」では説得力がない。それに共産党独裁という集団独裁制だ。シーチンピンはだんだん個人独裁を強め、昔の皇帝になろうとしているのではないかといわれる。そもそも中国共産党がマルクス主義を捨て、国民の承認も受けていない得体のしれない集団となっている。中華民族などというでっち上げナショナリズムを吹聴し、国民の信任のないまま、私的策謀集団になっているように見える。「中華民族4000年の栄光」も遅れてきた二番煎じのいつか見た民族主義である。

ドナルド・ドーアという仏社会学者は、中國はアヘン戦争以来の歴史の怨みを晴らそうとしていると言っている。(12年10月30日朝日新聞)それも真実かもしれない。そんなことなら中国の覇権意欲は世界を敵に回すだけだ。

疲労した近代主義

日本がどちらの側に味方すべきかは言うまでもない。アメリカは問題の多い国であるが、自由主義、民主主義、基本的人権信奉する近代主義の先導者であり庇護者だ。日本の同盟国であり、親分であり、武力の庇護者だ。しかし近年近代主義はさまざまな疲労現象を見せている。EUヨーロッパに見るように、自民族第一、自己利益優先、といったポピュリズムの高まりである。EUというグローバリズムの理念は色あせ、民主主義の不合理性は独裁への好みを強めている。フェイクニュースが飛び交い、正義の基準がわからなくなりつつある。善悪二元論が頭をもたげる時代だ。中国的管理社会が魅力的に見えるようになるかもしれない。民主制、自由性危うしだ。

 


アンチ日本講壇哲学 アンチ西洋哲学 「侘び寂び」の日本哲学をもとめて

2019-03-24 13:20:52 | 日記

以下の文章は筆者が最近著作した本の書き出し部分である。

 

 

反(アンチ)日本講壇哲学

茶道において表現されている「侘び寂び」の思想が日本の宝ともいうべき哲学思想であり。日本が外に向かって発すべき独特の伝統思想であると、筆者はかねてより思っていたが、それが、明治以後、美的方向にのみ曲解され、肝心の哲学思想は等閑に付され、茶道はただいたずらに婦女子の礼儀作法や美鑑賞の道具とされてきたことに、日本的哲学の自立性を追い求める筆者にとって、はなはだ歯がゆい思いである。              

日本のアカデミー思想家が西洋思想にばかり事大し、自らの内面に向かって思索していない、という想いは、不思議なことに日本人のなかに広まっていない。思えば、この島国は1500年前頃、国を建てたときから思想的には大陸に向かって土下座し、自己の主体性を表立って主張するという意思を持たなかった。仏教においては最澄の天台本各思想とか、儒教においては伊藤仁斎の古文辞学というように、日本化あるいは日本的解釈によって、大陸思想のなかに、日本思想を入れ込むという形で自己思想を表現してきた。そこには大陸思想の全面的否定やそれに代わる自己哲学の樹立があったわけではない。日本の思想は現世主義的、現実主義的という様子は感じられるものの、その奥に踏み込んで現世主義の哲学を建てるということはなかった。もともと日本人は「利口だてはいらざること」(千利休)とか中国的理屈を「こちたきこと」(本居宣長)といって、精神の抽象化や理論化を避けるところがあった。今日の我々の日常風習のなかにも、思想論議や抽象的論議を好まないところがあり、論議はやたらと具体論に陥る。しかし「日本化」というあいまいな言葉に頼りながら、そのあいまいな思想によって日本人は現実に行動している。ドイツ井の哲学者カール-・ルービットはそれを日本人の二階家と評し、日本人は一階のあいまいな自己思想と二階に並べた表向きの西洋思想があると言ったのはげに炯眼である。

明治以降の現代哲学においても日本人はヨーロッパ思想に土下座し、文明開化の一環として東京大学に哲学科が設けられて以来、日本の講壇哲学者はただただ西洋思想に事大し、西洋思想だけが哲学思想だと思い込んできた。依頼今日まで。西洋思想崇拝は相変わらずで、その姿は昔の中国思想への土下座と少しも変わらない。中国思想は、文明開化という西洋文化の大波によって古着のように捨てられてしまったわけだが、かといって明治以来150年の幾星霜の時代を経た今日において、西洋思想をわが物にしたかと云えばそんなことはまったくなくて、ルービットの言う一階屋のあいまいな日本思想によって生きている。講壇思想家らの振りまく講義はすべて教養にすぎず、お稽古事の域をでない。どっぷり西洋哲学に事大した講壇哲学者のなかには、西洋哲学への違和感を吐露する者もいるが、それが不平や片隅のつぶやきの域を出ないままになっている。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

