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内外行動日記です。blog復帰しました^ ^

<世界遺産>「平泉」文化遺産に登録決定 

2011-06-27 05:35:26 | 今日は何の日
ついに世界遺産です。
フランスのパリで開かれている国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は26日(現地時間25日)、日本が再推薦した「平泉」(岩手県平泉町)を、世界文化遺産に登録することを決めました。

この地の歴史は奥州藤原氏が文化遺産を多数造りましたが、さらにさかのぼると、征夷大将軍:坂上田村麻呂の存在を忘れてはいけません。
そもそも征夷大将の「征夷」とは、東夷を征討するという意味。征夷大将軍は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つです。
由来としては天皇に任命される軍事指揮官で、天皇の考えを逐一聞かなくても良いという職権から、今でいう最高司令官としての力が備わったものです。

以後、鎌倉時代から江戸時代まで、侍が行政のすべてを行っていたため、国王に近い権力を持ち、また、天皇に任命されることから、神聖さもあった。


そんな征夷大将軍、坂上田村麻呂が蝦夷を討伐した延暦20年(801年)以後、250年程の間、陸奥国は勢力を伸ばした安部氏によって比較的平穏を保ち、
胆沢、和賀、江刺、稗貫(ひえぬき)、紫波(しわ。志波)、岩手の「奥六郡」は陸奥国の縁辺となっていました。

そんな安部氏ですが、永承6年(1051年)になって事件は起こります。
安倍氏が貢ぎ物や徭役について国司に従わず、奥六郡の南境である衣川の柵を越えて勢力圏を拡大しようとしました。
これを防ぐため、陸奥守藤原登任(なりとう)は安倍頼良を討とうとしましたが大敗しました。

「前九年の役」

はそんな安部氏を源頼義やその子義家は、清原氏の援軍を得て安倍頼時や子貞任、宗任らを征討した戦いです。
奥州藤原氏の初代、藤原清衡の父親にあたる、藤原経清も安倍氏に味方したため殺されました。
父を失った清衡は母の再婚先である清原氏で養われることになります。
→清原清衡というとてもややこしい名前になっちゃったわけです。
1062年まで続きました。
で、1051年~1062年まで、実質12年間続いたこの戦をなぜ「九年」というかは意味不明です・・(^^;
これにより、安部氏に代わり清原氏がこの地の覇者になりました。
で、藤原清衡が清原氏へ養子に行ったことでこれが伏線になります。

「後三年の役」

です。
この「役」は、清原氏に関して国司である源氏の介入という一見シンプルな構図ですが、名前が「~衡」という点と、人間関係が非常にややこしいのです。
これは、一旦清原氏の家系図を見るとわかりやすいかもしれません。

武貞の死後、清原氏の家督を継いだ真衡であったが、真衡には嫡男が生まれなかったので養子を迎えた。これが成衡である。


さて、成衡の婚礼の際、前九年の役の功労者で清原一族の長老である吉彦秀武が祝いに訪れたが、真衡は碁に夢中になっており相手にしてもらえず。一族の長老としての面目を潰された秀武は大いに怒り、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまったという。
真衡はそんな秀武の行為を聞いて激怒し、秀武討伐の軍を起こした。一方の秀武は、同じく真衡と不仲であった清衡と家衡に密使を送って蜂起を促した。

清原真衡 対 吉彦秀武、清原家衡、清原清衡

の構図が出来上がります。
これが後三年の役の始まりです。
ここに源義家が陸奥守として介入、

清原真衡、源義家 対 清原清衡、清原家衡

清衡と家衡は真衡の不在を好機と見て再び真衡の本拠地を攻撃したが、義家が真衡側に加勢し、清衡・家衡連合軍は惨敗を喫し、清衡と家衡は義家に降伏しました。
本当ならここでめでたしめでたしなのですが・・・。
真衡が急死してしまいます。
ここからこの一族はさらにドロ沼へと引き込まれてしまいます。

真衡の死後、義家は真衡の所領であった奥六郡を3郡ずつ清衡と家衡に分与した。
ところが家衡はこの裁定を不満とし、1086年(応徳3年)に清衡の館を攻撃した。清衡の妻子一族はすべて殺されるも清衡自身は生き延び、義家の助力を得て家衡に対抗した。

清原清衡、源義家 対 清原家衡、清原武衡

の構図です。
籠城作戦により、家衡、武衡が勝利していたが、兵糧攻め?により敗北。
この頃に源義家の雁の群れの下の伏兵を見破ったという有名なエピソードもある。

とにかくこれにより、清原清衡が家督を継ぎ、
清原氏は陸奥守となり、このあたりを平定しました。
そして、清原清衡は藤原清衡と本来の性に戻し、奥州藤原氏の開祖となりました。

源義家は今後が悲劇で、朝廷に恩賞を要求するも、大義名分がなく、勝手に清原氏が争っていたところに勝手に源義家が顔を突っ込んだだけ。
といった内容の判断をし、恩賞がもらえない上に、陸奥守も解任された。
しかし、恩賞の代わりに自分の私財を家臣に与えたことにより源氏の結束は強まったといいます。


こうして、
初代:藤原清衡
二代:藤原基衡
三代:藤原秀衡

の構図が出来上がるわけですが、初代清衡はとても数奇な運命だったなと感心してしまいます。

前九年の役で滅ぼされた安部氏の血縁なのです。
で、養子に行ったのは清原氏。
前九年の役での勝者は清原氏。
清原氏どうしの戦いの後三年の役の勝者は清衡。

一見清原氏が勝ち残り、安部氏はとうの昔に滅んだと思われますが、清衡は清原氏と血が繋がっていませんので、
実際に滅んだのは清原氏であり、安部氏は藤原氏の血縁にあり、実際の勝者は安部氏であった。????

