ベルリン便り

ドイツの大学でドキュメンタリー映画を制作しています。

駆けつけ警護、現実的でない

2016年09月23日 | Weblog
今井高樹さん

朝日/駆けつけ警護、現実的でない
http://www.asahi.com/articles/ASJ9D7QZXJ9DUTFK01D.html


朝日の会員ではないので全文は読めていませんが、彼の活動がネットにいくつかあがっています。今井さんの名前で検索してみて。



10日目 夕方

2016年09月20日 | Weblog



9月8日 コトル

聖ニコラ教会のそばで夕食。 ボスニア紛争、、、戦争に関わった国や土地や民族、、、回避出来た立場、挑発的戦略的だった立場、巻き込まれた立場、それは国であったり、土地であったり、民族であったり、個人であったり。
一人一人の当時の経験と現在の状況にどれくらいの割合で強制的、支配的な指示が影響しているのか。反対し続けた人たちの当時と今。狂信的になった人たち、盲目的になった人たちの当時と現在は。
国のとった采配により、地域で起こした行動により、民族での行い、個人の判断、、、それぞれの立場から何十年の間持つ思想やその土地での生活や人柄や、、、そういう話を続けた。すこし言葉に詰まる時があった、一人で自分で触れるには難解で、日本で両親や兄弟や親友とも触れにくい。食事を共にしている人が踏み込める人だってことに感謝している。



まだ自分の中に捨てるべき感覚があるのを改めて意識する時がある。

この感覚って、、、生まれながらにこういう種類の感情を持ち合わせない人たちはいて、どんな経験をしてもこういう感覚を持つ事が一切無い人たちはいて。
上手く言えないけどわたしはこの感覚を掴む所まで多くの人たちが向かうことが、平和への一歩なんじゃないかと思う。












10日目

2016年09月20日 | 小さな旅のお話




9月8日

ズラティボル (モンテネグロを通過し) コトル


「今日のランチはピクニック、昼食どきに良い景色に出会ったらそこで食事ね。」と彼は朝から楽しそう。
わたしも嬉しい。

長距離ドライブ

途中からヒッチハイカーの若者カップルも、旅は道連れ。
トゥルーリ出身の2人、男の子はベジタリアンレストランのシェフだけどお肉を食べるよと笑っていた。彼らはポトゴリツアに向かうと言うのでコトルとの分岐点で別れ。ここからはわたしが運転。ヤギの群れが道路をふさいでいたり、「写真を撮って。今撮らないでいつ撮るの」と思わずわたし。同じ台詞を昔カンボジアで恩師に言われたのを思い出しおかしくて、そして、懐かしかった。








10日目 朝

2016年09月20日 | 小さな旅のお話



9月7日 ナショナルパーク


目の前に広がる世界に圧倒。サンマルコ教会を見た時とおんなじ気持ち、写真よりここにいること。

9日目 夜

2016年09月20日 | 小さな旅のお話


ドブルン修道院


9月7日 ヴィシェグラードからズラティボルへ


午後7時過ぎ、ズラティボルのホテル着
湖畔にあるレストラン”RUJNO”で夕食。
ホテルのWIFIが機能せず、”調べ物をしなければいけないからWIFI付きのお店を探して”と彼。レストランで食事を済ませた後カフェで使うのはどうだろうと思ったけれど(レストランでWIFIは避けたかった)、山の中にある湖畔、、、閉まり始めたお店もありあまり選り好みも出来ない。日が暮れ、このお店の白い壁と木組みとオレンジの光、お客さんの雰囲気がしっかり見え、WIFI付きだったから。正解。
(好みは別れるだろうけれど)階段を上がりバーではタバコをくゆらせながら談笑している人たち。室内だけれどテラス席のように感じられる開放感のある窓際の席、メランコリックに感じる独特の良さがあった。

食後のお茶にはやっぱり蜂蜜と大きなくし切りのレモン付き。嬉しい、ごちそうさま。(わたしたちの担当ウエイターがユーモアのある人で、、、彼のような多くの人に共通で伝わるエンターテイメントの力を持っている人っていいなあと思った。)

