Les Quatre Cent Coups (Opening Titles)
Tanztra?ume - Jugendliche tanzen "Kontakthof" - Ein St�ck von Pina Bausch
以前紹介したピナバウシュの「夢の教室」。
ドイツ語のみですが映画がアップされていました。
彼女が子どもたちと試みた事は、ダンスの持つすばらしい可能性を子どもたちを通し、とてもよく理解出来ます。
自分自身が子どもではなく、大人だと言われる立場にいはじめ思う事は、子どもの自主性のみをうたう力の無い大人や、自身の弱さを子どもに反映している事に気付きさえしない大人たちに対する嫌悪感、自分が学んだ事を実践し、プラスに反映していく事が必要なのだと。
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わたしは「踊」とは遠い場所にいますが、自分が向き合ってきた「精神と戦争とハンディキャップ」に対して。
社会の中で自己が未熟な状態で、普通ではない状況で大人になろうとしている子どもたちに対して(片親、震災、DV、犯罪被害者、犯罪加害者、障がい、精神的問題、、、)、多くのプロとダンスのプロがチームを組みアプローチする事は、言葉で過去の自分今の自分の説明を得意とはしないアジア(日本)では新しい扉を開く事に繋がるのではないか、そう思っています。
以前紹介したピナバウシュの「夢の教室」。
ドイツ語のみですが映画がアップされていました。
彼女が子どもたちと試みた事は、ダンスの持つすばらしい可能性を子どもたちを通し、とてもよく理解出来ます。
自分自身が子どもではなく、大人だと言われる立場にいはじめ思う事は、子どもの自主性のみをうたう力の無い大人や、自身の弱さを子どもに反映している事に気付きさえしない大人たちに対する嫌悪感、自分が学んだ事を実践し、プラスに反映していく事が必要なのだと。
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わたしは「踊」とは遠い場所にいますが、自分が向き合ってきた「精神と戦争とハンディキャップ」に対して。
社会の中で自己が未熟な状態で、普通ではない状況で大人になろうとしている子どもたちに対して(片親、震災、DV、犯罪被害者、犯罪加害者、障がい、精神的問題、、、)、多くのプロとダンスのプロがチームを組みアプローチする事は、言葉で過去の自分今の自分の説明を得意とはしないアジア(日本)では新しい扉を開く事に繋がるのではないか、そう思っています。
3月5日 23時頃 (ドイツ)
満月でした。
雨が降っていたので見る事は出来ないかなと思っていたけれど、夜になったら雨が上がり。
お家の窓からは19時から21時頃までしか月を見られないので、、、すこし考えて、それから夜の散歩。
わたしは月が小さな頃からだいすき。
3月、気温があがってきた。
もうすぐ春。
昔好きだったこの映画を思い出した。
満月でした。
雨が降っていたので見る事は出来ないかなと思っていたけれど、夜になったら雨が上がり。
お家の窓からは19時から21時頃までしか月を見られないので、、、すこし考えて、それから夜の散歩。
わたしは月が小さな頃からだいすき。
3月、気温があがってきた。
もうすぐ春。
昔好きだったこの映画を思い出した。
巨匠ベルナルドベルトリッチ2003年に制作した作品。
FIGAROかELLEどちらかだったと思う。「たまには3人でセックスするのもいいな、と思わせる作品」とキャッチコピーが付いていて、え、これ性癖をテーマにした作品だった?ときどきそうであることを楽しんでいる映画だった???と頭の中が疑問符で一杯になり10年ぶりくらいに見直す事にした。
(2016年11月22日追記・このキャッチコピー、よく許可が下りたなと思う。このコピーを書いた人はおそらく、この映画を観ていないし、フランスの歴史の勉強も沢山の映画の勉強もしていないと思う。)
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1968年、パリにやってきた映画が大好きなアメリカ人交換留学生マシュー、まだ知り合いもいない。Cinémathèque française(財政難で運営方法の転換についてもめていた)で双子のイザベルとテオと出会う。