古くは京都学派の哲学者西谷啓治や東京外国語大学教授宮川透の発言は前著でとり上げたので控えるが、ここでは木田元氏を取り上げよう。木田元氏は中央大学哲学教授を務めた講壇哲学者であり、ハイデッガーの研究者として知られている。しかし彼の履歴はあ戦後の混乱の影響をうけて苦労をした経験から、日本的現世主義に足をとられたと見えて、西洋思想と日本精神との齟齬を強く感じていたようだ。西洋哲学に全幅の拝跪はできなかったようだ。『哲学は人生の役に立つか』とか『反哲学論』(新潮社2007年刊)など著し、西洋哲学への違和感を書いている。彼は西洋哲学の麻薬のような論理の海原を泳ぎながら、辛うじて日本的精神からの批判力をもって、西洋哲学を視ることができたようだ。しかしその目をもって日本人の哲学を企図し思索する気はなかったようだ。西洋の観念哲学を否定するような考えはまるでなかった。しょせん西洋思想に拝跪した講壇哲学者である。しかも彼の反哲学の考えも、西洋ではすでにニーチェ以来反哲学思想、西洋人自身による反省的破壊的哲学批判は西洋哲学のなかに充満していたことを考えると、木田の反哲学も西洋の亜流であり、解説に過ぎず、いつもの島国人的滑稽さを見せるものである。しかし木田のなかには反西洋的な日本精神がうずくまっていて、ハイデッガー哲学を微に入り細に入って解説しながらも、それに馴染めない気持ちがあったのだろう。『哲学は人生の役に立つのか』という本などは、日本的現世主義、現実的倫理主義の精神が書かせたものではないかと思う。木田は『反哲学論』の前書きでいう。「わたしは哲学を勉強し、大学でも哲学を教えてきたわけですが、いぜんから自分がやっている思考作業が、西洋という文化圏伝統的哲学と呼ばれてきたものの考え方とは決定的に違うところがある思っていました」しかし彼はその決定的に違うところを思索し哲学化しようとはしなかったのであり、あくまで西洋に土下座した講壇哲学者の一人で終わった。彼が反哲学を言うならば、西洋亜流の反哲学ではなく、日本人の精神に立った反西洋哲学を考えるべきだったのだ。

もう一人、西洋哲学に土下座し拝跪し、自らの精神をまったく視ずに西洋思想におぼれ切った講壇哲学者を上げてみたい。中島義道氏は『哲学の道場』(ちくま新書1998年刊)という自らの哲学者人生を語る本を出している。中島は東大哲学科を卒業し、哲学畑のエリートといえる人物である。したがって彼には明治以来伝統の西洋哲学への無意識的土下座拝跪精神にどっぷり漬かっており、おそらく西洋哲学の思考論理に苦しみながら、やっとの思いで哲学修行をしたようで、この書物において、中島は「哲学とは社会的にきわめて不自然な営み」で、一人では決してできるものではない、」といかにも日本人的発想を語っている。彼は東大哲学仲間たちとの楽しい付き合いのなかで、哲学教師の職を得、社会的発言力を高めていったと思える。この書は、凡庸な講壇哲学者がどのように育っていくかをよく現わしている。

以上日本の講壇思想家の批判をしてきたが、問題は外国思想への日本人の事大根性が尋常ではなく、その非自主的で自己忘却的な追随精神は、それ自体が何事か自己の本質であるかのごとくであり、筆者ごときが叫んでみても何の変化も与えることはない。過去幾多の学者が同様のことを言っているがやはりそれは呟き、片隅のいら立ちで終わっている。そして相変わらず自己考察されずロゴス化されないあいまいな一階屋の日本的精神によって、現実の人々の行動は支配されている。日本人は外来思想に対して決定的に批判精神に欠けており、日本人名の思想家より横文字名前の人の意見のほうが上等に感じそれに耳を傾けがちである。自民族の者の意見を軽く見、外国人思想を本能的に尊重するという傾向は、一種の島国人的病癖であるといえる。外来思想になびき、主体的主張者であろうとしないことにつき、それを精神の柔軟性であるということもできる。その底に、無常感思想(ニヒリズム)があると、筆者は考えているが、このことは後に詳しく論じたい。

しかし多くの学者が、空とか無思想というところのニヒリズムのなかにあっても、日本人がちゃんと日本的特性と個性をもって存続しているということは、そこに、強固な日本精神、日本思想が存在するということであり、その姿を言説のなかに浮かびあがらさねばならない。本書はそのささやかな試みのつもりである。

