母と・・孫と・・ひ孫(^^)

2005年08月20日 07時07分24秒 | 母と私と娘
昨日(18日)病院から電話があって「難病申請の書類が出来
上がっておりますから」との事で。

娘が車で一緒に行ってくれました。

昨日のブログを読んだらしく母の話が出て「明治生まれの人と
してはセンスが良かったね」と娘は感心していました。

私が気が付かないことを、孫の目は見ていたのです。

後年後妻に行った先の兄が倒れて孫の代になりますと血筋の関わりがない母は、
45年も寝食を共にした孫でも赤の他人でしかなかったのでした。

私の主人が亡く成った翌年に私に引き取って欲しいと言ってきました。

年の暮れに骨粗鬆症に寄る大腿部骨頭骨折で倒れたのが原因でした。

取る物も取りあえず息子がお嫁さんと迎えに行ってくれました。

幸いにも整形外科では有名な病院にお嫁さんが勤めておりましたので、急遽ベット
を開けて頂いて88才で手術を致しまして。

元気に歩いて我が家に帰り私との生活が出来て晩年は幸せだったろうと思います。

物事に拘らない人で、環境に順応性が在り私も助かりました。

呼び寄せ老人ですから何時可笑しくなっても致し方ないのですが。

手仕事が好きで私の友達とも仲良くなり何でも楽しそうにやっておりました。

この母がひ孫の三歳のお祝い着を縫ってくれたのは、80才を過ぎてからでしたから
これには驚きました。

娘が着た「錦紗」の着物を洗い張りして三ッ身の着物と可愛いお被布を作ってくれ
ました。

此を作るのにデパートに連れて行って欲しいとのことで。

娘がデパートの呉服売り場に連れて行きますと、被布の衿がどうしたら可愛くできるか、飽きる事無く見ていたそうです。

胸に付けえる房を探して満足して帰ってきて、出来上がったときは、これで何時死ん
でも良いと言ってみんなを笑わせておりましたが。

その根性たるや凄いと思ったと娘がしみじみと話しておりました。

残った布で可愛い巾着まで作ってくれてと。

私が当に忘れておりましたことを思い出したそうです。

93才で明治・大正・昭和・平成と激動の時代を過ごして現役で旅立って逝きました。



懐かしい・・厠と牛と・・竹の梯子(>_<)

2005年06月07日 06時33分05秒 | 母と私と娘
原体験・・厠・・

子供の頃8歳くらいだったと思います。
終戦後で世の中も落ち着かず子供達は勝手に大きく
なったような時代でした。

住む所も禄になく屋根のあるところは皆・住まいと思
えるような時代に。

母の里に疎開して蚕室の二階に仮住まいをしていたことがあります。

竹で出来ている梯子は、良くしなって子供の足には、間隔が荒く足が届かないのです。

登ることは出来ますが、降りるときは滑りそれは怖かった記憶があります。

段と段の間に身体が落ちてしまいそうで・それが嫌さに厠に行きたくても我慢しているものですから・

良くおねしょをして怒られました。

厠が怖くて嫌だった記憶が有ります。

牛小屋と背中あわせに有った物ですから牛が壁土を舐めて洗い桟の間からべーと大きな赤い舌を出して此方をジート見ているからです。

都会育ちの私には、恐怖の場所でした。厠に行くのが嫌でを我慢している物ですから綺麗なお手洗いの夢を良く観ました。

一瞬とても気持ちが良いのですが、何だか暖かくて目が覚めると、おねしょをしてしまった後なのです。

決まってお手洗いの夢を見ますと失敗していました。

子供心にも沢山気を使って生活していたのだろうと思います。

精神的疲労が深い眠りに繋がっての失敗だったのでしょう。

今思うとこんな経験が、出来る農家は今は何処にも見当たりません。

みんな素敵な都会的な住まいで良い想い出ではないのですが、何だか無性に懐かしい感じが致します。

こんな原体験が或る私です。

「母の里すべて面影うしないて昔をしのぶ桐の木があり」



大昔・・有った・・気象学^^;