その頃イサベルとテオの両親が休暇に出かける事になり、お互い強く惹かれる映画を通じての思想や政治感...それぞれに興味を持つ所があり3人での共同生活を始める。
3人は今までに観て印象に残っている映画のシーンを真似て回答を探す遊びをしたり...。もともと双子の中にはわずかに性に繋がる遊びがあったんだけど...彼女たちは余りにも近くてお互いが相手がいなくてはならない1人では1人ではないような感覚なんだろうと思った。マシューが来て、イザベルと関わる事で、テオは自分の内側を見ている。(ただこの俳優さんを知らなくて、役の設定として頭のいい子なので彼の精神状態に対してわたしから言える事ってない。もっと頭のいい人に任せます。関わるなら穏やかな精神で穏やかな部分のみ接点を持つだろうな。これはわたしがわたしと距離を保ちながら年を重ねた、日本で。その辺もあるんじゃないのかな。)芸術に傾倒している人達はもっと奇麗に彼の複雑で込み入った繊細な心理状態を言葉にする、そういう高度な危うさ。
マシューが加わった事で...。
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すごく繊細な年齢でこの時代を生きるって全開で生きることになるだろうな...。映画にここまでのめり込み映画遊びをし自分たちの思想を語り合い、(ヨーロッパの友人たちの中には結構いる、日本では映画の話はせど、思想や政治観まで踏み込んで...日本で学生だった頃それはなかった。)これが出来る子達って社会の一般軸から突出した感性と、社会的に否定される部分とのバランスの中で生きてる。
わたしは多分随分と大人になった部分があって。
感想の言葉に戸惑うけれど、最後まで観て...最後まで観れるし、後味は居心地の良いとか幸せとかとは違うけど、イライラむかむかな後味じゃない。
好きか嫌いかっていう良いか悪いかとかっていう、単純な二者択一質問をされれば、好き良かった。
ソフィアコッポラの空き巣集団みたいなのより、やたらと男の人と女の人がくっついたり別れたりのより、ハリウッドの大金かけた撃ち合い誰かが死んで、精神を病みましたみたいなのより、アニメを熱弁されるより、ずっと好みだ。The Dreamersをよく知っている人がこの映画について具体的に話を始めてくれれば、わたしは静かにその話を聞くと思う。
彼女たちが現実に経験しているシーンからそことリンクする、その状況と繋がる有名な映画のワンシーンにフイルムが時々行く。その画面たちの切り替わり方は観ている人間に視覚から入る刺激をあたえるし、静まり返ったときに鍵になる音がしたり...。
わたしはドキュメンタリーに関わったけれどそれは映画が大好きでって立場からではなく、自分の向き合っている問題を具現化して社会に呈示する事が目的だったから膨大な数の映画作品を観てきた立場じゃない。だから残念ながらこの映画の中に登場する一部の作品しか理解出来なかった。みんな知ってる人にはもっと繊細な精神の動きや情況を理解出来てより面白いだろうな。
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「政治と映画とセックス」ってドイツ語のWikipediaに書いてあった。
思春期で敏感に生きていてこれだけ映画を観ていて...そうだなと思った。
どんなに考えても、ライターさんは間違ったコピーを付けたと思う。
65回目のベルリン映画祭。
観たかった映画は「BODY」「Mr.Holmes」それから「14+」。
都合がつき映画館へ行けたのは「14+」のみ。
今回は評価が高かった映画を後に観ようと決めていたので一本観て映画祭の空気を楽しんできた。
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「14+」を観ようと思ったのはまず、ジェネレーション部門と言って子ども向けの映画だった事、これは言葉が聞き取りやすいし読みやすい。それからベルリン映画祭のジェネレーション部門のエントリーの傾向が自分の傾向と毎年あっているから。
次にパンフレットを見た時主役のVikaとAlexを演じる二人がたまらなく好みだ!と思ったから、ひとめぼれ!