反(アンチ)西洋哲学

明治以来日本人が拝跪し事大してきた西洋思想は、今日根本的に失効している。それはもはや決定的事態であり、西洋思想家自身がそう言っていることである。西洋人の精神のエートスといえるもの、別に心理学者が「アーキタイプ」と言っている民族の深層心理には、自我意識を尊大なものに感じ、他者に対して優位をとりたい、という欲求が極めて強く、そのために彼らは必死でその論理を求めてきたと思えるのである。明治来の西洋哲学崇拝に頃固まった日本の講壇哲学者には、西洋精神、西洋哲学の真の動機をこのように観ることなど夢にも考えていない。筆者のたわごとととしか聞かないだろうが、このことは西洋人自身さえ気がついていない。かのニーチェでさえ、伝統哲学の否定まではできたが、ニーチェ自身のなかにある無意識的な尊大欲に気付いていない。このことは後にも述べるが、西洋人のこの動機にこそ、西洋哲学、個人主義や自由主義を含めた近代思想の根本に、ニヒリズムが孕まれている原因なのだ。

とくに近世になって、キリスト教への不信が強まってくると、哲学思想的にその自我意識を論理的に実証し確実なものにしたいという欲求が強まってきたのだ。デカルトはあらゆるものを疑った末に、「我思う(コギト)」という意識を疑いようのない心であると主張した。そのコギトは人間の理性であり、心のなかにある実体であると考えた。じつに怪しげな確信で後世、ホロコーストなどを視た末に、それは微塵に否定されるのだが、デカルトの後、理性信仰はカント、ヘーゲル、など観念論哲学者によって強化されていく。形而上学(メタフィジック)といわれ、きわめて空想的観念論であった。カントでは、デカルトの「理性」は「超越論的統覚」といわれ、ヘーゲルでは「絶対精神」といわれる。20世紀のフッサールにおいても、「「超越論的主観性」といって、夢想的で観念偏重の考え方を続け、そうしたものが自我のなかに実体として存在し、それが各人のなかの主体性を支えているものだと考えたのだ。

こうした考えの歴史をたどると、古代ギリシャのプラトンのイデア思想に行きつく。「イデア」とは物体の本質が目の前の「事実存在(エグジステンシア)」以前に、観念的なもの(エッセンシア)として存在しているという、はなはだ空想的な考えである。この空想的考えが中世では「神」となり、「神」がすべてを有らしめているという考えになる。時代が進みその「神」の存在が疑われるようになると、代わって哲学が盛んになる。それが先に述べたデカルトなど近世観念論哲学となるのであるが、西洋人は難解な論述をもって一体何のために、何を求めて、何の必要があって、哲学思想を語らねばならなかったのか。明治になって、日本人は西洋文明に圧倒され、とにおかく西洋哲学をありがたい深淵なお説として土下座崇拝し、われわれにはこんな立派な哲学はなかったと劣等感に包まれつつ、これを理解しようと努めてきた。

しかし西洋人には西洋人の内面的理由があった。それは、先に述べたように、自我という人間の主体感覚を守り、かつできれば自主自立の尊大なものに思いたいという強い動機であった。。形而上学という観念論は、はじめから終わりまでまたどの哲学者においても、自我の尊貴性についての考察であり説明である。彼らはただひたすらに自己主体性の尊大、尊貴、真実性を主張しているのだ。ヘーゲルの「絶対精神」とか「世界精神」と呼ぶものは、自我の妄想的誇大解釈である。そして彼らの言う主体とはヨーロッパ人だけの主体であり、東洋人、アフリカ人、アメリカ原住民など異民族は人間として眼中になく、彼らの主体の尊大意識は植民地征服や帝国主義進出の精神的バックボーンでもあった。19世紀頃の男がひげを生やし威厳をつける風俗は、こうした時代精神を反映している。しかし時代とともに「人間」の概念はいつの間にか全人類的なものと考えられるようになった。

しかし彼らの主体主義哲学は西洋自身の内部において、個人主義や自由主義、人権思想を生み、その思想の確信が当時の政治情勢を刺激し、専制政治を打倒するという大変革をもたらした。歴史の紆余曲折を経たのち、今日の民主主義を作ったのだ。つまり自我尊大化のための思想は、専制権力にあえぐ民衆に人間としての誇りや政治の不平等と戦う思想を与え、政治は民主主義でなければならないという近代政治を生み出した。

人類の思想の歴史は太古の農業革命の思想や歴史家が言う古代の人間主義的「精神革命」を経てきているが、近代西洋の個人主義革命は近代の精神革命」といえるものだ。それは彼らの一歩進んだ武力に乗って世界中に広まっていった。個人主義やそこから出てくる自由主義、基本的人権思想は、西洋の主体主義哲学、彼らの自尊、尊大、自立を尊ぶ動機から生まれたものであったが、

自由、人権、平等、といった近代思想は社会生活を営む多くの人民に幸福をもたらしたものであることは間違いないだろう。しかしその思想の不完全さや欠陥のせいで、自由主義諸国においても富の不平等が進んでいるし、それが今後大きな紛争の種になるかもしれない。また現在、個人の自由や人権も認めないという全体主義的社会がもあり、西洋近代が生んだ個人主義や自由主義が人類全体に受け入れられているわけではない。