明日は早くから行動のため、早めの就寝。



9月3日 朝

湖畔を散歩。
昨日食事をしたレストランRUJNOは窓際から湖畔を見渡せる一等地でした。お茶のみでも利用出来るので、日中2階席に通してもらうと、心地よい時間を過ごせそう。


アメリカとロシア、シリア全土での停戦合意の日

2016年09月18日 | love and peace
数日前にベルリンへ戻っています。勉強の日々でした。とても大切な経験をさせてもらえた事を協力して下さった皆さんに感謝しています。
ありがとうございます。
旅のお話は日付を整理しながら時間がある時にアップしています。
最近すごく気になったことがあったのでひとつだけ。

9月11日シリア、アメリカとロシアがシリア全土での停戦合意を発表した日、アメリカ軍はシリア政府軍を空爆しました。誤爆との報道もあります(ISだと思った)。わたしは誤爆を装ったアメリカ軍の計画的攻撃だったと考えています。戦争の中でアメリカ軍の今の立ち位置からこの日起こす軍の行動としてもっとも確立が高く、正当性ではなくこの戦争に勝つ事を考えているのであれば、当然として政府軍を攻撃するべき日。(最低だけどね。)
自分たちが関わっている戦争に正義があり、良識があり、他国で起こっている紛争に武力により加担するその行動にまっとうな正義を持ち合わせているのであれば、この日、報道されている本来はISを攻撃したかった誤爆、このISを狙った攻撃の采配すらしなかったはず。
もうこれは少しでも勉強されていらっしゃる方たちには当たり前の中の当たり前な話ですが。ブッシュ政権のもとアメリカがイラク攻撃を始めた時、その理由はイラクは原子爆弾を始め大量破壊化学兵器を所持しているためそれらを発見没収する名目でした。だけどなかったね。わたしの親友はイラク戦争が始まるだろう時、アメリカはそれらが無いのを分かっているから開戦するんだよ、と言いました。1、2年前からアメリカ軍上層部の人たちからの”証言”として”あった”という報道も時々見ます。”証言”って本当に怖い、真実はなくてよいのです、嘘を真実にし、それを信じる人たちが大半になれば、それが真実になるから。
勿論真実を真実として”証言”する人たちやして下さる人たちはいて。他に個人の”記憶”や”想い”が”真実”の”証言”になってしまう人たち、そして脅されたり、また堂々と故意に”嘘”を言い”真実”を作り上げる人たちがいる。わたしはこの3番目の行為が心底嫌いです。

現在、シリア政府軍に加担しているロシアが、アメリカのこの行動に対し抗議しています。

以前にも書きましたが、他国で勃発した紛争にアメリカとロシアが率先し軍事介入することがなくなれば世界で起こっている紛争の多くはあり方を変えます。他国で紛争が起こった時静観しましょうと言っているのではありません。
仲裁のための介入、負傷者の救助、インフラの整備、、、これらが必要なのであり、なぜ事態が大きくなる行動ーーーたとえばロシアは政府軍に武器を売り、たとえばアメリカはいくつかの反政府組織を指導しアメリカ軍ではなく彼らが直接的行動をとるように采配し、、、ロシアもアメリカも攻撃を繰り返しーーーをとっているのか、それはそれぞれの利益のための思惑があるから。そういう思惑は戦争を取り除いても外交の中にあるわけで。、、、きれいごとは言わない、武力を排除したうえでして下さい。

9日目 ヴィシェグラード

2016年09月18日 | 小さな旅のお話


9月7日 夕方

2007年世界遺産に登録されたメフメット・パシャ・ソコロヴィッチ橋。旧ユーゴ圏に知らない人はいないと言われるほど有名。
ボスニア・ヘルツェゴビナの作家イヴォ・アンドリッチの「ドリナの橋」はヴィシェグラードの街が舞台の歴史小説でこの場を訪れる前に読むといっそう学びがあるように思う。