そして大好きな「ロシア映画」テーマは「初恋」、観る前から胸がぎゅっとして期待していた。

観れて良かったです。
ドイツにも日本にも、どこにでもあるお話。
だけどわたしが学生だった頃、「いっしょに踊ろう」なんてなかったし、こんな風に好きな人にふれて、こんな風にキスができたかなって...甘酸っぱくて羨ましかった。
Vikaの両親とか彼女の家があるエリアとか...片親のAlexの事もそう、、、Alexのお母さんはチャーミングで、、、抜けている所があるけれど人として、大人として、(母親としてもあるのかな)こえてはいけない一線を自分の中に持っていて子ども向けの映画として、またわたしが一貫して思っている考えとつながっていて、ほっとした。Alexがいい子だから...安心して観る事が出来た。ほんとうにそこにもここにもあるようなお話。
何でも無い事をこんなに魅力的に、好意的に受け止められるのは、Vika役とAlex役、ふたりの力と、それぞれの親たちやWolfなど脇役のキャラクター設定が良いから。
編集もよいなあと思ったし、スタートから観客をわくわくさせてくれた。
ドイツの映画館で日本の映画館で上映が決まったら、ぜひ足を運んでみて。
ティーンエージャーにぴったりです!友達と観にいく映画かな...。
両親と行くのはくすぐったいかも:)
観たかった映画は「BODY」「Mr.Holmes」それから「14+」。
都合がつき映画館へ行けたのは「14+」のみ。
今回は評価が高かった映画を後に観ようと決めていたので一本観て映画祭の空気を楽しんできた。
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「14+」を観ようと思ったのはまず、ジェネレーション部門と言って子ども向けの映画だった事、これは言葉が聞き取りやすいし読みやすい。それからベルリン映画祭のジェネレーション部門のエントリーの傾向が自分の傾向と毎年あっているから。
次にパンフレットを見た時主役のVikaとAlexを演じる二人がたまらなく好みだ!と思ったから、ひとめぼれ!
そして大好きな「ロシア映画」テーマは「初恋」、観る前から胸がぎゅっとして期待していた。

観れて良かったです。
ドイツにも日本にも、どこにでもあるお話。
だけどわたしが学生だった頃、「いっしょに踊ろう」なんてなかったし、こんな風に好きな人にふれて、こんな風にキスができたかなって...甘酸っぱくて羨ましかった。
Vikaの両親とか彼女の家があるエリアとか...片親のAlexの事もそう、、、Alexのお母さんはチャーミングで、、、抜けている所があるけれど人として、大人として、(母親としてもあるのかな)こえてはいけない一線を自分の中に持っていて子ども向けの映画として、またわたしが一貫して思っている考えとつながっていて、ほっとした。Alexがいい子だから...安心して観る事が出来た。ほんとうにそこにもここにもあるようなお話。
何でも無い事をこんなに魅力的に、好意的に受け止められるのは、Vika役とAlex役、ふたりの力と、それぞれの親たちやWolfなど脇役のキャラクター設定が良いから。
編集もよいなあと思ったし、スタートから観客をわくわくさせてくれた。
ドイツの映画館で日本の映画館で上映が決まったら、ぜひ足を運んでみて。
ティーンエージャーにぴったりです!友達と観にいく映画かな...。
両親と行くのはくすぐったいかも:)

本当に随分さかのぼって思い出せるのなんて、深夜に親友と二人高尾山に登って漫画「ばろん」の主人公のように心を乗せて叫んでいたら山頂付近のお寺の前で少し年上のお兄さんたちに微笑まれて。当時の彼と高尾山に登って「僕はとろろそばを食べられない、理由は言えない。そして僕は子供の頃熊だった。(太っていたって事)」ってどう受け止めようかのびっくり発言に笑い。(あれ、いつも高尾山だな。山好き、高尾山好き。)
天気のよい冬の午後にミルクティーを飲んでまどろんでいるこの脳では、それくらいの記憶の回想が限界なそんな過去に、映画「ゴースト」を観た。
先週彼のお家で雨の降る外を温かい部屋からぼんやりと眺めていたら、ふとデミムーアの顔が浮かんだ。