福沢諭吉は、この近代西洋人の思想の本質を「自立心」と数理」とにらんだのだが、「自立心」とは自分を尊貴なもの、他者より高いものにしようとする自己尊大化の欲求に根ざしており、それが言葉の上では個人主義(インディビデュアりズム)といわれたものだ。しかし日本では個人は世間とか社会といわれるものに溶融し、自我の尊大やむき出しの自我主張をよしとしない空気があり、日本の社会では受け入れられないものがある。夏目漱石はじめ明治の知識人は西洋的個人主義の理解に戸惑った。戦後丸山真男でさえ、日本人の自立心の不足が、大政翼賛会的付和雷同により、戦争への流れを食い止められなかった、といっている。経済学者大塚久雄は、イギリスのジェントリー階級の自立心を手本とすべきだと言ったりしている。今日でもおそらく西洋的主体性をもった自我を身につけることが教育の目標となっているのだろう。

しかし西洋近代をうち立てる基礎となった主体主義哲学、カントやヘーゲル、ルソーやジョン・ロックなどの個人主義や、自由主義、民主主義を支えた諸思想が、哲学的確信を失った今日、われわれの政治経済社会を組み立てている構造が揺らいでいるということである。近代の終焉といわれるもののこれが本質であろう。

そもそも近代西洋個人主義、自由主義は、主体の尊大さや自立性を求めることを動機としていた。それは西洋人に深く根差したアーキタイプ(元型心理)であり、それは同時に人間すべてに共通する欲求でもある。どういう理由でか、おそらく砂漠的遊牧的生活環境のせいで西洋人に特に強く表れたものであろう。日本人は一般に個人否定的、集団主義的と考えられているが、武士階級においては例外的に個人主義的で自尊主義が強かった。

人間は社会生活をする生き物であるが、同時に個体的生き物として存在している。『五万年前』というニコラス・ウエイドの本によると、ホモサピエンスがアフリカを出て社会生活らしきものを始めてから、ピラミッドを建てたりする社会文明を示すようになるまで3~4万年の時間を要したと言っている。つまり狩猟採取の自由気ままな生活から統制と服従と秩序に慣れるまで長い時間を要したというのである。統一的共同生活と自由気ままな個人主義とは相いれない生き方なのだ。統制的生き方、それは専制君主制とか絶対王権制といわれたりするが、そのもとでは多くの民衆は個人の自由が抑圧される非主体的生き方をしていた。近代は、個人抑圧的専制政治を打ち倒して、個人主義、自由主義を原則とする民主主義社会を作り上げた。

しかし西洋近代の個人主義は、自分を尊大に思いたい、神にも君主にも服従しない自立自尊の人間と思いたいという欲求を動機としていたため、その個人主義、自由主義にはとめどもない放縦への欲求が秘められていた。つまり個人主義や自由主義はニヒリズムを秘めているのだ。共同体の統一性や秩序を無視しようとするニヒリズムである。個人主義や自由主義を基盤とする、資本主義や民主主義もニヒリズムをその奥に孕んでいるのである。

現代資本主義は、ほしいままの富の獲得を赦し、貧富の格差は異常を通り越した不平等さである。これは幸福追求(カネ獲得)の自由という、自由主義のニヒリズムの現れに他ならない。このニヒリズムを許容しなければ起業家の生産意欲が出ないという論理は大きな人間誤解であり、近代自由主義思想のあやまてる解釈であるとというべきだ。

自分の尊大化、自分を高く思いたいとする西洋近代に生まれた欲望は、それがニーチェやフロイト、ダーウインなどの尊大否定の思想や科学的事実の発見によって、尊大欲求の欲求不満の集団ニヒリズムに陥ることになる。ニーチェはすでに19世紀に、神を否定し、神への服従ではなく、生の謳歌、力あるものへの賛歌を唱えていた。「力への意思」が新しい人間の生き方だと主張した。自分が神のような超人になることを目指すことだった。20世紀になると、その夢想的考えは、ナショナリズムという集団意識に乗り移り、世界を支配するドイツ民族という集団的尊大欲となった。

当時労働者階級が発生し、モブといわれる、個性の奪われた貧しい大衆が発生していた。モブは無力無個性な自己存在に絶望感をもち、ドイツ民族という自己集団に、尊大優越の夢を託したのだ。それがニヒリズムの本質である。ヒットラーの第二次大戦は西洋近代精神の行き詰まりから起きたものといえる。いうならば、あくまで他に優越し尊大化しなければならないという個人主義のニヒリズムであった。それは現代の貧富の格差という、自由主義のニヒリズムと軌を一にするものであろう。今日、欧米のいたるところで跋扈している白人至上主義という考えも、西洋人の自己尊大化欲、自己を最高に優越したものと思いたいという、かのナチズムのドイツ人と同じ心情に通じている。自己尊大化欲を西洋人は意識してないのだろう。彼らが個の欲求を反省しない限り、社会や国家間に平穏流行ってこないだろう。