橋のそばのホテルのテラスで小さな休憩をとった、席から橋を見渡せる。ミントティーとリンゴ煮ナッツクリーム入り。彼はミントティーとアルコールの効いたケーキ。”チャイをお願いします”と彼が注文するとミントティーが。後のセルビアで知ったのだけれど、このあたりはお茶はミントティーとカモミールティーが定番。
お茶には蜂蜜とくし切りのレモン(これも後の何度かのお茶でスタンダードだと知る、ホテルやレストランに限らず多くの場所で)、ここで当たり前の形式はヨーロッパとも日本とも少し異なり、だけどとびきり美味しくて、わたしたちは大好きになった。

時間の関係でアンドリッチグラードには立ち寄れなかったので、ここは次回尋ねたい。




9月19日 追記
ヴィシェグラードは山に囲まれ、セルビアとの国境沿い、それから側に大きな川があることから、過去におきた争いの中でいつも重要な拠点となった。ボスニア紛争の時もそうだった。
紛争以前ボシュニャック人(ムスリム)が半数以上を占めていたこの土地、彼らはユーゴスラビア人民軍の攻撃を受けた。避難した人たち、家を仕事を失った人たち、身内を失った人たち、虐殺された人たち、強制労働させられた人たち、脅された人たち、女性という性を男性の性の発散に利用された人たち。
紛争以前に暮らしていた多くのボシュニャック人がこの土地を去った。現在はセルビア人が大半を占めている。

同様セルビア人の暮らすバンニャルカは、人が人を見ない息苦しさがあった。ここにはそれが無かった。
この街には世界的に評価されている橋がある。この橋には紛争時の悲しい歴史があるけれど、この橋がある事でこの街の再生の早さもある。民族を問わず他者から評価される何かがあるのは、その土地に暮らす人たちの生活に人柄に影響を与えるように思った。(もちろん、他の理由もたくさんあると思う。)
この街でも皆さんに親切にして頂きました。ありがとう。


旅9日目 ヴィシェグラードに向かう途中 小さな集落

2016年09月16日 | 小さな旅のお話






サラエボを後にしボスニア・ヘルツェゴビナの西側、セルビアとの国境そばにある都市ヴィシェグラードに向かっていた時(約30分後ヴィシェグラードに到着する頃だった)、100戸に満たない小さな集落、全滅だった。紛争が終わり20年経った現在、この集落で家屋を修復、新築した家はわたしの目で数えて5戸くらい。他は当時破壊され燃やされ爆撃され銃撃されたそれらの傷を残したままだった。
川沿いの丘に羊たち。わたしが近づくと一匹の羊もわたしに近づきわたしの顔を見てづっとメーメーと鳴いていた。横にはプルーンに似た果実の木があり、たわわになった実がルビーみたいにきれいだった。

サラエボ 

2016年09月16日 | 小さな旅のお話
サラエボでのこと いくつかを
ーーーーーーーーーーーーーー




9月3日 到着日 夜
昨年の滞在時可愛いなと写真をとっていた建物はパン屋さん(ピザ屋さん兼)だと知る。建物がシンプルで看板がないので気付かなかった。夜店内に光があり、お母さんたちが石釜で次々とピザを焼いていた。地元の人たちが列をつくり、わたしたちも興味を持ち列に並んだ。スモークハムとマッシュルーム、最後にトマトソースとクリーム。極上。(ピザ好きな彼は旅の最終日まで毎日ここでピザを食べたがった。)
パン屋さんの隣の建物もとても可愛くて。手書きで書かれた店の案内板、周りには色とりどりの花の絵。オレンジ色の照明に照らされているのはやっぱり可愛いブーケたちで。そう、お花屋さん。嬉しくて彼に思わず「わたしにお花を一本だけ選んでくれる?」。彼が選び買ってくれた花は5日間のサラエボ滞在中わたしたちのホテルの部屋で、わたしたちの心に安らぎを与えてくれた。
ホテルに戻りホテルの庭の上でサラエボの街を一望する。ちょうど祈りの時間で多くの場所々で流れ始めたコーランが街の中でこだましていた。一年前ここに到着した時と同じ。宗教が異なる事で受け取る感覚がすごく変る、今年も同じ場所で同じ様に思った。