そこからゴーストってどんな映画だったっけ、、、Youtubeでショートフィルムを観ていたら、流れてきた音楽を聴いた彼が「あ、ゴーストだね。」「えー、なんで分かるの?」「えー、なんで聞くの?(わたしたちの世代ほとんどの人が知っているでしょ、という反応。)」

その日の夜はふたりでゴーストを観た。
なんだろうこの心の中から溢れる感じ。
満たされて溢れる、それがある作品。
ラブロマンスに死生観、宗教観、ショートカットのデミムーアがこの上なく美しい。まっすぐ人を他者を見る事が出来るのは才能だと思う。そう書いているそばで大切な人がわたしの頭を優しく撫で肩を抱き寄せキスをしてくれてるのじゃないか、、、そんな余韻を何日も残す。自分の命がなくなるその日までこの余韻と共にいたい、そう思う。寂しさや孤独、大切な人との別れなどを経験した事がある人にはたまらないと思う。そうでなくともこの宗教観はちゃんと本質を持った上でシンプルで分かりやすくて、わたしは大好き。
上にも書いたけれど、デミムーアのまっすぐ人を見る目が、、、。こういう人でありたいと、そう強く思った映画。
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モリー(デミムーア)の髪型だけでなく、ファッションやメイクもすごく魅力的。
モリーとサム(パトリック・スウェイジ)の部屋の作り、階段が木製で、オブジェの一つ一つから心地よく洗練されたセンスをもらう。
俳優陣だけでなくメイク、スタイリスト、、、表舞台には顔を見せる事の無い人たち、、、とても多くの力、類い稀なる才能が結集した作品だと思う。
(メモを走り書きします。)
先月、映画「Sophie Scholl / Die letzten Tage」のリンクを貼りました。
ロシア系フランス人の彼と鑑賞していたら、自分では気づかなかった点をいくつか教えてもらったので書いておきます。
映画のラストの方(今ネット環境が良くないので時間を確認出来ないのだけれど)ラジオが流れてきます。
これはGünter Goebelって人、彼が何を言っていたのかしっかり聞くの忘れた!(ごめん)再度観ます。
スターリングラドについても資料に目を通す。
ゾフィー役のユリアももちろんすごくいい、そして、ゾフィーと同室になったエルゼ役のヨハンナガストドロフがすごくすごくよい。
以下
粉川哲夫の【シネマノート】 より。面白いです。
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005-11-01
●白バラの祈り ――ゾフィー・ショル、最後の日々 (Sophie Scholl - Die letzten Tage/2005/Marc Rothemund)(マルク・ローテムント)
◆欧米で評価の高い作品だが、そのわりには客が少ない。20数年まえならこのタイトルだけで満員になっただろう。配給の日名さん(キネティック)に会ったら、90年代になって発見されたゲシュタポの尋問記録を使っているなど、従来の「ゾフィー・ショル」像がとらえなおされているという。あいかわらず日名さんは、担当する作品への思いが熱い。
◆「ゾフィー・ショル」の名は、いまでは忘れられているかもしれないが、60~70年代、いや50年代にも「左翼」の人々のあいだでは特によく知られていた。「白バラ」とか「白バラ抵抗運動」の文字が雑誌や書評紙によく載った。未来社から出たインゲ・ショル『白バラは散らず ドイツの良心ショル兄妹』は、よく読まれた。ただ、わたしなんかから見ると、ゾフィーは、段々崇高化されすぎるような気がしないでもなかった。それは、たしかに「偉い人」だったのだろうが、誰かを崇高化し、その権威のもとに群がったり、そのもとで行動を起こすという姿勢が気になった。ゾフィーの姉インゲによって書かれた前述の書は、キリスト教的な観点が強く、ゾフィをある種の「殉教者」にしているところも気になった。その点で、ミカエル・ヴェルヘーベンの『白バラ』(Die Weisse Rose/1982/Michael Verhoeven) は、少しちがっていた。そこには、1970年代末から80年代初頭にかけてのドイツのアウトノーメやネオラディカリズムの空気が感じられ、元気づけられた。ここでは、ゾフィーという個人よりも、「白バラ」の活動家たちの連帯に焦点があてられていたからである。たった5、6人の少数グループが、ナチの連中を動揺させた点も小気味よかった。
