鎌倉評論 (平井 嵩のページ)

市民の目から世界と日本と地域を見つめる

中国共産党とは何者か

2019-03-21 17:45:07 | 日記

 

反日思想に自己のレーゾンデートルを求め

中華思想的ナショナリズムで覇権を広げ

アメリカとの冷戦の最終決戦に及ぶ

 

露わになってきた覇権主義

中国共産党は資本主義に趣旨変えし、それでも共産主義を名乗る得体のしれない政党になっているが、その成功により経済大国になった今、その経済力をもって何やら不穏な野心を抱き、20世紀的帝国主義覇権を実行しようとしているように見えてきた。昔のような武力による帝国主義ではなく、「シャープパワー」といわれる文化戦略やカネの力を駆使し、ソフトな帝国主義に邁進している。一帯一路という標語も近頃は「一帯はおれのもの=世界はおれのもの」と聞こえるようになってきた。その独裁制は自由主義や民主主義への挑戦となり、我々にとって脅威となってきた。今や中国共産党は、中国という巨大国家を操りながら、世界で最も危険な存在、おそらくISより危険な存在になってきたと言っていい。

中国国内の民権の封殺、弾圧

昨今、NHK番組や月刊誌の論文(たとえば新潮45の9月号)などにより中国国内における民主勢力への陰湿な弾圧のニュースが伝えられる。ノーベル文学賞をもらった作家を、治療のための出国をさせずやんわり殺してしまったとか、香港の政治に自由を赦さなくしたとか、チベットやウイグル族への弾圧は、アメリカから人権問題だと指摘されている。

中国共産党の組織は、官庁は言うに及ばず企業にも監視網を張りめぐらせ、反党的反政府的言動は直ちに当局に呼び出されて、監禁され尋問される。中共は明らかに自分たちの体制への批判者や不平分子の発言を封じ、自分たちの政治に否応なく服従することを強制している。批判言論の封殺や言論の自由への弾圧は、過去の皇帝独裁や封建時代と同じであり、この政治の源流である「スターリニズム」のやり方なのだ。、

ソフト帝国主義 「シャープパワー」の脅威

中国共産党は国内における締めつけばかりか、世界に向かっても覇権主義的進出を進めている。南シナ海の軍事進出は目にあまるが、弱小国に高利のカネを貸し、返せなくなると港などを長期租借している。スリランカやオーストラリァのダーウイン港がそうされている。返せないと分かっていてもカネで目くらましさせて、土地を差し押さえるという悪質高利貸しの手口である。新植民地主義といわれとぃる。弱小国への投資においても、その国に何のメリットも与えないというえげつない投資をするらしい。ミャンマーがその例でさすがに断られている。

 中国は世界中に「孔子学園」という中国の宣伝機関を作り、一見ソフトな文化外交に見せながら、中国の宣伝をしている。また各国の大学に研究機関を作り、そこに多額の献金をし、個人には賄賂を贈り、中国寄りの宣伝をさせている。オーストラリアでは鼻薬を利かされた有力政治家があまりに中国の味方をするというので失脚している。文化外交を装いながら自国の宣伝をし、国内では民権勢力やチベット、ウイグルなど異民族を弾圧し、カネでほっぺたを叩くような、自分のためだけのえげつない援助をしている独裁政権に、この国の宣伝などしてもらいたくないものだ。こうした宣伝攻勢が中国の「シャープパワー」といわれている。

 中国人は、この世は全てカネ次第という根っからの拝金主義者で、カネを恥じる精神文化がないようだ。カネの前の人間の弱さをよく知っている。

 スターリニズムと冷戦の名残り

中国共産党独裁政府は、マルクス主義を掲げて、毛沢東が日本帝国主義や蒋介石と戦って勝ち取った政権だ。立役者であるロシアをはじめ共産国家はどこも一党独裁であったのは、共産革命の運命に由来する。成長盛りの資本主義の真っただ中で、労働者の平等や自由を求めて革命を目指したのは崇高な政治活動であったが、哀しいことに革命は当初から資本主義の強い敵意と攻撃にさらされた。革命勢力は身を守るために武力主義や独裁制をとらざるを得なかった。「権力は銃口から生まれる」「造反有理」は彼らの信念だった。内部でも権力闘争が激しく、スターリンはやむなく強力な独裁制と冷酷な排除主義をとった。マルクス主義を神のようにあがめ、その教条に異を唱える者は容赦なく収容所に入れていじめ殺した。極端な教条主義の国となった。密告制やスパイ網を張り巡らし、政治はこれまた極端な秘密主義だった。国境には鉄のカーテンを作り逃げ出すものは銃殺した。この政治をスターリニズムと称するが、要するに史上最悪の暗黒政治だった。レーガンはこれを「悪の帝国」と呼んだがまさに至当だろう。

中国共産党もこの政治文化を受け継いでいる。天安門事件がいつ起きてもおかしくない政権なのだ。政治弾圧が過酷なのは伝統である。中国や北朝鮮の一党独裁はスターリニズムを母とする冷戦構造の名残りであり、決して中国固有の政治ではない。しかしそれに皇帝制とか中華思想という中国的な、たちの悪いナショナリズムが加わって、始末の悪いものになっている。

中国共産党は失敗の歴史に口をつぐむ

中共は口を拭って黙っているが、毛沢東率いる中国は実に惨憺たる失敗の政治だった。大躍進政策という、農民に溶鉱炉を作らせるバカなことをやり、何千万人を餓死させたという。ついで「文化革命」という無茶苦茶な世直し運動をやって国家を大混乱させ、それで旧習は破壊したかもしれないが、得るものは何もなかったろう。そして登小平のとき資本主義を採用し、やっと今日みる成功を果たした。もともと資本主義は中国人に合っていたものだ。頭が良く努力家で金儲けが大好きという民族だ。もし蒋介石が初めから政権をとっていれば、中国人民は苦労しなくて済んだろう。