これから論じようとする「侘び寂び」の思想とは、日本人が工夫した独特の哲学であり、まさに人間の持つこの自己尊大化欲をどう処理すべきかを説く実践哲学なのだ。

侘び寂び」の日本哲学を求めて

以上「現代茶道にもの申す」といいながら、現代思想にもの申してきたが、筆者のねらいは、侘び寂びに哲学を見出すことのみならず、それによって日本の思想の在り方そのものを問いたいのである。日本講壇思想家や西洋哲学に向かって日本人の哲学をぶつけてみたいと考えるのである。

ところで、茶道に関する古人の著述は実に多く、茶道発生以来、茶人たちは小まめに茶会記なるものや茶事茶具に関する著述もたくさん書き残している。たかが生活のほんの一部、茶飲みごとに関してこれほどの執着をもってかかわりあってきたということは、実に奇とすべきことである。古人が茶の湯と呼んだ茶道に並々ならぬ関心と情熱をもって、自分たちの精神の何事かを表現しようとした。筆者が現代の茶道論のいくつかをひもといて思うのは、著作者たちは茶道のもつひとかたならぬ精神性と哲学的意味性を感じ、それが何であるかを探ろうとしていることである。

 千利休は「利口だてはいらざること」と言っているように、言葉による論理的記述を嫌い、ほとんど観念的記述を残していない。利休の言行録で、茶の湯の聖典ともいうべき『南方録』でも、その大部分は具体的な茶事茶礼の仕方であり、あまりにも具体的な作法のことばかりなので何を考え、どのような思想を持っていたのか解りにくい。利休が禅思想に帰依し、その他の茶人もまた禅風の思想を茶の本質と考えたようだが、すべてを禅風という一言で片づけて、その思想観念をまとめ上げようとしなかったのは日本人の論理思考の欠陥だろうか、それとも禅では、「以心伝心」「不立文字」がモットーであるからその考えに従ったのかもしれない。江戸期の本居宣長もまた中国風の理屈立てを、「こちたきこと(うるさいこと)」と言っていることからして、日本人は理屈立てを厭う気持があったと思われる。これについて、。現代作家の伊藤整はこう言っている。

    「神の意識を我々はもたないとか当代の論者はいうが、我々は神の代わりに無を考えることによって、安定しているのである。考える力がないのではない。考える必要を感じないでバランスを保っているに過ぎない」(『現代日本人の発想形式』)

西洋のように神を考えることは、人間の主体性を立てることであり、必然的に主体の弁護、弁明が必要になる。無を考えるとは、主体性を意識しないということだろう。このことについては、本文中において論じる予定である。

また無を考えるということは、その精神が現世主義的であるということではなかろうか。心理主義的に考えると、日本人はその深層心理に、民族のエートス(元像的思考)として、現世主義的、非観念主義的なのだ。そこからもたらされる思想は主義主張ではなく、この世には頼るべき何ものもないという、「はかない」という虚無思想なのだ。もちろん日本にも観念的主義主張や宗教的想像をもつ人は多い。しかし大勢として、民族としては、おおむね虚無的精神(ニヒリズム)なのだ。これはいわば民族の遺伝子的精神というべきものではないかと思う。だがそれ故に、現世では規律や秩序を求めて生きねばならないという心理も働く。侘び寂び思想はそのような虚無精神を持った日本人が現世で自己を律するものとして、平凡な日常生活の一部に作り出した自己陶冶の方法だったと考えるのである。

 私は前著『日本人は近代思想をやり直せ』において、我々自身が内奥にもつ哲学的思想性についてあまりに考察不十分である、と言ってきた。我々は、明治の中江兆民が「日本人は古来哲学をしてこなかった」と断じたごとく、自分自身の内奥の哲学力についてわかっていないと思うのである。たしかに西洋のように万巻の書によって弁じた論述書はないが、それをもって、我々を非思想の民と断じるのは、誤って自分を貶めることであり、また伊藤整のように、無を考えているから、と断じるのもまた分析不十分である。

日本人は論述をもって語らないが、その哲学性や宗教性を強く秘めている芸術の一つに茶道がある。「冷(ひえ)、凍(しみ)、侘(わび)、寂(さび)、枯(かれ)」と、あくまで感覚的言葉でもって表現する思想は、その内奥に現代人にとっても有益な日本人独特の哲学が潜んでいると私は考える。現代の茶道論者も、最初述べたように、侘び茶に魅力的テーマを感じて挑んでいるが、私には成功しているように思えない。その理由は、彼らが茶道の本質、そしてそれを通して見た日本人の語らざる哲学に考えを及ぼしていない、と思うからだ。侘び寂びや数寄の茶は今日では美学、芸術の視点からのみ捉えられており、その思想性はあまり考えられていない。