◆映画の「リアリズム」というのは、模写の度合いとは関係がない。リアリズムとは、対象との共鳴(レゾナンス)の度合いの尺度であり、「リアル」に感じられるのは、映像が、その対象を模写することに成功しているからではなくて、時代とか場所とかの特定条件のなかで、観客たるわたしと、映像のなかの対象とがある特定の共鳴を起こすことができたからである。
◆ローテムント監督は、ゾフィを崇高化しない。むしろ、この映画のゾフィー(ユリア・イェンチ)は、政治意識があってナチに反発を感じる若者のなかではとりたてて勇敢というわけではない21歳の女性である。映画は、彼女が友達とラジオから流れるビリー・ホリデイの歌に合わせて体をゆすっているシーンからスタートし、彼女のアップになるが、それは、狂信的な活動家の顔ではない。ラディカルという意味では、彼女の兄ハンス(ファビアン・ヒンヌリフス)の方が上であり、活動家としては筋金が通っていた。しかし、映画として絵になり、また観客の共感をよびやすのは、ゾフィーである。というのも、筋金入りの活動家が捕まり、脅され、拷問されても圧力に屈せず、初心を貫いたというのは、いわば「偉い人」の話であって、「常人」には、尊敬こそすれ、等距離で「共鳴」するのはむずかしい。
◆秘密の「アジト」でのビラ作り、ゾフィとハンスが、それを大量にトランクに詰めて大学に持って行き、授業中でひと気のない廊下に置く。監視の目を逃れるために急がなくてはならないからだろうが、ビラを何十枚も床に配置していく。なるほど、こういう手もあるのかと思う。普通、ビラは、どこかの台の上に置こうとする。しかし、がらんとした(ナチの時代のドイツらしく埃ひとつないかのような)廊下に、普段は見慣れない印刷物があれば、目につき、人は拾うだろう。わたしもいつかやってみよう。
◆このとき、ゾフィは、一旦はロビーを見下ろす手すりのうえに置いたビラの山を、茶めっ気のある若い女性特有の身ぶりで、さっと突き、ロビーに落とす。ビラが空を舞い、ロビーの床一面に落ちる。これは、映画的にも美しい場面だ。ひょっとして、ゾフィがこの突発的に思いついたアクションをしなかったならば、彼女と彼の兄とは逮捕されなかったかもしれない。ビラが発見されるとすぐに、初老で小柄の守衛が飛び出して来る。これが、まるで警察官顔負けの勢いと身のこなしで、ロビーと階段にいる者たちの動きを止め、出入り口を封鎖してしまう。ゾフィとハンスは、まもなくやって来たゲシュタポに逮捕される。
◆興味深いのは、逮捕後、兄とは別々の部屋に入れられ尋問を受けたゾフィーと、ゲシュタポの尋問官ロベルト・モーア(アレクサンダー・ヘルト)とのやりとりである。長い尋問のなかで、モーアが彼女に同情的になるのが面白い。プレスに載っている監督のインタヴューによると、ここでモーアは、ゾフィが無実だと信じたと言っている。つまり、ゾフィは、彼をだますことに成功したというわけだ。しかし、映画で見るかぎり、必ずしもそうとる必要はない。ここが映画の面白さである。脚本や監督がどう考えようと、出来上がった作品が一つの有機体として機能し始めるのだ。
◆わたしには、モーアは、ゾフィーの政治活動への関与を確信していたと思もえる。ゾフィーが、「白バラ」は、決して大きな組織ではなく、その中心は兄と自分だとして、他の仲間(とりわけ、すでに学生結婚して子供もいたクリストフ[フロリアン・ステッター])をかばったにしても、モーアは、そんなことを単純に信じるほど鈍感な尋問官ではなかっただろう。が、尋問のなかで、彼は、次第にゾフィの抗議の真摯さに惹かれて行く。彼にはゾフィと同年代の息子がおり、まさにこの時点で東部戦線の勝ち目のない闘いに動員されていた。すでに、この尋問が行なわれた1943年2月には、ナチは敗退しはじめており、3月にはスターリングラードで敗退を帰す。ゲシュタポがそれを知らないはずはなく、ナチの内部もヒトラーに対して一枚岩ではなくなっていた。だから、モーアは、スターリングラードでの悲惨な状況をリポートし、ナチの戦争遂行をやめさせようとしたゾフィらの活動が全然わからないわけではなかった。その複雑な思いを、アレクサンダー・ヘルトはなかなか意味深長に表現していると思った。