 

 

2018年12月              鎌倉評論                    58号

 

 

共産党は失敗の責任も取らず、今も毛沢東を建国の父とあがめている。ロシアでも東欧でもレーニン、スターリン、マルクスは破棄されたというのに、中共の中国と北朝鮮は毛沢東や金日成を仰ぎ、スターリニズム的独裁政治を続けている。じつに時代遅れの風景ではないか。

冷戦後の中国共産党の方針転換

冷戦が終わったとき、各国の共産主義もともに失敗だったと判断されるはずだが、現実政治はソヴィエトロシアと共にいさぎよく白旗を上げるというわけにはいかなかった。中国共産党は権力を握っていたが、思想的な打撃を受けることになった。その統治の正当性を問われることになったのだ。そこで中共は支配の正当性を次の二つの理由に求めた。

一つは自分たちは日本帝国主義と戦い、現代中国を建国したというストーリーだ。日帝は残忍な敵であり決して忘れることはできない、共産党はそれと戦ったのだという神話を国民に吹き込んでいる。日本は今も過去の復活を企んでおり、中国はそれに警戒せねばならないというのだ。反日が国策であり、反日教育に力を入れ、反日映画、反日記念館を作りまくっている。反日はいまや彼らの主たる存在理由(レーゾンデートル)にされている。やめるわけにいかないのだ。ある雑誌によると、中国人のなかにはいずれ日本を征服し、日本人を皆殺しにしてやりたいと思っているそうだ。げに恐ろしき反日教育の成果だ。日本は、民族偏見を煽るヘイトスピーチを抑えようとしているのに、中国は「ヘイト日本」を国策としてきた。不公平ではないか。日本政府はこの不当な反日政策をとめる手を打たねばならないが、間抜け外交は何もしていない。この問題は拉致問題よりはるかに重要な外交課題と認識すべきなのだ。

悪質な20世紀型ナショナリズムの利用

 中国共産党がもう一つ自己の存続のために利用したのは、国民のナショナリズムだ。中国4千年の歴史とか中華思想を称揚し、それに過去の侵略や植民地化に復讐しその怨念を晴らすという、我々がその危険性を反省し抑えている20世紀型のナショナリズムなのだ。ナショナリズムはスポーツに見るように健康な自国意識ならいいが、歴史を絡めて傲慢や蔑視や敵意のまざったものは危険極まりないのだ。

その吹き込まれたナショナリズムによって中国人は政府の指示に協力させられているらしい。旅行者を含めすべての中国人が、敵対的で中国中心的なナショナリズムや怨念をもっているとすれば恐ろしいことだ。長野オリンピックの時、在日中国人が国旗を振り回して集合したことがあり、同じことがオーストラリアでもあったらしい。また在外中国人を使ってスパイ行為をしているらしい。アメリカではビジネスマンがスパイで捕まっている。

中国共産党は私欲によって団結している

 中共は反日思想と復讐心を持ったナショナリズムで、自己存続を正当づけたが、ここからは筆者の推測になるが、中共の本当の狙いは自分たちの私欲ではないかと思えるのだ。つまり共産党員は地方や国の公務員として、また国営企業の幹部として出世し、賄賂をとって財産を築く。中国における最も確実で可能性の高い蓄財法なのだ。中国人の賄賂体質は、習近平がトラもハエも叩くと頑張っているが、一朝一夕で治るものではない。中共はこの私欲に根ざしたものだけに団結は固いと思われる。

アメリカはやっと気がついて立ち上がった

 中国のソフト帝国主義、シャープパワーという陰湿な覇権主義にアメリカは最近になってやっと気がついた。トランプ大統領は現在貿易戦争を仕掛けているが、これは中国へのドル流入をストップさせ、中国の札束外交を締め上げようという狙いだ。米中対決は単なる経済戦争ではない。アメリカは、中国政府のうそつき、不誠実、狡猾さに頭にきている。全面戦争への道である。まさか原爆を投げ合うところまではやらないだろうが、しかしメンツのある中国はどう出るか。世界はにわかにきな臭くなってきた。これは冷戦の延長戦であると同時に、アメリカの開放的民主主義と中国的スターリニズム的独裁制との戦いである。

解決策は中国の民主化、多党制と選挙制をとり入れること

この戦争の解決策は、結局中国が共産党独裁を止めて、多党制と選挙制を採り入れることだ。要するに民主化である。しかし先に述べたように、中共は私欲に根ざしているだけに容易に折れないだろう。日本は、急ににこにこしだした中共にしっぽを振るばかりだ。◇◇◇


北朝鮮とは何者か

2017-10-17 16:27:52 | 日記

鎌倉評論54号の論説を書いたのでアップする

 

暴力主義を崇拝するスターリニズムの子

人間存在のニヒリズム性に立脚する

北朝鮮の真の敵は、日本の平和主義

 

北朝鮮が騒がしい。どのメディアも北朝鮮がどう出るか、何を考えているかといった政治戦術的なことばかり報じ、北鮮の真の姿が語られない。本紙はそこで北朝鮮を歴史的人間的大局から、その国家の正体を考えてみたい。