なんて考えられます。
まあややこしい限りであります。


ここから源義経が三代目、秀衡と関わり、
四代目、泰衡は義経を責め滅ぼしました。
が、頼朝により、奥州追討軍を率いて平泉へと向かいます。
この頼朝による奥州追討軍に常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)なる者が参加していました。
この人物こそ、伊達氏の初代、朝宗(ともむね)です。

平泉は坂上田村麻呂から始まり、安部氏、奥州藤原氏、伊達氏と引き継がれた歴史ある遺産なのです。



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猛暑の始まり

2011-06-25 04:34:53 | 今日は何の日
熊谷で39.8℃だったと記憶しています。
6月といては異例の暑い一日となりました。
館林も39℃台。
では熊谷と館林と近隣の東松山はどうなっているのでしょう??
じぶんなりに実験してみました。

温度計付き電波時計を用いて時間の経過とともに観察開始です。

エアコンが効いた室内です。
14:40 26.7℃

で、外へ移動します。

こんな日陰に置いてみました。


みるみる温度は上昇します。
たったの5分で
14:45 31.3℃

10分放置してみると

14:57 38.9℃
と、観測された値とほぼ近い値が出ました。
おそらくもっと長く置けばさらに上昇したでしょう。


では、観測を日向に移動してさらに10分放置してみました。

15:10 48.8℃
目を疑いました。
そっか、最高気温というのは日陰の値。
日光を浴びて体感する温度はそれ以上。

スタッフが日傘をさして来たのが印象的でしたが、納得です。
埼玉県がいよいよ本領発揮してきます。
これから熱中症対策、熱帯夜対策が必要になってきます。
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大坂夏の陣

2011-06-04 00:15:13 | 今日は何の日
今年の大河ドラマは「江」ですが、
浅井長政とお市の方の三姉妹の末娘。
二代将軍、徳川秀忠の正室となり、三代将軍家光を産む。
乳母である春日局との確執やら、後半は大奥に関する見どころが多くなってくると思われます。

しかし、その前に、長女、茶々(淀君)との戦争が見どころの一つとなるでしょう。

本日、6月4日は大阪夏の陣: 豊臣秀頼と淀殿が自刃し豊臣氏が滅亡した日です。
1615年(元和元年5月8日) のことです。

大坂の陣は1614年の冬の陣と1615年夏の陣の2回行われ、徳川が豊臣を滅ぼした戦です。

1600年の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、着実に天下人への道をかけ進み、1603年に征夷大将軍になります。
その後三男の秀忠に将軍職を譲り、大御所として駿府へ退き、実権は握っていました。
徳川家康は私に言わせると「小心者」です。
あくまで織田信長や、羽柴(豊臣)秀吉と比べての話ですが。
とうてい天下人の器ではなかったと思われます。

例えば、1572年の三方ヶ原の戦いでは、武田氏に散々に打ちのめされ、退却、その時は糞、尿を垂れ流すほどのお粗末ぶりだったといいます。
しかし結果は天下人です。
これは誰もが言っていることですが、寿命が長かったことが一番に考えられるでしょう。
とにかく家康は長生きでした。
1599年に五大老の実質的筆頭の前田利家が亡くなっています。
時間の経過とともに運がやってきたのではないでしょうか。

「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」

天下餅とは天下統一を指し
これば19世紀の半ばの落首(誰が書いたか判らない風刺の歌)で、この様子の絵は、1837年(天保8年)歌川芳虎が描いており、
それを「道外武者御代の若餅」として出版されています。
この落首は、
信長が苦労して乱世の世を終息させようと天下統一事業を進め、
秀吉がやっと天下統一を完成させたものを、
家康が先人が苦労して築いたものをやすやすと簡単に手に入れたということです。

これは完全に家康を酷評している表現であることがわかります。




1611年に豊臣秀頼との会見を実現し、両家は穏便に収まるかとおもいきや・・・
事件が起こります。
方広寺鐘銘事件です。
キーワードは
「国家安康」「君臣豊楽」「右僕射源朝臣家康」で
五山の僧、金地院崇伝は、「国家安康」は家康の諱を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると断定した。

また、林羅山は 「右僕射源朝臣家康」をを「家康を射る」ものであると解釈しています。(右僕射は右大臣の唐名だそうです)
まあ、これは戦争を起こす口実だったのは間違いないでしょう。
なぜなら、銘文も鐘もまったく破壊されず現在まで残っているからです。
少なくとも徳川家は本当に呪詛だとは思っていなかったか、もしくは呪詛の効力など信じていなかったことは確実であると解釈できます。

