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(更新)おんな勝負師 小池ゆり子都知事誕生!

2016-08-02 14:35:21 | megamiyama

 

フォーブスジャパンの記事が面白かったので、転載します。

 

やはり、この「都知事選」に一番に名乗りを挙げただけのことはあります。

ジャンヌダルクに自分を例えるには、少々無理がありますうが、その辺の男も顔負けの、百戦錬磨の勝負師であることは、間違いないようです。

今回、残念ながら圧倒的な差をつけられ、敗れた七海ひろ子さんですが、〝ポスト小池”選を控え、まだまだ、「夢」はこれから!デス。

 「勝負しないと嫌なんです。」の小池百合子と「(東京は)一位じゃないと嫌なんでございます」の七海ひろ子。

意外に相性は良いかも(笑)

この二人に象徴される、最近の政治家にはない!めずらしい”強気”に、女性政治家時代の到来を感じるのはmegamiyamaだけでしょうか?

 

「したたかじゃない女性なんていない」小池百合子、へたれ男たちとの勝負史24年

藤吉 雅春
 

© atomixmedia,inc 提供

 「やっぱり勝負しないとイヤなんです」

小池百合子からそんな言葉を聞いたのは、11年前のことだ。

郵政民営化をかけた2005年の選挙で、「刺客第一号」として圧勝してから11年。今度は都知事選で次点に100万票以上の大差をつけた。勝因は何だろうか。政界進出して24年。その間繰り返してきた彼女の勝負の歴史に、答えがあるだろう。

21歳で第四次中東戦争をカイロで経験し、匍匐前進などの軍事教練を受けてきた小池百合子。国会議員でおそらく唯一戦争体験がある女性と、他の議員たちとの違いは戦い方から見えてくる。

安全に勝とうとしたがる人たち

細川護煕率いる日本新党ブームに乗って小池百合子が政界入りをしたように思われているが、それは少し違う。

1988年、テレビ東京『ワールド・ビジネス・サテライト』の初代キャスターに就任して高い評価を得ていた彼女には、複数の政党から政界入りの誘いが来ていた。小池に日本新党入りするよう口説いたのは、「朝日ジャーナル」の編集長だった伊藤正孝である。

伊藤は朝日新聞鹿児島支局の記者時代に、新人記者・細川護煕と同じ下宿で暮らした関係から、細川から新党立ち上げの相談を受けていた。アフリカ報道で知られる伊藤と小池は、『季刊アラブ』の編集を通して同志の関係にあった。そこで小池に白羽の矢を立てたのだ。

しかし、日本新党はすぐにブームを起こしたわけではなく、実は結党時に危機に立たされている。全国から多くの賛同者が集まったものの、いざ選挙となると、ほとんどの者が立候補に二の足を踏み、「細川さんが当選したら、自分も出る」と様子見を決め込んだ。つまり、勝ち馬に乗れるとわかった段階で、来年の選挙なら出てもいいと誰もが思ったのだ。

候補者がそろわない中、伊藤正孝の口説きをためらっていた小池が突然、手を挙げた。

「自分が身を投じたら、誰もが乗ってくるだろう。このチャンスを生かしてあげないと、党が潰れてしまう」と、小池は当時のことを私の取材で回想している。

92年7月の参院選で細川や小池ら日本新党から4人が当選。翌年の衆院選で細川や小池は鞍替えをし、この時、一気に35人が当選。最初に飛び込むことで勢いをつくり、党も小池本人もイニシアティブを握り、細川政権の道筋をつくったのだ。

勝負する土俵を変える

今回の都知事選に立候補した山口敏夫と小池百合子にはちょっとした因縁がある。94年、山口敏夫は小池ら日本新党の議員7人を六本木の中華料理店に連れて行き、そこで小沢一郎(当時、新生党代表幹事)と引き合わせている。

小沢と小池は安全保障論で意気投合し、94年に日本新党、新生党、公明党が合併して誕生した新進党で、党首と補佐役という関係になった。しかし、次の小池の勝負となったのが、小沢との決別だろう。

新進党は98年に解党。小沢は自由党を率いて、小池も自由党に合流したが、99年、自由党は自民党による水面下での猛烈な切り崩し工作を仕掛けられる。

「小池さんには残ってほしい」。小沢は自由党幹部に「小池残留」の指示を告げ、彼女に「近畿ブロック・比例」という条件を提示した。しかし、残留工作は失敗。彼女は保守党の結成に参加した。彼女は残留しなかった理由をこう言っている。

「私は地べた(小選挙区)で勝負したかった。比例ではやりたいことができなくなる。やっぱり勝負しないとイヤなんです」

彼女は「政界渡り鳥」という揶揄を非常に嫌るが、政党を渡り歩くというよりも、勝負を張る舞台を探していると言った方がいいだろう。

結成された保守党は海部俊樹、扇千景など大物が多い小所帯だったため、彼女は現場仕事の多くを任され、肩書きは22にも増えた。「もう体が壊れる」と、保守党を離脱。

そうして彼女が入党したのが、「自民党をぶっ壊す」と吠えて総裁になったばかりの小泉純一郎率いる自民党だった。

常に逆境

小泉政権で環境大臣に就任した後、日本の政党の体質を象徴するシーンがあった。森派の昼食会で、派閥の領袖である森喜朗が小池を罵倒した。

「なぜ、再任なんだ!」

内閣改造で小泉首相が小池を環境大臣に再任したため、小池に八つ当たりのような怒りをぶつけたのだ。同じく法務大臣に就任した南野知恵子も、森の怒りの標的となった。

自民党のドンとして、年功序列や当選回数を無視した小泉の抜擢人事が気にくわなかったのだろう。小泉に不満を言わずに、女性たちに当たる見苦しい光景であり、”ムラ”の政治を垣間見る場面だった。のちに小池は森派を離れている。

世襲議員が圧倒的に多く、ムラの因習が支配的な組織で埋もれないために、自ら勝負に名乗り出る。それが2005年、小泉首相が「死ぬ覚悟でやる」とぶちまけた郵政民営化を問う解散総選挙だった。彼女は造反議員への「刺客第一号」として手を挙げた。このときも今回の都知事選と同じく、選挙区の兵庫6区に相談なく、突然の宣言だったため話題となった。

07年には、「防衛省のドン」として事務次官に異例の5年以上も居座る守屋武昌を更迭。きな臭い噂があり、人事に介入していた守屋を総理や官房長官に相談せずに更迭したことで、結果的に刺し違えることとなった。

一番最初に名乗りを上げる、スポットライトを浴びることで、逆境を大舞台に変える、そうした戦い方の総決算が今回の都知事選だった。舞台は小池の土俵となり、組織力に勝る結果となったのだ。

2009年に小池から都連改革を提言されて、会議中、コップを手で払いのけるほど怒った都連会長、石原伸晃は、今回、父親の石原慎太郎を応援に担ぎ出した。しかし、父は小池のことを、「大年増の厚化粧」と罵り、女性票の獲得を狙っていた与党にとって大誤算となった。

永田町の古いムラ社会で、常に「したたかな女」と陰口を叩かれる小池に、11年前、「したたかですよね」と聞くと、こんな言葉が返ってきた。それは小池らしい答えだった。

「世界中の女性でしたたかでない人なんて、いませんよ。そもそもしたたかでない政治家なんて、政治をやめた方がいいと思う」



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