人類と暴力主義

国家や民族が武力によって互いに侵略し、相争うという姿は有史以来今日まで、そしておそらく将来にわたってもつづく、人類世界の変わらぬ宿命であると考えている人が多いのではなかろうか。国家間においては言うに及ばず、法と権力が支配する国内においても、人は暴力に頼ることが多い。暴力こそ真の正義であるという考えは、暴力否定の聖者や覚者の教説・運動にもかかわらず、人類の胸中から去ることはない。要するに勝てば官軍、弱肉教職が、人類社会の真の姿だという考えは、トマス・ホッブスの人間狼論やアメリカの銃による自己防衛主義を見るまでもなく、この文明時代でもぬぐうことはできない。

ことに、世界政府もなく国連という諸国家の会合はあるものの、その権力も軍事力も弱体である今日、国際政治はまさに強者が支配する無秩序の状態である。アメリカは諸国家のなかの親分に過ぎず、いつ別の親分にとってかわられるかもしれない。現在の世界平和はパクス・アメリカーナに過ぎない。

平和主義という人類知の向上

それでも21世紀になって暴力主義はその有効性を失くし、知性による平和主義が世界に強まりつつあると感じないだろうか。第一、原爆の恐怖が,広島長崎の訴えにより、つまり日本の平和主義運動により浸透したこと。交通通信の発達は人類の相互理解と親密さを高めた。風俗習慣文化の相異はあっても、みな同じ人間だという認識が確実に広まっている。多数の観光客の往来はそうした相互理解を促進しているだろう。また20世紀の大戦争の記憶は失せていないし、東京裁判やドイツ裁判で決められた「平和への罪」「人道への罪」という法概念の発生は、帝国主義とか植民地主義などという野蛮な暴力支配を時代遅れのものにしてしまった。国際世論というものが国際政治に生まれ有効な圧力になっているし、「人道への罪」意識は残虐な政治への強い非難になる。

日本は敗戦により不本意ながら憲法9条の平和主義を押し付けられたと言っているが、実は将来に向けた人類の悲願である平和主義を推し進める使命を負わされたと考えるべきである。武に対し武で立ち向かうのは、人類発生以来の常道だし、たやすいことだ。それを否定し、身を危険にさらしても平和主義を世界に叫ぶ道こそ、日本の価値であり、世界政治への貢献だと考えるべきだ。これは青臭いロマンチズムでも非現実主義でもない。これこそ覚悟をもった武士道精神の現実主義の道ではなかろうか。自己の強さを主張するばかりの人類の狼状態を救済する国家の生き方である。それは古くから現世の無常観を発達させ、「わびる」という自己否定の生き方の思想を確立した日本人だけができることなのだ。日本人の生き方こそ先進的人類知と認識されるべきである。

共産革命は銃口から生まれた 暴力主義の信奉

近代は武力による伝統的王権の転覆という革命によって特色づけられる。イギリス、フランス、アメリカの市民革命がその先発だろう。この市民革命は産業革命によって生まれた資本家(ブルジョワ)の王権への反抗だった。20世紀になって起こった共産主義革命は王権貴族と資本家に対する労働者の反抗だった。この革命は前の市民革命に比べるとはるかに分厚い反革命階級に取り巻かれていた。ロシアが口火を切ったが、共産政権はどこも内外の反革命勢力と戦わねばならなかった。中国や朝鮮の共産勢力は、国内の資本主義勢力や日本帝国主義と対峙した。ベトナムのホーチミン政権、キューバのカストロ政権などどの国も強力な資本主義勢力との戦いから生まれた。毛沢東の「権力は銃口から生まれる」という有名な言葉はこの状況を語っている。したがって共産主義政権は武力を自分の命とし、ことさらこれを信奉する性格をもったのだ。

原爆は国家の誇りと独裁者の人気を高める

北朝鮮がこのような現代史のなかで、武力主義をあがめ暴力だけが自己の生存を可能にするものだ考えるのは無理もない。とくにこの国は朝鮮戦争を戦い、70年前とはいえまだ休戦状態にあるだけなのだ。この歴史経過からいえば、韓国を武力統一するというのは当然の政治目標であっておかしくない。北朝鮮が自国民を飢えさせながら、原爆とロケットさえ持てばアメリカと対等になれると考えているのは、過去の共産政権の被害妄想からくる武力崇拝である。どうみても理性のある考えとは思えないが、いまや武力が国家の誇りともなっていると考えられる。原爆とロケットがなければ北鮮など弱小な後進国、カンボジアやラオスのような国になって注目されることもない。それが原爆とロケットによって、世界から注目され、最強国アメリカと対等になるのだ。これほど国民の誇りをくすぐり、独裁者の人気を高めることはない。それに原爆付きロケットが完成すれば、それで世界を威嚇し、稼ぐことをするかもしれない。まさに盗賊国家である。日本はそのよい標的になるのだ。

共産主義政権の暴力体質の原因

共産主義政権はその成立時、これをつぶそうとする反革命勢力に取り巻かれていた。日本もシベリアに出兵して圧力をかけた。国内的にも反革命分子が多く、これとも戦わねばならない。また権力内部にも権力闘争が激しく、トロツキー、ブハーリン、スターリンなどが争った。革命初期には労働者たちは、王権的独裁を否定し民主政治を目指したのだが、内外にあまりにも敵が多かった。そこでスターリンは権力をとると、民主集中制という欺瞞的方法で独裁制を確立し、政敵を暴力で殺害したばかりか、反抗的な国民を容赦なく強制収容所(ラーゲリ)に入れて虐待した。この手法をスターリニズムといわれるが、この暴力主義が共産政権の一般的手法となってしまった。共産政権の特色はこればかりか、教条主義、閉鎖主義、独裁主義、抑圧恐怖政治、言論弾圧、密告、強制収容、粛清など、人道主義などものともしない暗黒政治で、レーガンが「悪の帝国」といったほど、非人間的な政治になった。民主政治を目指したはずの共産革命がなぜこうなったのか、人間の悲劇的本性の現れというしかない。