9月4日 朝
今回景色の良い部屋を事前にお願いしていた。共同のシャワールームもすごく良くて天窓付き。レンガ色の街と白色の共同墓地と緑色の山と青い空、美しい絵。心地よい朝の光が降り注ぎシャワーの時間身支度の時間が楽しかった。シャワールームで身支度をしていたら昨晩と同様街中の多くの場所でコーラン。

9月5日 午後 雨
戦争博物館の帰り、青空市場で傘を買った。「赤い傘にしてもいい?」と彼にお願いした。
笑顔でお母さんに挨拶をし、こうやって買い物をし、笑顔で彼女にお礼と別れを告げる。今わたしが立っているここでも爆撃で60人以上の人が亡くなった。
戦争って終わったと分かるまで継続している。終わったと分かるまで、身内が亡くなった事、腕や足がなくなった事、目が見えなくなった事、耳が聞こえなくなった事、家を失った事、仕事を失った事、、、それらと向き合う以前に一秒後、一分後、一時間後、明日、、、戦争の中に生まれる感情と行動の繰り返し。(戦争が終わりこれらと向き合い始めるようになる。これらも本当に大変な作業。)

9月6日
トンネル博物館で
わたしのみがトンネル内に残り撮影を続けていた時、彼は外で写真をとり、カフェで珈琲を頼もうとするとお母さんから「今日はもう閉めたの」。「そうか、ビール飲みたかったんだよね」と彼。「ちょっと待っていて」とお母さん。数分後「はい、これあげる」なんと、お父さん用のビールをわたしの彼に。しかも無料で!
トンネルから出てきたわたしに彼は可愛い笑顔で「フリービア」と言い、こんな理由を話してくれた。実は彼、2年前の旅行で訪れたチェコのプラハでも地元の方々に良くしてもらい、フリービアを。この時の事を思い出し、懐かしかったり、いつもみなさんありがとうと思ったり、わたしも笑顔になった。そばでお母さんも微笑んでいた。


9月7日
共同墓地の撮影をし終え、店構え味ともに大好きになったパン屋さんをもう一度誠実に撮影したいと、店舗を前にカメラを構えた時、ああここにも傷ついた跡。かわいいと思ったお花屋さんも。隣もその隣も。




わたしがこの街が大好きな理由

人が穏やかなこと、攻撃性がない。土地に根付いている美的感覚。戦争の終わりを知っている。
もっとも好きなのは、みんな(わたしが出会った人たち関わった人たちすべて)目をみて話をしてくれたこと。ホテルのお父さんとお母さん、アヴィスビルのスタッフ、博物館のスタッフ、レストラン、市場、道行く人たち、、、本当にみんな。
車内から外に目をやり誰かと目が合っても、視線をそらす人は一人もいなかった。好意的な目。ベルリンに初めて訪れた時の人の温かさ、ブタペストの街の人たちの好奇心、それらも大好きたど感じたけれど、だけどそれらとも異なる。
最終日スナイパー通りのそばの市場でくるみと旬のプルーンを買った。お店のお姉さんとのコミュニケーションが私の中に強く印象に残っている。彼女と私の目があった時、彼女はひとつ目を見開いたんだ。とても深かった。広かった。彼女の大きさを感じた。だからわたしも自分の目をひとつふたつ見開いた。わたしはわたしの目を彼女に見開かせてもらったんだ。初めてのことだった。同時に心も開くのが分かった。嬉しかった。
サラエボ滞在中わたしは、このお姉さんとのコミュニケーションと同じような経験を何度かした。

旅9日目 サラエボ 昼 シティーホール

2016年09月16日 | 小さな旅のお話



9月7日 サラエボ 5日目 
シティーホール

図書館として利用されていたシティーホールは1992年8月爆撃にあい炎に包まれた。
2014年修復工事が終わり、再び図書館としての役目を果たしている。
カフェとエキビシジョンあり。

午後からヴィシェグラードを経由しセルビア/ズラティボルへ。







(歴史博物館とトンネル博物館で自身の資料のため当時のシティーホールの写真を複写しました。ここに掲載するのはやめようと思います。”city hall sarajevo 1992”で検索して下さい。写真、文章共にしっかりした資料が多くあります。)