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ベルリン便り

ドイツの大学でドキュメンタリー映画を制作しています。

Die weisse Rose

2014年12月25日 | 映画
„Wir schweigen nicht,


wir sind Euer böses Gewissen;

die Weiße Rose läßt euch keine Ruhe!“






Die weisse Rose




第三帝国を負かそうと死んで行った
ガブリエル・グルーダー・ポニ記者


ニューヨークタイムズ紙

1993年6月12日付け


 1943年、21歳のソフィー・ショル(Sophie Scholl)、兄のハンス(Hans Scholl、23歳)、そして仲間の医学生たち、 アレックス・シュモレル(Alex Schmorell)、ウィリー・グラーフ(Willi Graf)、クリストフ・プロープスト(Christoph Probst)-三人の父親-そして、 クルト・フーバー(Kurt Huber)ミュンヘン大学教授はミュンヘンで処刑された。彼等たちの犯罪は政府反対のビラ- -それは「白いバラ」と呼ばれていた--を公表したことにあった。 彼等たちは「戦争努力、兵力増強に反対、さらには我が国民の国家社会主義的な生き方を転覆させようと、・・・負け犬的な思想を広め、「指導者」を卑しめた結果、帝国の敵を助け、 帝国軍隊の安全を弱めた」と判決に記されている。

*  学生たちは個人的な抵抗から 大っぴらに、つまり匿名的に抵抗する境界線を如何に超えたのだろうか。ミュンヘンで皆が会ったとき、「同じく志を共にする者」、つまりナチに反対する仲間であると お互いに認め合った。シュモレルは人々が政府に対して苦しみや怒りを口に出して言えるそんな懇談会サロンを幾つか設けた。そこに於いて学生たちは大学内にも厳しい抑圧があること、またポーランドではユダヤ人の虐殺 があったことを知った。

*  そんなある晩のこと、誰かが発言した。「出来ることといったら戦争が終わるのを待って、毎日自分がやらなければならないことに気を使っていることしかない」、と。 それに対してハンスは答えた。「エーゲ海のどっかの島をひとつ借りて、そこで世界観について講義でもしたらどうだろうか?」

*  学生たちの不快感が亢進するにつれ、広まりつつある道徳的な臆病さに対して欲求不満と恥の思いが募るのであった。ソフィー・ショルは記している。「色々な恐怖に耳を傾けないでいる方が簡単、でも現状見ると他のことは全て二の次としなければならない」と。


* まもなくハンスとアレックスは最初のビラを書き配った。そこには「他の人が始めるのを皆が待っていると復讐の女神ネメシスの伝言者が確実に近寄って来るだろう、、、、だから一人一人は、、ファシズムと全体主義に反対して動かなければならない」。彼等たちの個人主義とは利己的なものではな かった。自分たちの道徳的、市民的責任についてより一層はっきりと自覚することになった。


子どもの情景 ハナ マフバルマフ

2014年10月28日 | 映画
ハナの子どもの情景はDVDが手元にあり、作業をしながら流した事は何度かあったけれど。
纐纈あやの自身を主張しない撮影の仕方や、坂田雅子の情報収集能力の方にわたしの意識は行き。

サミラのりんごが衝撃的だったし。
10代たった私が、お父さんのカンダハールをどれだけ理解した、、、。

昨日2年ぶりくらいに、ハナの子どもの情景を。
子どもたちに起こっている「処刑ごっこ」(戦争ごっこ)が吐き気がするほど最低で、わたしはリバーズ寸前、体の奥がむかむかむかむかするもんだから、どうにかこのなんともいえない不快感を和らげたいと、左目をゆっくり覆い押さえながら脳と繋がる神経を遮断してみたり、アレコレ。







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DVD子どもの情景に添付されていたハナのインタビュー記事より



昔、父が言っていた言葉で忘れられないものがあります。
それは『多くの国々がアフガニスタンに爆弾を落としてこの国を救おうとした。もし、そのとき爆弾ではなくノートが落とされていたら、この国の文化はずっと豊かになっていたことだろう。』という言葉です。
映画の中でノートが破られたり、踏みにじられたり、やがてノートの切れ端が紙飛行機となって石仏を襲撃するシーンは、ノートが学ぶことの象徴であると同時に、アフガニスタンがこれまで経験してきた歴史も象徴したつもりです。


                    
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この映画、衝撃的だった。

冒頭にも書いたけれど、サミラのりんごの印象を強く持っていて。
モフセンの著書、原作ではなく和訳で、、、。翻訳者の色が濃く出ているのか、それともモフセン自身の、、、?とにかく日本語訳の言い回しによってわたしの求めている平和像へは歩み寄れず。
(この家族の動いている、話している映像を見た事が無いのも影響している?)
ただ、アンナに関しては、「直感で信頼に値する」動くアンナも話すアンナさえも知る以前から、絶対にだいじょうぶだと、アンナをちゃんと信じることができた。
マフマルバフファミリーは平和活動をしているに、わたしはアンナに対して抱いた絶対的安心感や信頼感をこのファミリーに抱けない、、、抱いていないのは事実。
ドキュメンタリー要素のあるフィクション映画という立場を考えた時、カメラマンが変わるだけでハナの映画は相当雰囲気が変わるだろう。(ストーリーに存在した「子どもの遊び」の強烈な凶器に圧倒された、、、ハナ自身が持っている能力は相当。)

最低な大人と、その大人たちの元で成長していく子どもたち。
言葉でそれを説明しないで、子どもの情景を通して今ここにある事や過去にここであった事を伝えてる。

モフセンのノートの話はわたしも好き。大切な考え。
専門用語を並べた学術的な話を(今)したい人達にとって力のある言葉には写らないのかもしれないけれど、こういう考え方の次に大きな未来があるってわたしは思っている。

2014年02月13日 | 映画
「人の望みの喜びよ」


言葉にできないひとつひとつ、(それらは暮らしている国によって、街によって。家族によって、友人によって。置かれている環境と己のかかわり合いによって。)春奈ちゃんが春奈ちゃんであることが、本当に嬉しかったです。
わたしの望みの喜びに出会いました。

映画を観た人たち、各々の場所がどこにあるのかで、受け止め方が変わる映画なのかもしれないなと、この映画を観た日本人の方達のお話から感じました。

うまく言えないけれど、経験した出来事は春奈ちゃんと異なるけれど、すこしだけ彼女と似ている子ども時代を過ごしたわたしにとって、映画を観ていた間、何度か自分の過去を見ているような、不思議な気持ちになりました。

わたしみたいな人、わたしには、本当に力強く、前向きなメッセージが届いています。

杉田監督が明確に見ている核心から、わたしは大きな力をもらいました。
ありがとうございました。


Glenn Gould Hereafter

2013年11月30日 | 映画
Glenn Gould Hereafter - Falling in love with a dead person



映画を観た翌日、CDを買いに行った。
ジャケットの彼にキッスしちゃった。
そのテンションでレジのおねえさんと目があってしまい、お会計。
でもこういうときの恥ずかしさ、こういうの、いいね。
お互い気持ちがよかった。
嬉しかった。

グールドしちゃうよーーーーっ!