北朝鮮は正統的なスターリニズムの政権

北朝鮮は歴史への何の反省もせず、今もこの共産主義政治を忠実に行い、アメリカ資本主義の帝国主義と戦っていると言っているわけだが、どうみてもドン・キホーテであり時代錯誤である。北朝鮮が他の共産政権と違うのは労働者代表にすぎない委員長が、金家によって独占されていることだ。これもマンガ的偽善だが、教条主義の極致であろう。歴史への反省がないこととこの金王朝をのぞけば、北朝鮮は伝統的共産政権の手法を行っているのであり、なんらおかしなことではないのだ。

この共産主義政権は、近代西洋が大いなる希望をもって始めた政治ではなかったのか。そして資本主義のもつ自由主義の逸脱、格差拡大、拝金主義、地球破壊などの問題は、百年前と何も変わらず、人間を苦しめており、平等を叫ぶ共産主義の意義も十分に有効なのだ。

 中国は同じ穴のむじな

北朝鮮は時代錯誤的とはいえ共産主義に忠実な政権であるが、中国は改革開放と称し資本主義化してしまい、アメリカ同様格差は激しくなり、共産主義の理念など失せてしまった。にもかかわらず共産党一党独裁を維持しているが、理念を捨てた共産党は統治の正統性を失っている。何を根拠にお前が支配するのかという懐疑である。そこで中国共産党は日本帝国主義と戦ったという歴史を正当性の根拠にするため、今も国民への反日教育反日宣伝を国策としている。故意に作り上げる正当性論である。大戦中には世界のいたるとこで、また中国自身文化革命時には大量死をだしている。過去の戦中の人間の悪事をほじくれば切りもなくあるにもかかわらず、日本の侵略だけを今だに国をあげて敵視するのは、歴史に対する公平性を欠いている。韓国の慰安婦問題についても同じことがいえる。日本は彼ら自国の問題のために利用されているのだ。

中国共産党はいまや得体のしれない支配階級になっている。にもかかわらずスターリニズム政治手法は残っており、内外に対する暴力主義的政策だけは行われる。天安門事件は今でも容易に行われうるし、言論弾圧は現在相当きついらしい。要するに中国も北朝鮮も同じ穴のむじななのであり、スターリニズムの残骸なのだが、中国は実体は資本主義であり経済的に大成功している。しかしスターリニズムの暴力主義を宿しているため、昔の帝国主義と同じになっている。中国は早く民主化しなければ、世界の災厄になる可能性がある。しかし彼らは決して民主化しない。民主化すればチベットなどの分裂、下層民衆の暴動などが起こるからだ。暴力による強圧的政治であるスターリニズムは中国でも極めて有効なのだ。

アメリカの暴力主義と日本の平和主義

アメリカは高度な文明国にもかかわらず、その社会体質は極度に暴力主義である。恐らく西部開拓史の影響や強い個人主義、競争主義それに銃業者の圧力があるせいだろうが、もっと大きな原因は、世界政治のニヒリズムの先頭で警察官をしているからだ。暴力主義になるのも致し方ない。世界政府ができるまでは、パクスアメリカーナは必要だ。しかしアメリカはこれまで碌な戦争をしてない。共産主義恐怖妄想によるベトナム戦争、原爆があるという判断ミスによるイラク戦争、復讐感情に駆られたアフガン戦争。同盟国である日本は気をつけねばならない。集団的自衛権は危険であり、日本が暴力主義に巻き込まれる原因となる。

日本は平和主義を国是とし、憲法9条に逃れようもなく具体的にそれを明記した。人類史がいまだ暴力主義から逃れられない時代に、極めて特異なことであるが、それは日本国民の肌に焼き付いた戦争の痛みからきている。日本の平和主義は人類史の一点の光明であり、北朝鮮やアメリカなど世界の暴力主義は日本の真の敵である。日本は孤独な平和主義を戦っていると認識すべきだ。

 

 


『わびは美に非ず』   わたしの新著作の書き出し

2017-08-10 11:49:13 | 日記

前口上

筆者は現在表記のタイトルで新著作に取り掛かっている。これに集中するために当ブログがおろそかになっている。どんなことを書いているかここに公表したい。「わび・さび」という美とされているもの対する異議申し立てである。筆者の前著『日本は近代思想をやり直せ』の実例を見せたいという意図である。

 

『わびは美に非ず』

 

1、わびは実践倫理である

岡倉天心の迷誤

「わび」「さび」とは中世の文芸に発し、能など芸能、とくに茶道において完成された日本の古典的美様式と考えられている。その特異で概念としてははなはだ掴み難い美は独特な思想と精神性を持っているものとして評価されている。「わび」は感じでは「侘」、「さび」は「寂」あるいは「然」と書くが、漢字で書いても概念が少しでも明確になるわけではない。漢字(象形文字)の欠陥といえるもので、われわれは日常漢字を使ったいるが漢字によって概念が明瞭になっていることはない。漢字はすでに語源が失われており、それを使えばなんとなく仮名より明確になったような気になっているが、それは漢字の魔力のようなものだ。

「わび=侘」「さび=寂、然」という概念はそれがはっきり感じられる。漢字で書いたからと言ってその意味がよくわかるわけではない。そこで筆者は「わび」「さび」と仮名表記で通すことにしたい。