◆いつの時代にも、戦争を悲惨なものにするのは、現場を知らずに机上で命令を発する上層部である。彼らにとっては、戦争は「ゲーム」にすぎない。「白バラ」を奥の深い組織だと恐怖したナチは、ゾフィらを即決の人民裁判にかける。その裁判官は、ベルリンから派遣されたローラント・フライスラー(アンドレ・ヘンニック)で、これこそ、ナチの最もエキセントリックな要素を凝集したキャラクターであり、ヒトラーがナチズムの各部分に分泌させたナチのエキスを体現している。この映画の最もスリリングなシーンの一つがその法廷シーンである。ナチズムの「熱烈」さとか、「過激さ」というのは、観念を原理主義的に循環させる空転のなかで生ずる効果なのだが、フライスラーの弁論は、まさにその典型である。彼には、現実に起こりつつあるナチの敗北も、戦地の悲惨さも目に入らない。こうした観念野郎に対しては、その熱が冷め来るまで待つしかなく、何を言っても、死もって対決しても勝つことができない。というのも、彼らの観念は、死の観念であり、その原理に合致しないものは、ただ死に神の大ナタでかっ斬ることしかできないからだ。しかし、時代がたてば、こうしたロジックに対して、ゾフィーやハンスのささやかな発言がいかに正しいものであったかがわかる。陸軍学生中隊として東部戦線でその悲惨さを見て来たハンス(クリストフは空軍学生部隊に所属していた)は、このとき言った。「ここにいる人たちは、あの悲惨さを知っている。あなた意外は」。
◆「造反」や「抵抗」という言葉が死語になるか、(「テロ」の名のもとに)過剰に危険視されるかという奇妙なことになっているいまの状況で、この映画は、本来の「造反」や「抵抗」の何であるかを思い出させる。原理を守るために命をかけたり、政治的イデオロギーを原理として信仰するのではなく、平凡な日常を許さない戦争と、原理と観念の体制を守るためだけの戦争のための戦争に反対すること。しかも、大量の人間を「動員」して(当然こうなると、「指導部」が出来、指導する者とその指令に従わされる者との「分業」的役割分担が生まれる)闘争を「組織」するのではなく、手を延ばせば触りあえる人数で闘うこと。ゾフィたちが行なったのは、そういうミクロな政治活動だった。
◆彼女と彼ら「白バラ」グループは、逮捕から1カ月ほどの短期間に裁判され、処刑される。その処刑は、ギロチンによる斬首・断頭の刑なのであった。知らなかったが、ヒトラーの時代には、ギロチンが生き残っていたのである。
(スペースFS汐留/キネティック)
先月、映画「Sophie Scholl / Die letzten Tage」のリンクを貼りました。
ロシア系フランス人の彼と鑑賞していたら、自分では気づかなかった点をいくつか教えてもらったので書いておきます。
映画のラストの方(今ネット環境が良くないので時間を確認出来ないのだけれど)ラジオが流れてきます。
これはGünter Goebelって人、彼が何を言っていたのかしっかり聞くの忘れた!(ごめん)再度観ます。
スターリングラドについても資料に目を通す。
ゾフィー役のユリアももちろんすごくいい、そして、ゾフィーと同室になったエルゼ役のヨハンナガストドロフがすごくすごくよい。
以下
粉川哲夫の【シネマノート】 より。面白いです。
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●白バラの祈り ――ゾフィー・ショル、最後の日々 (Sophie Scholl - Die letzten Tage/2005/Marc Rothemund)(マルク・ローテムント)
