5月半ば、久留米の丸山豊賞の授賞式に行った。 第22回とあるけれど小生はその3割くらいしか参加していない。 その中では森崎和江、文月悠光氏が印象に残っている。 今回はおそらく忘れることはないのではなかろうか、それはちょっと変わった印象を持ったからだ。
およそこのような「式」では選者は受賞者を褒め、受賞者も受けられたことに感謝しその気持ちを伝えようとするものと思うが、今回は全くダメ。
先に選考過程をのべた高橋氏は「理由は清水氏がパンフレットに書いているから」といって触れることはせず、「名前(筆名)からして女性ではないかと思った」「あざといような用語がある」「長年にわたっての作品を一つにまとめられ、その感性の維持は並ではない」といった具合で、受賞「詩集」をまるで褒めない。どの点を評価したのも触れないで終わった。清水氏はもっと簡潔?で 何でも無い「枕話」で終ってしまった。一方受賞者・秋氏の挨拶も似たようなもの、一応の感謝の表明はあったものの熱のこもった言葉は無し。人柄・年齢によるものだとは判るけど「なんでくれたか判らない」とでも取れるような言いようは正直といえばそうだが、やはり「サラリーマンさえ勤まらない人」とだと 知らしめてしまった感があった。
このように三者ともども「褒めない」授賞式とは珍しいのではないか。選者の二人の話を聞いていっそ「該当なし」にできなかったのかと思ってしまった。
ただ、秋氏の話そのものは小生にとって少し興味を引くものがあった。彼は高校生くらいの演劇サークルに関わっているとのこと、それで宮城県の文藝コンクールの受賞作、あるいは目に付く作品に演劇をする生徒の作品が多いといい、いわゆる「文藝部」員の作品はパットしない。それは「文藝部」では作文法・作法を習うが、自分の感性を表現するにはかえって文章「作法」にとらわれない 演劇をやっている生徒の方が優れている(文章の上手・下手は別)のではないか、という話は「さもあらん」と小生も納得したことだった。
もう一点、これは納得できなかった方。彼は「詩」は書かれ、印刷された紙の上だけに存在するのではなく いたるところに「存在」するといい、いくつかの例を挙げて説明した。「詩」は心の動き、あや、ひだがすでに「詩」たりうる。というような主旨だったと思う。しかし、そうは思わない。
彼の話にもチラッと使われた「詩情」という言葉がある。彼の言う いたるところに存在するのは「詩情」であって「詩」たり得ないのではないかと思う。「詩」は紙の上にかかれこそ、ではないか。「思い」は誰にでも何処にでもあるだろう。しかし、それを空に向かって「言葉」として発しても また即興で思いつくママに言葉を連ねたとしても、記録されない限り「詩のようなもの」ではあっても「詩」にはならないのではないかと思うのだが・。
授賞式・受賞者の印象を薄くしたのは 他にも理由がある。市内のある児童合唱団が近々解散するというので式の半ばに 丸山氏の作詞の校歌を数曲歌った。此れが長すぎた。その後の氏の作品の朗読に際しては、ギターの伴奏と即興舞踊が合ったのだが、小生にとってはこの舞踊がはなはだ目障りでしかなかった。氏の仲間ではるばると仙台からこのために来たそうだが・・・。
およそこのような「式」では選者は受賞者を褒め、受賞者も受けられたことに感謝しその気持ちを伝えようとするものと思うが、今回は全くダメ。
先に選考過程をのべた高橋氏は「理由は清水氏がパンフレットに書いているから」といって触れることはせず、「名前(筆名)からして女性ではないかと思った」「あざといような用語がある」「長年にわたっての作品を一つにまとめられ、その感性の維持は並ではない」といった具合で、受賞「詩集」をまるで褒めない。どの点を評価したのも触れないで終わった。清水氏はもっと簡潔?で 何でも無い「枕話」で終ってしまった。一方受賞者・秋氏の挨拶も似たようなもの、一応の感謝の表明はあったものの熱のこもった言葉は無し。人柄・年齢によるものだとは判るけど「なんでくれたか判らない」とでも取れるような言いようは正直といえばそうだが、やはり「サラリーマンさえ勤まらない人」とだと 知らしめてしまった感があった。
このように三者ともども「褒めない」授賞式とは珍しいのではないか。選者の二人の話を聞いていっそ「該当なし」にできなかったのかと思ってしまった。
ただ、秋氏の話そのものは小生にとって少し興味を引くものがあった。彼は高校生くらいの演劇サークルに関わっているとのこと、それで宮城県の文藝コンクールの受賞作、あるいは目に付く作品に演劇をする生徒の作品が多いといい、いわゆる「文藝部」員の作品はパットしない。それは「文藝部」では作文法・作法を習うが、自分の感性を表現するにはかえって文章「作法」にとらわれない 演劇をやっている生徒の方が優れている(文章の上手・下手は別)のではないか、という話は「さもあらん」と小生も納得したことだった。
もう一点、これは納得できなかった方。彼は「詩」は書かれ、印刷された紙の上だけに存在するのではなく いたるところに「存在」するといい、いくつかの例を挙げて説明した。「詩」は心の動き、あや、ひだがすでに「詩」たりうる。というような主旨だったと思う。しかし、そうは思わない。
彼の話にもチラッと使われた「詩情」という言葉がある。彼の言う いたるところに存在するのは「詩情」であって「詩」たり得ないのではないかと思う。「詩」は紙の上にかかれこそ、ではないか。「思い」は誰にでも何処にでもあるだろう。しかし、それを空に向かって「言葉」として発しても また即興で思いつくママに言葉を連ねたとしても、記録されない限り「詩のようなもの」ではあっても「詩」にはならないのではないかと思うのだが・。
授賞式・受賞者の印象を薄くしたのは 他にも理由がある。市内のある児童合唱団が近々解散するというので式の半ばに 丸山氏の作詞の校歌を数曲歌った。此れが長すぎた。その後の氏の作品の朗読に際しては、ギターの伴奏と即興舞踊が合ったのだが、小生にとってはこの舞踊がはなはだ目障りでしかなかった。氏の仲間ではるばると仙台からこのために来たそうだが・・・。