2005年06月02日 15時20分26秒 | 母と私と娘
落語の「ときそば」ではないけれども・

地震が有ると母は良く時間を気にして

「今・何時だい」と聞いたものです。

「OO時」と返事をしますと口の中でもぞもぞとつぶやいた末に。

明日は「雨だね」。

聞くともなく聞いて覚えた呪文です。

「二四六風の四つ旱五七の雨にて九は病」

「にっしむつかぜのよつひでっりごしちのあめにてくはやまい」

地震が有った時刻で占った昔の人の気象学の一席でした。おそまつ・・

昨夜の地震を気が付かなかった私にお見舞いメールが来て変なことを思い出させました。

大きな地震が来ませんようにいのるのみです。

何故か今日は雨ですね。

明治生まれの母がお爺さんに教えられたのを私が覚えておりました。

昔の人は偉いと思いました・何処からでた知恵なのでしょうか。

この様にして自然と向き合って暮らしていたのですね。

追記・・
真夜中を九つ・(子の刻)八つ(丑の刻)七つ(寅の刻)明け六つ(卯の刻)五つ(辰の刻)四つ(巳の刻)九つ(午の刻)八つ(未の刻)七つ(申の刻)暮れ六つ(酉の刻)
五つ(戌の刻)四つ(亥の刻)・・明け六つから始まります。そして正午は午の刻です。
お八つと言う言葉は(未の刻)から来た言葉です。
江戸時代の時間のサイトはコチラです。



腹を立てても・・結局は・・長い物に巻かれるのです(‥;)

2005年04月07日 07時25分08秒 | 母と私と娘
お彼岸にお墓参りに行ったのにこの頃良く母が夢に出
てくる何故だろう。気にはならないけれども、チョットば
かり考えてしまう。気の強い人だったから・・

私が未だ多感な年頃の頃些細なことで、夕方母と喧嘩
になった。ハッキリとは思い出せないが多分夕方の掃
除の仕方が気に入らなかったのが原因だったと思う。

古い農家で、やたらと廊下は広くて長いのですから、春先の北風の季節は雑巾掛け
が大変なのです。開け放して有りますので、砂が舞い上がり掛けても掛けても白い
筋が出来るのです。

子供心にも我慢の限界が来たのでしょう。縁側から裸足のママ飛び出してしまいました。当たりはもうすでに夕闇が迫り薄暗く成っていましたから、母が心配して追いかけて来て呉れると思いきや、誰も知らん顔で腹を立てている自分が惨めに成るばかりで
した。

近くに利根川が流れておりますし、一層の事飛び込んで死んでやろうかと思いました
が出来ませんでした。4月とも成りますと、麦が背丈が伸びてその間に座り込んで居
りましたが、小一時間しても(そう感じたのは私だけで)そんなに時間は経っていなか
った様です。

家の方からは、楽しそうな笑い声は聞こえてきても、誰も探しに来てくれない悔しさと
惨めさに討ちのめされただけでした。思春期にありがちな大人と子供の行き違いを
今孫で見ておりますと、私にも在ったこんな事を思い出しました。

結局自分ですごすごと家に帰った惨めさと、裸足で飛び出した足の冷たさが私の
ささやかな抵抗でした。孫は、自転車でプチ家出をします時「携帯」を持って行き
ますそれは親を期待しているからでしょう・・昨今の親子関係は優雅で羨ましいです。

「思春期の苛立たしさは経てきても思い出せない子育ての時期」




母の口癖でした・・嘘ばっかり・・ふ~んと思う(^_^)

2005年03月27日 08時47分18秒 | 母と私と娘
明治生まれの母は臨機応変の効く人だったと思う。
明るくて面白い人でした。

口癖の一つに「わたしゃぁね。嘘と坊主の頭は結った
事はないよ」でした。

私に言わせればこれがそもそも嘘でした。子供の時は
騙せても、少し大人になってくると此方も気が付きます。

そんな時の母は「嘘も方便」で逃げ切ります。
こんな大人の世界を見せてくれたのも大人になってから頷けました。

何かと矛盾している世界が大人の世界です。今は、春休みに入って孫達が遊びに
来ますと日々矛盾との戦いの世界に生きている様子が、良く解ります。

「勉強しなさいと言う割りにはあれもこれも用事を頼んでいるママは何を考えているの」
と一頻りこぼして帰ります。今の子供達は、家庭のお手伝いは苦手のようです。私は、朝晩の自分の仕事が有りましたから、家の用事は当たり前と思っておりましたが、今は違うようです。

この物が豊かな時代家庭生活も大きく変わって主婦の仕事が、楽に成った分だけ大変そうです。主婦が「専業主婦」で居られなくなったからです。そのしわ寄せが、子供に
来ているのでしょう。勉強は塾でお稽古事は増えるばかりで子供も大変です。

母の口癖も今は通用致しません「スキンヘット」の時代が来て、おしゃれとして認められているのですから。。。私が無事に大人に慣れたのも早くから世の中の「矛盾」を母が気ずかせてくれたお陰だと思って感謝しています。

何時の時代でも、子供は大人に早くなりたいと背伸びして生きているのは同じなのですね、私も早く大人に成ってみたい時期がありましたから「嘘と坊主に」騙されて。。

「騙せても子供の目には見えている大人の世界裏と表が」