そして、1614年に大坂冬の陣、15年に夏の陣となるわけですが。
1615年大坂夏の陣はあっけない戦争でした。3日で決着がついたからです。
実はもっとあっけない戦争が天下分け目のあの「関ヶ原の戦い」だったのですが。
こちらは1日で終わり。
日本の天下分け目の戦いってあっけない幕切れが多いイメージです。

しかし、この3日間は戦国時代の終わりにふさわしい、武士の死華を咲かせる激闘と呼ぶにふさわしいものでした。
大坂の陣前に、豊臣氏は浪人を集めましたが、
この中でも真田信繁、毛利勝永、長宗我部盛親、後藤基次、明石全登は守護大名クラスの名門です。
個人的には毛利勝永と長宗我部盛親が好きですが、最も有名なのは真田幸村です。なので真田について記載してみます。

真田幸村という人物は史料がなく、真田信繁が本名です。
しかも、1612年に出家して好白と名乗っていることから、真田好白が当時の呼び名でしょう。

そもそも、真田幸村は、江戸時代以降、講談や小説などで真田十勇士を従えて宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将として取り上げられ、広く一般に知られることになった
ことに由来する架空の武将です。実在したのは真田信繁です。
信繁とは、武田信玄の弟、武田信繁に由来します。
武田信玄の父、武田信虎は、長男の晴信よりも次男の信繁を重宝したといいます。
そんな父信虎は、長男晴信(信玄)に隠居させられてしまうのですが、信繁の立派なところは、父の思惑とは別に、兄弟の道を踏み外すこと無く兄を慕い、天文10年(1541年)に信玄が信虎を駿河国に追放すると、その苦衷を察し、主君・信玄を補佐して家中をよく取りまとめたところにあります。

信玄の片腕として、伊那侵攻や上田原の戦い、塩尻峠の戦いなどの信濃攻略戦に従軍して、武田氏発展に尽力する。
永禄4年(1561年)9月、大激闘の第4次川中島の戦いで、信玄本陣の危急を知り、八幡原で死を決して奮戦し上杉勢を食い止め、兄を救った。
『上杉謙信申状』、『北越軍談』、『武辺咄聞書』等の記録によると、村上義清の手によって討ち取られたと記されている。享年37。長野市の典厩寺に眠る。
その死は武田軍団にとって大きな痛恨事であり、「惜しみても尚惜しむべし」と評された。
嫡子・武田信豊に残した99か条にわたる『武田信繁家訓』(甲州法度之次第の原型)は、江戸時代の武士の心得として広く読み継がれた。
「古典厩信繁、内藤昌豊こそは、毎事相整う真の副将なり」と山県昌景が評したと、甲陽軍鑑は記している。
武田の副大将として、その人望はすこぶる高かった。
江戸時代の儒学者・室鳩巣は著書・駿台雑話の中で、「天文、永禄の間に至って賢と称すべき人あり。甲州武田信玄の弟、典厩信繁公なり」と賞賛している

そんな武田信繁が、真田信繁の名前の由来です。
真田家は武田家の家臣でしたのでわかりやすい由来です。

真田信繁は夏の陣で大奮闘。
真田隊は越前松平隊を蹴散らし、毛利隊らに手一杯であった徳川勢の隙を突き家康本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康旗本勢を蹴散らした(ちなみに、本陣に攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり真田隊の凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだったという。これにより、奇しくも家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる)。

家康のお墓は、日光東照宮本殿の右側、ここの一番奥にある銅製の宝塔が徳川家康のお墓になっており、この下に遺骨が埋納されているようです。
が、大阪堺市に龍興山南宋寺という寺があり、ここにも徳川家康のお墓があるといいます。
伝承によれば,大坂夏の陣で旗指物から武具甲冑まで赤で揃えた真田幸村の軍勢3000人(真田の赤揃え)による死を覚悟した最期の突撃の結果、
家康は思わぬ反撃に遭い、瀕死の重傷を負い南宋寺まで辿りつき、息絶えたという。
この時家康の死はごく一部の徳川重臣らによって秘匿化され、豊臣を滅ぼし翌年まで家康は生き長らえることになったという。
たしかに歴史年表の正史では家康の没年は翌1616年(元和2年)となっています。
これは偶然にしても面白い仮説です。

そんな真田信繁が討死した翌日に淀の方、豊臣秀頼、大野治長、大蔵卿の局、らは自刃し、豊臣氏は滅亡しました。
豊臣秀頼についても諸説あります。
秀吉の本当の子供ではないなど。
秀吉は天下人、多くの側室がいました。
しかし、生まれたのは茶々(淀の方)との間に2人のみ、そのうち一人は早世。
しかも秀吉59歳の時の子供です。
医学的に見ると世継ぎが生まれる可能性は確率的にかなり低いものです。
このあたりもふつうに考えると面白いかもしれません。

今回は歴史おたくになってしまいましたが、ここまで読めた方はなかなかのツワモノと思われます(^^;








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