◆欧米で評価の高い作品だが、そのわりには客が少ない。20数年まえならこのタイトルだけで満員になっただろう。配給の日名さん(キネティック)に会ったら、90年代になって発見されたゲシュタポの尋問記録を使っているなど、従来の「ゾフィー・ショル」像がとらえなおされているという。あいかわらず日名さんは、担当する作品への思いが熱い。
◆「ゾフィー・ショル」の名は、いまでは忘れられているかもしれないが、60~70年代、いや50年代にも「左翼」の人々のあいだでは特によく知られていた。「白バラ」とか「白バラ抵抗運動」の文字が雑誌や書評紙によく載った。未来社から出たインゲ・ショル『白バラは散らず ドイツの良心ショル兄妹』は、よく読まれた。ただ、わたしなんかから見ると、ゾフィーは、段々崇高化されすぎるような気がしないでもなかった。それは、たしかに「偉い人」だったのだろうが、誰かを崇高化し、その権威のもとに群がったり、そのもとで行動を起こすという姿勢が気になった。ゾフィーの姉インゲによって書かれた前述の書は、キリスト教的な観点が強く、ゾフィをある種の「殉教者」にしているところも気になった。その点で、ミカエル・ヴェルヘーベンの『白バラ』(Die Weisse Rose/1982/Michael Verhoeven) は、少しちがっていた。そこには、1970年代末から80年代初頭にかけてのドイツのアウトノーメやネオラディカリズムの空気が感じられ、元気づけられた。ここでは、ゾフィーという個人よりも、「白バラ」の活動家たちの連帯に焦点があてられていたからである。たった5、6人の少数グループが、ナチの連中を動揺させた点も小気味よかった。
◆映画の「リアリズム」というのは、模写の度合いとは関係がない。リアリズムとは、対象との共鳴(レゾナンス)の度合いの尺度であり、「リアル」に感じられるのは、映像が、その対象を模写することに成功しているからではなくて、時代とか場所とかの特定条件のなかで、観客たるわたしと、映像のなかの対象とがある特定の共鳴を起こすことができたからである。
◆ローテムント監督は、ゾフィを崇高化しない。むしろ、この映画のゾフィー(ユリア・イェンチ)は、政治意識があってナチに反発を感じる若者のなかではとりたてて勇敢というわけではない21歳の女性である。映画は、彼女が友達とラジオから流れるビリー・ホリデイの歌に合わせて体をゆすっているシーンからスタートし、彼女のアップになるが、それは、狂信的な活動家の顔ではない。ラディカルという意味では、彼女の兄ハンス(ファビアン・ヒンヌリフス)の方が上であり、活動家としては筋金が通っていた。しかし、映画として絵になり、また観客の共感をよびやすのは、ゾフィーである。というのも、筋金入りの活動家が捕まり、脅され、拷問されても圧力に屈せず、初心を貫いたというのは、いわば「偉い人」の話であって、「常人」には、尊敬こそすれ、等距離で「共鳴」するのはむずかしい。
◆秘密の「アジト」でのビラ作り、ゾフィとハンスが、それを大量にトランクに詰めて大学に持って行き、授業中でひと気のない廊下に置く。監視の目を逃れるために急がなくてはならないからだろうが、ビラを何十枚も床に配置していく。なるほど、こういう手もあるのかと思う。普通、ビラは、どこかの台の上に置こうとする。しかし、がらんとした(ナチの時代のドイツらしく埃ひとつないかのような)廊下に、普段は見慣れない印刷物があれば、目につき、人は拾うだろう。わたしもいつかやってみよう。
◆このとき、ゾフィは、一旦はロビーを見下ろす手すりのうえに置いたビラの山を、茶めっ気のある若い女性特有の身ぶりで、さっと突き、ロビーに落とす。ビラが空を舞い、ロビーの床一面に落ちる。これは、映画的にも美しい場面だ。ひょっとして、ゾフィがこの突発的に思いついたアクションをしなかったならば、彼女と彼の兄とは逮捕されなかったかもしれない。ビラが発見されるとすぐに、初老で小柄の守衛が飛び出して来る。これが、まるで警察官顔負けの勢いと身のこなしで、ロビーと階段にいる者たちの動きを止め、出入り口を封鎖してしまう。ゾフィとハンスは、まもなくやって来たゲシュタポに逮捕される。