いきなり国語論から始めたが、幸い「わび」「さび」は大和言葉で語源を日常感覚に求めることができる。「わび」とは「わびる」わびしい」「わびしさ」などに共通する心情である。「わびる(詫びる)」は人に対して自己の非を認め、自己の劣位を認めて謝ることであり、「わびしい」は孤独で、寂しい状態である。「わびる」という大和言葉は語源的には、長いものをまげて「輪」を作ることを意味し、それが背を丸めて平身低頭する姿勢を意味するようになった。つまりお辞儀をし身を低くして謝る行為を意味するようになった。人間通常誰しも成功し認められ喝采され栄光に包まれた状態を求めるものだが、そのような心情に背を向け、むしろうらぶれて一人ぼっちで悲哀の状態を求めるというのは格別な意思がそこに働かねばならない。日本人はこのような心情を精神のあり方として、和歌や俳句の詩情の中に、あるいは茶道や華道、能など日常の芸道のなかに求めたのである。それはまさに俗人が欲望を断って宗教的修行に求めるような宗教精神に似ている。似ているというより、のちに述べることになるが、、これこそ無神論的信条のy強い日本人が現世の中で求める宗教的心情、それに基づく宗教行為なのだ。それは現代でも誤解されたままなのだが、単に茶道の美なのではないことを筆者はこれから説いていこうとしている。

まず何故「わび」が美、とくに茶道における美様式であるという認識になったかを考えてみたい。それは明治期に画家岡倉天心が英文で外国人向けに著した『茶の本』とい茶道の紹介本に原因があり、この誤解の元凶はまさにこの本にあるのではないかと思われるのである。茶道はむろん明治になっても日本の伝統芸能として盛んにおこなわれていた。天心はこの伝統芸能をなんとか外国人に分かるように説明したいと思ったのだろう。

明治は文明開化という西洋文化への迎合時代である一方、片方では伝統的日本文化や日本人そのもの性質、精神といったことに目を向けた時である。三宅雪嶺、陸羯南といった人たちが、雑誌『日本及び日本人』を発行して日本的文化の維持を主張した。岡倉天心は日本画家で日本美術復興のために、日本美術院(のちの東京美術大学)を創設している。三宅雪嶺などにつながる民族主義運動の流れの中にあるものといえる。

さて天心が茶道をどのように捉えたかというと、「審美的宗教」といい、「茶道は日常生活の中に存する美しきもの崇拝することに基づく一種の儀式である」「茶道の神聖な役目は崇神と客が協力して美の至境を求めることである」そして、そこで拝む対象は「純潔」と「優雅」だとするのだが、後に述べるが、茶道が一種の宗教であるという意見には賛同するものの、その拝む対象が純潔でも優雅でも美でもない。拝む対象は「わび」であり「さび」なのだ。

先祖の茶人たちは、茶の湯が美を探求するものであるということを、筆者の管見するところ、一言も言っていない。彼らはひたすら「わび・さび」の精神をいかに諸々の茶の湯の表象の中に表現するかに腐心しているだけである。そしてその内容は、彼ら好みの、日本的美を表現しようとしたのではなく、日本的実践思想、現世の人間がとるべき倫理、謙虚、清貧、謙譲、自己犠牲といった生き方であったのだ。

天心は肝心のこの「わび・さび」のs思想については一言も触れてrない。「わび・さび」を語らずして茶道を論じたことには絶対ならないし、そのような論議は日本人の精神を曲解したしたことになると思うのだが、天心以後の茶道論者は、天心の考えに盲従してまさに先祖の思想を誤解した道を歩んでいるといえる。

天心はきっと当時の西洋人に「わび」「さび」を語ってもとうてい通じないと思ったのだろう。何しろ帝国主義西欧列強の登用への蔑視は強く、天心はそのような蔑視を跳ね返そうとしたと思える。『茶の本』には茶の本らしからぬ政治的見解、西洋への激しい非難が投げつけられている。

「一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、雅気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているだろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっている間は、野蛮国とみなしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる」「もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るまで喜んで待とう」(『茶の本』)

芸術家がこのような政治論を言わねばならない時代に、自ら頭を低くし自ら貧や孤独を求めよ、という「わび・さび」の思想を天心は語るわけにいかなかったろう。

しかし茶道が美であるという考えは、その後の茶道論に確固とした地位を占めてしまった。今日茶道は日本美であるという考えを疑う者は変人であると思われるに決まっている。だが筆者は茶道美様式論に疑問を呈する。なるほど茶道が日本的と称する美であることを認めるにやぶさかではないが、それ以上に、美である前に、「わび」「さび」は実践哲学を語っている要素のほうが多いのだ。しかるに現代思想家はそれに気が付いてない。

そもそも茶の湯は芸術かという問いが現代茶道論には付きまとっている気がする。絵画とか彫刻といった物によって直接精神内部を形象化するのと違って、茶道は何も作るわけではなく、ただ茶を飲むというありふれた生活の一場面に過ぎない。たしかに茶器をはじめ茶室や掛軸など多くの道具を、茶道の美感覚に応じて選んで使用するが、肝心の茶会そのものは、利休も言ったように、「た茶の湯とは只湯を沸かし茶をたててのむばかりなるものと知るべし」(『南方禄』」というものなのである。