そして侘び寂びの美学や倫理性は、日本文化に実に広範囲に浸透している。和装の日本女性の優美さは、正座をはじめ、立ち振る舞いに茶道が創った美が伝えられているし、建築では、畳を基準とした間取りが行われているのも、また和室には、ごてごて物を飾らず質素なものにするというのも茶道の美学である。

 何より重要なことは、侘び寂び思想が無意識のうちに日本人の人間観や生き方に与えている影響である。千利休は『南方録』でこういう。

    「家はもらぬほど、食事は飢えぬほどにてたる事也。是仏の教え、茶の湯の本意也」

これは平凡な訓話のように聞こえるが、茶の湯が日本の権力者や富豪の間で行なわれ、利休のこの言葉や教えた茶法が権力者や富豪に向かって言われていることを考えれば、その言葉の重みがわかる。即ち茶の湯では権力者も富者も、そしてもちろん普通の庶民も、人間すべてが、茶の湯を行うものは、質素でつつましく生きることを心がけよと諭しているのだ。

 さらに言えば、茶道のその奥に潜み気づかれていない哲学があり、人間は本質的に侘び寂びた存在であり、、現世には権力や富の盛衰はあっても、そうしたものは常ならざるものであり、人間の基本的あり方は、上下貴賤の差も仮象であり、人間は本質的に平等な侘び人寂び人である、という考えを、日本人に深く広く広めている。

  日本人は貧乏性であるとか、金はあってもほんとの豊かさを知らないのではないか、あるいは楽しむことが抑制的ではないかと言われる。こうした性格は侘び寂び思想の影響なくしては考えられない。日本には外国のようなけた外れの富者は少なく、明治の渋沢栄一にしろ安田善次郎にしろ、節度のある資本主義を実践している。おそらくその精神は「めざしの土光さん」といわれた東芝社長土光敏夫やまた日本の経営者は西洋の経営者ののように巨額の年俸をとる者が少ないという事実に受け継がれている。日本の権力者や富者が昔から茶の湯に親しみ、その語らざる実践倫理の思想の薫陶を受けてきたことを我々は知るべきである。

 マックス・ウエーバーは、西洋の資本主義初期において商人が資本を蓄積した理由として、プロテスタント倫理に、清貧や勤勉が天国への道であるという宗教信念があったからだ、といったのは有名な説であるが、日本にははるか中世の過去から、権力者や富者は清貧を友とし謙譲や謙虚、ひとの平等性などを学んできたのである。プロテスタント的心情は資本主義の発展とともに忘れられ、いつしか蓄財はあくなき強欲と貪欲に変じ、今日の資本主義の巨大な歪みとなった。一神教徒の観念的倫理などまったく当てにならない。そのことはキリスト教についてもマルクス主義についてもいえる。キリスト教の愛の思想も最悪の宗教戦争をもたらしたし、マルクス主義の理想の平等社会も最悪の抑圧社会をもたらした。経済学者大塚久雄は、西洋的個人の主体性を確立し、その主体の内面における倫理性を持たねばならないとし、日本の「恥の文化」にみるような外面からの規制ではだめだ、とした。大塚は日本の伝統的な侘び寂びの深さにまったく無知な西洋事大の近代人であった、といえるのだ。

 同じ主張は政治学者丸山真男も持っていた。彼の近代日本研究の結論は、日本人が西洋的主体性をもった個人になることだ、ということだった。しかしこのような近代主義は今や反省されるべきであり、日本的伝統精神の発掘と解釈、たとえば侘び寂び思想の再評価によって日本的哲学を作り上げることではないかと、私は考える。

 私は茶の湯を「茶の湯教」と呼び、江戸期の大名や富商、明治期の豪商たちも、そしてお稽古事として作法を習う婦女子も、この茶の湯教の信者となって、侘び寂びという日本固有の、そして無意識の宗教の教えを学んできたと考えるのである。

、 この茶道を私は単なる伝統文化、独特の日本美表現としておくことはもったいないと思い、これを哲学的論理的に詮索してみようと考えた。どこまで世人の納得を得られるか分からないが、少なくともありきたりの茶道論であることは避けた。

本書は一において明治以降の茶道論の誤りを指摘し、二から五にかけて、侘び寂び思想をもたなければならなかった日本人の精神的エトスとしての「現世主義精神」について論じている。六において、侘び寂び思想のベースとなっている日本的主体と、それと比較される西洋的主体哲学について


シンギュラリティーの到来   哀しき人間の近未来

2019-03-21 17:51:25 | 日記

シンギュラリティー(技術的特異点)の到来  哀しき人間の未来

人工知能(ロボット)が人間を乗っ取り

生物的人間の歴史は終わり、

新しい神のごとき知能物体が宇宙へ飛躍する

 