◆興味深いのは、逮捕後、兄とは別々の部屋に入れられ尋問を受けたゾフィーと、ゲシュタポの尋問官ロベルト・モーア(アレクサンダー・ヘルト)とのやりとりである。長い尋問のなかで、モーアが彼女に同情的になるのが面白い。プレスに載っている監督のインタヴューによると、ここでモーアは、ゾフィが無実だと信じたと言っている。つまり、ゾフィは、彼をだますことに成功したというわけだ。しかし、映画で見るかぎり、必ずしもそうとる必要はない。ここが映画の面白さである。脚本や監督がどう考えようと、出来上がった作品が一つの有機体として機能し始めるのだ。
◆わたしには、モーアは、ゾフィーの政治活動への関与を確信していたと思もえる。ゾフィーが、「白バラ」は、決して大きな組織ではなく、その中心は兄と自分だとして、他の仲間(とりわけ、すでに学生結婚して子供もいたクリストフ[フロリアン・ステッター])をかばったにしても、モーアは、そんなことを単純に信じるほど鈍感な尋問官ではなかっただろう。が、尋問のなかで、彼は、次第にゾフィの抗議の真摯さに惹かれて行く。彼にはゾフィと同年代の息子がおり、まさにこの時点で東部戦線の勝ち目のない闘いに動員されていた。すでに、この尋問が行なわれた1943年2月には、ナチは敗退しはじめており、3月にはスターリングラードで敗退を帰す。ゲシュタポがそれを知らないはずはなく、ナチの内部もヒトラーに対して一枚岩ではなくなっていた。だから、モーアは、スターリングラードでの悲惨な状況をリポートし、ナチの戦争遂行をやめさせようとしたゾフィらの活動が全然わからないわけではなかった。その複雑な思いを、アレクサンダー・ヘルトはなかなか意味深長に表現していると思った。
◆いつの時代にも、戦争を悲惨なものにするのは、現場を知らずに机上で命令を発する上層部である。彼らにとっては、戦争は「ゲーム」にすぎない。「白バラ」を奥の深い組織だと恐怖したナチは、ゾフィらを即決の人民裁判にかける。その裁判官は、ベルリンから派遣されたローラント・フライスラー(アンドレ・ヘンニック)で、これこそ、ナチの最もエキセントリックな要素を凝集したキャラクターであり、ヒトラーがナチズムの各部分に分泌させたナチのエキスを体現している。この映画の最もスリリングなシーンの一つがその法廷シーンである。ナチズムの「熱烈」さとか、「過激さ」というのは、観念を原理主義的に循環させる空転のなかで生ずる効果なのだが、フライスラーの弁論は、まさにその典型である。彼には、現実に起こりつつあるナチの敗北も、戦地の悲惨さも目に入らない。こうした観念野郎に対しては、その熱が冷め来るまで待つしかなく、何を言っても、死もって対決しても勝つことができない。というのも、彼らの観念は、死の観念であり、その原理に合致しないものは、ただ死に神の大ナタでかっ斬ることしかできないからだ。しかし、時代がたてば、こうしたロジックに対して、ゾフィーやハンスのささやかな発言がいかに正しいものであったかがわかる。陸軍学生中隊として東部戦線でその悲惨さを見て来たハンス(クリストフは空軍学生部隊に所属していた)は、このとき言った。「ここにいる人たちは、あの悲惨さを知っている。あなた意外は」。
◆「造反」や「抵抗」という言葉が死語になるか、(「テロ」の名のもとに)過剰に危険視されるかという奇妙なことになっているいまの状況で、この映画は、本来の「造反」や「抵抗」の何であるかを思い出させる。原理を守るために命をかけたり、政治的イデオロギーを原理として信仰するのではなく、平凡な日常を許さない戦争と、原理と観念の体制を守るためだけの戦争のための戦争に反対すること。しかも、大量の人間を「動員」して(当然こうなると、「指導部」が出来、指導する者とその指令に従わされる者との「分業」的役割分担が生まれる)闘争を「組織」するのではなく、手を延ばせば触りあえる人数で闘うこと。ゾフィたちが行なったのは、そういうミクロな政治活動だった。
◆彼女と彼ら「白バラ」グループは、逮捕から1カ月ほどの短期間に裁判され、処刑される。その処刑は、ギロチンによる斬首・断頭の刑なのであった。知らなかったが、ヒトラーの時代には、ギロチンが生き残っていたのである。
(スペースFS汐留/キネティック)