しかし谷川徹三氏はこういうのだ。「茶の湯は身体の所作を媒介とする演出の芸術である」「茶道は亭主を演出者とし、客を共演者とする即興劇とみるべきである」(『芸術としての茶の構造』)つまり茶会で茶を飲むのはバレーや演劇と同じ動作の芸術であるとおいうのだ。しかし演劇と違うところは、「日常の生活との完全な隔離がないままにいわば半ば日常生活の空間のなかで日常生活の場面を作り上げるのである」つまり茶道は演劇のような日常生活との隔離性がない動作の芸であるというのだが、いささか苦しい見解と言わざるをえない。「わび・さび」という心情とそれが茶の湯に現れた表現を日常と隔離性のない所作の芸術であり、日本的美であり、「純潔」と「優雅」を神とする一種の宗教であるというのは、あまりにも「わび・さび」の哲学を曲解したものといわねばならない。

しかしこの「わび・さび」即美様式論が以後日本の茶道を規定してしまい、茶道は「わび・さび」という美を表現するものという考えが日本人の頭に固定してしまった。そしてその美学論に掻き消されて「わび・さび」の本来の日本的土着哲学が忘れられてしまったのである。日本人は、露地のつくばいで腰低くして手を洗い、這いずるようにしてにじり口から古ぼけたとま屋の百姓家のような狭い庵室の茶室に入り、泥をこねたような茶碗で茶をすするという茶会の全体のあり様を日本独特の美だと信じ切っており、そこに先祖が求めた哲学を忘却してしまっている。それは近代になって、岡倉天心の『茶の本』から始まった誤解ではないかと先述したのである。

しかし天心以後の茶道論者も、「わび・さび」には倫理的な思想が込められていることを、美様式論の陰で感じ取っているのだ。もともと利休をはじめ中世茶人も「侘びの本意」を仏教に求めていた。利休は『南方禄』で言う。「侘の本意は清浄無垢な仏世界表している。「堅固に侘の意を守ることは即仏戒を保つことに等し」これを受けて谷川氏は言っている。「侘びは単なる美的理念でなく、一つの生活態度として倫理的宗教的意味を内包するのである」(『芸術としての茶の構造』)

久松真一氏は、茶道における仏教的精神性及びその倫理性を強調している論者である。氏は言う。「侘び茶を芸術一辺倒に、即芸術とみたり、侘び茶の最高の価値は芸術面にあるとみたりすることは、侘び茶を脱線させることにもなり、本質に反することになるばかりか、侘び茶の人間における深い意義、すなわち人間の根源的自覚を看過させることにもなるのである」(『茶事の和美』)久松氏は茶道の倫理性についてこうまで自覚しているのであるが、では「人間における深い意味」がなんであるかは探ろうとせず、ただ禅の心であるというにとどまっている。茶道その他中世の芸術が禅宗の法師によってはじめられたことを考えると当然禅的思想との関係が考えられる。しかしそれは必ずしも禅的思想を表現しようとしたものとは言えない。禅的思想や気分をもちながら実はその裏に隠れた日本的土着精神、人生論を表わそうとしたということを、筆者は主張したいのである。

日本人の本心の主張は西洋のように論理的に直截的なものではなく、どこまでも隠喩的であり、物に託したり、外国の思想の傘を被るといった形をとるのだ。日本に長く滞在したある外国思想家(カール・ルーヴィット)が日本人の思考には一階と二階があり、二階には西洋思想や表立った思想が並べられているが、一階にある思想こそ日本人が行動している思想である、といっている。その一階の思想こそ、日本人が物や芸術作品あるいは外国思想に託して隠喩的に表現した思想ではないのか。それ故にはなはだ捉えにくいが「わび・さび」に託された倫理思想こそ日本人の一階の、土着的民族的思想ではないかと考え、筆者はこれからロゴスでとらえようとするのである。

 つづく


テロリズムを考える   一神教の妄執 この妄念を解くのは仏教しかないのでは

2017-07-06 12:48:40 | 日記

非対称世界大戦の始まりか

世界各地にテロが頻発し、今日まさにテロによる非対称の第3次世界大戦が始まった感がある。日本には発生していないが、もし2,30人も一度に死ぬテロが発生すれば、災害と違って、安心安全教に酔っている日本人は発狂するのではなかろうか。ヨーロッパは多くのイスラム教教徒難民を受けい入れ、度重なるテロに襲われ、警備強化や監視カメラにみられる社会になりながら、それでも自由、民主、博愛、寛容の理念を保っているのはリッパという外ない。それでも排除主義や閉鎖主義の勢力がすぐ背後に迫っている。テロ戦争が拡大すれば世界政治はどのように変化するかわからない。

 70年代日本にもテロが多発した。95年のサリン事件を除けば、その原因は過激共産主義思想によるものだった。今日のテロはほとんどがイスラム過激思想によるものだ。過激思想は構築性の強い観念思想から生まれる。共産主義もそうだが、イスラム教は一神教の中でも最も構築性が強く、しかもそれは永遠にして絶対的教えとされている。ISという組織的テロ国家は世界中にテロをばらまいたため殲滅の憂き目にあっているが、この組織が滅んでも彼らに思想的エネルギーを注ぎ込んだイスラム教は世界に16億人の信者を擁して健在だ。

 宗教をけなしたくないが、テロリズムがイスラム教に生まれ、彼らの宗教信条が、一見まったく平凡でまじめな若者を突如テロリストに豹変させていることを考えると、アジアの東端にいて石油取引のほか縁の薄い我々も、関心を向けざるを得ない。そこでイスラム教の権威井筒俊彦氏の本など読んでイスラム教を考えたい。