恐るべき近未来

むつかしい横文字で恐縮だが、なにやら人類の近未来に異変を起こすことようなので論じたい。シンギュラリティーとは、それ以後事態が急速かつ自動的に進展しはじめる「特異点」という意味で、とくにITの技術史上急速かつ自動的に発展しはじめる時点をいう。未来学では「技術的特異点」と訳されている。この時点から、AIやインタネットなどIT技術が、人間の知恵によらず、AIそれ自体が自動的かつ急速に進化しはじめる、というのだ。

科学技術の発展は古代から少しずつあったが、19世紀になり産業革命によって蒸気力を中心に近代が始まった。20世紀になると電気力、内燃機関を中心に第2次産業革命が起こった。その科学技術は今後、AI(人工知能)やインターネットを中心に第4次産業を起こすという。しかもそれは、これまでのような人間的生物的牧歌性のあるものではなく、人間を超え、人間のコントロールを無視し、技術それ自体が自己発展をはじめ、人間はその人工知能(ロボット)に飲み込まれ、消滅していくというのだ。つまり人間の生物的生命的役割は終わり新たに人工知能が主役となって、超越的文明を築いていく。あらゆるものがインターネットでつながり(ioT),自他の区別もない一体化した知能が神のような存在となって宇宙に向かって飛躍していく。

SF小説のような世界が、何百年も先のことではなく、はや2045年に始まるというのだ。これを言い出したのはアメリカ未来学者、レイ・カーツワイルという人だが、どうやらSF小説の空想ではなく合理的科学的予想で、じっさいにこれから人間と人間社会に降りかかる運命だというのだから「ぼーっとして生きてる」わけにいかない。シリコンバレーにはシンギュラリティ大学なるものができ、どのような事態がやってくるか研究したり。教えたりしている。われわれの身近でも、将棋や碁の名人がAIに負けたとか、ロボットが受付をするとか、ひたひたとシンギュラリティーの到来を予告する話が聞かれるようになった。

ありうる生物的人間の終焉

最近出たイスラエル人歴史家ハラリの『ホモ・デウス』はこのような近未来を説得力をもって描いている。その近未来図は「えっ、ほんとかよ、やめてくれ」といいたくなるほど、空恐ろしくなるものだ。そして事実彼のような考えは、キリスト教の終末論の焼き直しにすぎないと否定する人もいる。だが筆者は現実性も大いにあると思っている。なぜなら人工知能は人間の一兆倍のさらに一兆倍も利口だという。愚かでいい加減で矛盾だらけの人間より、その判断力記憶力思考力創造力ははるかにしのぐものになることは間違いない。「ポスト・ヒューマン」といわれる人造人間の出現はありうる。

そのようなものは非人間的で危険だからやめよう、人間の臓器改造や遺伝子改造はあぶない、人工知能と人間の脳を結んでサイボーグを作り、精神転送を行ったりするのは怖い、と叫んでも、愚かで欲深い人間はこの進化をコントロールできるはずがない。資本主義は欲望の自由を至上のものにしている。金儲けになる、名声がつかめるとなれば、科学者は盲目的かつ無自覚的に技術を開発していくだろう。したがって第4次産業革命は爆発的に発展して行く。そのような技術開発によって、経済格差はとてつもなく広がり、巨万のカネを持った者は、不老不死の肉体と超絶の能力を手にする。つまり「ホモ・デウス」(人間神)になるという。そして残された多くの、バカで愚かで貧しい自然人はロボットにかしづき支配される。

ハラリによると、現代科学者は人間存在自体が「データ処理機能」であるという人間観になりつつあるという。データとは情報であるから、人間およびすべての生命は情報を処理する機能に過ぎないということになってきて、AIと本質的に変わることはない。これまで人間が想像してきた魂とか霊魂とか心とか超越的主観性とかはただの空想的データに過ぎないのであり、あるのはそのデータ(情報)とデータ処理(プログラミング、アルゴリズム)機能である。人間に至る生命の進化は、有機的、生物的方法による情報処理であった。生物進化の最終段階の人類(ホモサピエンス)は、言語による共同主観を持つことにより、集団、社会、国家をつくり、生物の頂点に立つことができた。ところがこれからは人工知能(ロボット)が自律的に進化しはじめ、無機構造物の人工知能が人間に代わって超速に、超合理的に、超創造的に

発展しはじめる。ここに生物として進化してきた人間の使命は終わる。

人間機械論の極致 合理的思考の到達点

 人間は古代から、橋やピラミッドを作るときには合理的数学的能力を発揮した。それはしかし一部の技術的な面に限られていて、この世の大部分の事象については、宗教的哲学的妄想に頼ってきた。この世は神が支配しており、天国や地獄が死後には待っており、魂は肉体とは別に存在するといった考えは、今日も多くの人が抱いている.