イスラム教は仏教と対極にある

ハンチントンが、冷戦終了後は文明の衝突の時代になるといったのは有名だが、現在の状況はそれが的中した感がある。しかし文明の衝突といっても衝突しているのは一神教という同類の宗教同士である。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、アブラハムの宗教といわれて先祖を同一にし、経典宗教といわれて各自の教典を神の言葉とあがめ、その教えを守る宗教だ。一神教の最大の特徴はその教典主義にあり、教典に書かれた強い構築性のある教えを守ろうとする。構築性とは人間の作り上げた物語であり、思想であり、虚構である。一神教の神はみな自分だけを拝め、他の神を拝めば滅ぼすと言う自我の強い神である。

また一神教のどの宗教も怒りと闘争を原理とした世界観を持っている。それは母体のユダヤ教の成り立ちからそうなったと考えられる。ユダヤ人は古代に他民族からの長い抑圧の歴史に生き、その苦難に耐える宗教として存続してきた。そこには、いつか神の救いがやってくるという当にならない希望主義やどん底の民族にも拘らず神に選ばれているという選良意識を持っていた。それは弱小であるが故に生きるために持つ必要があったものだろう。こうした意識はキリスト教にもイスラム教にも受け継がれている。各宗の原理主義者はこうした意識を持っている。イスラム原理主義は、コーランを神の言葉として厳格に守ろうとするが、そこに展開する価値観は7世紀のままで、それは男性オンリーの社会とか、ナイフで首を切る処刑とか、少女に教育も施さないという女性差別や女性の妙な恰好に、我々にも見える形で表れている。

キリスト教にも今も原理主義があり、アメリカに福音派として生きている。彼らは進化論を信じず、聖書の言うことを正しいと思っている。彼らの構築思想への偏執は我々には呆れるばかりだが、しかし信じるものは存在するのだ。

さて仏教だが、仏教は教祖ブッダの時から闘争性や支配欲、選良意識、差別意識などはまったくない。仏教は宗教とされているが、一神教のような絶対神はいない。如来や菩薩といわれる聖者は悟りを開いた人、ないしその境地であり、絶対神ではない。仏陀の悟りは、人間存在は空であり、無常である、という極めて現代の存在論哲学と同じ思想を基盤にしている。人間の恨みや妬みや復讐欲、闘争欲はすべて煩悩であり克服されねばならない、とする。

仏教思想の歴史は、なぜ存在は空であり、どういう理由で空なのかという存在探求の歴史といって過言でない。それは現代西洋哲学がやっよ取り組み始めたテーマであり、脳科学や精神医学が追いかけている。将来、人間の存在は虚妄であり、存在してないもので、生きているとは、我々の先祖が口癖のように歌にしていた夢まぼろしであるということが科学的に証明されるかもしれない。人間の存在論という哲学の根本問題を、アジアではブッダにより既に2千年前から取り組まれている。だが仏教はあまりに煩瑣な専門語を使って議論が民衆に開かれず、寺に閉じこもったままだった。

 一神教の虚妄思想の精神と空思想の仏教とはあまりにも隔たりが大きい。

イスラム教の天国はリアリティーを持つ

 日本人も「天国に行きました」という表現を日常するが、気休め以上のものではない。ところがイスラム教徒の天国は、現世現実とセットになっていて、現世同様確実な存在とされている。そこは緑あふれる緑園で美女と美酒が待っている。しかもそこは永遠の命があるところだ。

我々には全くの嘘話にしか聞こえないが、イスラム社会ではアラーが保証し、教師やすべての人が信じている疑い難い事実である。死は単なる通過点に過ぎず、死の壁を通り抜けるとそこに天国が待っている。自爆テロをして肉体は四散しても、その瞬間魂は天国に入るのだ。死は少しも怖いものではないし、むしろ天国への入り口として歓迎すべきことになる。

彼らの天国思想は妄想に過ぎる。現世現実は確かな手触りや美しさがあり、そこに在ることの命としての喜びがあるという感覚は、天国を固く信じた彼らにもあるはずだ。

イスラム教の内輪ケンカ  スンニ派とシーア派

そもそもこの二つの宗派ができたのはカリフの跡目争いからだったが、次第に宗教的体質の違いとなっていき、やがてのっぴきならない政治闘争に発展した。この両派は今日でも犬猿の仲で、接触すれば火の出るようなケンカになる。このケンカは千年以上も続いており、これまで悲惨な殺し合いを繰り返してきた。それでもまだ妥協も仲直りもしようとしない。呆れるばかりの頑固さと愚かさではないか。キリスト教もカトリックとプロテスタントが16・7世紀には凄惨な殺し合いの歴史を繰り広げたが、今ではヨーロッパ人はすっかり脱宗教化し、信者が減った教会は商売替えに忙しいという。ヨーロッパ人は無神論の日本人になってしまった。もはや宗教戦争など起こりようがない。

我々としては、イスラムのこんな内輪ケンカにかかずりあう理由はない。「いつまでも好きなだけやりなさい」と突っ放しておけばいいと思うものの、これが国家規模のケンカになってくるとそうもいかなくなる。

スンニ派はサウジアラビア、シーア派はイランであるが、この二国は現在陣営を作って国交断絶というありさまだ。彼らは相手に対してテロを繰り返している。仏教から見れば彼らは阿修羅である。愚かな憎しみの連鎖から逃れられない無明の徒というしかない。

なぜテロを行うのか   解けないエニグマ

井筒俊彦氏の本を読んでも、イスラム過激派がなぜ残酷な暴力をふるい、西欧にたいしテロを行うのか分からない。これには歴史的、宗教的、政治的、経済的事情が複雑に絡んでいるようだ。自爆テロなんていう手段は一説では日本軍の神風特攻から学んだというが、ほんとならとんでもないことを教えたものだ。

イスラム教がコーランという神の教えを永久絶対の教えとして守るのは勝手として、その彼らの教義からなぜ近代先進国を呪い、それにテロを仕掛けるのかか、それに関する情報は全くない。ただ「過激思想」と言われるだけで、それがどのような内容なのか誰も教えてくれないし、知ろうとしない。

歴史的原因として、西洋とイスラムの長い闘いの歴史が考えられる。十字軍という西洋のイスラム侵略に始まり、次は西洋へのイスラムの侵攻、そして再び西洋のイスラム植民地侵略。19世紀からのイスラムの弱体化はなぜ起こったのか。その弱体化は現在も続いており、この時代になっても、政治的経済的に失敗している。イスラムという妄想宗教にこだわっている毛切り近代化できるわけない。経済は、アラーの贈り物といわれる石油に頼り切っており、政治は惨憺たる状態だ。19世紀フランスの思想家トックビルは、イスラム諸国がうまくいかない理由はその宗教にあると、すでに言っている。

 ますます混迷する中東の政治状況

 アラブ人の性格について言われることに、彼らは砂のようにまとまりがなく、しっかり握りしめていないとバラバラになるというのである。つまり権力で締め付けないと共同体とし統一できないというのだ。イスラム教ができる以前、ジャーヒリーア(無明時代)といわれ、彼らは部族単位以上のまとまりを示すことができなかった。そこでムハンマドは、アラーの神を王と見立て、宗教によって国家統一を果たした。そのやりかたがアラブ人には適していたと見え、たちまち大サラセン帝国を築き上げた。この成り立ちから考えても、イスラム教は極めて政治性の強い宗教であることがわかる。

民主主義はアラブ人には適していないのではないか、現在の政治状況を見れば誰でも感じるだろう。アラブの春といわれた一時の期待は今や消し飛んでアラブの冬だ。イラクのフセイン独裁は砂のようなアラブ人を閉じ込めていたが、アメリカのブッシュ政権は何を思ったか、原爆があるなどと口実をつけて、戦争を仕掛け倒してしまった。中東に民主主義を広めたなどと言い訳をしたが、アラブは日本とは違っていた。フセイン独裁が倒れた後、イスラム原理主義のテロが各地に飛散した。アラブの春は民主主義どころか、リビア、シリア、イエメンなど破綻国家を作っただけだった。

 そして難民のヨーロッパへの襲来だ。これがこれからの政治不安の要因となり、世界政治がどう変わるかわからない状態だ。そう考えると、イラク戦争は歴史の転換点だったといえるのだが、それを指導したのはアメリカであり、アメリカ近代主義の傲りであったと思えるのだ。◇◇◇

                近づくは誰の足音不気味なる癲癇病棟の部屋の夜の闇

 

 

 


記者会見を締め出された不満  排除主義がマスコミ界にもひろがって来たか

2017-06-28 16:21:44 | 日記

PCがまた壊れていたのでアップが遅れたいたが、去る23日、岩田薫氏の市長立候補表明記者会見が市役所であったのだところ、その席に筆者、鎌倉評論は、会員でないという理由で排除されたのだった。

たしかにメンバー制だから当然と考えられるが、だがこれまで何度もこの記者会見場には出席しており、これまで排除されることはなかった。近年特に無資格者やメンバー以外の者を厳重に排除しようとする傾向が感じられる。

メンバー外の者でも隅に一人座らせるくらい何でもないはずだ。ましてことは市長候補の表明会見ではないか。そんな不寛容が日本社会の中にも強まってきたように感じられる。

その不寛容、差別は、持てる者と持たざる者、強いものと弱いものの差別だ。筆者の鎌倉評論は、弱小メディアの代表のようなものだが、マスコミの原点をいく評論紙、弱いものの見方に立つものと自負している。鎌倉マスコミ界にも有力エスタブリッシュ紙と弱小メディアがある。エスタブリッシュ紙(持てるもの)は、弱小紙(持たざる者)に不寛容不人情を示すようになった気がづる。

メンバーでないことは確かに正当な排除理由だが、そんな理屈を言って不寛容になってくる時代の空気が嫌ではないか。

筆者が言いたいのは、世界中でこの金のあるなし財のあるなしによって、社会を分断しようとする時代の空気があるということだ。

アメリカなどでは、もはや決定的に富者と貧者を分ける社会になっており、保険や租税率にしても貧者が不利なように作られている。日本にもこのような差別社会がゆっくりと広がっている。銀行などは真っ先にある時からがらりと変えて、開放的な構えをやめている。商店もだんだんひそかに金持ち用と貧乏人用に分かれてきている。

このような差別意識、排除主義の空気が、最も自由を尊ぶはずのマスコミ界の中にも忍び入っているような気がする。

筆者が締め出されたとき、東京新聞の草間記者こういうのだ。「いやな話はやめて、楽しい話をしましょうよ。楽しい話だけするんです」筆者はこの言葉に、社会の嫌なことには目をつぶり、楽しい話、和気あいあいのニュースだけを取り上げようとする近時のマスコミ人の心を見たように思った。エスタブリッな体制の姿勢には無批判になり、白雉的なハッピーなことばかり書こうとする空気である。とくに読売新聞にはそんな精神が横溢しているような気がする。

世界的規模でみれば、この排除主義思想は、資本主義の末期的状況を示している同時に、かのテロリズムを誘発している原因となっているものに思える。

 

          歯ぎしりをして枇杷をはむ新聞種