 

 

 理性的に考え判断するとはどういうことか。それはこの世の物体の在り方に則して考えるということに他ならない。物は上から下へ落ちる。羽をもつ鳥は飛ぶが羽のない馬は飛ばない。こうした無数の物体の教えに人間は教わってきた。デカルトが人は「ボンサンス(常識)を授けられている」といったのは、この世の物体の持つ日常卑近が教えるボンサンスのことだったろう。ところが厚い妄想に囚われた人間はボンサンスが見えない。たとえば朱子学では「格物致知」(物をよく観て知に至れ、)と言いながら、天地の上下と身分の上下を一緒にしてしまった。このように、人間はこの世の成り立ちや死後のゆくえといったことについて、合理的に考える手立てがなく宗教的習俗的空想的考えに頼るほかになかった。

 しかし物に則して考えるという合理主義的考えは、科学者の局部的思考からしだいに人間事象やや社会事象ににまで広がるようになった。唯物論や人間機械論は、西洋では18世紀にははっきりした思想として生まれていた。人間や生物を、データ処理機能に過ぎなあいとする考えは、人間機械論の行き着いたものであり、唯物論思想の頂点の人間観である。

人間の主体性の消失 「波打ち際に書かれた顔のように消滅する」

 未来の人間観はいやがうえにも科学的合理的になる。これまで西洋人が必死で追い求めてきた人間の主体性の哲学も屑箱に入れられることになる。西洋の宗教も哲学もその本当の動機は自己の主体性を主張し守るものであったことは、日本の講壇哲学者は気づいていない。個の主体性の根拠は、最初デカルトが、「我思う」という理性的主体性だと主張した。その後カントは「超越論的統覚」といい、ヘーゲルは「世界精神」といい、フッサールは「超越論的主観性」といったが、どれも形而上学であり観念論であり、つまるところ自分は偉い存在だ、人間の個は尊いのだと言いたかったのだ。この人間観の上に、個人は尊いという個人主義、個人は自由であるべきで、生まれながらに基本的人権を持つ、という信念が生まれた。この思想の上に革命を起こし、政治法律制度を一新し、近代なるものを作った。西洋人はこれを普遍的真理として世界に広めた。

 だがその後、人間の主体性や尊厳性、一体性(自分はいつも同じ自分)や継続性(10年前の自分も今の自分も同じ)、に対する疑念がわいてきた。精神分析のフロイトは人間が理性的ではなく得体のしれない精神の持ち主であることを明らかにし、ダーウインは人間が卑しいい猿の子孫であると言い、ニーチェは形而上学が「誤謬(まちがい)」で破棄すべきものだと宣言し、デリダは「脱構築」と言って西洋哲学のやり直しを主張した。実存主義や構造主義という思想は、西洋人が信じ求めてきた個人の主体性と尊厳を否定するものになっていった。構造主義者のミシェル・フーコーは言う。「人間は波打ち際に書かれた顔のように消滅するだろう」(『言葉と物』)

 このような言葉は個の主体性の思想の上に築かれた近代の政治経済社会の諸制度の思想的確信を揺るがすものだ。近代の終焉といわれるものの本質である。ときあたかも、人工知能の時代が始まる。知らぬ間に人間機械論が勝利し、愚かな人間が神だ佛だと騒ぎ、国家だ民族だと争っている間に、科学技術者たちは資本主義の欲望に駆られて、ロボット製作に夢中になるだろう。それが人類の幸福になると信じながら、じつは生物的人間の消滅とロボットの奴隷になる時代を作っているとも気づかずに。

日本人はどうすべきか 西洋哲学を脱し日本哲学を立てるべき時だ

 近代を作ったのは西洋人であり、彼らの思想哲学だった。日本人は、彼らの文明を受け容れ、学習するのが精一杯で科学技術で多少貢献するか伝統文化を提供するくらいだった。

とくに哲学や思想面では、講壇哲学者は西洋に事大し、翻訳と解説以外何もできていない。近代の終焉といわれるこの大転換期に日本人自らの哲学を考えねばならない。筆者は、西洋に事大した思考を捨て、日本人自身の内面を哲学すべきだと主張している。

明治以降これまでも日本の思想を「ヨーロッパ文明の亜流であり、影絵であり、その精神基盤は我々の精神基盤となっていない」(京都学派の哲学者西谷啓治)という人は何人もいた。だが一向に日本思想は生まれなかった。筆者は『日本は近代思想をやり直せ』を著しこのことを主張している。

 西洋人は人間の主体性を信じ、個人主義や自由主義を立てたが、日本人はその正反対で、主体の存在を認めながらも、それをことさら主張することを避けた。我を没せよ、自己主張を抑えよ、という思想を生んだ。それは、茶道の「侘び寂び」の思想や、お辞儀の習慣に現れている。日本の思想には現実的倫理主義の傾向が強いが、一方仏教は存在論中心であり、人工知能の時代の自我についての哲学となるだろう。◇◇◇